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奈良・桜井の歴史と社会

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纒向遺跡の大型建物

纒向遺跡の大型建物(トリイノ前)を、「今、古代大和は」(石野博信)で考えた。

5月6日(午後7時から、駅前エルトの2階)、桜井のカルチャーで「邪馬台国」の続編をお話しする。
前篇は「邪馬台国は大和」論で楽しく語らせていただいたが、今回の後篇は①纒向遺跡、②古墳、③女帝論を丁寧に具体的に語りたい。

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トリイノ前大型建物、復元模型

「今、古代大和は」(石野博信)が生々しいエピソード満載で、こんな話のためには強い味方である。

1971年に桜井市辻にアパートが建つことになり、続いて県営団地や纏向小学校が予定されて以来、五年間、纏向遺跡の調査が続きました。その結果、纏向遺跡は以前から有名なオオヤマト古墳地帯の、2・3世紀の大規模な「都市」と墳墓であることが判り、邪馬台国所在地論と重なって注目され、ついに調査開始から38年目の2009年(平成21年)に東西に一直線に並ぶ3世紀の大型建物群が桜井市埋蔵文化財センターの調査で出現しました(あとがき)。

桜井市の橋本さんからお聞きしたことがあった。
「纏向遺跡の中枢施設として可能性がある場所は二ヶ所考えてきていた。それは珠城山古墳の北方とツジトリイ前地域だった。珠城山古墳の北側は開発の規制がかかっていて急がなかったが、巻向駅の西方のトリイ前は宅地開発の話が出てきたので、こちらが急がれた」(橋本輝彦氏談)。

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トリイノ前、大型建物の発掘図というか、パワーポイントの出だし

 2009年2月から桜井市埋蔵文化財センターは、初めて纏向遺跡の中枢地を探す学術調査を開始した。纏向遺跡は二世紀末に突然現れ、四世紀中ごろに突然消える人工的集落でその規模は4万平方メートル(原文ママ)と巨大だ。しかし、160回をこえる発掘調査によっても中枢地と思われる建物群は見つからず、古墳を造るための労働者のキャンプ説が登場するほどであった。
 3月18日、ついに小さな祭殿の周囲に大きな建物群と柵囲いの一端が現れた。時期は三世紀前半、まさに邪馬台国と女王・卑弥呼が都を定めた時である。建物群は方位と柱筋を揃えて、整然と並んでおり、まるで飛鳥時代以降の宮殿のようだ。(二上山博物館広報 2009年4月号)

11月10日、桜井市纏向遺跡で「3世紀前半の大型建物が見つかった」と発表された。3世紀前半は倭国の女王ヒミコが都とした邪馬台国の時代である。一気に邪馬台国大和説が盛り上がり、あたかも決着したかのような雰囲気になった。
 それは三世紀前半の全国最大規模の建物であるだけでなく、前回の調査で分かっていた3棟の建物の中心と一直線に並ぶという計画的建物群であることが根拠の一つである。4~6世紀ヤマト王権の時代、つまり、古墳時代の全期間でも、これほど計画的な建物配置はない。(二上山博物館広報2009年11月号)

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今、古代大和は

by koza5555 | 2016-04-24 16:02 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

信貴山縁起絵巻

奈良国立博物館の「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)」を拝観してきた。

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信貴山朝護孫子寺

縁起絵巻、朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)で模写を見たことはあるが、全三巻、本物・・・というのは初めてで、これは見ておかなければならない。

先に紹介しておくが、会期は5月22日まで(4月9日開幕)とのことで、まだ時間はたっぷりである。

絵巻は中興の祖とされる妙蓮をめぐる三つの奇跡が描かれる。
まずは、命蓮が駆使する空飛ぶ鉢が引き起こす奇跡を描く「山崎長者巻」。
命蓮が帝の病気平癒のために行う加持祈祷のありさまを描く「延喜加持巻」。
命蓮の姉の尼公が大仏の夢告で信貴山を訪れ感動の再会をする「尼公巻」の三巻である。

全ての原図が展示されていて、併せて着色された模写図も掲示されるという分りやすい展示となっている。

あとは・・・図録で説明したい(笑)。

誰が書いたの?
筆致の違いにより、宮廷絵師とは異なる画家集団により描かれた可能性が高いとされる。
同時に遠景技法が加味されており、中国(宋代)の山水画法の構成を学べるような条件がある画家集団ともされる。誰が書いたか、名前までは判らないが、テーマの選び方とその画力に感嘆させられる。

色はどんな感じ?
いまの絵巻は筆腺を主体とする淡彩画のように見えるが、顔料の剥落や退色による錯覚で、描かれた当初は発色の強い高級顔料がふんだんに使われいたとのことである。
すでに江戸時代にも模写されており、文化庁がエックス線などを駆使して復元模写を製作しているとの事であり、これらも合わせて展示されていた。
大事なものを大事にしてきた、その歴史に感動する。

「山崎長者巻」は「飛び倉」がメイン、倉を飛ばす「飛鉢法」、これが千手観音を本尊として毘沙門天の擁護のもとに獲得される「千手宝鉢法」であり、
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飛鉢


「延喜加持巻」に登場する「剣の護法」は千手観音の眷属である毘沙門天の功徳によるものであり、
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 剣の護法。法輪を回す童子

「飛鉢」と「剣の護法」、いずれも千手観音と同体とされる毘沙門天の霊験として語られており、命蓮の奇跡とされながらも、実は毘沙門天の功徳がモチーフと解明されている。
中興の祖というのはそういうことかなと、しみじみ納得できる。


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こういうものを見逃した悔しさは尾を引きます。会期は、一か月残されている。ぜひぜひおいでください。
by koza5555 | 2016-04-21 18:12 | 奈良 | Comments(0)

卑弥呼は女王か巫女か

統治する女王か、占う巫女か?
卑弥呼のイメージは女王でしょうか、巫女でしょうか。

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 「邪馬台国と近代日本」(NHKブックス 千田稔)から。このイメージは女王だろうか、巫女だろうか

魏志倭人伝に描かれた卑弥呼は
「共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者の少く、婢千人を以て自ら侍(じ)せしむ。唯、男子一人有り、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す。」

ここから、卑弥呼は国の巫女的な役割で、佐(たす)けて国を治むとされ、男弟が政治をしているとの見方がある。
これが違うという学者がいる。義江明子さんという。

「つくられた卑弥呼 女の創出と国家」という本がちくま新書から出ている。義江明子先生が著した。珍しく桜井図書館でも入っていないような本である。
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こちらで、「卑弥呼は国の乱れを治められる王、佐(たす)けてというのも、あくまでも助けてであり卑弥呼に王権あり」とされるのである。

さらに、日本書紀が考えた卑弥呼を考えるべきだと指摘される。
書紀は卑弥呼を神功皇后に当てはめている。
神功皇后の実在性や新羅への遠征などの史実性はとりあえずおくとして

神の言葉を聞く力
武装して軍隊を率いてたたかう能力
征服により支配地域を広げ、国を富ます力
妻であり、母であること

以上が神功皇后の力と特徴である。
卑弥呼は神の言葉が聞けて、たたかい、統治するというスーパーウーマンである。
600年代に考えられた卑弥呼はこんなイメージだった。
ところが卑弥呼のイメージは、近世(明治時代)に劇的に変えられたとされる。

それは明治43年(1910年)の内藤・白鳥論争に含まれたとされる。

内藤虎次郎は邪馬台国畿内説を主張し、「ヤマトヒメを卑弥呼に比定した」。
「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす」は、天照大神を奉じて遍歴したヤマトヒメにふさわしい。
夫がいないというのだから、神功皇后にはあたらない。
「男弟有り、佐(たす)けて国を治む」の男弟は景行天皇のことである。

などと、ヤマトヒメの巫女的な側面が強調された。

一方、邪馬台国九州説をとなえた白鳥庫吉は、卑弥呼を九州の女酋の一人とみた。
卑弥呼は宗教的君主。
殿内深くこもって神意を伝えた。
男尊女卑は古来の伝統で、英明勇武だからではなく、神意を伝える巫女的な資質があっただけである。


やはり、卑弥呼の巫女的性格が強調される。英明勇武は男の仕事。義江さんは、卑弥呼を単なる巫女として位置づけた内藤・白鳥の結論は、明治の皇室典範などにもとづく女帝否定論からの断定であり、これが納得できないといわれるのである。

「統治し、託宣する卑弥呼」、義江明子論に僕は賛成の一票、みなさんはいかが思われますか。

以上です
by koza5555 | 2016-04-19 20:50 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

大神神社と狭井神社の鎮花祭

4月18日、大神神社は鎮花祭である。

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午前10時30分、三つ鳥居の御扉を開扉して鎮花祭を斎行。

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神職はその後、狭井神社に参進。薬道から上がる
重ねて鎮花祭が斎行される。

この祭りは1300年前から、この二所(ふたところ)の祭りだった。

「大宝令」(701年成立)の朝廷の規定には、三月に花鎮めの祭が行われたことが見えている。「令」の注である「令集解」(りょうしゅうげ)に引く「令釈」などによれば、大和の大神神社とその荒魂をまつる狭井神社の祭りで、春の花が飛び散るときに、疫病の神も分れ散って疫病をはやらせるのを、鎮め留めるための祭りであるという。
春の花といい、飛び散るといえば、桜の花にちがいない。大美和の神は、「古事記」でも「日本書紀」でも、崇神天皇の代に、悪疫をはやらせる祟る神としてあらわれている。この花鎮めの祭りは、その大美和の神格そのままの祭りで、大神神社の信仰を象徴する祭りとみてよい。桜の花を祟る悪霊に見立て、花の散るときに、その霊を鎮める祭りを行わなければならないという思想である。
 小嶋瓔禮琉球大学教授 (大美和第93号 平成9年)

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特殊神饌。桃の花と百合根と忍冬(すいかずら)。まともな写真は撮れない。これは境内のポスター写真である。

疫病を鎮め抑えるという祭りである。
近畿一円の薬業界、医療関係者が参列されていた。

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これは祀られた薬の数々
by koza5555 | 2016-04-18 22:56 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

卑弥呼と女性首長

女性の天皇といえば飯豊皇女。
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葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ)である


「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む」は、魏志倭人伝が語る卑弥呼の人物像である。
後世の人々を魅惑し、卑弥呼の人となりがいかなるものか、想像がかき立てられた。

さらに卑弥呼の後継は男王であるが、それを挟んで女王 台与が擁立される。

卑弥呼の時代に、なぜ女王が集中したのか、そしてその時代背景はいかなるものか。
卑弥呼は特殊な女王で、他には女王、女首長はいなかったか。
こんなことを考古学の立場で解明しようというというおもしろい本である。

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「卑弥呼と女性首長」(学生社)清家章(高知大学)著

まずは遺跡からみた男性と女性の判別。

墳墓に残された骨で性別が分るとのことである。
頭蓋骨と骨盤の形で男女が判明できる。
骨盤の妊娠痕という調べ方もあるようで、妊娠により骨盤の靭帯が肥大して骨が圧迫された痕をみることから女性として特定できる。
副葬品から分かることも多い。刀や矢じりなら男性の可能性が高く、珠は男女五分五分とのことである。車輪石や 「いしくしろ」を腕に置く副葬品配置は女性の可能性が高いなどのデータも示される。

このように考古学の研究を土台にして考えると
弥生時代中期までは男王
後期から古墳時代の始めは女王、女首長も数々生まれた(比率的には男王が多い)
古墳時代中期から男王

こんな結論がでるらしい。

女系で王権を引き継ぐということは、どの時代もなかったとも示されている。
卑弥呼の場合も「年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く」で、未婚、後継ぎを産まないことが女王に求められたとしている。

時代は少し下がるが飯豊皇女(いいとよのひめみこ)のことである。
雄略天皇の死後(5世紀末)に即位した清寧天皇が跡継ぎを残さないまま死去する。
それを引き継いだのが飯豊皇女である。
「臨朝秉政」(みかどのまつりごと)を行ったとされ、これは天皇に即位したという伝承である。
しかし、日本書紀にはすごいことも書かれている。
「角刺宮にてマグワイしたのだが、格別に大したことは無かったので、二度としなかった」と記されている。

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この飯豊皇女は葛城に葬られた。それを葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ)である

即位の時点では配偶者は無く、子もいない。古代女性が即位後は独身を保つ、皇位継承者を作らないということで、卑弥呼の「夫壻(ふせい)無く」は大和王権にも引き継がれている。
清家先生は、日本の古代王朝には女系相続がなかったことを証明しているのである。

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即位時の女王・女帝の婚姻状態

倭・大和には卑弥呼をはじめ数多くの女王、女首長がいた。
しかし高群逸枝(女性史研究家・娘時代、四国八十八カ寺巡礼のすばらしい道中記 -娘巡礼記― も記した)が描いたような 古代母系社会史は存在しなかったことを証明している。
清家さんは「女王・女首長は、例外ではないがあくまでも中継ぎであった」という結論を出している。

魏志倭人伝を振り返ってみよう。
其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為し、住(とど)まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。

更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女(そうじょ)壹(と)与(よ) 年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。

by koza5555 | 2016-04-14 22:17 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

神武東征を「神々の系譜」で見てみた

神々の系譜(日本神話の謎) 松前健著 吉川弘文館

1972年に書かれた本である。このほど、これが復刊された。今年の2月であるからまだ新刊といえよう。

目次だけを紹介しよう。
「世のはじめの神々」としてイザナギ・イザナミの誕生などを語り、
つづいて「日・月二神とスサノオの崇拝」
「高天原の神話」
「出雲神話の謎」
「日向神話の世界」
「神武の東征」である。


僕の紹介は、今日は神武東征だけである。
日向発の神武東征については、いま僕が考えているテーマだった。
「日向(ひむか)」という名称も、古くは単に南九州の国には限らず、方々にそうした地名があった。おそらく、もともとは朝日・夕陽の照らす陽光の地を表す一般的な名称であろう。

日向はあちこちにあるが、わざわざ遠い南九州の日向国が選ばれて、皇孫の天降りの地とされたのには、必ず理由があるはずである。

恐らく古くこの地に隼人の有力な豪族がいて、皇室と結びつき、その伝える地方的な霊格と、皇室の祖先の御子の一人とが同一視され、宮廷の神話体系の中に組み込まれたのかもしれない。
隼人にそれだけの力を認めても良いだろうか・・というのが僕の素直な感想だ。


神武東征である。
まずは大和に入る前である。
兄弟はイツセノ命、イナヒノ命、ミケヌノ命、カムヤマトイワレビコノ命(ワカミケヌノ命)である。

難波から大和を攻めて孔舎衙坂(くさかのさか)でイツセノ命は重傷を負う。
迂回しようと紀伊半島の南端で暴風雨にあい、イナヒノ命、ミケヌノ命は波頭に消える。

松前健さんはこの熊野経由の大和侵入に意見がある。
大和については独立の神話とされる。
カムヤマトイワレビコは「神聖な大和の磐余の首長」という意味で、
相手のナガスネビコ一名トミビコは「大和の鳥見の首長」という意味。
大和の二人の英雄の戦いだと断定された。

ところが、前段の熊野、これは別の神話だと、合体させたと松前さんは言うのである。
熊野本宮も熊野大社も祭神は、「ケ」であり「ミケ」で食物という意味が含まれる。
カムヤマトの別名や他の兄弟の名前には、「ケ」や「ミケ」が含まれ、これは熊野の神の死と復活を語る霊験譚だというのでる。そして、この熊野の神話が朝廷に取り上げられたのは7世紀初めとのことである。
熊野を訪れた神がさまざま苦労し、いったん死んでも蘇生し、八咫烏の導きで切り抜けるという霊験譚である。

大和に入ってからのカムヤマトイワレビコの活躍の紹介も松前流である。
忍坂で八十建の一族を全滅させる。久米歌、久米の舞が舞われるが、これは今も橿原神具で歌われ踊られる。4月29日、昭和の日である。
大和に侵入してからは道臣命と久米命の活躍ばかりに焦点が当たる。

大和におけるカムヤマトイワレビコの活躍は、神武東征聖蹟碑でもたどることが出来る。
もちろん神話の世界であるが、これを現代に石碑で具体化した。
評価は様々だが、7世紀の人たちが何を考えていたかを現代(戦前だが)に「石碑で示した」ものである。

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大和におけるカムヤマトイワレビコ命、エウガシとたたかった血原。菟田穿邑(うだのうかちのむら)顕彰碑

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ナガスネビコを撃った時の磐余邑(いわれのむら)顕彰碑


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ヒメタタライスケヨリヒメを求めた狭井河之上(さいがはのほとり)顕彰碑

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カムヤマトイワレビコの祭、鳥見山中霊畤(とみのやまのなかのまつりのには)顕彰碑


神武東征の説話ができたのは、日向神話が朝廷に入り込んだ後のことであり、また出雲神話が朝廷に入りこむ前であったと思われる。私は日向神話の朝廷受け入れは、たぶん五世紀初頭、出雲神話の採用は多分7世紀中葉と思っているから、その中間であろうと思っている。この神武説話は、日向から東征の出発を、前提にしているから、日向神話がなければ成立しない。また、出雲神話が知られてから後ならば、東征の途中で出雲に立ち寄らないはずはないのである。


出雲神話、日向神話を検討したのちに、松前先生はこう結論づけた。
これは40年前の本で、今年復刻という本である。こんな結論、いかがでしょうか。
これ以外にも独創的な論点が数多くで、とても面白く、おすすめである。
by koza5555 | 2016-04-11 23:03 | 読書 | Comments(0)

豊田狐塚古墳 発掘調査 現地説明会

4月9日、天理市豊田狐冢古墳、発掘調査 現地説明会が開かれた。

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横穴古墳、天定石が抜き取られている


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奥壁から羨道部をみて。両袖式石室である


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けっこうな人気で「1500人はいくのでは」と天理市職員


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解説は天理市教育委員会文化財課の石田大輔主査。晴れ舞台


「天理の古墳100」は、「布留・杣之内周辺」というくくりで、北の東大寺山古墳から南端は東西乗鞍古墳と記している。

真ん中に布留遺跡があり、その南北という形である。

今回はその北側、豊田の丘陵、布留遺跡(天理教本部や天理市の市街地)を見下ろす古墳の発掘だった。

「布留遺跡は旧石器時代から現代にいたるまで連綿と続く大規模は複合遺跡で、古墳時代中期~後期に最も繁栄を遂げます。首長居館や工房が見つかっており、有力豪族物部氏の本拠地であった可能性が考えられています。また、布留遺跡の南方には塚穴山古墳や峯塚古墳など終末期古墳を擁する杣之内古墳群が広がっています。」現地説明会資料から

「布留遺跡の北方には石上・豊田古墳群があり、二基の大型前方後円墳群のほか150~200基ほどの円墳が群集しています」。

今回発掘された豊田狐塚古墳(昨年紹介された豊田トンド山古墳と並んで)は、その一番南の丘に位置していた。布留の中心集落を見下ろす場所である。

この古墳には3基の木棺が安置されていたと推定され、出土遺物は6世紀中葉から後期に至って埋葬されたとされている。
物部守屋が敗退するのは587年、急速に影響力を落とすとみて、政権最終段階の古墳と見たいのである。

この地域には、中期から後期まで営々と古墳が築かれた。が、不思議なことに終末期古墳は残されていない。
その理由は何だろう。
王宮や神域として使われることなり、墓域でなくなる。
氏族の墓域が移動した。
氏族が没落した。

布留は物部氏の支配地域、石上・豊田地域、杣之内では終末期の古墳(横穴式石槨)を見ることができない。物部氏の光芒、没落を常に考えながら、この地域の古墳は考えたいものである。

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「豊田狐塚古墳は石上神宮や布留遺跡を見下ろす高所にあり、これらを強く意識した立地といえます。墳丘や横穴式石室の規模、副葬品の質・量からみても、首長層を支えた有力者の墓である可能性が高いと考えられます。」
古墳時代、古墳を造る熱情のすさまじさ、改めて感ずることしきりである。

市道の新設工事に当たり、影響を受けるとみられる古墳として発掘調査された。
古墳玄室は道路の下敷きということでは無いようであるが、豊田トンド山古墳と同じように埋め戻されるとのことである。今日の現場説明会が見学できる最後のチャンスということだった。
by koza5555 | 2016-04-09 22:14 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

長谷寺と蜻蛉日記

8月に「初瀬・長谷寺」をテーマに講演することにした。
まだ先だし、やり慣れたところだが、パワーアップしたいと思った。

長谷寺は、源氏物語や蜻蛉(かげろう)日記に取り上げられていることを紹介してきたが、この蜻蛉日記の取り上げられ方が、きちんと話せてこなかった。
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桜、今年の長谷寺

そんなとき、ブックオフで108円で買った、田辺聖子の「蜻蛉日記をご一緒に」が本箱の隅に放置されていた。「長谷寺には確か二回きている」とむさぼり読んだが、ちょっと当てが違った。初瀬詣でのことが具体的に書かれているわけではないのである。

そこで、さっそく「日本古典文学全集」を桜井市の図書館で借りてきて、長谷寺のくだりを読み直してみた。

初瀬詣、椿市(つばいち)がポイントであることはよく分った。「椿市までは無事に来た」とか、「椿市に着いて、例のように、あれこれ支度を整えて出立するころには、日もすっかり暮れてしまった」、「椿市に帰って、精進落としなどと人々は言っているようだが」などと記されており、椿市が長谷詣での起点になっていたことが、きちん紹介されている。

あの有名な二本(ふたもと)の杉のことが紹介されていることにも注目した。
「はつせ川古川のへに二本ある杉 年をへてまたもあひ見ん二本ある杉」(古今和歌集 1009) 

坏(つき)や鍋を据えた乞食などに気を取られて、すがすがしい気分になれなかったと記している。
また、御堂に籠っている間(庶民の間に座っている・・あの礼堂であろうか)、眠ることもできず、それほどみじめそうでない盲人が人に聞かれていることを知るか知らずか大声でお祈りしている、それを聞くにつれ、涙がこばれたなどと記しており、お堂の情景が手に取るように見えるのである。

二回目の長谷詣では、「物音を立てずに通らなければならない森の前」のことが記されている。これは初瀬山口神社の前と思われると注に記されている。「祭神 手力雄命(たじからのおのみこと)が人の声を奪ったという伝承に従う」という意味らしい。
初瀬柳原に初瀬坐山口神社を遥拝する「伏し拝み」の場があり、毎晩、いまも献灯が行われているところである。1000年前から、あれは特別な場だったんだ・・と感銘。そんなことから決められた場だったんだ。

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初瀬柳原、伏し拝み

さて、蜻蛉日記、肝心の作者である。藤原道綱の母としかわからない。
田辺聖子は、蜻蛉日記が源氏物語にも大きな影響を与えたと分析する。

「年月はたっていくけれど、思うようにならぬ身の上を嘆き続ける・・あるかなきかの思いに沈む、かげろうのようなはかない女の日記ということになるだろう」と、日記を書き、その名を「蜻蛉日記」として世の残した、ものすごい女性の生きざまであり、巨大な遺産というべきである。
何をいまさらということだが、僕の感想である。

田辺聖子は、すれ違いとか女性と男性の求め方の違いとかにも触れながら、「普遍的な男と女のあり方が論じられており、人類の夢が語られる」と評価する。今でもさまざま教訓的だが、読者の人生キャリアによって蜻蛉日記は響き方もさまざま違うと締めくくる。
「蜻蛉日記をそれぞれ受け止めてみよう」だろうか。

最後に百人一首から
嘆きつつ 独り寝る夜のあくる間は いかに久しきものとかはしる(右大将道綱の母)
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by koza5555 | 2016-04-06 19:41 | 桜井・初瀬 | Comments(0)