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奈良・桜井の歴史と社会

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稲部(いなべ)遺跡発掘調査現地説明会

滋賀県彦根市の稲部町・彦富町の発掘調査現地説明会が実施された。

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会場は超満員。正面は荒神山。山の向うは琵琶湖で荒神山古墳(120メートル)は琵琶湖側の中腹にある。説明は彦根市教育委員会の戸塚洋輔さん。
資料は600枚用意されたそうだが、瞬くまになくなった。参加者は千名程度か。

場所はこんな感じである。稲枝駅近くの赤の四角が遺跡である。
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僕にとっては異例の遠征である。
キーワードは「邪馬台国時代の大型建物」と「6㎏も鉄製品や鉄片」である。

稲部遺跡。2世紀から5世紀にかけての遺跡である。
3世紀、邪馬台国の時代に180平米の超大型建物の柱穴を発掘、大量の鉄の残滓、鉄鏃(鉄の矢じり)などが発掘された。
竪穴住居が180以上、大型建物も時代はまたがるが5棟は発見されている。
ムラというよりクニと言える遺跡で、それが4世紀・5世紀につながる(滋賀県では有数の荒神山古墳)遺跡も残されているという具合だ。

発掘された土器から大和、伯耆、越前、美濃、尾張、伊勢、三河・遠江、駿河に至るつながりが確かめられた。韓式の壺もあり、国際的な交流も指摘されている。

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展示品の鉄鏃。鉄滓も展示されていた。

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桃のタネ…祭祀に使ったか?

邪馬台国時代、「畿内のクニグニの経済力や鉄の生産力、建物や人口がどうだったか」、そこに僕は関心があるが、期待以上の遺跡が出て、邪馬台国、畿内論の一つの軸柱となるよな遺跡である。


彦根市教育委員会のHPによれば、遺跡の現地見学会の案内は以下の通りである。

彦根市教育委員会では、市道芹橋彦富線・稲部本庄線道路改良工事に伴う発掘調査を実施しています。
平成25年度から実施された調査で発見されたのは、2世紀から4世紀(弥生時代後期中葉から古墳時代前期)の大規模な集落跡です。
稲部遺跡が最も栄えた時代は、3世紀前半、弥生時代から古墳時代へ移り変わる時代、つまり、邪馬台国と同じ時期にあたります。

中国の歴史書「魏志倭人伝」には、このころ、倭(=日本)には、魏もしくは出先の帯方群と外交している国が30ヶ国あったとあります。おそらく、稲部遺跡も、この国々の一つの中枢部だったと思われます。

稲部遺跡からは、180棟以上の竪穴建物に加え、王が居住するにふさわしい大型建物、独立棟持柱建物が発見され、当時、保持することが勢力に大きな影響を与えた鉄器の生産が行われた鍛冶工房群、青銅器の鋳造工房も発見されています。祭祀都市・政治都市であるうえ、工業都市でもあった稲部遺跡は、ヤマト政権成立期における近江の巨大勢力の存在を物語る大集落です。

現地説明会では、この「イナベのクニ」とでも呼ぶべき遺跡の内容と、近隣にそびえる国指定史跡荒神山古墳へのつながりについても、調査担当者がお話しします彦根市が誇るべき、大遺跡の調査を体感できる貴重な機会です。ぜひ、ご参加ください!。



年表なども入っていて、とても丁寧な説明会と資料だった。発掘の説明会の機会が少ないのかもしれないが、若い人の参加が目立つ現地説明会だった。
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by koza5555 | 2016-10-23 16:32 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

第68回正倉院展

第68回正倉院展は10月22日~11月7日(月)の会期で始まった。
開幕に先立ち、21日、招待客に交じり、内覧会で拝見させていただいた。
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人気の中心は、まずはこれ・・・漆胡瓶(しっこへい)。ペルシャ風の水差し。「胡は中国より見て西方の国や民族を意味し、下ぶくれの胴部と把手を有する水瓶はササン朝ペルシアで多く作られ、その影響で中国でも流行したため胡瓶と呼ばれた」(図録)。
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「こんな水差しで生活するって人、誰」と、現代でもなかなか想像しにくのである。
人の生活やそれに関わる家具什器の完成度、到達点は奈良時代や卑弥呼の時代と現代は同じレベルかもしれない、と考えさせられる。


幡がテーマだった。大幡・・15メートルもあったとのことである。「脚部の辺りはこれ」と、あれこれの部分も残っている。残欠などと言うレベルではないのである。色も鮮やかだった。

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大量の鈴が展示されている。幢幡には鈴が大量についていたようである。
風にあたれば、サラサラワヤワヤと鈴が鳴るんだ・・・
これは僕には新発見。朝堂院などに立てられる幢も同じように鈴がついたのだろうか。


古文書は戸籍にビックリ。
御野国加毛郡半布里戸籍、これは岐阜県の美濃加茂郡、富加村(僕の子供の頃の村名)のことだそうだ。
富加(とみか)村。僕は岐阜で生まれ育った。富加村はよく知っているが、まあ、あそこは山間の村。
今年、考えたのは、「あんなところまで、国で戸籍を管理したのか。村役場みたいなことも中央政権がやっていたのか」、そんなことである。
そこら辺りはどんな具合なんだろうか。


写経師解案(しゃきょうしげあん)。写経師の下書き・・みたいなものか。
待遇改善要求書の下書き・・・
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服が汚いので交換してください。洗っても匂いが取れないほど汚れた
食事の悪い。「中品精食」に改めてほしい
机に向かって長く働き、足がしびれるので、薬分として酒を支給してほしい

正倉院展、今年も面白い。


奈良市で、この時期に僕が見たいのは
平城京跡資料館の「地下の正倉院展」と
元興寺の「版木ー刻み込まれた信仰世界」
である。
by koza5555 | 2016-10-22 07:07 | 奈良 | Comments(0)

石上神宮のご例祭(ふるまつり)

10月15日(土)は石上神宮のご例祭。祭は10月1日の榜示浚から始まる。

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お旅所、田町(たちょう)の榜示立

10月15日、まつりの日に石上神宮へお客様をお連れすることになった。「お祭りの日に神社」、良さそうに見えてこれがなかなかのクセモノである。
お祭りを楽しみながら、そして巻き込まれないようにである。


石上神宮のご例祭である。
平安時代、白河天皇の永保元年(1081年)に勅使が御参向(ごさんこう)となり、走馬十列(そうまじゅうれつ)を奉納された故事に始まるとされる。渡御は大和の秋祭の中でも随一という壮麗さで、「ふるまつり」とも「田村渡り」とも称された。
① 御旅所の田町(たちょう)より、稚児が騎馬にて御幣を奉持して社参(午前8時半)。
② 午前10時から昇殿、献饌、普通神饌と合わせて稚児より荷前(穂のついたままの稲株)が奉じられ、幣帛が奉じられる。
③ 祝詞奏上、氏子献幣使祭詞奏上、舞楽、玉串拝礼があり、稚児に御幣が授与されて祭典は終了する。
④御魂代を御ほうれん(神輿)に遷御する。
⑤ 午後一時からお渡り。田村町までの4キロを渡御する。

この祭りに先立って、10月1日に執り行われる榜示浚神事が神社の性格を表し興味深い。
榜示とは中世荘園の成立の折、四至榜示を明記したとされる。そこに杭を打ち、石を置いたとのことで、それが今も地名として残る例も見られる。(たとえば生駒市高山)
祭祀に当たり、境内に榜示杭を立てる場合(鳥居もその一つか)と、石上神宮のように広く氏子地域に立てる場合もその役割は変わらない。
石上神宮の場合は、北郷、南郷で八カ所。中ツ道まで領域として、南西は備前橋(神社から8キロほど離れている)に立てるのである。

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備前橋の榜示立て
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ちなみに北郷は ①石上市神社、②岩上神社、③八釼神社(田井庄町)。④三十八神社(南六条)
南郷は ①春日神社(内馬場町) ②神明神社(川原城町) ③備前町南端、④田町、厳島神社となっている。(以上は石上大神の祭祀と信仰  白井伊佐牟著参照)

こんなことを話しながら、それから石上神宮の神剣のことを話しながら、ツアーを行う。
それにしても、さすがに軍事氏族の物部が奉じた神社である。神話に出てくる主要な刀が勢ぞろいだ。
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これが僕が考えた石上神宮の神剣の数々



このパネルで・・で、どんなふうに語るか。
いずれにしても、物部おそるべし・・かな
by koza5555 | 2016-10-12 22:03 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

「邪馬台国はどこだ」。歴史バトルに参加しました

10月9日、インターネット回線で、吉野ケ里と奈良の万葉文化館を結んで、歴史バトル「邪馬台国はどこだ」(奈良新聞社など)が開催されました。
今年の趣向は市民代表の参加で、その一員として10分ばかりの時間をいただきました。

8月のある日に、纒向遺跡の名付け親、石野博信先生から電話をいただきました。
「邪馬台国の取り合いをする。あなた出てもらえますか」と、突然の電話が入った。まあ、それなりに快諾である。9月から10月にかけては「おとなび」で「卑弥呼の大和」ツアーを受けていたので、合わせての準備だった。

会場風景である。
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僕は、こんなような話をしたのである。
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はじめに纏向遺跡を見渡します。
箸墓古墳、ホケノ山古墳、こちらが纒向石塚古墳。
ここが遺跡の中枢部、ここに大型建物跡が出現しました。

この遺跡の特徴は
●まずは大きい、広い。300haあります。
●各地方からの多数の搬入土器。吉備、東海、北陸、出雲、さらには九州から関東まで、纏向が広範囲なつながりを持っていた。
●土木工事用の工具が多く、農耕具が少ない。クワは無くて、スコップが出る・・一般的な環濠集落とは異なっていた
●箸墓古墳をはじめ、出現期の古墳が集中。古墳が多いところ、前方後円墳の始まりの地とされていますが

地下から出てきた膨大な遺物、地下構造物のあり方から、ここは日本の都市の始まり、都・宮の始まりではないか、具体的に言えば、ここはヤマト王権発祥の地、さらには邪馬台国畿内説の候補地として注目されるようになりました。

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① 桜井市は平成21年、7年前の11月に「纏向遺跡第166次調査現地説明会」。
この時の配布資料は、ネットで「纏向166次」と打ち込むと、今日でも、当時のままでプリントアウトできる。
桜井市のベストセラー、ベストヒットです。
 
纒向遺跡の名づけ親、初めからここを掘ってきた、こちらにみえる石野先生でさえ、
「纒向からは(太い柱は)出ない。無かったか、細い柱で大きな建物を建てる技術革新があったのか」などと書かれた直後。

② 幅20メートルで奥行きが12,4メートル。250平方メートルもあった。
発掘された柱穴(ちゅうけつ)から、柱の太さは32センチと15センチとされた。
32㎝の柱、東西・南北に一直線。南北でみると柱穴列は5本、その間隔が約5メートル。
その柱列(ちゅうれつ)の真ん中に15センチの柱がたち、これも東西に一直線である。
太い柱が一直線、その間に細い柱が一直線。太いの、細いの、太いの、細いのである。
太い柱は屋根を支える、細い柱は床を支える束柱とみることができる。

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① BCDが一直線。しかも建物は方形である。
●まずは建物B 一辺が5メートル。
●そして建物C。南北8メートル、東西が5、2メートル。北の壁と南の壁の外側に柱穴がある。
棟持柱穴(むなもちばしら)と判断された。
屋根の一番高いところに棟木が通る、それを支える柱である。
●Dである。一番東から出てきた。
南北が20メートル、東西は12、4メートルである。
② B、C、Dは庄内式前半、三世紀初めの土器を含む整地層を掘りこんで柱が建てられている。だから建物は 3世紀前半には建っていたのである。

さらにこの遺跡には重要な特徴があった。
● 建物の隅の柱穴を切った溝 この溝からは庄内3式 250年
● 更に複数の柱穴を破壊する溝 これは布留0式の壺が。260年以降だ
つまり、この大型建物は 西暦200年から250年の間だけ存在した宮殿なのである。始まりが判り、終わりの時期が判っている。すごい発見である。

一直線に中軸線をとおす方形の建物で時期が明確。
200年~250年の頃。誰がいましたか、何がありましたか。この国に。
180年に卑弥呼共立、247年に卑弥呼以て死す。大いに冢をつくる。

それは邪馬台国であり、卑弥呼だと言いたいのです。この宮殿こそ卑弥呼が、「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑」わした場所だったのでないでしょうか。

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① 黒塚古墳、纏向遺跡のすぐ近くです。
盗掘や開発によって、原型を留めていない古墳も多いなかで、この黒塚古墳はまるでタイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。中世・近世は砦、お城として使われた歴史もある。
130メートルほどの前方後円墳で、3世紀から4世紀にまたぐものである。

② 棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡、棺の頭の前に画文帯神獣鏡が置かれた。
● その北側に不思議な「Ù字形鉄製品」。石室の大事な場所です。こんな所である。
● これが拡大図。二本のパイプは、叩いて丸めて作られた鍛造の鉄、正確な細工が施されており、弥生時代、古墳時代のものではきわめて特殊なもの。
● パイプには布の破片も付いていた。
● このÙ字形鉄製品は、魏書に記された黄幢(こうどう)との指摘がある。
「其の六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜ひ、郡に付して仮授せしむ」です。

このÙ字形鉄製品こそ、魏書に記された黄幢。
黄幢とは、黄色い吹き流しのような軍旗。
この絵です。同時期の遼陽の壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられるものが描かれていた。

さて、このU字形鉄製品、これが黄幢となると、黒塚古墳は、難升米のお墓の可能性が高まります。どうでしょうか。


考古学という学問を信じて、掘り出されたモノを信じれば、僕たちはその時代にたつことができる。
言い換えれば、到達した科学的な知見を信じてその道をたどれば、邪馬台国は畿内、ピンポイントで纒向に行きつくだろう。           


長々と読んでいただき、ありがとうございました。

飛鳥会場は350名もの入場。会場いっぱいの皆さんから暖かく、力強い反応がいただけました。
バトルの勝敗は?僕の心の中では圧勝だが、まあ、これは当事者の自己採点ということで(笑)
邪馬台国は、これからも勉強しながら、おりおり企画も作っていきたいとと考えております。




     
by koza5555 | 2016-10-10 10:22 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

黒塚古墳と黄幢

昨日は藤原宮の現場見学会で、藤原京の時代の「幢幡」を勉強してきた。

ついつい、「其の六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜ひ、郡に付して仮授せしむ」(魏志倭人伝)を思い出してしまった。

今日は黄幢と黒塚古墳のことである。

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黒塚古墳・後円部をみる
天理の柳本である。古墳は整備されており、展示館もきわめて充実している。

僕の邪馬台国ツアーは黒塚古墳も必ず行きたい。
黒塚古墳、纏向遺跡から北に2キロほどの天理市だ。
盗掘や開発によって古墳の原型を留めていない古墳も多いなかで、この黒塚古墳はまるでタイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。
1998年の現地見学会のものすごかったと、今でも古い考古学ファンは語るのである。

ちなみに、その頃の僕は名古屋で暮らしていた。正倉院展に来たり、長谷寺や談山神社を訪れても、古墳は・・関心がなかった。

黒塚古墳、33面の三角縁神獣鏡、頭の上に置かれた画文帯神獣鏡で有名である。丹塗りの竪穴古墳。
しかし、今日は黄幢(こうどう)をお話ししたい。

黒塚古墳は、崇神天皇陵(行燈山古墳)や景行天皇陵(渋谷向山古墳)を盟主とする柳本古墳群に含まれる、全長約130mの前方後円墳で、築造された時代は、3世紀後半~4世紀の前半とされている。

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石室が展示館に復元されている

棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡があり、頭の前には一つだけ、小ぶりな画文帯神獣鏡が置かれている。北枕のご遺体の頭の上に置かれているのだ。

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その横に、不思議な「Ù字形鉄製品」という、用途不明なものが納められている。
北枕の、その先の墳墓の中の一番北側に大事に収められているのだ。

これは「黄幢」ではないか、それを主張する研究者(東潮氏など)がいる。

黄幢とは、黄色い吹き流しのような軍旗。これによって、卑弥呼には魏の後ろ盾があることを敵国である狗奴国に示したといわれる。
「其の六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜ひ、郡に付して仮授せしむ」である。

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このU字形鉄製品は黄幢ではないか、東潮氏は次のようの論証する。
① 鉄パイプは鍛造の鉄だが、きわめて正確な造作で弥生時代、古墳時代の始まりには倭の技術ではむつしい細工がある。
② パイプには布の破片が付いていた。U字形鉄製品のパイプには布片が付着していた
③ 同時期の遼陽壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられるものが書かれている。
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④ 極めて重要な空間・・画文帯神獣鏡とU字形鉄製品が同じ場所に置かれた。

このU字形鉄製品こそが、魏書に書かれた黄幢だとすれば、黒塚古墳は卑弥呼の大夫、難升米のお墓、古墳と言う説も、まんざらではないと思えるだろう。

こんな話は「邪馬台国の考古学」(東潮著)角川選書  に詳しい
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by koza5555 | 2016-10-03 16:48 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)