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奈良・桜井の歴史と社会

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森浩一著作集 ① 古墳時代を考える

森浩一著作集が刊行されている。5巻までで、内容はどちらかといえば初期著作集だった。
僕ごときでは歯が立たないが、少しつづ、面白そうなところを。

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これは新沢線冢古墳、群衆墳。このご本とはあまり関係ないけど。

第一巻は「古墳時代を考える」である。「古墳時代の展開と終末」のうち、「古墳と古墳群」。1952年に古代学研究6に掲載されたものとのことである。
これがおもしろかった。古墳の在り方、とくに群集墳の検討から古代を探ろうという狙い。65年も前の論文で森先生も若かったと思う。

美濃波多古墳群が紹介されていた。三重県の名張にある。美濃波多古墳群は現在は美旗古墳群のことである。

ウィキペディアによれば
古墳時代の前期から後期にかけて、地域を支配した有力者によって築造され、伊賀地方で最大規模の古墳群が営まれている。現存しているのは、5基の前方後円墳と横穴式石室を持つ円墳1基、方墳1基で、カブト塚・矢羽塚・玉塚などの方墳と円墳の多くは消滅している。

森先生の古墳と古墳群では、こんな図面が用意されていた。
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古墳時代の史料化にあたっては古墳群の研究が必要とされて、初めに取り上げられたのが、美濃波多(美旗)古墳群だった。

前方後円墳の馬塚(うまづか) は盆地のどこからも見える。
問題は図面にある8基の古墳が「各期の代表的な形態を示していると言いえるほど、その相互間に顕著な相異をもっている」とし、地図の番号順に①殿塚、②女郎塚、③毘沙門塚、④馬冢、⑤玉塚、⑥王冢、⑦横穴石室の順で構築されたと論じられている。

古墳群を形成する8基の古墳は、築造時期が均等な時間で前後を持っている。
一時期に固まって築造されたのではなく、順次作られて古墳群になった。
40年ごとの築造・・という間の時間も明確にされて、一世代一墳、一氏族によって構築されたとするのである。

美濃波多(美旗)盆地は300町歩(300ha)で、これがこの氏族の経済力である。
なるほど。古墳時代・・300年くらい、大和と伊勢・東国との交通路の要地で40年ごとに古墳を造っていた氏族の暮らしぶり・・・

森先生は群集墳問題でさらに三島野古墳群を取り上げる。
同じように10基ほどの古墳で古墳群が形成されている。

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三島古墳群も古墳の形態から一世代一墳とみられるが、⑨茶臼山、⑩今城冢と巨大前方後円墳が築かれる。
 もともと大きな富裕の地を支配した氏族が考えられるが、全長223メートルの茶臼山古墳、312メートルの今城冢古墳は大飛躍である。「氏族団体の占有地域は急速に拡大した」とみるべきとされる。氏族から地方レベルということだろうか。
この地方レベルに拡大されていく過程と合わせて、継体天皇が位置づけられるとしている。

森浩一の結論・・「継体天皇は三島野古墳群によって表される氏族団体から抜擢されたことが考えられるのであり、中期の茶臼山古墳の規模からみて、すでにそれにふさわしい実力を備えた強力な氏族団体となっているのである。


奈良盆地内にも巨大古墳と群集墳の存在している。行燈山古墳、渋谷向山古墳と竜王山古墳群、鳥屋ミサンザイ古墳と新沢千塚、室宮山古墳と巨勢山古墳群などであるが、これらは巨大古墳が先行するのであるから、三島野とは条件が全く異なっている。

大和の場合は、巨大古墳に葬られている盟主をしたって、付近の山・谷に大量の群集墳が設けられたとみるべきだろうか。

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新沢千塚古墳群と桝山(現 倭彦墓)・鳥屋ミサンザイ(現宣化天皇)古墳
『巨勢山古墳群と室宮山古墳』(歴史に憩う橿原博物館講演・・白石太一郎)より


森浩一 著作集第一巻。古墳時代を考える
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by koza5555 | 2016-11-29 21:27 | 健康 | Comments(0)

芝村騒動と龍門騒動

芝村騒動を上島秀友さんが書かれた。
上島さんは香芝市のお住まいで、10月に行われた「邪馬台国バトル」でお話しした折、石野博信先生のご紹介でお近づきになった。
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芝村騒動は、芝村藩の預かり地となっていた大和盆地南部の天領でおきた。
宝暦3年(1753)、十市郡の九ケ村が決起。京都町奉行所に箱訴した。箱訴は合法手段だったはずなのだが、村役人らが江戸の召し出され、吟味が開始された。吟味は過酷を極め、次々と犠牲者が出た。取り調べの対象は式上郡、式下郡の村役人にも拡大、40人以上が獄死した(
p4)

ぼくもこの芝村騒動のことをお話したことがある。僕なりに調べて、磐余・吉備のあたりのお話しの中での紹介だったが、知らずに話したことがたくさんあった。この本を読んで、芝村騒動の経過と全貌、本質が良く理解できた。

十市郡は広く幕府の天領となっていたが、その税収は芝村藩が代収していた。これを預かりというが、大名領などと比べても過酷な徴収が行われていたといわれる。
租税は五公五民、代理で徴収する(預かり)芝村藩は3%の手数料が入るという仕組みである。芝村藩は一万石、預かりが9万石ほどになっていたから、普通に徴収していても、一万三千石である。
しかし、検見と呼ばれる作柄の検査があり、これで税収が決めるが、百姓に有利な検見はないという状況が続いた。
「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでるものなり」(本多利明『西域物語』)というのが施政者の考え方だから、この状況は全国共通である。
ところが、これに合わせて、芝村藩の預かり地には「別の複雑な事情が潜んでいました。」(p38)

それは、「畝詰り」にも年貢がかかったということである。
畝詰りとは「実際の面積が検地帳に記載された面積よりも少ない」状態で、検地帳を基準に課税されると、五公五民ではなく、畝詰りの具合では七公三民にも変わってしまうのである。
もともとは郡山藩が柳沢忠明の時代に、藩の格をあげるために12万石を15万石に変えたという歴史があった。農地は増えていないのに、郡山藩のすべての農地は台帳では二割五分増しの面積に変わっていた。郡山藩の時代はその事情が判っていて、割り増し分は無税だった。ところが、盆地南部の領地が天領に変わって問題が生じる。
芝村藩はこの二割五分にも課税したのである。

ここらあたりを僕は知らなかった。この仕組みで芝村藩、預かりの村々は八公二民というような重税にあえぐことになったのである。
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300人もの江戸への呼び出しや40人もの犠牲。後日談も上島さんの視点は暖かく丹念である。
お薦めしたい。

芝村騒動といえば、吉備区では、毎年9月15日、吉備薬師寺において、芝村騒動の犠牲者の慰霊祭を行っている。
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吉備村からは8名が呼び出され、
平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死
長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還できたとのことである。
帰村した5家のうち、2家が途絶えて森本家、吉崎家、吉本家で供養を行っているが、「当屋を決めて、法要を行い、慰霊碑を拝み会食」という、供養である。
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吉備区集会場、薬師堂


合わせて掲載されている上田龍司さん(故人)の『竜門騒動』、『天保ききん考』、『いのちのかて 昔の稲作の思い出』も読みごたえがある。
『芝村騒動と龍門騒動』。大和の百姓一揆  青垣双書(青垣出版)。1200円+税
by koza5555 | 2016-11-25 19:03 | 読書 | Comments(0)

えてこでもわかる  笑い飯 哲夫訳 般若心経

9月から桜井の広報大使は「笑い飯・哲夫」。
そういえば、「ムジークフェスト」で、僕がテレビに取り上げられた時のコメンテーターは、笑い飯哲夫やったな・・というようなことで、哲夫の本を読まさせてもらった。 

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 『般若心経』である。「えてこでもわかる笑い飯哲夫訳 般若心経」とあった。
 「お笑いの笑い飯が書いた般若心経か」とは思ったが、「広報大使やし、僕がテレビに出た時のコメンテーターやったし」と手に取ってみた。

これが、おもしろいし、考えさせられた。
あたりまえのことだけど、僕には書けん。「たとえ」が違うし、何よりも般若心経の理解度が僕とは全く違うレベルだった。

そして、「涅槃」を究竟(くきょう)しているわけですが、やっと出てきました。「涅槃」です。この世に存在する二字熟語で、一番好きなやつです。「涅槃」か「刹那」で迷ってたんですが、やっぱり「涅槃」が一位です。二位が「刹那です」。吉本興業の芸人プレフィールをみてもらったら、好きな言葉のところに、「涅槃」と書いてあると思います。社員さんに聞かれた時、そう答えました。この、かっこいい「涅槃」の意味はといいますと、「煩悩を滅ぼし尽くした悟りの境地。仏教の最終的な理想」とまた、意味もかっこいいんです。(p102)

般若心経、いよいよ終わりは
 「羯帝羯帝波羅羯帝(ぎゃていぎゃていはらぎゃてい) 波羅僧羯帝(はらそうぎゃてい)である。

哲夫はこんな訳を示してくれた。
全然意味わかりませんよね。これもサンスクリット語の音写なんです。・・・・意味は「ガンバッテーガンバッテー」ではないらしく、「往ける者よ往ける者よ彼岸に全く往ける者よ悟りよ幸いあれ」などとなるらしいんですが、なんのことや年、と化なるんで、個人的に「ガンバッテー」みたいな感じでいいと思います。個人的に「がんばってがんばってよくがんばってまさによくがんばって悟れよ幸いあれ」だと思います。(p128)

なるほど、結論もキチッとしてる。
「がんばってがんばってよくがんばってまさによくがんばって悟れよ幸いあれ」かあ。

では、さらにさらに僕もがんばろ やな
by koza5555 | 2016-11-19 21:07 | 読書 | Comments(0)

阿蘇ピンク石 兜塚古墳 慶運寺の石棺仏 金屋の石仏と石棺

石棺だけを論じた本である。少し古くて20年前の本である。
『石棺から古墳時代を考える』―型と材質が表す勢力分布―
真壁忠彦 著  同朋舎出版である。

目次は「石棺の石材」、「石材産出地」、「舟形石棺の世界」、「長持形石棺」、「家形石棺」。
いやんなりました?

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これが今日の話題の阿蘇ピンク石の兜冢古墳(桜井市朝古)

話は様々な角度があるが、今日は阿蘇ピンク石のことだけを紹介したい

桜井のピンク石は他にも

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箸中の慶運寺の石棺仏。ピンク石である


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金屋の石仏堂の床下に保管されている石棺。ピンク石だ


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少し時期が下がるし、天理市だが。東乗鞍古墳の石棺(現在は管理者によって石室内の入室が禁止されている)

著者の真壁さんは、当時は倉敷考古館の学芸員
岡山県の南東部、邑久郡長船町の築山古墳(p189)のピンクの凝灰岩のが石材の産地が不明だった。
産地は不明だが、次々と同じものが明らかとなる。
まずは畿内に多い。たとえば、京終の野神古墳であり、桜井市朝古の兜塚古墳、東乗鞍古墳などである。

そこで産地を探した。二上山に似ている石があった。さしづめ二上山ピンク石である。
ところが、1991年、九州でこの石をみることなった。宇土半島に露岩があった。ピッタリである。二上山ピンク石 改め 阿蘇ピンク石のはじまりである。

「阿蘇山は凝灰岩を何度も噴出。これは一般的な黒灰色の凝灰岩で・・・ところが数度の噴出のうちで、一度は、ピンクの凝灰岩の噴出となったという」(p191)

阿蘇から次々と運び出される。石材というよりも。加工されていた可能性も論じられる。
席棺の分布の中心は大和であって、佐紀古墳群や葛城古墳群とは外れたところに分布しているという。中心の氏ではないということである。

箸中の慶運寺、三輪の金屋の石棺も同じような場所である。
元々は大型古墳が多い地域だが、この時期は大古墳が見られなくなっているという地域である。

「中期の大古墳の世紀が終わろうとした時期に、畿内に新しく台頭してきた新勢力の動きをみることができるのであり、その勢力が、旧勢力を代表する棺であった長持形石棺とは形も石材(色も)も違った新しい棺を採用したのがピンク石家形石棺だったのである」(p194)

「そういう意味では吉備の築山古墳は畿内新興勢力の石棺と同形態、同石材であり、畿内の新勢力と同質ということを古墳が主張している。」

この新興集団は歴史にどう立ち向かうか。
古墳時代の後期の石棺に大きな影響を与えていることからみて、飛鳥の時代にかけて大きな影響力を持ったとみるべきと強調がある。
ピンク石の家形石棺は歴史のアダ花ではなく、石棺の時代の主流を歩んだ石と言えるのかも・・である。

最後に、これが阿蘇ピンク石。これは現代に切りだされた石材の破片である。
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by koza5555 | 2016-11-16 22:19 | 読書 | Comments(0)

『古墳は語る』 石部正志

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左側は岩屋山古墳(明日香村)、中がムネサカ一号墳(桜井)、右が峯冢古墳(天理市)。なんで、同じ形になるのだろう

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 『古墳は語る』。石部正志先生。丹念に初心者に古墳を教えてくれる本である。僕も勉強になった。かもがわ出版である。

箸中山古墳から古墳時代が始まる。古墳はそこからである。
吉備には楯築墳丘墓があり、ヤマトには突出部を持った円墳ができた。纒向の石塚や東田のことである。
その後、古墳の画期をなす箸中山古墳が作られる。
前方部が違うというのである。それまでの前方部(突出部)は出入り用の通路という。箸中山はそこが違う。前方部は急斜面、そして高い。前方部の先からは円丘が見られない、登れない。
この古墳の大きさ、姿は墳墓の形を一変させたもので、今までになかった王者が登場したことを物語るもの。(p39あたり)

箸中山古墳は石塚古墳などとは形も違い、入り口が違う、祭祀も違うといわれるのである。

さて、大古墳の造営地の移動が論じられる。時期と場所の検討である。
大王墓はオオヤマト古墳群に始まり、盆地北部の佐紀古墳群に移動し、4世紀の中期からは古市と百舌鳥古墳群に移っている。
その後は高槻の今城冢古墳を経て、太子町の磯長谷、飛鳥の地域が墓所となった。

ここでは、二つのことが問題となる。
①一つは大王位の継承のありかた
箸中山古墳に続いた大王墓は、西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→栁本行燈山(崇神陵)→渋谷向山(陵)と築かれたと推定され、いずれも三輪山に近い広義のオオヤマト古墳帯にありますが、造営地点がバラバラであることが気になります」(p171)と、場所があちこちに行ったり来たりすることに注目されている。
その後の奈良県北部への古墳群の移転、さらに大阪平野の百舌鳥・古市古墳群に移っていることも合わせて、これらの墳墓の場所のありかたは、「大王位直系親族世襲制の原則とは相いれない」(p171)と断言される。なるほどである。

②あと一つ、これらの地域が土師連(はじのむらじ)の勢力地域内であったと指摘があり、その上で、
「古墳時代の土師氏は、大古墳の造営と、古墳での祭祀の執行を仕事とした鞆造(とものみやっこ)系の大氏族でした」
また、箸中山墓古墳については、「箸墓ではなく土師墓(土橋寛論)ということ」だとして、「箸墓は土師史が古墳造営の主担者としての呼称に起源し、(土師氏の)始まりは箸中山古墳築造の時点、あるいは、さらに前に遡るかもしれません」とされるのである。
「首長のための厚葬墓の造営は、弥生時代後期頃から進みだしました。古墳祭祀の大きな要素の一つとして、築造企画に則った大墳丘の造営や埋葬施設の棺槨の構築と並んで、葬送儀礼用の特殊器台、特殊壺の製作と使用も大事な仕事だとすると、土師の仕事の始まりは吉備の楯築墳丘墓造営まで遡らせます」(p134)というのが、土師蓮の起源、役割についての石部先生の論だった。

土師(はじ)連はその後どうなるのかも解説がある。
「大古墳は6世紀末には終わり、火葬が普及する8世紀には高塚古墳が築かれなくなり、土師氏が墳墓のことで果たしてきた役割は無くなり、その後は菅原氏などに名前を替えて、学問の家として栄えていくことになります。」(p133)

なるほどなあ、「古墳を見れば作った人も見える」ということで、これは目からうろこである。
土師師は自らの仕事を文字で残さなかったが、この書の題名の通り(古墳は語る)古墳に語らせている。

僕なりに考えてきたことを少しだけ、あげてみよう。
たとえば桜井の艸墓古墳、竜山石の家形石棺が残されている。古墳の施主が播磨まで影響力を持っていたという論を聞いたことがある。

僕はこれがとても不思議だった。そんな論なら、「阿蘇ピンク石」の石棺に葬られた桜井市朝古の兜塚古墳の例、この方は九州まで影響力があったということになってしまう。

作る人のことを考えねばならない。それが土師連(はじのむらじ)で、「石材の入手も含めて広い地域に大きな力があったと考えるべきかな」と考えた。
あちこちの豪族が古墳造成と祭祀のノウハウを持つというより、大王家をはじめてして数多の豪族と結びついて古墳造成を進めたんではないか・・ということである。

羨道の入り口の天井の刻み。これは天井を伝う水滴を落とす仕組みという。

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左が岩屋山古墳(明日香村)、右が安倍文殊院西古墳(桜井市)
同じ人、同じ系列の人が考えたものであることは確実である。
by koza5555 | 2016-11-15 15:08 | 読書 | Comments(0)

醸造安全祈願祭 大神神社

大神神社は11月14日に「醸造安全祈願祭」を斎行する。

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枡酒の振る舞い
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併せて奈良県酒造組合の振る舞い酒も


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出仕する祭員

酒造りの神様と仰がれるご祭神の神徳を称えて、新酒の醸造の安全を祈る祭典で、全国の酒造家・杜氏・酒造関係者が参列します。祭典後から醸造安全の赤い御幣と酒屋のシンボル「しるしの杉玉」が全国の酒造家・醸造元に授与されます。(大神神社HPより)

祭典は大神神社拝殿で参拝、続いて大物主の力で醸された神酒を崇神天皇に献酒した高橋活日(たかはしのいくひ)を祀る、活日神社にて玉串奉奠という祭祀である。

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いつもは森閑とした活日神社もこの日ばかりは


境内では全国から寄せられた銘酒の振る舞いがある。いわば、吟味し放題と言いたいが、いっぱいまでとの但し書きも。

大神神社の「しるしの杉玉」のことである。
醸造祈願祭の前日、11月13日には、吊るし替え(大杉玉掛け替え)が行われる。

「しるしの杉玉」は、拝殿と祈祷殿に吊るされるが、すべて人の手によってはこばれた。

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これは昨年の吊るし替え

昔の駕籠のように6人掛かりで運搬、どんな具合ですかとお聞きすると、「今年は230㎏です」と汗を拭き拭き、説明していただいた。神社の大杉玉が吊るし替えられ、祭りの準備が整えられます。

この醸造祈願祭、酒まつりを終えると、作り酒屋の紋章もともいえる「しるしの杉玉」は、「新酒の印」として全国の酒屋の店先に吊るされる。

この神酒は わが神酒ならず  倭なす 大物主の 醸みし神酒  幾久  幾久

崇神天皇8年冬12月、今頃だろうか。
崇神天皇が三輪の大神を太田田根子に祭らしめた日に、高橋活日が神酒を捧げて詠んだという。
全国の醸造元から届けられた数々の酒は壮観です。


大神神社、拝殿は寛文四年(一六六四)に徳川四代将軍家綱が再建したもので、重要文化財に指定されている。
また拝殿の奥正面にある三ツ鳥居は、三輪鳥居とも呼ばれ古来当社の特色の一つとされる。三つの明神型鳥居を一体に組合せた形式であり、重要文化財である。


以下は大神神社HPより
『日本書紀』の崇神天皇条には、高橋活日命(たかはしのいくひのみこと)が天皇に神酒を献じた時に「この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久」と歌ったとあり、大物主神のご神助により、会心の美酒を造ることが出来たことが記されています。このことからご祭神が酒造りの神として敬われることとなったのです。祭典では活日命の和歌で作られた神楽「うま酒みわの舞」が四人の巫女により舞われます。そして、境内では各地から奉献された銘柄を展示する全国銘酒展が催され、樽酒の振る舞いも行われます。

また、祭典前日には拝殿と祈祷殿に取り付けられている直径1.5m重さ250kgもある「大杉玉」が青々としたものに掛け替えられます。

by koza5555 | 2016-11-14 13:48 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

国号地名。桜井市出雲、吉備、豊前、長門

島根県の方からお手紙をいただいた。「出雲とか、さらには吉備、豊前、備前など、こんな地名が桜井市周辺にたくさんあると聞きました。なんで」との質問だった。

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こんな地名が分からんということだ。ご返事を差し上げた
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 桜井市にとどまらず奈良県には、昔の国名を地名とする村名は数多く存在します。
桜井市でいえば出雲、吉備、豊前があり、安倍には長門もあります。桜井市jの近在の三宅町(但馬、三河)、天理市(丹波市、備前、上総)、橿原市(飛騨、大隅)、高取町(土佐、薩摩)などが知られており、県下全体では大字、中字で55ほどの村名が数えられております
 近畿地方には旧国号村名は、京都府で10カ所、大阪府でも6カ所などが知られていますが、奈良県の地名は発生が古いこと、数が多いことから特別の位置づけがなされています。
 古文書によると(大乗院雑事記、和名抄)、国名地名は東北地方の国名が無いこと、西日本の国名が多いこと、畿内は少ないこと、旧磯城郡・山の辺郡・十市郡(これらは奈良盆地の南部にあたります)に多いことを特徴としています。
 また、藤原京(奈良盆地の最南部)の造成(694年~710年)にあたっての貢進国が国名地名となっていることが多いことなどが指摘されています。藤原京造営時に生まれたとの見方もあります。
藤原京造営時、藤原京造営の貢進には人的なものも含められており、造営協力の各国(旧国)の出張所(宿泊所を含む)などが置かれた場所が、その後の村名になっていったとの見方が多いようです。
したがいまして、古文書による(現在も数多くが残っている)旧国名は大和平野の中央部と南部、藤原京跡周辺に集中しており、他は中ツ道、下ツ道、太子道、巨勢(こせ)街道などの当時の街道筋、交通路に集中していることが特徴です。
  『奈良県史14 地名』などを参照に返事を書いた。


桜井市の出雲はさらに面白い。こちらの出雲も「旧貢進国」論で解説できると考えているが、地元の伝承、信念はもう一つ、複雑である。
 
地元の伝承ではもともと出雲は桜井市だというのである。
日本書紀によると垂仁天皇の時代に、国内で初めて天皇の前で相撲が行われたとされている。
当麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢が「自分より強いものがいるならぜひ戦ってみたい」と豪語しており、それを耳にした天皇が対抗できる力自慢を探させ、呼び寄せたのがこちらの出雲の野見宿禰(のみのすくね)だということである。

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出雲十二柱神社

出雲国より「即日に招集」したという記述が日本書紀にあることから、「島根(出雲)から奈良まで即日に招集できたのか?」と考え、実は山陰の出雲ではなく、桜井の出雲から呼び寄せたというのである。

そんなことから桜井市出雲には野見宿禰に関する伝承が多く残されている。

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狛犬を支える相撲人形

十二柱(じゅうにはしら)神社には巨大な五輪塔が残されていて、これは近くの野見宿禰塚から移されたもの(現在は取り壊されている)であり、また神社のこま犬を支えるのは相撲人形で、野見宿禰の顕彰の力が入っている。


歴史の深さ、長さ、出雲の方の村名に対する誇りは、ひとしおである。
by koza5555 | 2016-11-13 20:23 | 奈良 | Comments(0)

高畑町裁判所跡地の庭園遺構

「高畑町裁判所跡地の庭園遺構について」という発掘と現況の説明会に参加してきた。
「えー、報道されたの?」と驚かれるだろうが、20名くらいのグループ(アカダマ会)に対して、発掘を担当した大学教授と奈良県が特別に開いてくれた現地調査だった。

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裁判所跡庭園遺構内。石造宝塔(仏塔)これは古いものらしい。こんなものも拝見できた


一か月ほど前に元アカダマの大槻さんから、勉強会のお誘いのメールが届いた。
「高畑町の旧裁判所跡地に大正時代の庭園遺構が残されていることが判った。発掘を担当した京都造形美術大学の仲教授の話と現地見学だが」ということである。
9月・10月の土・日だったら無理だったが、良い具合に空いていた。

現地に行く前に、遺構地の歴史、遺構の現状を一時間もかけての解説を受ける。

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場所はここ。浮見堂の南、奈良市観光駐車場の西である


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東から見ると外見はこんな感じで・・

この中に庭園遺構が隠されていた。

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北側から入る。建物は一切残されていない。

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苔むした礎石。さっそく松田さんが確かめると・・・「これ、コンクリートです」(笑)
元々は室町時代に遡る興福寺の支院、松林院の庭園であるが、大正時代に大改変されており、庭園としては松林院時代へは遡れなさそうである。

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橋。切込みを入れてつなぐ。細工は細かい

仲教授によれば、「素晴らしい庭園が、まだまだたくさん残されている。その中でもこの庭園遺構は地形も利用されており、すばらしい。修復して公開するべきだろう」とのまとめだった。

良いものを見せていただきました。
修復、公開を待ちたいと思います。


こちらの庭園は室町時代、興福寺の松林院に始まるとのことである。支院では一番の上流、一番東にあるようである。松林院は一乗院、大乗院の二門跡に次ぐ四院家(松林院、修南院、喜多院、東北院)の一つである。

廃仏毀釈で松林院は廃止となり、所有者は松林為成、梅田春保を経て山口謙四郎(山口財閥)が所有し、別荘として使われることになった。
戦後、所有は裁判所に代わり家庭裁判所、官舎として使われ、平成17年に奈良県に所有が移された。
by koza5555 | 2016-11-12 22:06 | 奈良 | Comments(0)