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奈良・桜井の歴史と社会

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邪馬台国はどこだ バトルに出演

本日、12月29日の奈良新聞に4ページにわたり「第五回おもしろ歴史フェスティバル」が報道された。

第5回おもしろ歴史フェスティバル「歴史を愉しむ」(同実行委員会主催、奈良新聞社・国営飛鳥歴史公園・国営吉野ヶ里歴史公園共催、飛鳥京観光協会・県立万葉文化館・NTT西日本奈良支店協力)が去る10月9日、明日香村の県立万葉文化館と佐賀県吉野ヶ里歴史公園で開かれ、インターネット回線で結んで実況中継された。奈良会場は約350人、佐賀会場には約200人の歴史ファンが参加した。
第1部は、昨年9月に続く2回目の歴史バトル「邪馬台国はどこだ?」を開催。邪馬台国の所在地を巡り、研究者や歴史愛好家が論争を繰り広げた。
(奈良新聞から)

この歴史バトルに出演の依頼があり、10分間ではあったが、「邪馬台国=纒向」論をお話しする機会を得た。

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僕の発言も紙面で紹介されている
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纏向遺跡は広さが約300㌶あり、箸墓古墳やホノケ山古墳が含まれています。出土した土器は地の地域からの搬入土器が多く、農工具はほとんど出土しなくて、土木用の多くの工具が出土しました。
纏向遺跡は計画的に造られた最初の都市と考えます。この地は、ヤマト王権発祥の地であり、さらには邪馬台国が存在したとしても不思議ではありません。
 纏向遺跡から出土した大型建物が注目されます。直径32㌢㍍の太い柱が5㍍間隔で5本並び、間口が20メートルもありました。当時の最大の建物です。さらにこの大型建物と合わせて、3棟のたてものが中軸線を一直線にして並んでいました。また、建てられた年代は200年代初めで、250年くらいまで建っていたと推定されています。卑弥呼が即位したのが180年ごろ、亡くなったのが247年とされていますので、卑弥呼の宮殿だったと考えることもできます。
 近くにある黒塚古墳からは、三角縁神獣鏡が33枚、画紋帯神獣鏡が一枚出土されており卑弥呼が受け取ったとされる鏡が含まれていると考えられます。また古墳の石室の北側から出土したU字型鉄製品は魏から届けられた黄幢との見方もあります。
纒向遺跡を邪馬台国としてみることができる地下からの証拠が出ており、総合的に考えると、邪馬台国は現在の纒向遺跡のちにあったと考えます。


来年も邪馬台国、そして奈良の魅力、もっともっと発信していきたいものである。
by koza5555 | 2016-12-29 08:05 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

古墳時代の終焉

先日、古墳の始まりということをブログに書いた。
「倭国大乱」という弥生時代後期の2世紀後半の争乱を収めて、邪馬台国の成立、古墳時代が始まるという見方が順当である。
倭国が平和となってはじめて、戦には役に立たない大規模な古墳の造成が始まるのである。

古墳時代の始まりは書いたが、今日は古墳の終末、古墳はどんな形でなくなるかを考えたみたい。
7世紀後半、壬申の乱(672年)以降には豪族の古墳は急速に作られなくなる。
その後は大王家の八角形墳などが作られるが、8世紀にかけてそれも消滅する。

古墳の造成の停止、古墳時代の終焉というのも一気に来るわけでもない。
まずは6世紀末から7世紀初頭に前方後円墳の造営が停止されるところから古墳の終末が始まるとされる。
見瀬丸山古墳(欽明天皇の陵か?)や今城塚古墳(継体天皇陵)は前方後円墳の最期を飾る大型古墳と言われる。

同じ時代か、さらにさらに下がる前方後円墳が桜井にあることを知った。
前方後円墳の最後に近い、あるいは最後のグループといえるような古墳である。
こうぜ一号墳という。桜井中学校の真北、浅古である。これが6世紀末の古墳とされる。

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下から見たら、こんな感じだ


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号墳には二つの横穴式石室。これは東石室入り口


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これが西石室。規模はこちらが大きい。


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石室に入ると

壬申の乱(672年)以降、天武天皇の王権が確立したのちは、有力豪族の古墳は消滅する。単に墓・・ということである。たとえば宇陀の文祢麻呂(ふみのねまろ)の墓・・舎人といえでも壬申の乱の有数な将軍だが、古墳ではなく、墓地である。

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榛原八滝、稲佐山の麓。文祢麻呂墓

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同じころの明日香村の飛鳥の天武・持統天皇陵とされる野口王墓


古墳は作られなくなっていく。
古墳がつくられなくなる過程は、新しい大王を中心とする集権的な古代国家の形成過程に対応するのである。


古墳の終末の過程として、まず六世紀末葉ないし7世紀初頭に前方後円墳の造営が停止されます。それもたんに前方後円墳の造営が停止されるだけではなくて、それまで前方後円墳を作っていた有力な政治的支配者層の大部分が大型古墳をつくらなくなるのが推古朝ぐらいのできごとです。推古朝ごろに古墳の造営に関するきわめて強い規制がまず出されて、多くの有力な豪族が大規模な古墳をつくらなくなります。ただ。それでもなお地方の国造という位置につけられたような限られた有力な豪族層は大型の方墳や円墳を作りつづけますし、畿内の有力豪族層も前方後円墳に替えて大型の方墳や円墳をつくります。
 7世紀の中葉になると、即位した大王に限って八角墳をつくりだしますが、その背後には大王の地位を一般の豪族から超越した存在にしようという強い政治的な意図が認められます
(『古墳時代の考古学』白石 P271)
by koza5555 | 2016-12-19 21:01 | 読書 | Comments(0)

塼積式古墳 舞谷と花山塚古墳

舞谷古墳群。浅古の交差点から桜井グリーンパークへの道、鳥見山から張り出した小さい稜線に舞谷古墳群という古墳が残されている。『桜井の横穴石室を訪ねて』によれば一号から五号までとのことであるが、見ることが出来るのは2号だけである。

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こんな古墳である。

いつもは笹でふさがれている道だが、桜井市(観光協会?)が最近のイベントのために切り払った。来年の春までは快適に見学ができる。
墳丘は横に長い長方形の方墳で、榛原石を磚状に加工した石材を用いて構築された磚積式の石室を内部主体にするという特徴がある。『桜井の横穴式石室を訪ねて』

こんな特異な形の石室は桜井でもここだけではなく女寄峠に残されている。
5年も前だが、こちらを探すのは大変だった。送電線を見上げながら、一万分の一の地図を見ながら4回目でやっと到達である。奈良まほろば検定の公式テキストに掲載されているのである。
花山西塚・東塚古墳という。

道順だが、昔(トンネルができる前)の、夏のバス停から林道を北に歩く。100メートル位行くと谷川の三叉路。そこを北からの尾根に登っていく。最近はテープが残されている。突き当りまで登った所から左にまくと右手に東塚が見えてくる。磚槨墳である。奥室はなく、羨道部は損壊している。

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こんなものかとさらに50メートル。

西古墳に到着。尾根の斜面を削って築かれた古墳で、円墳である。西古墳は玄室と奥室があり、境には石扉が設けられていた。壁石材に煉瓦状に加工した石材を用いており、磚槨墳と呼ばれている。
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鉄の柵が作られているが、天井から蓋をあけると中に入れる。ただし、年齢、体力、肥満度、よく注意して入るように(笑)。一人で行って猪のように捕まらないように。携帯の電波は届いていなし。


舞谷古墳群は榛原石を使用した磚積式の石室を採用し、同一集団によるものであることはまちんがいない。古墳の築造時期も7世紀中葉を前後する短期間で行われたと考えられている。舞谷古墳群の被葬者は.前代にすぐ西の尾根に築かれた古墳であるこうぜ古墳群や秋殿古墳群の後継者なのか、それとも埋葬施設が全く異なる構造をしていることから異なる集団なのか。(桜井の横穴式石室をたずねて)
これは花山西塚・東塚も同じことが問題となろう。

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一番近くで一番近い時期のこうぜ一号墳、西石室の内部。全く違うことは一目瞭然

「では、だれが、どんな氏族が」と、考えるのは自然の道理。

天理参考館には3~4世紀の磚積式の石室が展示されている。レンガの積み方の形は違うのだが、武寧王の副室などをみてみると、ドンドン横に磚を積み上げていく、桜井の古墳と同じ形も見られる。レンガを榛原石に変えれば同じ形となる。渡来氏族が墳墓を作るにあたり、百済の経験を活かしたと考えるのは、飛躍だろうか。
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最後に、桜井の古墳を回るためには必須の資料は埋蔵文化財センター発行の『桜井の横穴式石室を訪ねて』である。三輪の埋蔵文化財センターで発売、1000円
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by koza5555 | 2016-12-18 23:12 | Comments(0)

継体天皇と阿蘇ピンク石

継体天皇の真の陵とされる今城塚古墳に関わって阿蘇ピンク石が発見されたと報道されている。
「石橋の材料  実は継体天皇の石棺  高槻古墳から破片流出」という記事が、11月11日に各紙(産経新聞、奈良新聞など)に報道されている。長さ110センチのピンク石、石橋で使われていたが付近の寺跡に置かれていたとのことだった。
「この石棺は無かったのではないか、破片しか出てこないじゃないか」と聞いたことがあるが、逆転の見事な発見である。

阿蘇ピンク石、これを考えてみた。
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東乗鞍古墳の阿蘇ピンク石石棺(今年の3月に撮影。今は石室に入れない状態である)

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奈良新聞11月11日付


継体天皇の石棺。
天理の東乗鞍古墳に阿蘇ピンク石。
桜井にはあちこちにある。
北の方から言うと慶運寺(箸中)の石棺仏。慶運寺古墳に置かれていたのだろうか。
三輪の金屋の石仏の縁の下にも見事な家型石棺の蓋石がある。
浅古の兜冢のピンク石のくりぬき式の家型石棺

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金屋の石仏の縁の下

『古墳時代の考古学』(白石太一郎司会の討論会 1998年)にその解明があった。
竜山石の長持形石棺は葛城氏の影響下につくられて、葛城氏の没落と共に消滅していくのだという倉敷考古館の間壁さんたちの研究があります。ところがその竜山石製長持石棺を用いなくなった段階ぐらいから、近畿で家形石棺がつくられ始めますので、その間のつなぎはどうも阿蘇石製石棺なのです。極端にいえば、葛城氏が大王家支えていた段階は竜山石で、葛城氏が没落すると同時に阿蘇の石がはいっているとすると、大王墓にもひょっとしたら阿蘇石が使われているのではないかということも考えられます。葛城氏にかわって胎動してくる大伴・物部氏など、大王を支える人たちの古墳がある桜井市や天理市にピンク石石棺がはいっているということも、付随した問題としてあるのではないでしょうか。(高木恭二 熊本学園大学講師 1998年当時)

大王家と大伴はこのピンク石石棺を作った宇土の地と、この地方の豪族を、とても重視していていたとの論である。

ピンク石の宇土半島の近くには菊水町、現在の和水(なごみ)j町がある。あの江田船山古墳の地で、5世紀末の遺物で文字が書かれた鉄刀が出た町である。埼玉の稲荷山古墳の鉄剣と合わせてワカタケルの文字が刻まれていた刀である。
中央で作ったか、地元で作られたかの論はあるようだが、中央直結の地であったことは十分示されている。

有明海沿岸は交易や外交に活躍した土地でもあった。
日本書紀によると百済に使えた日羅という人が出てきますが、これは火葦北国造(ひのあしのくにのみやっこ)の子どもです。葦北というのは八代の近くですね。 (白石)

こんな解説もあり、5世紀の有明海沿岸の力が浮き彫りにされている。
阿蘇ピンク石は、葛城から大伴への権力移行期の石棺で、外交戦略にたけた大伴と有明海沿岸のピンク石の石棺を作りだしていた諸豪族の力が結びついた特別な時代の産物だということだが、いかがだろうか。

政権の安定に伴い、二上山石の家形石棺、竜山石の家形石棺などが大王家、しょごうぞくの石棺の軸になっていくのであるけど。

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これは兜塚古墳、石棺
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by koza5555 | 2016-12-17 23:27 | 読書 | Comments(0)

「国家誕生の地、桜井を語る」 〜マキムクからイワレヘ、大王の歩んだ道〜

「国家誕生の地、桜井を語る」〜マキムクからイワレヘ、大王の歩んだ道〜という講演会・シンポジウムが12月11日(日)桜井市民会館で開催された。

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大きな会場だが、良く入った、

石野博信氏(二上山博物館名誉館長)の記念講演、橋本輝彦(桜井市)さん、岸本直文(大阪市立大学教授)さん、千田稔(県図書館長)さんが基調講演、寺沢薫さんが司会だった。

石野さんは纏向王宮以後の大王宮というテーマで脇本遺跡を話された。
橋本さんは古墳時代のオオヤマト・イワレ地域の古墳と集落。
岸本さんは弥生時代の後期から邪馬台国(やまとこく)にかけての年代論。そしてオオヤマト古墳論の被葬者論を論じられた。
千田さんは、持論の「アメノヒボコが邪馬台国に影響を与えている論」だった。

今回の衝撃は岸本先生の弥生時代から古墳時代への移行時の年代論だった。

まずは、ヤマト国(邪馬台国)は一世紀に形成された畿内政権と言われる。「ビックリしましたか」と言われるが、ハッキリ言ってビックリである。
岸本論によれば、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は奴の国のことだろうが(西暦57年)、魏志倭人伝にいう倭国王 師升の107年の朝貢は、ヤマトを中心に統一された倭国に寄ったとの論である。倭国はこの段階ではヤマトを中心に統一されていたとの論である。
漢鏡の製造時期は明らかだから、それと出土の土器を合わせて行けば年代論はこれで決着といわれる。C14の示す年代でそれが補強されるとのことである。
さらに魏志倭人伝に記された「倭国乱れる」は、その後の事件で、統一政権の対する反動、揺り戻しという論だった。岸本論によれば、卑弥呼はその中で共立されるのである。

ほんまにビックリである。岸本先生の本、僕も読んだ記憶あるけど・・・・

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シンポジウムの写真はピンボケで

石野、橋本、寺沢司会からの激しい批判となるのは当然である。
ヤマト国(邪馬台国)を100年も繰り上げるためには、出土の土器が合わないとの指摘である。
また、中国製鏡との整合性を言うが、製造時期と埋没時期はタイムラグがあるのは当然という石野先生の指摘もあった。

いかが思いますか。これは、もう邪馬台国が大和だ九州だなどというレベルは論ずるまでもないということだった。


岸本さんが提起された問題を、もう一点だけ紹介したい。
オオヤマトの大王級古墳の被葬者を考えると箸墓、西殿冢、崇神、景行、茶臼山、メスリ山の六基の前方後円墳が問題になるが、これは二系統で考えるべきとの論である。

塚口先生の講演を聞いたことがある、豊岡卓之・橿考研企画部長の講演も同じ論旨であった。
塚口先生は茶臼山、メスリ山は四道将軍などの墳墓と言われる。
豊岡さんは被葬者論には及んでいないが、墳丘の解説を明確にされ、黒塚などにも論が及んでいる。

岸本さんは、箸墓は卑弥呼、西殿冢は台与、行燈山(崇神)は男王で、聖俗の聖王との解説される。
茶臼山、メスリ山、渋谷向山は聖俗と俗との断定である。墳丘が画鏡形で円と方が断続している。

聖俗、誰が王かという悩ましい問題も残るが、魏志倭人では卑弥呼を王としている。

シンポジウムは意見が分かれた。考古学に命かけてる、邪馬台国は大和や・・ぐらいしか一致点がないようなスリリングな討論で、僕も解決したり、課題ができたりであった。

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発言要旨集は500円。桜井市の埋蔵文化財センターで手に入る。

by koza5555 | 2016-12-11 21:12 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

『未盗掘古墳と天皇陵古墳』

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桜井茶臼山古墳。こちらは未盗掘古墳じゃないけど、僕の古墳、お宝画像だ

未盗掘問題を論ずるためには、発掘とは何か、盗掘とは何が違うかを明らかにしなければならない。

考古学者が行う発掘の最大の目的は、遺物を掘りだすことではなく、遺物と遺構の関係を情報を入手することだ。
…これに対して盗掘は、このような情報に何の注意を払うことなく、もちろん記録を行うこともなく、それを暴力的にこわして遺物だけを取る行為にすぎない。
情報はその、その遺構を作って遺物を置いた過去の人々の行為を読み取るための、唯一無二の鍵となる。
(p18)

松木先生は、二つの未盗掘古墳の発掘を手掛けた。考古学者としては幸運な方というべきでしょうか。
一つは大阪大学当時の雪野山古墳。安土城跡の近くらしい。
今一つは、松木さんが中心となって岡山大学が発掘した勝負砂(しょうぶざこ)古墳である。
いずれも詳細な説明があるが今日は省く。

この発掘の経験と合わせて、発掘が中止された古墳の紹介がある。
羽曳野市の峰ヶ塚古墳の例である。
盗掘穴がある古墳だったが、掘りすすめると多くの副葬品が残された石室に至った。
遺物のなかでは魚佩(ぎょはい)といわれる(二匹の魚を腹側で向かい合せた形の金具、ベルトや刀の垂れ飾りか)が注目された。
藤の木古墳などの6世紀後半の古墳からは出土する。しかしこの古墳は5世紀後半で100年の差がある。その解明が待たれたが、「これほどまでの貴重な古墳の調査は、拙速を避けて未来にゆだねるべきだという判断が勝」ち、埋め戻されてしまった。
年代の差も不明、さらには竪穴式か横穴式かも不明である。

大王墓群のただなかにあって、それが竪穴式から横穴式へと移り変わっていくターニングポイントをなす古墳として、未盗掘ではないけれど、副葬品の残り具合も十分で、はかりしれない歴史的価値をを持っている峯ヶ塚。発掘中止崖冢として正しかったか、誤っていたいたかはだれにもわからない。・・・だが、それを解き明かす営みが、未来に向けての保存という理由のもとに、中途のままペンディングになっていること惜しむ声は少くない  (p211)

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最近入った横穴式石室。桜井の越塚古墳。石棺の器台が残っていた。

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これも最近入った桜井市のこうぜ一号墳西石室。ここは準ほふく前進である


日本の古墳に墓主の名前が入らないことの解説がありよく理解できた。
墓の主の名前がそこに残されていた事例は、日本の古墳にはない。だが中国には古くからそういう風習があった。神から墓地を買い取る「買地券」として、墓主の名を石に刻んだりすることはその典型
この風習は朝鮮半島までは伝わったが、日本には及ばなかった。
「誰それのが眠る墓」という意識よりも、巨同体のまつりの場として長の墳墓を築くという宗教的土俗性に遅くまでおおわれていた日本列島の古墳には伝わる由もなかった。


また、百済と日本の強固なつながりも触れている。
523年に亡くなった百済の武寧王の棺はコウヤマキだったことが判った。コウヤマキははモンスーンの卓越する日本でしか育たないもので、この棺の材料は日本から運ばれたものである。(p45)
西暦500年に対馬海峡を渡っていく巨大なコウヤマキ。古墳時代の英知と力は素晴らしいものである。


『未盗掘古墳と天皇陵古墳』 松本武彦(岡山大学教授) 小学館
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何を発掘したか、ではなく、発掘の考えかたを考えさせられる面白い本だった。
僕は図書館で借りたが、まだ3年ほど前の本である。
by koza5555 | 2016-12-08 14:26 | 読書 | Comments(0)

上之郷 小夫の綱掛祭

12月と2月は小夫(桜井市上之郷)の綱掛祭である。
長谷寺から針のインターに抜ける県道を通るとき、この綱が目に入る。

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出来上がった綱を参道ころがし

12月4日(日)、午後1時からこの祭が執り行われた。
綱かけは桜井市でも各地で行われるが、シーズン入りという言葉を使ってよければ、小夫の綱掛は、綱掛シーズンの初めの祭である。今年は上之郷の三谷が3日に行われたと聞いたが、その規模、本格さでは小夫に敵わない。

午後1時に「当番となった垣内」のすべてのお家から、一人ワラ三把を持って集まってくる。
「当番となった垣内」も解説が必要である。小夫には4垣内(桑・上・馬場・東という)あり、一年ごとに祭当屋が回ってくる。この綱かけは「先廻り」といい、来年の当屋垣内の初めの仕事である。平たく言えば4年に一回当屋が回ってくる、そのまえに綱掛祭も回ってくるのである。。4年に一回だから、初めは作業のすすめかたに議論百出である。忘れたこともままありである。

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25メートルほどの大綱がなわれる。それと合わせて100メートル以上の細縄がつけられる。

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すだれを4枚。実は綱掛は3カ所になるので合わせて12枚。

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すだれの間は、こんなものがぶら下げられる。合わせて9本である。

お祓いを受けた後は、縄掛けに。
青竹の筒笛をブーブーと吹き鳴らす。単なる青竹、しかし、音はほら貝、顔負けである。

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綱掛は村の入り口の山と墓地の榧の樹の間に渡される。


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これは県道の綱


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これは初瀬川の上に掛けられた綱



小夫の綱は悪霊、疾病を絶対に村に入れないという毅然とした綱で、①川ずじ ②旧道、③新道である県道に至るまで、張り巡らすことが特徴だった。


小夫の綱掛は一年に2回である。同じ垣内が取り組み、12月のすだれは松、2月は榊と違えるのが特徴である。
by koza5555 | 2016-12-04 23:00 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

『古代大和へ、考古学の旅人』  石野博信

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今朝の箸墓古墳。古墳時代の始まりはこの古墳からか

一月のおもしろ歴史講座(桜井駅前エルトの第4会議室・1月6日(金))のテーマは「桜井の古墳」である。どんなお話になるか、まだジタバタしている。

古墳時代ということを考えてみた。弥生時代のあと、古墳が盛んにつくられた古代のことである。大和を中心にして日本がまとまった、その時代である。同じような前方後円墳が全国で作られる。飛鳥・藤原、平城京の時代に古墳は終わりを告げる。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)を読んでみた。
きっとおもしろい観点があると信じて読んだが、やはり石野先生は裏切らない。
「古墳時代は戦争のない時代」と言われる。

弥生時代の高地性集落という問題がある。邪馬台国論でもさんざん考えてきた。
さらに弥生時代は、九州も畿内にも大規模な、そして無数の環濠集落が生まれた。吉野ケ里のような厳しく深い環濠、100メートルにも及ぶ大幅な水濠(いく筋もの溝に分かれていた)が置かれた鍵・唐古のような形である。

「高地性集落というように呼んでおります。そういう村が盛んに作られるのが弥生時代の中頃から終わり頃です。その辺と環濠集落の動きというのは当然関係があるだろうと思います。環濠集落というのはやはり敵が襲ってくる時に備えて村を濠で囲んでしまう。山の高い所の村も敵が襲ってくるのに、備えて中世の逃げ城のように山の方へ村をつくる。」
「この高地性集落が盛んに作られるのは弥生時代中期の後半で、瀬戸内海の要所要所へ作られていきます。弥生時代の後期になると近畿地方大阪とか奈良を中心とする地域にたくさんできます。近畿地方では弥生時代後期が終わって・・・バッタリと高地性集落が無くなります。私は世の中が平和になったんだと、そして墓作りにエネルギーが集中できる時代になったんだと思っています」
(p125)

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奈良盆地の高地性集落と主要な遺跡(p71)


「環濠集落」も解説、評価がきわめて端的である。
「弥生時代でも日本列島に米づくりが入ってきた時期の村の遺跡が、福岡空港のある板付にありますが、その遺跡も大きな掘がめぐらされています。きんき地方でも、大阪でも、奈良でも、そういう村はたくさん残っています。ですから、弥生時代の村が掘で囲まれているというのはごく当たり前のことです。ただし、日本の歴史の中では、そういう村があるのは弥生と、鎌倉、室町時代から戦国時代にかけての二つの時期だけです。村を全部溝で囲まなければいけないほど、この二つの時代は戦争がはげしかったと言えると思います」(p154)

古墳が全国で作られていく時代は、この時代を経てからのことなのである、古墳の形、副葬品、祭祀のことなど古墳は話題は多いが、その前提は戦争のない時代だったということがある。
こんな社会の成立に、邪馬台国がその触媒になったかもしれないと僕は考えるのである。


古墳時代はすごい。
平和な日本があって古墳ありき。
そして保守的にならずに、古墳の築造の思想と技術はめまぐるしく向上・前進していく時代でもあった。

「古墳時代、戦争のない社会、すごいわ」、こんな思いを理解していただけるようなお話しにしたいものである。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)
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by koza5555 | 2016-12-03 10:04 | 読書 | Comments(0)

川西町 光林寺と富貴寺と六県神社

11月30日の当尾ツアーの帰り道、川西町の川端さんから、「川西の保田(ほた)、うちの阿弥陀如来も見に来て」と声を掛けられた。
「参ります」。ちょっと確かめてみると、これは快慶の作で重要文化財とのことである。
「切れ長の眼、魅力的な口もとの笑みは快慶仏の魅力を十分に見せていて、円熟の境に浸った作風である」と『大和のかくれ仏』(清水俊明著)でも、しっかりと紹介されている。

電話をかけてみて初めて分かった。川端さんはこちら、光林寺(浄土真宗)の住職夫人だった。


そっそく、拝観させていただいた。
浄土真宗と阿弥陀如来、これは基本の形だが、快慶作ということで、「これは客仏か」とも考えたが、きっちりご本尊・・・
内陣からも拝観させていただいた。80センチほど、端正なお姿で衣のひだが写実的である。
お顔は清水さんが言われるように優しさ一杯だった。
「法眼 快慶」とのことで、これは快慶の晩年の位である。

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左側に榧(かや)の巨木。実も収穫してオカキに入れる・・とか


100メートルほど南には六県(むつがた)神社、そしてその神宮寺として富貴寺。

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境内右手に寄棟造りのご本堂。この建物が、重要文化財。
「1178年に初めに堂を建立、現在の堂は1388年の建立」と江戸時代に柱に墨書(1679年)されているとのことである。

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保田の宮座といい、宮座で六県(むつがた)神社と富貴寺が管理されていたようであるが、川西町史(平成12年)によれば、六つのカイトの代表による敬神講で運営されている様子。

釈迦如来坐像と地蔵菩薩立像は重要文化財に指定されている。
釈迦如来像(重文)は、高さ84センチの桧材による寄木造で平安時代後期。
本尊の向かって右に安置されている木造地蔵菩薩立像(重文)は、高さ96センチの桧材による寄木造で彫眼、古色の声聞形立像である。
 

最後に六県(むつがた)神社
延喜式に載せられている。
広瀬郡と城下郡の境目にある。

祭神は、六県命で、
高市命
葛木命
十市命
志貴命
山辺命
曾布命
で、式内社として存在していた大和の六御県(むつのみあがた)のすべてを祀る式内社である。
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2月11日(祭)に行われる「子出来おんだ祭」が有名である。豊穣と子孫繁栄を願う神事である。
by koza5555 | 2016-12-01 23:41 | 奈良 | Comments(0)