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奈良・桜井の歴史と社会

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うましうるわし奈良 談山神社

桜井市の多武峰、談山神社がJR東海の「うまし うるわし 奈良」キャンペーンに登場、名古屋以東で大々的にスポットライトを浴びている。
ポイントは世界唯一の「木造十三重塔(重要文化財)」と「青もみじ」。あわせて「如意輪観世音菩薩」(神廟拝所)や 国宝の「粟原寺三重塔伏鉢」の特別公開(拝殿)が行われている。

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拝殿の回廊にて


粟原寺三重塔伏鉢に注目したい。
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展示場の前には、訓読のパネルも示されている。

寺壱院の四至
東を限るは竹原谷の東の岑(みね)
南を限るは太岑
(西を)限るは樫村谷の西の岑
北を限るは忍坂川

此の粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が持統天皇の時、草壁皇子の御為に、敬みて造れる伽藍なり故(かれ)、比賣朝臣額田、甲午の年を以て始め、和銅8年に至る合わせて廿二年中、敬みて以て三重の寶塔に七科の鑪盤(ろばん)を進上す仰ぎ願わくは、此の功徳により、皇太子の神霊、速やかに菩提の果を証せんことを

願わくは七世の先霊、共に彼岸に登らんことを
願わくは大嶋太夫、必ず仏果を得んことを
願わくは合識に及ぶまで正覚を成さんことを


草壁親王の追福の為に仲臣朝臣大嶋(中臣大嶋)が誓願し、甲午(694年)年に比賣朝臣額田の手で着工し、和銅8(715)年に伽藍が完成。伏鉢を三重宝塔の相輪の第7層にこしられたと記されている。

この伏鉢、通常は奈良国立博物館で展示されているが、現在は談山神社の拝殿に展示されている。「うましうるわしキャンペーン」中の7月31日までの展示である。

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大和国粟原寺三重塔伏鉢(和銅8年 715年と明示される)


近くで見られる、写真が撮れるで、こんな得難い機会はめったにない。
この夏、ぜひとも談山神社にお出かけください。

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如意輪観音像
6月25日(日)、午前11時から観音講祭が開催される。
多武峰、妙楽寺は明治初期の廃仏毀釈の嵐のなか、数多くの仏像がことごとく流出、廃棄されてしまったが、そのなかでも残された仏像が、神廟拝所に置かれている如意輪観世音菩薩である。残された経過が不明で、公開もされてこなかったが、今年は7月31日までは公開となっている。
談山神社はこれを公開して、現在は祭も行っている。第四日曜日の開催で、今年は25日となる。談山雅楽会の奏楽もあり、楽しみである。今年はうかがうこととしている。みなさんも、ぜひ、おいでください。

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by koza5555 | 2017-05-28 23:04 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

筒城宮の家蚕、纒向遺跡の天蚕

継体天皇の足跡をたどって筒城宮跡(京田辺市の同志社大学)を訪ねる。
仁徳天皇と石之日賣命(磐之媛・イワノヒメ)をめぐる記紀の筒城(筒木)宮がダブってくる。

同志社大学の田辺校地には、宮跡を掲揚する石碑が二本、建てられている。

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左が、地元の筒城宮跡掲揚会が同志社国際高校に立て、その後、この地に移転した。
右は、三宅安兵衛さんが関係した「継体天皇皇居故跡」碑。多々羅に立てられた(1928年)が、同志社国際高校に移転(1960年)、その後、掲揚会の碑と合わせて、大学敷地に移転(1986年)されたと記されていた。

三宅安兵衛さんは、この地でもう一本、記念碑を立てていた。
「日本最初外国蚕飼育旧跡」という石碑である。大学から1キロメートルくらいの多々羅西平川原。オートバイの修理屋さんの前だった。
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仁徳天皇とイワノヒメに関わる家蚕のお話である。
天皇と矢田若郎女との仲を、「大(いた)く恨み怒りまして・・・堀江をさかのぼり、河のまにまに山代に上りいでましき」、「山代より廻りて奈良の山口に到」り、「暫し筒木の韓人、ヌリノミの家に入りましき」とある。
天皇からの使いにヌリノミたちは、「一度は這う虫になり、一度は殻(まゆ)になり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に変わる珍しい虫を見に来ているだけ」と答える。
天皇は「しからば吾も見たい。見に行こう」と出かけてくるが、やはり首尾はうまくいかないというくだりである。
古事記には養蚕のことがこんなふうに描かれている。

百済から蚕が持ち込まれ、飼われたのが、筒城の地として、これを記念する碑が立てられている。
同志社大学(田辺校地)から1キロくらい、すぐそばであるが、「日本最初外国蚕飼育旧跡」と刻まれている。
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「碑隠 昭和三年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
この碑は、昭和3(1928)年京都に住む篤志家により建立されたものである。 多々羅には百済からの帰化人たちが豪族の奴理能美(ぬりのみ)を中心に住み、養蚕と絹生産を営んでいた。「古事記」の仁徳天皇の条によると、仁徳天皇の皇后・磐之媛(いわのひめ)が、この地に住む奴理能美の邸宅を宮室として居住され、“一度は這う虫になり、一度は殻になり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に変わる”という珍しい虫(蚕)を見たとの記述がある。 この物語を根拠として、外国から蚕が持ち込まれ初めて飼われたのが、筒城の地であり、それは古代から商業が栄えていた多々羅であると考えられている。」(
京田辺市観光協会)

ところで、魏志倭人伝に「蚕を桑で飼って絹を作る」というくだりがある。
「禾(か)稲(とう)・紵(ちょ)麻(ま)を種(う)え、蚕桑緝(さんそうしゅう)績(せき)し、細紵(さいちょ)・緜(けんめん)を出(い)だす。」

纒向の天蚕のことである。
先日、奈良まほろばソムリエの会で、桜井市の橋本輝彦さんのお話を聞く会があった。「桜井市の埋蔵文化財センターがどんな仕事をしているか」のようなお話しだったが、纒向遺跡に話が及ぶことは必定で、その一つとして「尾崎花地区の巾着状絹製品」(槇野内)を語られた。
これは珠城山古墳のすぐ北側から出土した。布留0式あたりの地相から出たもので、邪馬台国の時代のものである。橋本さんたちは、あれこれ苦労して、これは天蚕(やままゆ)から手繰った糸で作られた平織りの絹布、その巾着であることを突き止めた、そんなことを話してくれた。
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魏志倭人伝に書かれたのは家蚕(やさん)だろうか。天蚕の可能性はないのだろうか。
そして、纒向には天蚕の技術はあったが、家蚕の技術は無かったのだろうか。
by koza5555 | 2017-05-16 10:52 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

継体天皇 『北風に起つ』

5月27日(土)は継体天皇(男大迹王)の足跡をたどるツアーである。
講師は奈良まほろばソムリエの会顧問の木村光彦さんが務める。僕は、まあ、添乗員で、皆さんを安全に連れまわす役。

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継体天皇が眠る今城塚古墳。石室は完全に破壊、撤去されてしまっている


男大迹王(おほどのおうきみ)は507年に樟葉宮で即位、511年に筒城宮に遷し、518年に弟国宮(おとくにのみや)に遷し、526年に磐余玉穂宮に遷す(日本書紀による)とあり、531年に没して現在の高槻市(今城塚古墳)、(宮内庁は茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵として祀る)に葬られたとされる。

一日のツアーでは、全てを回る時間はない。それでポイントを回ることにした。
継体天皇陵とされる太田茶臼山古墳(茨木市)と今城塚古代歴史館と今城塚古墳(高槻市)は、はじめに訪れる。
続いて、即位したとされる樟葉宮跡(交野天神社 枚方市)、続いて筒城宮跡(同志社大学田辺校地 田辺市)を訪問するツアーである。

樟葉での即位は異常であるが、24年間の摂津・山背で続いた宮も不思議である。
この地図を見ていただきたい。
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樟葉から筒城だから、大和に近づくが、その後、今日の長岡京辺りまで遠ざかってしまうのである。ここ等あたりの機微が分らない。

そこで、「北風に起つ -継体戦争と蘇我稲目」(黒岩重吾)を読んでみた。「困ったときには記紀やろ」という言葉もあるが、黒岩重吾の世界もなかなかである。
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黒岩重吾は、「男大迹王については謎が多い」としつつ、妃の出自を丁寧に触れていく。これが男大迹王の歩んだ道、勢力圏ということだ・・・という具合である。

皇后は手白香皇女であるが、樟葉で即位する前までの妃の出自を次のとおりである。
尾張、近江の三尾、坂田。息長、河内の茨田(まむた)などである。いかにも北方系で、男大迹王は近江の国で勢いを増す、尾張との連合が力を強めたとみるのが自然である。

さらに、男大迹王の即位のために大伴連金村らに擁せられた経過、平群臣との戦いが紹介されている。
男大迹王は着々と力を蓄えていくが、問題は筒城宮から弟国への撤退である。

筒城の宮跡。同志社大学田辺校地
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男大迹王の大和入りは遠のいたのである。越や近江、それから大伴連金村の力では、それが成し遂げれなかったということだろうか。

弟国宮の時代に、蘇我稲目や物部尾輿の力で、男大迹王は大王として大和入りが成功するのである。稲目と尾興は九州で勃興する磐井との戦いのために大王が必要だったとの思惑も語られる。

金村が引き立て、稲目と尾輿が盛り立てた・・6世紀の歴史を考えると見ても、これが妥当だろう。

樟葉、筒城、弟国、今城塚、楽しいツアーになりそうである。
ここをきちんと押さえると蘇我や物部を正確に知ることもできて、ひいては飛鳥時代の始まりをきちんと認識することができるのである。
申し込みを募りたいとこだが、バスは満席、40名の募集で42名もお客様を取ってしまって…オーバーブッキング状態であしからずである。

終りに継体天皇が即位したとされる樟葉宮跡。交野氏である。
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by koza5555 | 2017-05-13 11:03 | 大阪とか京都とか | Comments(0)

50cm下の桜井  桜井市埋蔵文化財センター

桜井市埋蔵文化財センターの「50センチ下の桜井」は23回目。4月19日から10月1日(日)までの予定である。

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桜井市埋蔵文化財センター

さっそく拝見してきた。
「今回の速報展では、平成28年度におこなわれた発掘調査の成果を紹介します。昨年度は12件の調査を行い、大藤原京関連遺跡では弥生時代前期の土坑よりほぼ完形の土器が、三輪遺跡では中世の池状の遺構が確認されるなど、桜井市の歴史を読み解く上で重要な発見がありました。このように50cm下に広がる桜井市の新たな発見を速報として皆さんにお届けします。」(埋蔵文化財センター展示解説書より)

「大藤原京関連遺跡」が僕には興味深かった。場所は桜井ジャスコのすぐ西、上之庄である。この発掘の現場は、僕が夜のウォーキングでいつも通っているあぜ道沿いだったことから、「何が出たのか」と関心があった。
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こんな場所である

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発掘されたのは、弥生時代中期のほぼ完形の土器(土坑から)とか、弥生時代前期の多数の土器が発見されたのである。

弥生時代の上之庄の集落はすごかった。こんな時期、形の上之庄の集落は、西方の坪井・大福遺跡に連なる遺跡だろうか。
良く考えると、坪井・大福遺跡に先行する遺跡にも思えて、興味深いところである。

桜井市は大藤原京の東五条条間路推定値として、道路を見つけかったのだが・・・それはそれで、この土器も弥生時代後期の素晴らしい発見だぅった。


大福遺跡から発掘された銅鐸、纒向遺跡から出た大型建物、茅原大墓古墳から出た盾持埴輪に象徴される貴重な発見、発掘物も健在、展示されている。
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by koza5555 | 2017-05-03 23:29 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

中ツ道と橘街道・・ほうりうじみちとか小中ツ道

5月5日(金)午後7時から、桜井駅前のエルトの二階で「おもしろ歴史講座」でお話しする。
「中ツ道と橘街道」と題して、大福や東新堂などを集中的に考えてみた。この講座では、纒向、三輪、初瀬、多武峰などを繰り返して語ってきたが、桜井の西部の田園地帯を語っていないのである。

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中ツ道と橘街道

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今日は「小中ツ道」と「法隆寺みち」を紹介したい。

法隆寺道、法隆寺から三輪に行くのか・・・法隆寺・王寺・田原本、守屋、大西を経る道である。

こんなふうに「法りう寺みち」という石碑も残されている。

さらに三輪に向かわずまっすぐ南下、大福に至りそのまま、生田(おいだ)、上之宮を経る道は「小中ツ道」というらしい。
「大和国高瀬道常年代記」という日記を生田の高瀬さんが書いている。江戸時代のことだが、この中では、「ええじゃないか」とか「おかげまいり」が触れられており、生田がメーンストリートという感じで、どこからどこの道かなと考えていたら、法隆寺からやってくるこの「小中ツ道」が生田をぴったり通る。

こんな話をしようと思う。
地図もいっぱい作って・・・
ゴトゴトした話のようだが、これがとてもおもしろい話に出来上がった。

蔵堂の道標。村屋弥富都比売神社の南口に
西面  右 こうや道
西面  左 みわはせ道
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大西の中央、火の見やぐらにある。「中央の曲り角東側のもの」。現在地の道路を挟んだ南にあった。
西面 右 たった 法りう寺
南面 左 みわ はせ
北面 弘化三年午歳 五月吉(1846年)
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こんな小中ツ道(橘街道)はなぜできたか。それも興味深い。
「大福付近の古老も明治時代においても大福より下流地域の水漬きの状況・・。したがって村屋から比較的水害の少ない東の大泉・大福経由の道も多く利用された」(桜井市史下p475)
 米川や寺川の氾濫地域。最短の道ではないが、東側の高地(環濠集落が点在した大西、大泉、新屋敷、東新堂、大福)を通る道に変わっていったとみるのが自然である。

大福や東新堂のこと。弥生時代の坪井・大福遺跡。古代の壬申の乱。中世では南北朝のたたかいで、近世は芝村騒動と切り口が多い。話す僕もたのしみの講演が出来上がった。
 
5月5日(金)、出にくいこどもの日だが、午後夜7時、お待ちしています。
by koza5555 | 2017-05-01 23:04 | 桜井市と安倍 | Comments(0)