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奈良・桜井の歴史と社会

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外山(とび)不動院不動明王

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6月28日は外山不動院の大祭である。外山不動院は毎月28日に「護摩祈祷会」を厳修されているが、一年に一度の大祭は6月である。外山中筋町は子供会も含めて、町挙げての行事でもある。「和の一と」の和太鼓の演奏があり、護摩法要が行われる。
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真言宗である。国道を挟んでしまったので見えにくいが、宗像神社の参道に西面している。

宝形造本瓦葺きのお堂があり、古くからの由緒も感じさせられる。
元々は外山にいた長谷川党が建てたという長谷ケ堂の名残のとのことで、付近には経蔵山・ハセガ堂の地名が残っていると聞いた。

ご本尊は不動明王坐像で、国により重要文化財に指定(昭和633月)されている。


像高85㎝。左目を閉じ、頭頂に沙髻(しゃけい)を表す平安後期の不動明王の姿である。檜材を用いた寄木造で、現状はほぼ古色を呈しているが、当初の華麗な彩色をとどめており、条帛の背面部や裳の一部にに切金文様が認められる。二重円相を透かした火炎光背と、七重の瑟々座が揃う王朝様不動明王像の本格作は、奈良県下でも珍しい。(境内桜井市教育委員会掲示)


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左目を閉じている。不動明王で、左眼を閉じ右眼を開けて睨むのを「阿遮一睨(あしゃいちげい)」と言うそうである。「すべてを見通すぞ」という感じですごみがある。


今日はそうめんのお接待が (具が乱れているのは、少し食べたから)

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毎月28日の午後2時から護摩を焚いており、地元をはじめ遠方からの信者も熱心に参拝されているとのことである。

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by koza5555 | 2017-06-28 21:06 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

大神神社と「夏越し茅の輪」

大神神社に夏越しの茅の輪が架けられた。夏至の日からだろう。79日まで置かれる。

青々した杉、松、榊が掲げられた茅の輪をくぐってきた。

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「杉、松、榊の三木は神霊の宿り給う霊木である」と記されていたが、「なにゆえ茅の輪」

というのも知りたいものである。

これが、「なぜ日本人は神社にもお寺にも行くのか」島田裕巳著 双葉社に記されていた。

「このみわの明神は、社もなく、祭の日は、茅の輪をみつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」と奥義抄(平安時代の歌学書)にあるとされる。

大神神社には、本殿も拝殿もない時代があり、その時代には、山を、そしてその岩を依り代として祀る時代があったと、これはみんなの共通認識だが、その祭りには「茅の輪を岩の上に置きて」祀ったとあるのである。

茅の輪は夏越しの祓にとどまらず、神を祀る基本的な姿であった模様である。

心してくぐらせていただいた。

「神社にもお寺にも行くのか」は、神社のこと、お寺との関係のことが極めて端的に示されている。今年の423日刊行であるので新刊書だが、僕は桜井市図書館でお世話になった。

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神社の古来の姿が解明されている。


今日は社殿のお話だけ紹介しよう。

出雲神社榜示図というのが残されている。出雲大社ではない出雲神社で、京都の亀岡市にいまも鎮まる。鎌倉時代の榜示図が残されている。領域を示す図であるが、ここには山があり鳥居が一本たっているだけだった。現在はこの鳥居のあたりには社殿が建てられている。

鎌倉時代には社殿がなかったことを意味している。

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大神神社の場合も詳しく紹介。大神神社は今も、拝殿はあるがご本殿はない。この拝殿は徳川家綱(四代目)が造営、1664年のことである。

歴史を見ると、1317年には、拝殿の修理という記録があるらしい。

1226年には、当社古来無宝殿。唯三個鳥居あるのみ」と記される(大三輪鎮座次第)。三つ鳥居のことである。

ここに、奥義抄(平安時代の歌学書)の紹介があり、「このみわの明神は、社もなて、祭の日は、茅の輪をみつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」とある。

大神神社では、平安時代までは、鳥居もなく、(茅の輪をかかげた)岩のところで祭祀がおこなわれていて、鎌倉時代までには三ツ鳥居が建てられるようになり、拝殿は室町時代にならないと建てられなかったということになります。 (p65)

宗教学者の見解だが、激しく僕は共感したい。

大神神社にとどまらず、各地の神社で夏越の祓では、茅の輪くぐりがおこなわれるが、

これは大神神社からのしきたりということであり、

元々は人が通るものでなく、供え物であったり、神と人との仕切りの意味があったりしたものと思われる。

考えてみれば、鳥居も同じで三ツ鳥居や出雲神社(亀岡)の出雲神社などの例をみても、神域と人の世界の仕切りともいえるのであり、鳥居を抜けると神域であり、茅の輪をくぐるとやはり神域ということだろうか。

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鳥居も茅の輪も心を正して入らせていただくことにしなければ。


by koza5555 | 2017-06-23 14:32 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

『古建築を復元する』 山田寺に見ると・・・

建物の復元は各地の遺跡の大きな目玉である。
邪馬台国所在地論で言っても、吉野ケ里なら当時の建物を彷彿とさせる建物が林立している。一つ一つの建物はよく考察されて復元されているだろうが、時代を隔てた建物が直近に立ち並ぶのはいただけない。しかし、逆にその密集度が迫力をもって迫ってくる。

一方、纏向といえば、古墳は見学できるが、建物は埋め戻された空き地だけだ。桜井埋蔵文化財センターに行くと、ようやく模型を見ることができる。
遺跡の保存など、長い目で見ればどうかであるが、現実の「集客力」は確実に差がある。

建物の復元は大切だ。そこで、そんな建物の復元・・という本が今年の3月に出ている。

『古建築を復元する‐‐過去と現在の架け橋』。奈良文化財研究所の海野聡さんが書かれた。

「古建築を知る」、「建物の痕跡を見る」と読みすすむと、「山田寺の衝撃」とあった。

1982年、突如として地面の下から「建物」が現れた。まさに直前までたっていたかのような姿が白日の下に晒されたのである。山田寺回廊の出土部分の発見までは、建築史は7世紀唯一の現存建物である法隆寺に依拠してきたが、この発見により常識が覆されたのである

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山田寺、東面回廊。薬剤処理を施されて

山田寺は蘇我山田石川麻呂の発願による氏寺で、641年(舒明天皇13年)に寺地作成、643年(皇極天皇2年)金堂の建立、麻呂は謀反の疑いを受け死に至るが、685年(天武天皇14年)に金堂の丈六仏のご本尊の開眼供養が行われている。(上宮正徳法王帝説による)

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仏頭・飛鳥資料館にはレプリカが置かれている。写真撮影はできる

11世紀には回廊が倒壊、12世紀には金堂・塔・講堂が焼失した。

この東側の回廊が倒壊した状態のまま、土の下、さらにその瓦の下から出てきた・・出土したのである。
建築部材はすべて残っているという状態である。
柱は銅張り(エンタシス)があった。
組み物の特徴があった。
柱があり、その上に大斗、巻戸、肘木で平三斗(ひらみつど)で梁を支えるが、この形が法隆寺とは異なっていた。

法隆寺は柱と大斗の間に皿斗が入っている。奈良時代の建物には一般的には皿斗はなく、これは中世に中国から輸入(大仏様)されたもので、法隆寺は特殊な形を取っている(金堂・五重塔・中門にもついている)。

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これは僕が書いた 笑
山田寺には皿戸はない。

古い順にみれば、山田寺(なし)、法隆寺(あり)、薬師寺など(ない)、10世紀以降(あり)とのことである。
7世紀には日本の古建築の基礎ができていたことが示されたと海野聡先生は指摘するのである。
言い換えれば、法隆寺は別格という事だった。古代建築の代表、法隆寺はこの技術を、どう手に入れたか。興味は尽きない。

ほかにも平安神宮、第一次大極殿、朱雀門、四天王寺、登呂遺跡などが考察されている。
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『古建築を復元する――過去と現在の架け橋』 著作 海野聡  吉川弘文館
by koza5555 | 2017-06-18 17:55 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

桜井市立埋蔵文化財センター

毎日新聞の奈良版、木曜日の「ディスカバー奈良」は奈良まほろばソムリエの会が執筆している。執筆者を募ったところ、20名以上の方が手を挙げた。今週の当番は僕。「桜井市立埋蔵文化財センター」をとりあげた。地元ネタである。

「奈良時代や飛鳥時代のさまざまな遺跡を見学しました。もう一つ前の時代の遺跡を見たくなりまして桜井市にまいりました」と、埋蔵文化財センター前で東京から来られた方が話してくれました。

町じゅうが歴史博物館という桜井市。市内のあちこちで発掘された遺物がここに集められ、弥生時代の銅鐸、纒向遺跡から発見されたさまざまな遺物、古墳時代の埴輪などが、歴史の順に体系的に展示されています。
中でも、纏向遺跡で発見された邪馬台国時代の建物の柱跡にもとづき復元された大型建物の模型展示からは、邪馬台国の時代、日本の王権の幕開けを身近に 感じることができます。

古墳時代の盾持人物埴輪も目を引きます。盾を持った最古の人物埴輪として注目されていますが、なによりこの微笑みには誰もが引き込まれます。
こちらの展示室で古代の風景、古代の暮らしを楽しんでみませんか。
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メインを盾持ち埴輪にした


常設展は旧石器時代から飛鳥・奈良時代までが見学できる。桜井市から出土した資料だけで、日本の歴史を理解することが出来るわけで、これは桜井市民は自慢すべきである。
纒向遺跡コーナー、三輪祭祀のコーナーもあり、埴輪のコーナーもある。

纒向遺跡コーナーでは、尾張、北陸、中国、九州に至るまでの各地から運ばれてきた土器が展示されおり、この遺跡の全国的な中枢の役割が理解できるのである。
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纒向・発掘された大型建物の柱穴から復原された模型

埴輪の展示も充実している。盾持ち人埴輪の笑顔は特別である。2011年2月26日に「茅原大墓古墳」の現地見学会が開かれた。今度の記事は、あの時の感動をそのままの気持ちで書いたものである。

速報展は10月1日(日)まで開催されている。
大藤原京関連遺跡では上ノ庄から、弥生時代前期のほぼ完形な土器が出ているし、三輪遺跡では中世の池状の遺跡などが報告されている。
これはすでにブログに書いた。50センチ下の桜井 桜井埋蔵文化財センター

町じゅうが博物館の桜井、そのまん中の博物館が桜井市立埋蔵文化財センターだ。ぜひとも、おいでください。
歴史の認識が深まるにつれ、この展示室では次々と新たな発見をすることが出来る。場所はJR万葉まほろば線(桜井線)・三輪駅から徒歩10分、大鳥居の足元である。
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by koza5555 | 2017-06-15 06:09 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

鏡女王忍阪墓 談山神社

談山神社、6月第二日曜日は鏡女王祭である。今年は6月11日となる。
午前11時から東殿にて祭祀を行う。
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鏡女王祭


前日(土曜日)には、桜井市忍阪の生根会により鏡女王忍阪墓前祭がおこなわれた。
鏡女王忍阪墓は、生根会(忍阪区老人会)によって草刈りなどの日常的な管理が行われていて、談山神社とともに祭祀を行うのである。
祭は一年に一度、東井(ひがい)会長をはじめ、役員のみなさんの気合は十分である。
談山神社からは宮司と黒住さんが参加。
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神社と忍阪のみなさんで、天智天皇の妃、藤原鎌足の正妻、万葉歌人でもある鏡女王の生涯をしのんだ。
鏡女王の歌碑は鏡女王墓をしばし降りた、舒明天皇陵に差し掛かった川の中に置かれている。
「秋山の 木の下隠(このしたがく)り 行く水の 我れこそ益さめ 御(み)思ひよりは」で、天智天皇との思いを歌う歌である。犬養孝先生の揮毫である。桜井市は歌碑王国で60基以上の万葉歌碑を数えるが、犬養先生の揮毫はこれと大福の三十八柱神社だけである(そうですよね)(^^)。多数の識者に書いてもらうという趣旨で歌碑建設を進めてきた努力の結果でもあるが。

鏡女王忍阪墓
被葬者は額田王の姉で天智天皇の妃、のちに中臣鎌足の正室。万葉歌人の鏡女王の押坂墓とされている。談山神社が管理しており、忍坂の生根会が清掃奉仕をしている。
平安時代前期に編纂された「延喜諸陵式」には舒明天皇の陵域の東南と書かれている。
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鏡王女(かがみのおおきみ、生年不詳 - 天武天皇12年7月5日(683年8月2日))は、飛鳥時代の歌人。藤原鎌足の正妻。『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている。『興福寺縁起』・『延喜式』では鏡女王。『興福寺縁起』では藤原不比等の生母(後世の創作とする説もある)。また後述するが「鏡王女」と「鏡姫王」を別人とする説もある。(ウィキ)

忍坂【おしさか】
奈良県桜井市の東部,外鎌(とかま)山西麓の古代以来の地名。恩坂,押坂とも書き,〈おさか〉ともいう。遺称地である桜井市忍阪は〈おっさか〉。地名〈忍坂〉は《日本書紀》神武天皇即位前紀や垂仁天皇39年10月条にみえ,後者の記事によるとこのとき大刀1千口を新たに作らせ,〈忍坂邑〉に収蔵したのち石上(いそのかみ)神宮(現奈良県天理市)に移している。(百科事典マイペディアの解説)

これをFBでも紹介したら石亀嶽さんから昭和40年代の忍阪墓の写真が送られてきた。
「門だけ・・植わっているのは松」とのことである。犬養孝が「松の木が19本」と書いたとおりである。村人によると、「松は50年までにはすべて枯れた。杉を植えた」である。
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昭和40年代(石亀嶽さん提供)
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現在の墓。杉林
by koza5555 | 2017-06-10 22:29 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

ウォーナー博士 報恩供養の法要

6月9日、安陪文殊院でウォーナー博士の報恩供養法要が行われた。
桜井市仏教会の主催である。

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ウォーナー博士 報恩供養塔を前にしての法要


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報恩供養塔は「安陪清明公 天文観測地」に建立された。西の空が開けている。

ウォーナー博士 報恩供養塔について

ウォーナー博士は、1881年アメリカのニューイングランドに生まれ、ハーバード大学出身の東洋芸術史家で日本美術の偉大なる権威者です。第二次世界大戦において、日米の風雲急なるやその親友ハル国務長官を訪ねて戦争防止を進言されました。不幸開戦となるや、アメリカの政府と軍の上層部に辛抱強く奈良と京都をはじめとする古都の文化的価値の説得に成功されたおかげで、アメリカ軍の日本本土空襲の時にも空爆リストから外されました。この地に立つウォーナー報恩塔はこのウォーナー博士の功績に大変感動した桜井市の一市民であった中川伊太郎さんが、日本人が博士に寄せる感謝の気持ちを永久に残したいという気持ちから自費で建立されました。因みに中川さんは当事、失業対策事業で働く日雇い労務者という大変苦しい生活を送っていたにもかかわらず、こつこつと貯えた十万円の全財産を出して昭和34年5月に建立されたものです。この建立の相談を受けた当時の市長及び桜井市仏教協会と当山住職は、この美徳を称えたいとの思いから場所の提供をはじめてとして毎年6月9日のウォーナー博士の命日に報恩感謝の供養を厳修することとし、爾来桜井市仏教界主催によって6月9日の博士の命日に法要が行われています。

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ウォーナー博士の功績の否定論もさまざまである。
「ウォーナーリストは略奪品の返却の為につくられたもの」であるとか、ウォーナーリストに載せられながら空襲にあった各地の文化財を示して、ウォーナー博士の役割を否定するという論などである。

愛知県や名古屋市で60年間暮らしてきた僕から見れば、奈良や京都が大規模な空襲から逃れたことは驚異である。

安倍文殊院の植田ご住職は「奈良の文化財が守られたこと、それに感動して碑を建てようとした方がいたこと、その法要は誇るべきこと」と法要を締められた。
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by koza5555 | 2017-06-09 18:11 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

氏神さまと鎮守さま

神社とはなに?談山神社の氏子総代だったり、町の役員として阿部八幡社の祭祀に日頃から関わりを持っていても、「神社とは何?」という決め手は、恥ずかしながら勉強不足。

そんなとき、「氏神さまと鎮守さま・・神社の民俗史」という本を、桜井市の図書館の新刊コーナーで見かけた。国立民俗博物館で仕事をされ、現在は國學院大学の教授の新谷尚紀さんが書かれている。
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「稲の民俗学」からはじまる。田んぼの造成と稲作作業が、日本の統治のシステムや文化に大きな力を果たしている。
① 稲作(水田の造営)にはとてつもない労働力が必要とされた。採集、狩猟、漁労という自然環境のシステムで生きてきた人に灌漑労働と稲作労働は過酷なものであり、強制力が必要だった。
② 古墳の築造は巨大なシステマティックな労働力の把握とその動員力が不可欠だった。水田稲作における動員力が、その背景にあってこその古墳築造と考えられる。東北(仙台市、山形市を結ぶ以北)に古墳がないのは古墳造営の強制力が働かなかったのも一因だ。ここには水田、稲作労働がなかった。
③ 祭は新嘗祭、大嘗祭、広瀬大忌神祭(ひろせのおおいみのかみまつり)と龍田風神祭。稲作に関わるもので、これらの祭りの整備と定例化が、天武朝により始まる。


神社の発生と祭祀の始まりを連動させるのが新谷先生の論である。その歴史が、そのまま生かされたりするのも、神社と祭祀の特徴である。
祭祀の歴史である。順番に・・・
① 磐座(いわくら)祭祀
② 禁足地祭祀
③ 祭地への神籬(ひもろぎ)設置
④ 祭地への臨時的な社殿配置 
⑤ 常設の宮殿設営
磐座祭祀、禁足地祭祀という段階があって、それは、4世紀後半の三輪山祭祀遺跡や、4世紀後半からの遺跡が残る沖ノ島遺跡に示される。いまでも、磐坐があり、禁足地がある、その遺跡もある。
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大神神社の大鳥居

大神神社は地元だから、いつも注目しているが、沖ノ島の重要性に改めて勉強する。
4世紀、大和王権の力が巨大となり、博多湾(西新町 にしじん)を経由しない海路として、沖ノ島ルートが整備されたと読んだばかりである(海の向こうから見た倭国 講談社現代新書 高田寛太著)。
海路の新設と沖ノ島祭祀の遺跡の始まりが接近していて、「なぜ、沖ノ島に」という疑問が氷解する。
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沖ノ島あたりをめぐる歴史


三番目である。いまの神社の姿は、神道の歴史に関わりがあると新谷先生は説かれる。
磐座、禁足地、神籬、社殿という祭祀の歴史が神社には、混ぜ合わされた姿となっている。そう言われれば、それは心当たりがある。祭祀の歴史は過去の事じゃなく、いまの姿でもある。それは神社だけではなく、村や神社に民俗としても、伝承されている。

あわせて、日本の信仰動向の解明もある。日本の信仰の土台は土着と招来されたものが混淆している。
① 古代日本の神々への神話的信仰
② 中国から伝承された陰陽五行や道教の教え
③ インドで生まれ、中国で醸成された仏教信仰
新谷先生は、「三本混じりの奔流」があり、それを土台にして日本で独自に育った神仏(山岳信仰、神仏混淆の神々)が考えられるが、現代は、それをすべて取り込んで信仰の姿があると解説される。
日本の信仰状態は、この歴史を引き継いでいる。
ここが大事であるが、引き継ぎ方は融合ではなく、それぞれの特徴も生かされているとの解明がある。
結論的にいえば、形や中味がまじりあうのではなく、「たとえていえば、あくまでもミックスサラダの状態であり、ミックスジュースではないとのことである。

混淆しながらも基本的要素をしっかり保持、それが日本の神祇信仰の特徴で、神社祭祀の特徴である。
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こちらは阿部八幡神社

なるほどでした。
「宮座の形成と運営」という項目で、「大柳生の氏神祭祀」、「奈良豆比古神社」を取り上げていて、ルポルタージュとしても学ぶものが多い。
by koza5555 | 2017-06-08 13:03 | 読書 | Comments(0)

鍵と今里の蛇巻き

田原本町のノガミを拝見した。鍵・今里のノガミ祭りである。
祭の所作から、それぞれの地域で、「鍵の蛇巻き」、「今里の蛇巻き」と呼称している。
期日は6月の第一日曜日(以前は旧暦の5月5日)に行われる。

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鍵の「蛇」の出発

鍵は八坂神社で、今里は杵築神社で蛇巻きの行事がおこなわれる。

国道24号線を郡山インターから南に向かうと左手(東)に有名な鍵・唐古遺跡の楼閣、右側は唐古の集落、その先が鍵の村である。今里はさらに西の寺川沿いにある。明治25年までは大和川の船着き場だったという。
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鍵の蛇巻きは午前7時30分に始まった。頭を作る・・・200㎏はあるとのことである。
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綱は芯に荒縄を巻き込み、横向きに綯っていく。藁と麦ワラの混合である。
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2時から祭祀が始まる。弁当箱のようなドサン箱も準備される。ミニチュアの農機具が入っている。竹竿をつけて、この先を各家に差し向けて、祝儀をいただく。
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神社を出て、村を北に、その後、南に戻り、ツナ場(北中学校の向かい)で、エノキの木に蛇をまきつける。
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一方、今里の蛇は 午後1時頃に集合、杵築神社にて蛇を作成する。


午後3時頃から午後5時30分まで、今里の大字全戸をまわり、神社に戻り、蛇を巻きつける。
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こちらは麦わらである。
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蛇にお酒を呑ませる。


参拝者に、藁の先にくくられた「わかめの味噌煮」が配られる。微妙に甘くておいしい。
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奈良県の民俗と言えば鹿谷勲さんだが、鹿谷先生も美味しそうにいただいている。「撮るよ」と言って撮らせてもらった。
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その後、中学生が蛇を持ち上げて、村の隅々までまわる。、各戸の頭を入れ、「おめでとう」と全員で声を張り上げる。
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さらにあちこちで、蛇体で人を巻き込む。巻かれた人も福があるとされるが、なかなか、一般の見学者を巻き込むことはない。
この巻き込みを見ていると、この行事は、ヨノミの木に巻き付けるから蛇巻きか、それとも町で人を巻き込むから蛇巻きというのだろうか。

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巻き込まれて歓声をあげる・・・

寺川もわたる。
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蛇巻きは、その構成員が男子であり、旧暦の5月5日に行われる端午の節句にちなんだ行事である。今里では、蛇の巻き付けられた大樹の根元の祠に、絵馬や農具のミニチュアが祭られることから、田植え時の降雨を祈願したものと考えられる(田原本観光協会HPから)


田原本町の鍵と今里の蛇巻き、6月の第一日曜日である。来年はぜひ、どうぞ
by koza5555 | 2017-06-07 15:43 | 奈良 | Comments(0)

新沢千塚古墳や高井戸山古墳

「海の向こうから見た倭国」。高田寛太著。民俗博物館の研究部助教授である。
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古墳時代(3世紀前半から6世紀前半)の倭と百済。倭と新羅。倭と加耶の歴史を検討してみた。倭から見て、同時に朝鮮半島の国々から見てである。

古墳は葬られた人間の履歴書、だから古墳がふんだんに取り上げられている。

高田先生の整理にしたがって、日韓の歴史をみてみる。

弥生時代の後半。金梅(キメ)と北部九州の海路。この海路は3世紀後半に最も花開く。
3世紀後半に畿内に倭王権が誕生。金海との直接の交易を目指す。狗邪韓国との交易が魏志倭人伝にも取り上げられる。

4世紀になると大和王権の力は巨大となり、博多湾(西新町 にしじん)を経由しない、沖ノ島ルートが整備される。
一方、半島では高句麗が南部を攻めはじめる。百済は倭のつながりを求めて、直接の交易に乗りだす。高句麗に対して倭、加耶、百済の同盟ができた。

5世紀、高句麗はさらに南部を攻撃する。倭との窓口となっていた加耶は衰退して、新羅、大加耶(でかや)、百済との交易が広がった。
各地方が大加耶(でかや)などと交易するが、倭王権は吉備、北部九州(磐井)などを抑えにかかって、地方の政権の交易は縮小する。

大加耶に日本と同じ前方後円墳が作られる。14基もあり、倭人か、その影響を受けた加耶の人の墓であろう。埋葬物も倭からの威信材、鎧などが含まれている。

このころから、新羅が大きな影響を与えはじめる。
新沢新塚古墳126号はその証拠で、埋葬物から見て新羅人である。大伴が連れてきたのだろうか。
耳飾り、腕輪、指輪などのアクセサリーはすべて新羅製。当時の新羅は金・銀・銅などのアクセサリーの組み合わせで身分をしめした。126号墳の被葬者は相当なレベルの人。
「質」と言われる、最高級交渉人か。

6世紀、562年に大加耶は新羅に併合される。倭は百済との関係かのを強める。新羅とむすびつく磐井を押さえる。吉備も大和王権の力に屈して、大形古墳は作られなくなる。

こんな歴史があるから、日本で出土する朝鮮半島系の副葬品にもそれに合わせての特徴がある。
4~5世紀は金官加耶、5世紀後半は大加耶。6世紀前半は百済系からの到来物が多い。朝鮮半島に於いても、日本系の文物はそれに対応する形で、交易は相互のものである。

「金官加耶と河内王権、大加耶と雄略朝、百済の再興と継体朝の成立」と半島の動きと大和王権の動向がタイアップしているとの韓国の学者の論も紹介されている。

新羅系の新沢千塚の126号墳と合わせて、百済系の特徴が顕著な古墳もある。
それは、大阪の高井田山古墳である。初期の横穴式古墳。板状の石材を使用した玄室で、5世紀後半のものとされて、そのころの百済の横穴式石室の影響を受けているとされる。熨斗とか金箔を挟んだガラス玉など精巧な遺物が発掘された。
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さらに橋本市の隅田八幡宮の鏡には「503年に武寧王が次の大王である継体天皇に使臣を送って(よしみ)好をつうじたとあり、百済との関係の深さが認められる。

弥生時代から古墳時代にかけて、倭から見た朝鮮半島の国々からの文化やさまざまな技術が伝えられた・・ある意味では一方的な交易が論じられてきた。

朝鮮半島の国々にとっては倭はどんな存在だったのだろう。
百済・新羅、高句麗・加耶は遠交近攻の激しい政治と軍事闘争に明け暮れていた。
倭国はすべての国にとって遠交近攻の遠交の対象となった。倭との交流は他国との関係でも誇示できる政治的活動だったのである。 一方的な交易が400年間も続くわけではないのである。

いま、次のツアーの準備で古市古墳群を歩いている。ついでではあるが、百済の影響があるという柏原市の高井田山古墳を見学してきた。榛原石の板石で作られた桜井の古墳にそっくり、百済の影響だったのか。

同じ場所で、100年くらい時代が下がってから、岩盤を掘った横穴式石室も見てきた。
安福寺古墳群も見学、これはこれですごいな・・・
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高井田横穴群

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安徳郡横穴群

by koza5555 | 2017-06-03 22:28 | 大阪とか京都とか | Comments(0)

修験者の道 大淀町

大淀町に用があった。相談は早めに終わったので、大淀町を探索してみた。

吉野の入り口として大淀の役割は大きくなるばかりである。それは産業であり、医療であり、文化の継承である。今日はそんな難しい話ではなく、少し楽しく大淀の街道をか考えてみた。

大淀には、吉野川に沿っての東西の道があり、飛鳥から芋峠を越えてくる南北の道が知られているが、巨勢から入る修験者の道も良く知られている。今日は、これを歩いてきた(車で)。

修験者の道、吉野口から入ると、まずは今木(いまき)である。泉徳寺に接した蔵王権現堂。レリーフの蔵王権現が祀られているが、仁王門の金剛力士像がすごい。阿形、吽形で一対をなす3mほどの木像である。山門を守る金剛力士像は吉野郡では金峯山寺蔵王堂とこちらだけとのことである。
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ちなみにこちらの泉徳寺の門前には、高野山 役行者 一の行場と石碑が建てられていた。

今木がから車坂峠を上り詰めると(今は国道から500メートル以上の厳しい坂道を登る)石塚遺跡である。修験者たちが小石を一つ一つ持ち寄ったという伝承である。
石塚もツタが絡まり、青草が生い茂って、石塚には見えないけど・・・・
石を貼り付けたのではなく、石を積み上げたものらしい。
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吉野川沿いの鈴ヶ森行者堂。元の大淀病院の南にあたる。こちらの行場は石塚遺跡から移転してきたと言われた。6月1日は下渕行者講の護摩供養。解禁となる鮎の供養もするとのことで準備中だった。
こんなポスターで、「大峯登山一之行場」とあった。
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最後の柳の渡し・・・こちらも一之行場というか、靡(なびき)の最後、75番の靡とされる。
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一之行場があちこちにあったが、大淀は吉野川を前にして、「さあ、修行だよ」の場だからこそのことで、それぞれがそれぞれのいわれで、一番の資格があるんだろうとおもえる。
天工の具合で斜視は撮れなかったが、金峯山寺はあちこちから見えるのである。

最後に世尊寺跡(比曾寺)を訪れる。みやま大山レンゲ、季節的にはギリギリだったが、素晴らしい花をみることができた。八経ヶ岳、遠くになりにけるで、ここで楽しめた。
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大淀町の発行する、「歴史;文化遺産」、これは役立ちます。

by koza5555 | 2017-06-01 22:26 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)