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奈良・桜井の歴史と社会

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ヤマトタケルの能褒野墓、琴弾原白鳥陵

ヤマトタケルのツアーが迫ってきた。
白鳥伝説を真剣に考えねばならない。能褒野墓(のぼののはか)と大和と河内の白鳥陵も重大問題で、同じヤマトタケルを祀るのになんで陵と墓?、この問いにもこたえねばならなし。

今日は、倭建命(古事記)・日本武尊(日本書紀)の墓は「墓か陵か?」を考えてみた。

ヤマトタケルの墓・陵は次の三カ所とされている。

① 伊勢の能褒野墓(のぼののはか)。古事記・日本書紀に触れられている。

ヤマトタケルが亡くなり白鳥となって飛び去ったとされる。鈴鹿市の白鳥塚などの説があったが、明治12年(1879年)に宮内省により能褒野王塚古墳に改定された。


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② 大和の白鳥陵。日本書紀だけに記されている。

明治9年(1876年)に教部省により定められた。掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳(御所市柏原)に比定する説が根強い。

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こちらは掖上鑵子塚古墳

③ 河内の白鳥陵。古事記・日本書紀に記される。明治13年(1880年)に軽里大塚古墳に決められた。峯塚古墳、津堂城山古墳を推す研究者も多い。



能褒野は墓で大和と河内は陵となっている。天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓は陵、その他の皇族は墓となるが、ヤマトタケルは天皇に準ずるとされて陵と呼ばれたようである。すると「能褒野はなんで墓なのか」、この疑問は解消できない。

いろんな方に聞いたが明快な解説がない。「宮内庁に聞いたら」との声があり、問い合わせをしたが・・・これは無回答だった。

あれこれ読んでいると・・同志社大学の北康宏助教授が25年ほど前に、愛知県春日井市の「ヤマトタケル」というシンポジウムでお話をされていた(『ヤマトタケル』森浩一 門脇禎二 大功社)。

結論を先に書くと、「能褒野墓」は延喜式で記された固有名詞かな、ということである。

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こちらを見てみると

延喜式(延長5年 927年)には、陵73、墓47が指定されている。ヤマトタケルの陵墓は「能裒野墓」で、墓の分類である。

墓は47であるが、グル-プ分けがあり、以下の四基はグループとなっている。

能褒野墓は伊勢国鈴鹿郡で、ヤマトタケル。

竈山墓(かまやまのはか)は紀伊国名草郡で、イツセノミコトで神武天皇の兄。

宇度墓(うどのはか)は和泉国日根郡で、イニシキイリビコで景行天皇の兄。

宇治墓(うじのはか)はウジノワキイラツコで仁徳天皇の兄。

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この四基には共通項があるという。

①皇族であること、②継体天皇以前の皇統であること、③即位した天皇の兄弟であること、④軍人、または天皇の特別な庇護者であることが特徴である。

大宝2年(702年)には「震 倭建命墓。遣 使祭 之」(ヤマトタケルの墓、地震(落雷?)あり、使いを送り祭る)とあり、すでにこの時点で四墓は確定されていたとみられる。

北先生はさらに四墓は大和を守る特別の配置になっていると指摘されるのである。

東、南、西、北と記載する順序は古代の四至記載の基本とされ、宮を中心に四方の守護神とを配したとみるべきである。

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能褒野墓は固有名詞というべきものであろう。

明治の治定では、日本書紀を参考にヤマトタケルの3陵を定めたが、「能褒野墓」については、「墓」と定めた延喜式の記載を尊重したと思われる。

重ねてであるが、「能褒野墓」は、都宮の四周を守る特別の墓の筆頭に挙げられていて、陵と記した古事記・日本書紀との整合性を現代的(明治の治定)に考えれば、「能褒野墓の陵」ともいえるのではなかろうか。


能褒野墓 伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)である。


by koza5555 | 2017-09-27 08:50 | 万葉の旅 | Comments(0)

神野山となべくら渓

なべくら渓という奇勝がある。奈良県の一番東、山添村の神野山(こうのやま)の東の谷である。


大小の黒々とした岩石がるいるいと重なりあい、長さ600mに渡って、「岩の川」という様相を見ることができる。


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この岩は角閃斑糲岩(かくせんせきはんれいがん)という深成岩(火成岩の一種)で、岩質が非常に堅いために侵蝕にたえてこの山をかたちづくったと考えられている。

かたい岩は角閃斑糲岩のかけらで、谷底に転げ落ち、滑り落ちて集まり、あたかも「岩の川」と見間違える・・地元の方は「天の川」と言われるような姿で堆積、今の姿となったされている。だから、水は・岩の下を流れていて、耳をすませば水流が聞こえるともいわれている。

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岩の流れ(天の川)の中流には竜王岩。しめ縄も張られていて、神体として祀られている。

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なべくら渓は「伊賀の天狗と神野山の天狗がけんかをして投げあった岩だという伝説」もあり、天狗がキーワード。


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最上流には天狗石

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神野山の裏山(南側)には神野寺(高野山真言宗一心印)には巨大な杉が残されている。神野山の天狗伝承の中心として住民に崇敬されてきた天狗杉である。これは二代目とのことだが、山添村の天然記念物だ。

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 神野山、山頂付近まで、素晴らしいお茶畑。大和かぶせ茶というらしい。初摘み一番茶のみ限定使用で「玉露の旨みと、煎茶の爽やかさ」が自慢のお茶は「千の露」。海抜600メートルの見事な環境で生育したお茶である。

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神野山、618メートル、全周が見渡される頂上はつつじの名所でもある。

山を下りたら、森林科学館には農産物の直売所のみどり屋で野菜が。そして映山紅(えいざんこう)で食事がとれる。

「茶がゆ」「茶まぶし」がおすすめらしいが、僕は、山里の食材を生かしたうどん定食。キツネうどんにおにぎり二個で860円。おいしくいただいた。

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なべくら渓、いつでも素晴らしいが、つつじのきれいな5月に、ぜひ訪れたいものである。



by koza5555 | 2017-09-22 20:23 | 奈良 | Comments(0)

丹生川上神社と神武東征

クラブツーリズム関西で、『古事記』でたどる大和の旅というシリーズツアーを奈良まほろばソムリエの会で引き受けている。

第1回(9月20日・水)は「神武東征ゆかりの地めぐり」。

第2回(10月18日・水)は「大和青垣にヤマトタケルをしのぶ」

第3回(11月15日・水)は「稗田阿礼・太安万侶ゆかりの地めぐり」

第4回(12月6日・水)は「神武天皇の即位~橿原神宮を訪ねて」

四回シリーズとなり、11月までは催行、出発が確定している。

7月から、ポツポツと準備してきたが、いよいよ明日が第一回目である。

ツアーは新大阪発、天王寺を経て丹生川上神社から始まる。

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こちらは神武天皇の誓約(うけい)がテーマ。天香具山の社の土を持て、平瓫80枚、厳瓫を作り天神地祇を祀れという夢のお告げが下され、シイネツヅコが老父(おきな)、オトウガシがおみなの服装にて宇陀を出発する。

見事はに土を手に入れ、80枚の平瓫、厳瓫を作り、丹生川の川上に上りて、天神地祇を祀った。

丹生川上(にぶのかはかみ)顕彰碑文

イツベ最中。東吉野村小川の西善

即位式に使われる万歳幡の上部にはイツベと鮎の刺繍が入っている「神武天皇戊午年(つちのえうまのとし)九月天下平定の為平瓮(ひらか)及び厳瓮(いつべ)を造り給い丹生川上に陟(のぼ)りて天神地祇を祭られ又丹生之川に厳瓮を沈めて祈り給えり聖蹟は此の地付近なり」。

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「厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが真木の葉の浮き流れるようであれば自分はきっとこの國を平定するだろう」(東吉野村掲示板)

夢淵に沈められた。日下宮司によると「これは斎淵(いめぶち)。潔斎したした場所だ。なまって夢淵といわれるようになった」とのことである。

魚はみな浮き上がって口をパクパク開くのである。

この厳瓫のかたどったお菓子(最中)が東吉野村小川の「西善」で製造・販売されている。

最中の皮はちょっと集め、粒あんがしっかり詰まった食べ応えがある最中である。

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こじつけでなく、急ごしらえでもないテーマにぴったり合うお菓子はそんなにあるわけでもない。これは喜んでもらえそうである。

相談してみると、5個入りで725円ということである。パネルも作った。しっかり紹介して販売することにした。

新年の儀式、即位の儀式に当たっては、三本足のカラスの像の烏形幢(うぎょうどう)・日月幢を飾り、その両側に朱雀・青竜・白虎・玄武の四神幡というのは知っていたが、即位の時は「万歳幡」というものがあるとのことである。この幡を近衛が振って「万歳と叫けんだ」とのことである。この旗に、厳瓫と5匹の鮎が刺しゅうされているとのことである。

ネットで探したが、見当たらない。探していると「石上神宮にある」ことが分かった、こんな旗だった。確かに厳瓫があり、5匹の鮎が記されている。

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即位の度に立てられたこの旗の厳瓫を見ると、日本書紀の古代帰属への影響力、神武天皇の丹生の川上の故事をしのぶ行為にもあらわされている。

最後である。

丹生川上神社の初めの鳥居の傍らに2つの石が建てられている。ジジババ石という。この下の河原がいかだを流すための仮堰が作られた場所でと記されている。ジジババは道中の安全を願う信仰のあらわしたものとも記されている。

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僕は、この神社に、この入り口ジジババと名付けられた石が置かれたことの意味を考えた。

天香具山にはに土を求めに行った時の姿は、シイネツヅコが老父(おきな)、オトウガシがおみなだった。はに土は、無事、丹生の川上に収められたが…そのジジババ・・この石に託されて名前が残った・・・これは僕の妄想だが、面白い話にできそうである。

明日は『古事記』をたどる大和の旅の始まり、緊張して成功させよう。

ツアー、初めの鍵は「厳瓫最中」、「万歳幡」、「シイネツヒコとオトウカシの翁と媼」である。



by koza5555 | 2017-09-19 20:06 | 万葉の旅 | Comments(0)

ヤマトタケルと白鳥

10月の「クラツウ古事記」はヤマトタケルである。

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ヤマトタケルのイメージ。天理参考館の盛装男子像と武人の埴輪。

ヤマトタケルの最後である。

伊吹山の神に内惑わされたヤマトタケルは、大和を目指す。

(古事記)能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。


倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆく。

(日本書記)白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。以上はウィキペディア


ヤマトタケルは死んだ後に、なぜ白鳥になったか。それが大問題である。
あれこれ調べてみると、

『ヤマトタケル伝説と日本古代国家』(石渡信一郎。三一書房)に書かれていた。ヤマトタケル=白鳥の謎である。(p106)

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全体の記述は同意しにくい。

箸墓古墳の作成年代は393年。

天武天皇は天智天皇の異母兄である古人大兄皇子と同一人物。

応神天皇と継体天皇は兄弟。
相当…違いますね‥


ヤマトタケルと白鳥・・これはうならされた。


①ヤマトタケルは建国神とみて、これが白鳥神とされたのでは。古代では白鳥が穀霊神・農耕神とみられた。『豊後国風土記』速見条。富裕な農夫が餅を的に射ると、餅は白鳥になって飛び去りのうちは乱れた。

『山城国風土記』逸文には、泰氏の先祖が餅を的に射ると、やはり白い鳥となって飛び去り、山の峰で稲になった。

②ホムツワケ(垂仁天皇皇子)は白いひげが生えても話せなかった。出雲まで追いかけて白鳥を捕らえて連れ戻り、ホムツワケがモノが言えるようになった。『出雲国造神賀詞』(かんのよごと)には、国造が生きた白鳥を天皇に献上するとあるのも、最も大事なものを献上して忠誠を誓うという行為である。

③古代の白鳥の位置づけは高い。古市の津堂城山古墳の周濠からは、埴輪の水鳥が3つ出土している。

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奈良県の馬見が丘古墳群の巣山古墳からも同じものが出土。

白鳥が橿原神宮の深田池に夏もいるとの情報があって、写真を撮りに・・・
サギがいた‥カワウもいる。白鳥はいない・・
今日はサギで‥すいません。

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建国の英雄、ヤマトタケルは、農耕の最高神ともいえる白鳥神として旅立つ・・古事記・日本書紀・・はすごい。
石渡信一郎さん、ありがとごうざいます。ちなみに2017年に死去されている。



by koza5555 | 2017-09-10 23:28 | 万葉の旅 | Comments(0)

松永久秀と多聞城

多聞城跡、若草中学に行ってきた。まだ夏休みの頃である。

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多聞城の棟上げは永禄5年(1562年)8125時。奈良中がこれを見物。久秀はその年の12月に大和、山城に徳政を出している。

得意の絶頂だっただろう。大仏殿が焼かれたのは1567年、その5年前である。

近世の城郭の始まりと言われる多聞城、それを築いた松永久秀を考えてみた。


信貴山城で爆死したといわれる松永久秀。将軍を殺し、主君の三好を殺し、東大寺の大仏を焼いたとされた松永久秀である。


松永久秀』、「シリーズ 実像に迫る」。著者は金松誠、戎光祥出版(えびすこうしょうしゅっぱん)である。

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松永久秀の略歴である。金松誠さんがまとめている。

永正5年(1508年)誕生

天文9年(1540年)三好長慶の家臣

天文19年(1549年)三好長慶上洛、久秀は「内者」(ないじゃ 守護の直属の家臣)として現れる。

永禄2年(1559年)久秀、超昇寺氏を案内者として大和に侵入、筒井城を攻め落とす。筒井順慶、椿尾上城に逃げる。

永禄3年(1560年)久秀、足利義輝の御供衆に召し上げられる。久秀、この年に一国を治めて、信貴山城を居城とする。

永禄4年(1561年)久秀、眉間寺を移動させて、多聞城を築く

永禄5年(1562年)8125時に多聞城を棟上げ。奈良中がこれを見物。12月に大和、山城に徳政を出す。  

永禄8年(1565年)519日 久通(久秀長男)ら、将軍御所に乱入。足利義輝は自害。              三好三人衆との軋轢強まる。

永禄9年(1566年)530日、堺で三好三人衆と戦い、敗北。逐電(堺に匿われた)する。

永禄10年(1567年)46日 堺を出て信貴山城に入る。織田信長の配下に。         1010日、東大寺に三好三人衆を攻め、大仏殿、兵火にかかる。

永禄11年(1568年)久秀、大和の支配を信長に認められる。

天正元年(1573年)久秀、2月より信長に叛旗。敗れて12月には人質を入れて屈服12月に多聞城を明け渡す。

天正4年(1576年)筒井順慶、「和州一国一円」の支配を信長から任せられる。

天正5年(1577年)閏726日、信長の命で、松永久通が奉行となり多聞城の破城を行う。817日、久秀、久通、信長に叛旗。1010日、久秀、信貴山城で自害する。

久秀、波乱多きの70歳だった。15671010日に大仏を焼き、その10年後の1010日に自害している。鎌倉時代の大仏と久秀の命日は同じである。

「将軍を殺し、主君の三好を殺し、東大寺の大仏を焼いた久秀」。金松さんは、それを否定して「久秀は手を下したわけではない」と力説されるが、「久秀の意思なしではどの事件も起きなかった」というのが僕の感想である。

年表を整理しただけのblogとなった。

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織豊時代の奈良の町の姿だそうだ。


by koza5555 | 2017-09-07 22:04 | 奈良 | Comments(0)

古事記と小泉八雲

『古事記と小泉八雲』(かまくら春秋社)。『神話と美術』(真住貴子著)が面白い。

神話の世界が絵画などに表現されるには、文字で記録した媒体が必要で、かつその内容が多くの人々に周知されていないと、作品として制作されません。

『古事記』『日本書紀』といった記紀神話は、歴史上、明治期に集中して描かれた。明治期から戦中にかけて、記紀が人々に広く知られたことを反映しています。

例えば、オロチ退治を、絵本の挿絵のように図示する作品が登場するのは明治期になってからです。それまでは神「話」ではなく、信仰の対象として「神」を表すた作品が存在します。

真住さんはその例として、松江の八重垣神社に伝わる重要文化財 <板絵著色神像  >を紹介している。スサノヲを描いた絵画の中では古い作例とのことである。

それは
平安時代の絵とのことで、服装が女性は十二単、男性は衣冠束帯姿、これは平安朝の風俗で描かれているのである。説明がなければ、スサノヲとクシナダヒメということがわからない。

20日に丹生川上神社にツアーで訪れるが、こちらに残されたイザナギ・イザナミのご神像(平安時代)も説明がなければ、イザナギ、どこさしてというしかないのである。

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丹生川上神社中社所蔵のご神像。大古事記展(2016年奈良県立博物館)の図録から拝借した。


明治になって、神像から神話をモチーフに描かられるようになり、イメージが変わる、表現方法が激変するのである。

明治政府は、天皇中心の国、天皇が国を統治する正当性を国民に教育するために力を入れた。そこで、活躍するのは記紀だった。公教育の中に持ち込まれ、記紀神話が図入りで教育された。

明治元年の神武天皇は、皮のマントを羽織、髪はザンバラ、装飾具を持たない。

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明治23年の神武天皇は、髪はミズラ、ネックレスといくつかのペンダント、直刀を持つ姿に変わっている。

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明治の初期に『前賢故実』(菊池容さい)で、神武天皇から後亀山天皇までの500人くらい忠臣を肖像画と略伝で紹介している。

その後に、東京博物館の学芸部長だった(のような役職)黒川真頼が、古墳などから発掘された装飾具などを紹介した。これにより、古墳時代の服装が明らかになっていくのである。それが早速絵に絵に取り入れられ、肖像画の姿も変えていった。



描かれた神話・描かれなかった神話という問題もある。
神武天皇、天の岩戸、ヤマトタケル、イザナギ・イザナミの国生み神話は書かれたが、大国主命など、出雲系の神話があまり書かれなかった。「この時代は、解説、神話は日本書記に基づいて書かれていた」。

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もちろん異端児もいる。異端児の青木繁の業績は光る。海の幸の青木繁である。青木は古事記に基づいて絵を描いた。オオナムチとかヨモツヒラサカである。勝手の奈良の大古事記展には、『ヨモツヒラサカ』が出陳されていた。

神話は見る者のイメージが共通になっていないと、絵にも描かれないということで芸術性よりも啓もう的な絵がはびこる。そんな中だからこそ、青木繁の絵は際立ったのである。

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by koza5555 | 2017-09-06 17:30 | 読書 | Comments(0)