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奈良・桜井の歴史と社会

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鎮魂祭(みたまふりのみまつり)石上神宮

1122日、新嘗祭の前夜に天理市の石上(いそのかみ)神宮で鎮魂祭(みたまふりのみまつり)が斎行された。

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鎮魂祭は午後5時から。修祓があり、初めに天神社の祭祀がおこなわれる(天神社は本殿・拝殿の向い側・出雲建雄神社の左手奥である)。祝詞では「みたまふりのみまつりを斎行する」ことの報告がされるところから見ると、この神を地主(産土 うぶすな)とされているのだろうか。

午後530分から御魂祭が斎行される。

「やない箱が神前」に出される・・・この箱が神事の中心で・・祭祀の後にはご本殿に収められる。饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天神から授かった天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)が収められているのだろう。

神事は浄暗の儀式である。事前に「スマホは厳禁。撮影だけでなく電源を切れ」と繰り返し放送される。

宮司、禰宜がやない箱の前で、「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり」と十種の宝を読み上げる声、その合間にサラサラと鈴の音が鳴ることから、真榊が振られていると思われる。なにしろ・・闇の中である。

「もしいたむ(痛む)ところあらば、このとうのたから(十宝)をして、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たりと言うて、ふるべ(布留部) ゆらゆらと ふるべ。かくなさば まかるひと(死人)も生き返らん」

こんな呪文である。天神から授かった十種の宝を、順々に数えての「みたまふり」である。

式典後の宮司のあいさつでは、「鎮魂祭は魂を若返らせるお祭り、元気を取り戻すお祭りです。魂を鎮めるお祭りというのは誤解です。今日、力を取りもどした真榊により、皆様は一年、若返りました」と解説されました。

若い方の参加が目立ちました。さまざまな神社、さまざまな神事を拝見しましたが、石上神宮の御魂祭は若さで一番でした。

寒い・・防寒対策は万全に。お昼間に2万歩のウォーキングをしましたので、座るのが堪えました。

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拝殿は宮中の神嘉殿(新嘗祭を行う)が移されたもので、国宝である





by koza5555 | 2017-11-23 07:32 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

神武天皇に関わる陵、丸山にこだわって

「神武天皇の即位」をテーマのツアーを案内する。

橿原神宮、神武天皇陵、綏靖天皇陵、等彌神社などを訪ねる。

そこで、神武天皇陵のことである。

幕末期には三か所が神武陵の候補に上がる。

それは

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」の四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。古事記にある神武天皇陵についての記述、そのままの文言である。

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その後の経過はどうなったか。

①の「今日神武陵」は、幕府の公認陵ということもあって推すものがなかった。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家として文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

もともと、本居宣長はこちらの丸山を推していた。

「四条村といふあり。この四条村の一町ばかり東。うねび山よりは五六町もはなれて。丑寅のかたにあたれる田の中に。松一もと桜ひと本おひて。わづかに三四尺ばかりの高さなる。ちひさき塚のあるを。神武天皇の御陵と申つたへたり。さへどこれは。さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は。かしの尾上と古事記にあるを。こゝははるかに山をばはなれて。さいふべき所にもあらぬうへに」(菅笠日記)

結論はつけるのは孝明天皇。天皇の名で「御沙汰書」が出される。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。

その後、明治11年に、①の「今日神武陵」の四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定される。

問題は、「丸山も粗末にするな」の③である。

こちらを、奈良まほろばソムリエの会の木村三彦顧問の案内で見学してきた。神武天皇陵の一角にあるが、許可を求めることなく、立ち入ることはできるようである。

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参道というか‥、拝所目前の左への分かれ道・・石段がある。里道という感じである。

あとは道なりである。200メートルくらい。上り詰めていくと井戸がある。昔の洞村の共同井戸らしい。今も水は貯められている。

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丸山はその上である。

宮と刻まれた5本の石柱が置かれている。古墳のような様子は感じられない。

5本、踏み分け道はしっかりの残っていて・・人の出入りは多い様子である。

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神武天皇陵を正面に記念撮影。後列、真ん中が案内してくれた会の顧問の木村三彦さんである。

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御陵印ももらってきた。「神武天皇畝傍山東北陵」印

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畝傍陵墓監区事務所

御陵印というものがある。神武天皇陵の敷地に置かれている「畝傍陵墓監区事務所」で、推すことができる。神武天皇陵印だけではなく、奈良県の歴代天皇陵の30陵の御陵印が置かれている。

「丸山、粗末にできんなあ」である。


by koza5555 | 2017-11-11 10:28 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

醸造安全祈願の酒まつり  毎日新聞奈良版

毎日新聞の奈良版(119日付け)、「ディスカバー奈良」大神神社の「醸造安全祈願の酒まつり」を紹介させていただいた。祭りは1114日である。

醸造祈願祭の前日、13日には「志るしの杉玉」の吊るし替え(大杉玉掛け替え)、祭礼当日には全国の銘酒が振舞われるという、とても楽しいお祭りである。

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奈良盆地のどこからでも仰ぎ見ることができる三輪山、このお山をご神体山とするのは大神神社です。数々のお祭りの中でも、参拝者の人気をとくに集めるのは、1114日の醸造安全祈願祭「酒まつり」です。

御ご祭神である大物主命の手助けにより美酒が醸造できたと古代から伝えられており、大神神社は酒造りの神として敬われるようになりました。神社は新酒が作り始められるこの時期に、酒まつりを行います。醸造の安全を祈り、参拝者には樽酒が振る舞われます。

 酒まつりに先立って、13日には拝殿・祈祷殿に吊るされた大杉玉の掛け替えがおこなわれます。重さは200㌕以上もあり、6人掛かりで運ばれます。大杉玉が掛け替えられ、酒まつりが終わると、新酒の印である「しるしの杉玉」は、全国の酒造会社と酒店の店先に吊るされます。

 さあ、いよいよおいしい新酒の季節が到来です。

(奈良まほろばソムリエの会理事 雑賀耕三郎)

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崇神天皇8年冬12月、今頃でしょうか。

崇神天皇が三輪の大神を太田田根子に祭らしめた日に、高橋活日が神酒を捧げて詠んだといいます。

この神酒は わが神酒ならず  倭なす 大物主の 醸みし神酒  幾久  幾久

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全国の醸造元から届けられた数々の酒は壮観です。

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大和の一之宮は桜井市の大神神社。奈良盆地のどこからでも仰ぎ見られる三輪山、このお山をご神体山とするのが大神神社である。

大神神社はあれこれすごい。

一つは、神社の創始、神社の始めが、『古事記』・『日本書紀』に記されているということだろう。大神神社が祭る大物主命の由緒やお姿が、日本の歴史書にきちんと記されていて、少なくとも1400年前から確実に信仰されてきたということがわかる。

二つめは神の依り代としてお山を仰ぎ見る信仰が特徴的である。神社に通常みられるご神体は大神神社には置かれていない。それを安置するご本殿、これが大神神社にはないのである。

この大神神社の在り方は、「神様をあがめる元々の姿」ともいわれる。日本の神さまは、八百万(やおろず)の神々といい、山の神、海の神、衣食住の神々などの幾多の神々が敬まわれている。山にも海にも様々な物々が生命体となり、霊魂を持つという考えかたである。江戸時代に、本居宣長がこんなことを解明している。

お山をご神体として祀り、ご本殿を持たない大神神社は「古来の神の祀り方」をしているとみられる。日本の最古の神社としての歴史、神社の形が大神神社には残っている。

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by koza5555 | 2017-11-09 05:08 | 桜井・山の辺 | Comments(0)