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奈良・桜井の歴史と社会

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50cm下の桜井  桜井市埋蔵文化財センター

桜井市埋蔵文化財センターの「50センチ下の桜井」は23回目。4月19日から10月1日(日)までの予定である。

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桜井市埋蔵文化財センター

さっそく拝見してきた。
「今回の速報展では、平成28年度におこなわれた発掘調査の成果を紹介します。昨年度は12件の調査を行い、大藤原京関連遺跡では弥生時代前期の土坑よりほぼ完形の土器が、三輪遺跡では中世の池状の遺構が確認されるなど、桜井市の歴史を読み解く上で重要な発見がありました。このように50cm下に広がる桜井市の新たな発見を速報として皆さんにお届けします。」(埋蔵文化財センター展示解説書より)

「大藤原京関連遺跡」が僕には興味深かった。場所は桜井ジャスコのすぐ西、上之庄である。この発掘の現場は、僕が夜のウォーキングでいつも通っているあぜ道沿いだったことから、「何が出たのか」と関心があった。
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こんな場所である

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発掘されたのは、弥生時代中期のほぼ完形の土器(土坑から)とか、弥生時代前期の多数の土器が発見されたのである。

弥生時代の上之庄の集落はすごかった。こんな時期、形の上之庄の集落は、西方の坪井・大福遺跡に連なる遺跡だろうか。
良く考えると、坪井・大福遺跡に先行する遺跡にも思えて、興味深いところである。

桜井市は大藤原京の東五条条間路推定値として、道路を見つけかったのだが・・・それはそれで、この土器も弥生時代後期の素晴らしい発見だぅった。


大福遺跡から発掘された銅鐸、纒向遺跡から出た大型建物、茅原大墓古墳から出た盾持埴輪に象徴される貴重な発見、発掘物も健在、展示されている。
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# by koza5555 | 2017-05-03 23:29 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

中ツ道と橘街道・・ほうりうじみちとか小中ツ道

5月5日(金)午後7時から、桜井駅前のエルトの二階で「おもしろ歴史講座」でお話しする。
「中ツ道と橘街道」と題して、大福や東新堂などを集中的に考えてみた。この講座では、纒向、三輪、初瀬、多武峰などを繰り返して語ってきたが、桜井の西部の田園地帯を語っていないのである。

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中ツ道と橘街道

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今日は「小中ツ道」と「法隆寺みち」を紹介したい。

法隆寺道、法隆寺から三輪に行くのか・・・法隆寺・王寺・田原本、守屋、大西を経る道である。

こんなふうに「法りう寺みち」という石碑も残されている。

さらに三輪に向かわずまっすぐ南下、大福に至りそのまま、生田(おいだ)、上之宮を経る道は「小中ツ道」というらしい。
「大和国高瀬道常年代記」という日記を生田の高瀬さんが書いている。江戸時代のことだが、この中では、「ええじゃないか」とか「おかげまいり」が触れられており、生田がメーンストリートという感じで、どこからどこの道かなと考えていたら、法隆寺からやってくるこの「小中ツ道」が生田をぴったり通る。

こんな話をしようと思う。
地図もいっぱい作って・・・
ゴトゴトした話のようだが、これがとてもおもしろい話に出来上がった。

蔵堂の道標。村屋弥富都比売神社の南口に
西面  右 こうや道
西面  左 みわはせ道
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大西の中央、火の見やぐらにある。「中央の曲り角東側のもの」。現在地の道路を挟んだ南にあった。
西面 右 たった 法りう寺
南面 左 みわ はせ
北面 弘化三年午歳 五月吉(1846年)
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こんな小中ツ道(橘街道)はなぜできたか。それも興味深い。
「大福付近の古老も明治時代においても大福より下流地域の水漬きの状況・・。したがって村屋から比較的水害の少ない東の大泉・大福経由の道も多く利用された」(桜井市史下p475)
 米川や寺川の氾濫地域。最短の道ではないが、東側の高地(環濠集落が点在した大西、大泉、新屋敷、東新堂、大福)を通る道に変わっていったとみるのが自然である。

大福や東新堂のこと。弥生時代の坪井・大福遺跡。古代の壬申の乱。中世では南北朝のたたかいで、近世は芝村騒動と切り口が多い。話す僕もたのしみの講演が出来上がった。
 
5月5日(金)、出にくいこどもの日だが、午後夜7時、お待ちしています。
# by koza5555 | 2017-05-01 23:04 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

弥生絵画 -人・動物・風景 橿原考古学研究所博物館

橿原考古学研究所の博物館は4月22日から6月18日の会期で「弥生絵画 -人・動物・風景」展を開催している。早速、拝見してきた。

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橿原考古学研究所付属博物館


はじめの展示は「弥生土器は梅原末治と森本六爾によって幕開け」がなされたとある。

森本六爾は大正13年(1924)に「原始的絵畫(かいが)を有する弥生式土器について」のなかで、…この土器を「日本で最古の自由絵畫、若しくは其の一つとして明らかな価値を有している」とし、描かれた鹿に対して「明確に且つ正確に特徴をあらわしていることに於いて一段と興味が深い」と評価しています。・・・・鹿が左向きに描かれていることから作者を「右利き」と想定したことや「日本芸術史上の最も興味ある序曲を形造るもの」と捉えたことは、弥生絵画研究の基礎となりました。
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左向きの鹿の写真。これは森本六爾が撮影したもの。あれこれの書き込みは僕がしました(笑)


森本六爾の野帳もすごい。これは、見入ってしまった。1927年頃の野帳とのことである。
絵画土器をスケッチして、そのイメージを絵にしている。左下の絵が土器のスケッチ。それを船の舳先とみて、船頭を描き、左右の団扇をオールとみて漕ぎ手も描くという洞察力を発揮している。
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森本六爾…すごすぎ

清水風遺跡(天理市・鍵唐古遺跡の北方)から、出た絵画土器に圧倒される。僕は全く分かっていないんだが、「鍵唐古からでました」と普通考えている絵画が、けっこう清水風からも出ているのである。
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坪井・大福からも鳥装の巫女の展示が出ている。鳥の羽を身につけ、両手を挙げる巫女の姿である。「坪井・大福遺跡は、桜井市側にすごいのがまだまだ埋まっているのでは」である。

展示品は270点、あれこれ関心のもちようで、それに合わせたあれこれのお宝がいっぱいだ。
弥生時代を絵画で見ることが出来る、「新作発見!弥生絵画」、ぜひご覧してください。図録も垂涎写真が満載である。

注意は二点。
展示品はほとんどが撮影できる。
いつもは65才以上は無料だが、この展示は800円の有料である。
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# by koza5555 | 2017-04-26 21:36 | 奈良 | Comments(0)

桜井市の環濠集落

桜井市の環濠集落を考えた。
桜井市の西部、北部には環濠集落が点在する。初瀬川、粟殿川、寺川に沿ってである。海抜でいえば80mくらいまでである。

奈良盆地の土地利用と河川の歴史を見てみると。
●奈良盆地は古代から肥沃な水田地帯と思われているが実態は違っていた。水田は3割、残りは荒れ地であり、畑として、あるいは沼地であった。川が管理できない、水が確保できないということだろうか。
●伏流水化を防ぐ河川の付け替え、水漬の農村の排水をすすめ(池の掘削、環濠の建築)、集村化(村への移住)がすすんだ。この営みにより、奈良盆地の水田の利用率は3割から9割まで上昇することとなった。

「壬申の乱」(672年)では、近江方の廬井鯨(いおい の くじら)が中ツ道を攻め下るという戦いが日本書記に記されている。大友皇子(弘文天皇)側の別将であるが、中ツ道で戦って 敗れた。
このクジラが敗走するとき、馬が深田に落ち進退が窮まったとあり、中ツ道周辺は低湿地状態であることもわかる。


ここで環濠集落である。作られた時代の背景や、土地制度の変遷と農耕の発達、集落の発生と発達、集落を取り巻く自然環境と深い関係を持っている。
始めに紹介したように、奈良盆地の集落は河川の流域に沿って作られた低湿地の集落が多く、環濠集落の起源の一つして、排水や導水など水利の面にその起源があるという論がある。
環濠は何となく、戦に向いていそうだが、まずは低湿地状態への対応が一番との見方である。

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桜井市東新堂の環濠集落の名残が鮮明である

その上に、それぞれの時代によって境界や水の争いがあったり、士豪の抗争などで、集落を自衛するために、村を掘りや竹藪、・堤防で囲むようになった。このような防御的な環濠集落は戦国の動乱の時期に発達した。
南北朝の戒重西阿の戦い、依拠した戒重や川井は環濠集落ではなく、とりでという見方である。

こんなことだから、桜井の環濠集落を無理無理分ければ、
防御的なもの  戒重、河合

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これが戒重陣屋(江戸時代だよ)と現在の戒重

防御と自然環境の両面  大福、上之庄、東新堂、大西、江包、太田、大豆越などがあげられる。

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東新堂

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上之庄

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大西

桜井の環濠集落の形態をまとめてみると
 東西南北の方向を示している(条里制に規制されている)
 道路割は袋小路とかT字形の交差点、
 東西南北の出入り口は一カ所、木戸口という。
 藪や樹木で覆われて見通しが効かない。
 周囲は堀、濠で取り囲み、内側は土塁、竹やぶなどで囲われていた。
 氏神は村の要の場所にある(砦的な役割を果たす場合も多い)


『桜井の古文化財 その3環濠集落』(桜井市教育委員会)から環濠の地図を借用した



# by koza5555 | 2017-04-22 10:24 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

吉備と大福の芝村騒動

桜井の西部、大仏供庄(現在の大福、東新堂、上ノ庄)とか吉備、戒重を考えている。5月のカルチャーのテーマである。
ここらあたりは古墳もないし、有名寺院もないけど、古代から横大路、中ツ道という超一級の幹線道路が抜けていて、ざわめく史実がある。

今日は近代である。吉備の芝村騒動をもう一度、考えた。近隣の大福とか東新堂、阿部、谷とも合わせてである。

宝暦3年(1753)、十市郡の十市郡の九ケ村で、京都町奉行所に箱訴した。
箱訴は合法手段だったが、訴えが認められるまでは刈り入れをしないという戦術で、そこが幕府の逆鱗に触れた。
十市郡、式下郡、葛下郡の村役人にも取調べが広がり、江戸に呼び出されたもの221名、厳しい取り調べの中で獄死したもの40人以上という惨状を示した。

この地域の吉備村からは8名が呼び出され、
平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死
長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還している。
吉備の森本家、吉崎家、吉本家は帰村したご子孫である。

幕府の天領となっていた十市郡、こちらを芝村藩が年貢を代収していたが、この取り立てが苛烈を極めたこと、それを訴えたことに芝村騒動は始まった。
江戸時代の年貢の取り立ては一般的にも厳しいものではあったが、十市郡はと複雑な事情をはらんでおり、特別に厳しい取り立てが行われていた。

検地のさいに実際の面積以上の年貢がかかっていたのが十市郡の村々である。実際の農地の広さ以上の年貢がかけられたという。いわゆる「畝詰り」といい、見地台帳が課題なのである。

これには経過があった。
郡山藩が柳沢忠明の時代(1619年~1639年)に、藩の格をあげるためだけで12万石を15万石に変えた(15万石以上が大藩とされた)という歴史があった。農地は増えていないのに、郡山藩のすべての農地は台帳では2割5分増しの面積に変えられた。郡山藩の時代はその事情が判っていて、割り増し分には無税だったが、郡山藩が8万石に減らされ(1679年)盆地南部の領地が天領に変わってから、これが問題を引き起こした。旗本はこの2割5分増しの年貢を要求したし、代収の芝村藩はこの2割5分からも徴収したのである。

この表を見ていただきたい。
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1620年ころ。吉備は2割5分は課税されていない。ところが天領となり、芝村藩預かりになった時に、これが頭を持ち上げた。
吉備村は651石770だったが、突然、814石713に変わった。土地が広くなったわけではなく、収穫が増えたわけではない。
大福村・新堂村と比べれば、よく分かる。江戸時代の石高、年貢というのは耕地の変化、作の変化には関係なく、村にかかる税金である。

吉備村は、五公五民なら325石の年貢。ところが2割5分増しだと407石の年貢で、村の取り分が244石。62%の年貢である。それ以外にも二毛作の麦や菜種にも税はかかるのである。村は行き詰まり、自立の農民の没落が始まるのである。

これは、大福や東新堂には見られない状態だった。この表には欠落しているが、東新堂の多賀領は140石が途中から3石に減ってしまうということさえあるのである。天領、芝村藩預かりの吉備村の苦しさに思いを寄せたい。

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吉備村(吉備区)は今でも、毎年、供養祭を行っているのである


『芝村騒動と龍門騒動』(上島秀友著)と『郷土』(広吉寿彦著)を参考にしました。
# by koza5555 | 2017-04-20 22:00 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

倭文、加守神社のオンダ

二上山の登山には、近鉄の南大阪線の二上山口駅が一番の近道。駅から二上山の雄岳に一気に登る道がある。
その登山口に、倭文(しとり)神社が鎮座する。相殿には加守(かもり)神社と二上神社がおかれる。

加守地区の氏神さんである(氏子地域は広くて加守、畑、狐井など9ヶ村の郷社ではあるが)。

こちらのオンダ祭が珍しい所作、行事で有名である。内容はおいおい紹介するが、祭は4月15日の直前の土曜日に行われる。今年はそれが15日(土)ということになった。

オンダ祭とは農耕作業の所作を行い、天地に今年の豊作を祈る行事である。
畔をつくり、田をおこして、田んぼに水を入れて、籾をまき、田植えをするという所作が順々に行われる。オンダには稲刈りはなく、所作は田植までである。
牛が元気に働きますように、水がありますようにという行事である。

所作にはそれぞれの特徴があり、広瀬神社は「よく雨が降るようにと、雨に見立てて砂をまく」ことで有名。その直近の川西町の六県神社のオンダは「よく雨が降るように」と雨に見立てて、こちらは子供がまかれる。正確には、所作のたびごとに子供が大人にのしかかる(雨と風)という行事だ。
オンダの行事は、真剣さ、おかしさで、どちらの社も工夫は切実だ。稲作のために一番大事な播種と田植えの無事を祈る行事だからだろう。

午後一時から祭典。こちらのオンダの珍しいことは、小学生が行事の主役で参加すること。加守の6年生から選ばれるということで、今年はA君とY君がその役割を担った。

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玉串奉奠を行う小学生

2時ころからオンダ行事が始まる。

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境内に竹を立てて仕切ったオンダの場に牛、農器具を降ろす

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畔造り

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牛が鋤を引く

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田植だ

このあとに牛が出産するという所作がある。これが独特である
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産まれた子牛はすぐに飛び回る

オンダ祭りの子牛役を地元の小学生(宮本の加守の男の子)が演ずる。生涯に一度の子牛役だが、練習は一回だけである。

オンダに牛はつきものだが、その牛が子供を産むというのは、全国的に珍しいとのことである。産婆の助けもいる。獣医です。これも、実はこちらの神社の祭神に関わる祭らしい。

こちらの祭神は「葛木倭文座天羽雷命(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみこと)」である。加守神社が相殿で、こちらの名前は地名になっているので、加守神社の方が名は通っている。
倭文神社は、天照大神の御衣を織った天羽雷(あめのはいかづち)命を祀っている。織物の神で、斎部広成(ひろなり)が書いた『古語拾遺』にきちんと紹介されている。

相殿の加守神社は、神武天皇の父の生誕時に産室を掃き清めたという天忍人命(あめのおしひとのみこと)を祀っている。掃除というより産婆の役割を果たしたともいわれる。

こんな風に産婆の神としての石碑も立てられていた。牛が生まれる、産婆がいる・・オンダにその姿をあらわしている。
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産婆石塚氏の碑と記されている。神社の門前に立てられている

# by koza5555 | 2017-04-19 20:19 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

大伴一族(とくに吹負)と中ツ道

5月5日(金)の午後7時から、桜井駅前エルトで、「中ツ道」をお話しする。
壬申の乱の頃の中ツ道。
南北朝のころ、戒重西阿の中ツ道。
近代、近世の中ツ道をお話ししたい。

始めに道の起源、そして壬申の乱の頃の中ツ道である。
『道が語る日本の古代史』。近江俊英さん。これがむちゃくちゃに面白い。
まずは大伴氏族を考えねばならない。中ツ道はそうなのである。

大伴氏というと、大伴旅人や家持といった歌人が著名である。しかし、本来、大伴一族は軍事を司り、武烈天皇の時代には、大伴金村といった著名な将軍も輩出している。
それにしても大伴氏ほど、浮き沈みの激しい一族も珍しい。
欽明天皇の時代、大伴氏は天皇家の家臣の中では筆頭の位である大連を出す家柄であったのに、大伴金村が朝鮮半島政策で失敗したことにより失脚。蘇我、物部の争乱のさいには、蘇我方につき再び力を得るが、天智天皇の時代にはさほど用いられた形跡はない。天智天皇の近江遷都にも、大伴一族の代表者であった大伴馬来田、吹負兄弟は、大和に残留したいたようである。
そこで乱が勃発した。兄弟は一族の浮沈を賭けて、大海人皇子側に味方する。
『道が語る日本古代史』(近江俊英)

「神武東征」での大伴の活躍を引くまでもなく、近江さんは有史の範囲で、とても上手くまとめられている。
かくして壬申の乱、大和での戦いは幕を切って落とされたが・・・・大伴吹負は負ける。

戦った道は、稗田 →乃楽山 →墨坂 →金綱井 →当麻衢(ちまた)
金綱井で神託が届けられるのが契機となる。
実質は大和から宇陀の墨坂まで逃げ出すが、そこで東国からの援軍、兎(おきそみめのむらじ うさぎ)軍と出会うことが勝利の土台、勝利の出発ではあるが。

大伴吹負は3人の神の予言を受ける。
神は許梅(しこめ)に憑依する。
高市社(橿原市雲梯 うなて の河俣神社)と
牟佐坐神社(橿原市見瀬)の神からの神託である。 
許梅には、神武天皇陵に馬と兵器を奉納するように命じた。

もう一人の神は村屋神(田原本町蔵堂)に、こちらは神官に憑依した。

それぞれ西から来襲する、あるいは中ツ道を攻めてくるという託宣である。


こんな図である。すべてが一目瞭然である(『道が語る日本古代史』p80)。
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すごい地図である。全部入っている。赤丸と赤字は僕が記入した


神社とか、碑を見てきた。

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金綱井は横大路沿いと考えて、小網町の入鹿神社付近と考えた。こちらは境内の大日堂だ


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高市神社は雲梯の川俣神社


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牟佐坐神社

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牟佐坐神社境内は孝元天皇の軽境原宮址とされ、碑が建てられていた

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神武天皇陵・・天武天皇の時代は、「神武天皇陵はここ」と決まっていたんだな。託宣があれば、大伴吹負はすぐ祀に出かけられたのだ。その場所はこちらだったんだろうか・・・

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大伴の竹田庄は、中ツ道沿い。これなら、大伴の村屋のたたかいはホントの地元の戦いだったんだ・・・こちらは村屋坐弥富都比売神社

中ツ道、これは大伴の決断を考え、大伴の飛躍を考える道なんだな…面白そうである。
中ツ道、こんなテーマでも面白くなりそうである。
5月5日、桜井駅前、エルト・・第4研修室、期待してください。
# by koza5555 | 2017-04-14 23:01 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

「桜井の古墳」桜井東ふれあいセンター  

「桜井東ふれあいセンター」(初瀬寺駅の付近)で、4月18日(火)午後7時から、「桜井の古墳」をお話しいたします。


こちらのセンターは毎月、「地域ふれあいセミナー」を開催していますが、2017年度の第一回目に僕を選んでいただいた。「わかりやすい解説で楽しいお話し」だからと、毎年、呼んでいただいている。

今回は、桜井の古墳を丹念にたどりながら、「古墳を作った人」、「作らせた人」、「その時代に思いを寄せる」、こんなお話をしようと考えた。

これは桜井じゃないけど…奈良の野神古墳。今度のテーマで「阿蘇ピンク石」を取り上げるが、そのうちの一つである。大安寺の近くで・・・京終とか、大安寺に行かれたら、ぜひ、どうぞとおすすめしたい。
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奈良市京終の野神古墳、石棺

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掲示もじっくりみてほしい
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いまは、こんな街中だ。先は高円山


今回は、僕が見学してきた桜井を中心にした(天理や奈良もすこし)古墳を、丹念に紹介する。
ポイントは立地とか、形とか、横穴石室であれば作り方とか、そして、今回は石にもこだわった。
たとえば阿蘇ピンク石である。浅古の兜冢古墳は有名だが・・・・
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阿蘇ピンク石。桜井と天理には特殊に多い。この石の産地は始めは二上山とみられ多らしい。「二上山ピンク石」と言われたりした時期もあると知った。1991年、九州の宇土半島の石がピンク石と分り、阿蘇ピンク石と言われるようになったとのことである。
僕などは、深く考えることもなく、赤っぽい石棺を見ても、「水銀朱を塗ってあるんだろうか」・・くらいだったが(笑)。

こんなことを究明したのは倉敷の真壁忠彦さん。『石棺から古墳時代を考える―型と材質が表す勢力分布―』という本がある。あちこちの古墳で使われたピンク石の産地は熊本県の宇土半島だと証明された。


三輪にもピンク石の石棺石が残されている。
有名なのは箸中の慶運寺の石棺仏。金屋の石仏堂の床下のピンク石もおもしおろい。山の辺の道の金屋の石仏は石棺の蓋(泥岩)に釈迦如来と阿弥陀如来が彫られていて有名である。重文指定で評価も高いが、そのお堂の床下にも、石棺の残されていて…それが阿蘇ピンク石。
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床下もみて

そのまま、石室の中に残されているのは、東乗鞍古墳 (天理市杣之内町)で、くり抜式家形の石棺が残されている。

奈良にもある。野神古墳というが、これは佐紀盾列古墳群じゃなく、大安寺の近くの南京終である。
高槻の今城塚古墳歴史館に展示されている、見つけてきたばかりの石棺の残石・・・・も昨年、報道されたばかりである。
阿蘇ピンク石ばかり、辿ってもなかなかjのものである。

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看板通り、わかりやすく、楽しくおもしろい、こんなお話である。
入場は無料で、30名ほどの会場。残席はわずかだが、おいでになりませんか。
突然でも対応できますが、資料の印刷もありますので、お電話をいただけると助かります。
連絡先は0744-47-7026(東ふれあいセンター)まで
# by koza5555 | 2017-04-13 09:17 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

大福の泡子地蔵尊と東新堂の辻堂 六地蔵

大福と東新堂で六地蔵を探して回った。

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東新堂の村はずれで、こんな六地蔵を見た・・・だけど、これはさがしていたものではない


「中ツ道は橘街道」と書いたばかりだが、桜井あたりでは違うと言われている。
中ツ道が中世に消滅した後は、盆地中央部の道は、村々を繋ぐ形で再生されたとみることが出来る。それが「橘街道」と言われたのである。

コースとして考えられるのは、横大路の大福村付近の地蔵堂に始まり、真北に向かい、大福村を経て東新堂、新屋敷、大泉、大西で田原本街道に合流、村屋坐弥富都比売神社からは田原本街道を外れて真北に進む(現在の県道51号、ここからは中ツ道になぞる)道である。

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菅笠日記によってもこの道の存在は明白である。明和九年(1773年)のことである。
11日目。
戒重といふ所にいづ。こゝは。八木といふ所より。桜井へかよふ大道なり。横内などいふ里を過て。大福村などいふも。右の方にみゆ。すこしゆきて。ちまたなる所に。地蔵の堂あり。たゞさまにゆけば八木。北へわかるれば。三輪へゆく道。南は吉備村にて。香山のかたへゆく道也けり。今はその道につきて。吉備村にいる。

12日目。
さて三輪の社にまうでんとすれば。やゝ行て。きのふ別れし地蔵の堂あるちまたより。北の道にをれゆくほど。奈良のかたを思ひて。ながめやりたるそなたの里の梢に。桜の一木まじりてさけりけるを見て。


本居宣長が記した「地蔵の堂」は、その後、大福の大念寺(融通念仏宗)に移されていて、お地蔵様も公開されている。
大きく補修されているが、元弘3年(1333年)の銘が残されている。向背の頂上に阿弥陀如来、左右に3体づつ、6体のお地蔵様が浮き彫りにされているのが特徴である。俗に泡子(あわこ)地蔵と呼ばれる。ひだがアワだつように彫られているからとか、光背仏がアワのように見えるとかの論がある。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六界・六道を光背に配置する単独六体地蔵の先駆けだろうか。

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大福の泡子地蔵

さらに橘街道を一キロほど北上する。東新堂の辻堂が右手に建てられている。本村からは500mも離れた田んぼの中だが、隣村の新屋敷との境目に置かれる。自動車工場やビニールハウスの中に現在は立っていた。これをさがしていた。
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地蔵菩薩(六地蔵光背) 東新堂辻堂
田のあぜ道の三叉路の角に辻堂があり、セメントにかたく蓮台を埋めている仏身3尺3寸の地蔵をまつる。地蔵は行恒様式の丸い顔、衣文の調子もふくらみのある褶(しゅう)をよせ、背は高からず、ひくからず、花崗岩をきれいにこなした作で、7体仏や五輪塔のある錫杖の作りから、泡子地蔵と同じ頃同じ作者による作彫と思われる。
『桜井市石造美術』太田古朴 著

これもまた、単独六体地蔵、六地蔵の姿と言えるのではなかろうか。

さて、東新堂にはさらに多くのお地蔵様がおられた。はじめに六地蔵は紹介した。

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これは、会所の子供地蔵(区長さんのことば)


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こちらは、村中の地蔵堂


お地蔵様を探すときに行き詰った時、東新堂の山口源博区長に教えを乞うた。「地蔵盆のお地蔵様は橘街道沿いのお地蔵様」と、こちらで端的に教えていただいた。山口区長さま、ありがとうございました。
鎌倉時代に遡る、これらの石仏を見るとき、大福、東新堂を抜けるこの街道こそ、中世、近世で呼称された橘街道であることは間違いない。と確信できる。
# by koza5555 | 2017-03-31 21:52 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

橘街道は中ツ道

桜井市の駅前エルトで2年間、「おもしろ歴史講座」というカルチャーをやらせていただいた。
ところが、この秋からこのエルトが改装するとのことで、カルチャーはいったん中止することになった。
あと、何回かはやろうということになり、連休明けの5月5日(金・祭日)は、「中ツ道と今の道。条理と環濠集落」というテーマで、桜井市の西部を取り上げることにした。
古代の街道をやりたいのだが、今回は中ツ道に絞って考える。

この中ツ道は橘街道と言われた時代がある。

古代(7世紀)、奈良盆地を南北に結ぶ3つの街道が作られました。中ツ道は、その街道の一つで、平城京と橘寺を結んだことから、近世には「橘街道」とも呼ばれていました。奈良市街の中央部から、大和郡山市と天理市、桜井市と田原本町や橿原市等の境界を通っていたのですが、現在では街道の名残はほとんどなく、細い道が所々に残っています。
・・・この中ツ道に「橘」を植樹して、橘の並木道にしようという計画がすすんでいます。大和郡山市の石川町と白土町付近で、まず20本くらいの橘を昔の街道に沿って植える構想があります。奈良盆地を南北に通る「橘の並木道」が完成すると、将来は壮観な景観が生まれそうです。
(大和郡山市石川町の掲示板から・記載者不明)
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「左近の桜、右近の橘」の橘である。
垂仁天皇の時代、常世の国に「ときじくのみ」(非時香具菓)を求めて橘を持ちかえった田道間守(たじまもり)を引くまでもなく、古代の橘は樹木としても、果実としてもその位置は高いといえる。

横大路、桜井市西ノ宮の三輪神社から北上するのが中ツ道。今回は橘街道は中ツ道と割り切って考えてみる。

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桜井市西ノ宮の氏神、三輪神社の南西側。中ツ道の始まり

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ちなみにこちらは下ツ道(中街道)

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これは上街道(上ツ道とは少しずれているが・・)。少しさびしそうだが、町つくり再建の意欲満々の交差点である。大和信用金庫の支店が戻ったり、喫茶店が間もなく開店する

横大路の交差点を、巷というか、辻というか、下ツ道、上ツ道と比べてみると中ツ道は相当趣きがことなることが分かっていただけるだろう。

今回は中ツ道である。北に向かうと、東竹田である。これは有名な大伴一族である。大伴氏の荘園、「竹田の原」である。
さらにその北には村屋坐弥富都比売神社である。
大海人皇子(天武天皇)軍と大友皇子軍が大和で対峙したのはこの地である。大伴吹負が総大将である。村屋で大伴が近江軍と戦うのは、大伴には領地的にも死活的な意味があるのだろうか。
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村屋坐弥富都比売神社参道

県道51号を北上することとなり、そのまますすむと、天理市を抜けて、西名阪道をくぐって…
路地のような細道の入り口に…「橘街道」の看板が設置されている。「橘も植わっている」。
大和郡山市石川・・である。

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橘の並木(木はまだ小さいが)

シャープの工場の東側を通り、・・県道754号線。こちらに道標があった。

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右 高野山  左 なら道

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桜井市を中心にして、古代道路と条理を整理した。明治末年頃の地図に赤い線は僕が書き込んでみた


5月5日の「おもしろ歴史講座」、大伴氏も軸にして、面白い話になりそうである。
# by koza5555 | 2017-03-30 21:41 | 奈良 | Comments(0)

磐余池、安倍木材団地論もありか

 奈良県神社庁の神職・氏子合同研修会が3月16日に橿原神宮で行われた。今年の講師は千田稔奈良図書情報館長で、テーマは「本居宣長の『菅笠日記』にみる古代の風景考」だった。

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橿原神宮


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千田稔奈良図書情報館長

「ことし明和の九年といふとし。いかなるよき年にかあるらむ」で始まる菅笠日記。これが桜井あたりでツアーのガイドをやれば、援軍百万という力強いテキストである。
250年前の明和9年、1772年の旅日記である。

千田先生は本居宣長の山桜に対する思い入れの激しさなどを触れつつ、敬虔な神学者としての本居宣長の紹介もされて、お話しのバランスがすばらしい。

宣長が『大和国中ひとりあんない』、『和州巡覧記』(貝原益軒)を参考書として持ち、他には「ぬさ(幣)袋」を持っていたという。
当時は道中安全を祈念して、道祖神に捧げる幣を入れる袋を持ち歩いたのだろう。宣長もこれを持参するが、「うけよ猶(なお)花の錦にあく神も心くだしき春のたむけは」と歌を幣袋に記したという。歌の意は、「毎年の花の錦に飽きている神も 私の心ばかりの花の手向けを受けてくだされ」である。

吉隠、初瀬、長谷寺、脇本、忍坂を経て倉橋に上がってくる。この倉橋で、崇峻天皇陵と宮を考えた後に、
さてこの里を出て。五丁ばかり行て。土橋をわたりて。右の方におりゐといふ村あり。こだかき森の見ゆるは。用明天皇ををさめ奉りし所也と。
宮ということである。だが、宣長はこれを信じない。

「あるじのほうし。かれは御陵にあらず。用明の御は。長門村といふ所にこそあなれといふに」である。
千田先生は、ここで論理を大飛躍、本居宣長を外れて話は一気に「磐余に宮つくる。名づけて池辺双槻宮(いけべのなみきのみや)」のことに移る。その用明天皇の陵を江戸時代には「長門村にあり」と本居宣長が紹介しているのである。

「磐余池は谷」の千田論は理解していたつもりだが、若桜神社の前・・谷本町とか、あるいは薦池の下・・谷新道あたりをいわれているのかと思っていた。

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この図が今回の講演で示された。「どこで使われました?」と講演後にお聞きすると、「まあ、これは、たいした絵ではなく、長門を書き込んだものは初めて」といわれる。

この図によると、安陪木材団地の湧水のある七ツ井の北側に磐余池である。
僕に言わせると、磐余池、谷論の最大の弱点は水源が無いことだった。
木材団地まで持ってくると、米川、それから寺川の伏流水が水源となるので水は溜まる。大津皇子が刑死させられる戒重の訳語田(おさだ)と磐余池との関係も、磐余池安陪木材団地論だと、整合性が取れるのである。
「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ」 巻3(416)
イメージだけではなく、実生活を反映した歌とみるのである。

磐余は十市か磯城上かとか、上宮遺跡の評価とか、あれこれに異論は持つが、千田先生の磐余池、安倍木材団地論、良いなあ・・・

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石寸山口神社。石寸山口神社は谷と阿部の長門(旧長門村)の方々で管理している。草刈は先週の12日に行ったばかりである。

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阿部山の南側(文殊が丘)の水は長門池に。長門村の田をうるおしているため池である。今でも、長門の人たちが草刈り、いけ掘りをおこなう


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阿部山の北側の水は、薦池に。石寸山口神社の前。こちらは谷に流れる


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これが長門村(阿部の小字、住居表示には出てこない。阿部550番地辺りである)
阿部丘陵にも古墳はあるが用明天皇の時代とは時代が異なり、具体的な場所は出てきていないが・・・・千田論、輝いている。
# by koza5555 | 2017-03-17 16:20 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

当麻ウォーク。加守廃寺跡とか掃守神社

3月22日(水)に「大人の学校」で、当麻寺の周辺のウォーキング、紹介して、お誘いいたします。

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当麻の首古塚古墳から二上山

午前10時に二上神社口駅集合、加守神社、加守廃寺跡、傘堂、鳥谷口古墳、首子塚古墳、当麻寺中の坊にて「曼荼羅絵解」、金堂、講堂を拝観して、当麻寺駅に至りて中将餅を賞味、午後4時過ぎに解散である。

はじめが加守神社、実は主殿は倭文(しとり)神社といい、織物の神様である。天照皇大神の衣を織ったとされる。
左脇殿が二上神社といい武と文の神。
右脇殿が加守(掃守 かもり)神社で、産婆・産育の神であり祖とされる。神武天皇の父が生誕するとき産室に群がる蟹を掃き清めた天忍人命(あめのおしひとのみこと)を祀る。
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この神社のオンダ祭りが独特で、他には見られない内容や所作がある。
オンダ祭りの牛を地元の小学生(宮本の加守の男の子)が演ずる。
この牛がオンダの所作中に出産する。
川西の六県(むつがた)神社のオンダでは、人が子を産むという所作があるが、牛が出産するというのはここだけだ。

こちらのオンダ、斎行日は「4月15日の前の土曜日」と決まっていて、今年ならそれは4月15日ということだ。


倭文(しとり)神社(加守神社)のご本殿の背面(西側)には、加守廃寺跡が残されている。
加守という地名は古代氏族の「掃守氏」の本貫地として知られる。雄略天皇の時代からの氏族である。廃寺からは奈良時代中期の軒瓦が発掘されており、長六角形の特異な構造の建物跡も発掘されている。
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(『大和の古代寺院跡をめぐる』から)

その後、傘堂、鳥谷口古墳を見学、首子塚古墳にて二上山と当麻寺を眺望する。
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東西の国宝三重塔・・・と言いたいが。当麻寺西塔は工事に入り、覆屋に入った。3年くらいはこんな状態らしい。

当麻の里を巡った後は、当麻寺・中之坊にて當麻曼荼羅の絵解きをお聞きする。めったに聞けない曼荼羅の絵解き、これをお聞きするウォーキングである。


実施要項は以下の通り。メールでお申込み、お願いたします。
■実施日    平成28年3月22日(水)雨天決行
■集合時間午前10時 
■集合場所   近鉄 二上神社口 
■コース(歩く距離 7km程度)
近鉄二上神社口駅 集合10:00 → 加守神社→ 加守廃寺跡 → 傘堂→ 鳥谷口古墳→ 12:00 昼食(ふれあいステーション、食堂)→ 首子塚古墳 →  当麻寺中の坊 絵解予約時間13:30から → 14:30当麻寺曼荼羅堂→ 金堂→ 講堂 (15:30)→ 当麻寺駅解散 16:00
■持ち物  水筒、帽子、雨具をお持ちください。食事は当麻ステーションの大食堂を利用します。
※歩きやすい服、靴でおいでください。
■参加費 2100円【当麻寺(500円)、中之坊(解説料含む800円)資料代・学校経費800円】

ぜひ、おいでください。申し込みは メールにて kozaburo@cg8.so-net.ne.jp
# by koza5555 | 2017-03-09 22:54 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

神武東征聖蹟顕彰碑と丹生川上神社

ヤマトビトツアーズの「神武東征の道を行く」を案内する。4月9日(土)である。
丹生川上神社に始まり、宇賀神社、八咫烏神社、等彌神社というコースで、今日は丹生川上神社中社(東吉野村)と夢淵を見学、拝観してきた。
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夢淵。高見川、四郷川、日裏川の合流点

丹生川上神社のことである。
「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」、天武天皇の時代に創祀せられたとされている。
平安時代以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられ、祈雨には黒馬を、止雨には白馬を献じ朝廷の崇敬する重要な神社であり、古代から応仁の乱(戦国時代の入り口)までに、朝廷による雨乞い、雨止めの奉幣祈願が96度もされたとのことである。

しかし、その後の戦乱のなかで、丹生川上神社の所在地が判らなくなってしまう。
明治維新となり、丹生川上神社の調査が行われ、
明治4年、丹生村(下市町、祭神はくらおかみのかみ)の下社
明治29年川上村の上社(祭神はたかおかみ)が丹生川上神社とされた。
大正11年になって、蟻通神社といっていた、この社こそが、丹生川上神社(高見川沿い・祭神はみづはのめ)と(森口奈良吉の研究により)定められた。

その後三社一体として管理されたり、三社別々の神社で競合時代があったり、現在のような三社共存体制(三社共存とは僕が勝手に命名)という時代を経ている。

本殿は江戸時代のもので、東吉野村の文化財。写真は拝殿である。
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瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されている。いわゆる蟻通灯篭である。
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黒馬(雨乞い)、白馬(雨止)の絵馬
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神武東征に関わる丹生川上神社である。
「紀元二千六百年奉祝会」により建てられた神武天皇聖蹟顕彰碑 丹生川上(にぶのかはかみ)顕彰碑の碑文は
「神武天皇戊午年(つちのえうまのとし)九月天下平定の為平瓮(ひらか)及び厳瓮(いつべ)を造り給い丹生川上に陟(のぼ)りて天神地祇を祭られ又丹生之川に厳瓮を沈めて祈り給えり聖蹟は此の地付近なり」。
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神武天皇の祈りに対して、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は天香久山の土にて平瓮(ひらか)と厳瓮(いつべ)を作り、祀れと指示する。
椎津根彦(しいねつひこ)と弟猾(おとうかし)を老人、老婆に化けさせて天香具山へ派遣、土を持ちかえることに成功する。

「神意を占って『厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが真木の葉の浮き流れるようであれば自分はきっとこの國を平定するだろう』と言われて厳瓮を丹生川に沈めた。しばらくすると魚はみな浮き上がって口をパクパク開いた。
椎根津彦がそのことを報告すると、天皇は大いにお喜びになられ丹生の川上の五百箇の榊を根こそぎにして諸々の神をお祀りされた。このときから祭儀のときに御神酒瓶が置かれるようになった。丹生川は、今の高見川で、高見・四郷・日裏の三川が合流したところの深淵は、神武天皇が夢にあらわれた天神の教えによって厳瓮を沈めたところだと伝えられ、『夢淵』と呼ばれています』東吉野村による掲示板
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上流側から見た夢淵

占ったところは夢淵だが、流れた魚がパクパク口を開いて浮き上がった場所、それを観察したところもしっかり、残されている。そこが魚見石である。夢淵から500メートルくらい下流だ。
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観察した人は椎津根彦(しいねづひこ)、天香具山に土を取りに行った臣下である。
「厳瓮を丹生川上神社神域の夢淵に沈められるや、やがて吉兆あらわれ大小の魚、木の葉の如く酔い流れ尊い神助の瑞祥を得られた。その魚の流れる様を臣の椎津根彦(しいねづひこ)が見届けた場所を、古くより魚見石と言い伝える。

五条の阿田人
大淀・下市の吉野首(おびと)
吉野町東部の国栖、大岩(石神神社)
さらに上流の東吉野の小(おむら)の丹生川上神社あたりを今度のツアーは力を入れて考えたい。
吉野と吉野川(紀ノ川)がヤマト王権の成立に深いかかわりを果たしたことは確実である。

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石神神社(矢治)、この大岩には圧倒される

4月9日(日)、東吉野の桜は残っているだろう。あらゆる意味で、楽しんでいただけるツアーである。

お申し込みは  やまとひとツアーズ、 0744-55-2221である。
# by koza5555 | 2017-03-02 23:04 | 宇陀 | Comments(0)

ヤマトロジー、3月は「世阿弥の生涯」(ゆかりの奈良の地)

奈良まほろばソムリエの会は県下の社寺・史跡の案内でその活躍が注目されている。さらに「奈良県に関わる講演なら、どの地域、どんな課題でも講師を派遣します」と公言できることが大きな自慢である。
会は各種のカルチャーセンターなどに数多くの講師を派遣しているが、なかでも近鉄奈良駅ビルのクラブツーリズムの「まほろば講座」、「まほろばソムリエのヤマトロジー講座」には、注目していただきたい。
毎月、第4土曜日(月により異なることあり)の午後に「まほろばソムリエの会」が講師を派遣している。テーマは事前に発表され、お客様は参加の申し込みを一回ごとにできるというシステムである。こんな講座は、講師はとくに腕に磨きをかけて、お客様との一期一会を楽しみにするのである。

3月の講座(3月25日)は「世阿弥の生涯」(大和の世阿弥)と題して大山恵功さんがお話しする。
足利義満の庇護のもと、京都で大活躍、観世流のもとを作り上げたという世阿弥の生涯であるが、「世阿弥の原点は奈良に在り」ということをお話しされるようである。
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大山さんは、現在の「能楽」は大和が発祥の地であること。世阿弥は大和に生まれた人物であり、それに関するゆかりの地がたくさんあることを紹介される。
「能」を鑑賞するきっかけはなかなか難しい。大山さんは観世流の世阿弥とそれと関わるゆかりの地を具体的な奈良の地名を上げながらの解説で、そんな土地も考えながら、「これを機会に御能に親しんでほしい」との思いらしい。

興福寺の薪能(薪御能保存会)、宇陀阿騎野の蛍能、談山神社の談山能など身近な場での能の鑑賞の機会もあり、この講話は僕も期待しているのである。

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薪能、これから始まります
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これは阿騎野の蛍能。能舞台で乱舞する予定だった蛍、しかし雨で・・・ネットに入っている蛍を鑑賞しただけだった。


ぜひ3月25日(土)の午後、近鉄奈良駅の6階、クラブツーリズムでお会いしましょう。


申し込は クラブツーリズムへ  電話は0742-90-1000

  申し込みフォームはこちら

会場はこんな感じだ
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# by koza5555 | 2017-02-26 22:51 | 奈良 | Comments(0)

神武東征の道を行く

4月9日(土)に「神武東征の道を行く」のツアーを案内する。前日の9日(土)、岡本彰夫先生の「誰も知らないやまとの神話」の講座(春日野国際フォーラム甍)と連携したツアーである。
ツアーは丹生川上神社中社、宇賀神社(オドノや血原橋も)、八咫烏神社、等彌神社を訪れて神武東征に思いを馳せようというツアーである。同時に岡本先生の「やまとの神話」の雰囲気を現地で味わっていただこうという趣旨のツアーだから、ちょっと緊張、気合を入れて準備したい。

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八咫烏神社から伊那佐山をのぞむ

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「初代天皇 神武天皇が日向から大和へと至る神話、神武東征。神話が神代から現代に至るまで、途切れることなく語り継がれてきた大和の地には、神武東征にゆかりのある場所が数多く伝わっています。
巌瓮(いつべ)と言われる瓶を用いて国の平定を占った東吉野村「丹生川上」。
神武天皇一行を熊野より導いた八咫烏ゆかりの宇陀市榛原八咫烏神社。日本で最初に大嘗祭が行われた建国の聖地 鳥見山に鎮座する桜井市 等彌神社など。一味違う奥深い大和を満喫していただきます。」
やまとびとツアー募集HPより

このツアーは昼食もすごい。大宇陀の蔵元、久保本家酒造の酒蔵を改装したレストラン「久保本家酒蔵 酒蔵カフェ」のランチ、ここはいま、注目されてきている。さらに、大宇陀、重伝建の松山の町並みも楽しもうという欲ばりツアーでもある。

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久保本家酒造

こんなコースの案内が僕のところに回ってきた。素晴らしいコースで、こんなツアーの案内、これこそガイド冥利というものだ。

   ツアーの詳細は  やまとびとツアーズ


4月9日(日)お一人さま 9800円。昼食付きバスツアー。
9時30分近鉄榛原駅出発、各地を見学、拝観して16時40分にJR・近鉄桜井駅解散


会員制のフリーペーパー、『やまとびと』をおすすめしたい。
桜井市の共栄印刷はフリーペーパー、『やまとびと』を発行してきたが、昨年の9月から「会員制フリーペーパー」に移行している。年会費1000円で、年に4回『やまとびと』が送られてくる。奈良を幅広く、さらにはディープに紹介する魅力的なパンフである。
 
 ツアーは4月9日、東吉野と宇陀の山々には桜は残っているだろう。この桜と共に、みなさんをお待ちしたい。
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# by koza5555 | 2017-02-20 21:00 | 宇陀 | Comments(0)

六県神社の子出来おんだ

磯城(しき)郡川西町保田(ほた)の六県(むつがた)神社のおんだ祭

2月11日に行われる。もともとは旧正月14日、その後は2月14日、現在は2月11日の行事となっている。
おんだ祭では、飛鳥坐神社の祭のように夫婦和合の所作でもって繁殖・豊作を表わされることが多いが、こちらは出産の所作で示されるのが独特である。
太鼓をお腹に入れた妊婦の姿、出産のありさまなどから、「子出来おんだ」と呼ばれている。

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六県神社、境内のオンダ祭。妊婦の弁当届け

17時から神事。境内の一角で一斗釜で湯を沸かす。巫女が着座する。笹も用意されているから湯立の神事かと思うが・・どうもこれが産湯とのことらしい。
東の天照大神、南の多武峰大権現、西の住吉明神、北の春日の若宮神にお断りして神事が始まる。

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産湯の前で
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それから拝殿での剣の舞

拝殿の配置を変えて18時から「おんだ」が始まる。

水見回り、牛使い、肥おき(施肥)、土こなげ、田植、螺(たにし)拾いと稲作が順序良く示される。
牛は必ずいるなあ・・・

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肥おき・・は竹筒の両端に椿の葉っぱをぶら下げて…昔の肥樽運びをイメージできる。ちぎってはおく・・
肥おき、田植え、螺拾い、全ての行事が椿の葉で行われるのが特徴

農作業の区切りごとに、「はい、ボチボチやで」、「それいけ」の合図で、拝殿に座った子供たちが演者に殺到する。これは風とのことだが、雨ではなかろうか。すぐ北の広瀬神社は砂を雨に見立ててオンダが進められるが、こちらは砂の代わりは子どもだろうか。
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その後、弁当を田に届ける妊婦が現れて、神主役の長老ととぼけたやり取りがあり、田んぼを回ってから出産するという運びである。
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最後に種まき神事が行われる。農夫が種まき唄を歌いながら、拝殿を回り、豪快に種を巻く。
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「宇陀の郡を通れば 一森長者に行き合うたら
行き合うたるところなら このところに蒔こうよ」

(一同)「よんなか(世の中)よけれども福の種 蒔こうよ」

「大和48万石、保田の明神蒔き納め」で、桶を空にした・・・

オンダの苗は椿(普通は松葉、御所の御歳神社は杉、石上神宮はホンマの早苗やった)というのが特徴。子どもが風(雨)というのが面白い。17時からの神事も必見。寒いから温かくして出かけるように。
出産の所作で、繁栄、豊作を祈念するのが最大の特徴的である。

よんなか(世の中)よけれども福の種 蒔こうよ


境内に以下の掲示がある。
川西町の歴史遺産を訪ねて
県指定/無形文化財 六県神社子出来おんだ祭り

六県神社は村社で、祭神は大和の六県神「高市命」「葛木命」「十市命」「志貴命」「山辺命」「曽布命」を祀る。 「神社明細帳(明治24年・1981)記載
 
 子出来おんだ祭りはこの六県神社の拝殿で毎年2月11日(以前は2月14日)の夜に演じられる御田植祭。妊婦の出産の所作を伴うことから、「子出来おんだ」とも呼ばれる。この行事の始まりは、境内富貴寺の創建時の平安時代と伝えるが、明確でない。

 所作は、水見回り⇒ 牛使い ⇒ 施肥 ⇒ 土こなげ ⇒ 田植 ⇒ 螺拾い ⇒ 妊婦の弁当運びと安産の神事及び種まきの所作と掛合い言葉の順に演じられる。
螺(たにし)拾いまでの所作では子供が風の役割を持ち、各所作の最後の演者はその場にうずくまり、風役の子供はその上に覆いかぶさる。
 妊婦の弁当運びと安産の神事では、本役の男子が太鼓を腹に忍ばせ妊婦に扮して弁当を夫(長老の神主役)の元に運ぶ所作を行った後、神主と妊婦が問答を行い、その後、問答を行い、その後、妊婦の陣痛が始まり、腹に忍ばせていた太鼓を放り出し、それを取り上げた神主が「ぼんできた、ぼんできた」と言いながら太鼓をたたく。
 最後の種蒔神事では、台詞と歌を歌いながら種をまく。この時の台詞や歌の掛合いも含めて全体的に古風な芸能所作が残っている。

# by koza5555 | 2017-02-12 09:25 | 奈良 | Comments(0)

浄見原神社 国栖と国栖奏

国栖奏は、毎年旧正月十四日に、吉野町南国栖の天武天皇を祭る浄見原神社で古式ゆかしく行われます。
早朝から精進潔斎をした筋目といわれる家筋の男性、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導 かれて舞殿に登場し、朗々とした歌翁の声とともに、舞翁の振る鈴の音が冷えきった空気にこだまして、参拝の 人たちの胸に古代の息吹をよみがえらせてくれます。(吉野町HPより)

今年は、今日が旧の正月十四日、天武天皇を祭祀する浄見原神社において、国栖奏が執り行われた。

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舞翁の舞、「正月 エンエイ」の囃し言葉に合わせて、静かだが、軽やかな舞である

神官の先導に従って参進の笛を奏しながら舞殿に進み、まず楽器を神前に供え、一同十二人は着座し、神官の祝詞奏上に続いて一歌二歌を奏します。次に神饌台から楽器を下げて笛にあわせて三歌を唱和し、舞に移る。舞は舞翁が鈴と榊を持ち、歌翁の一人が(エンエイ)と囃し正月より十二月まで舞納め、四歌を奏して、最後に氏子と奉賛者の名前を読み上げ(御巡楽――おじゅんらくという)、素朴ながらも典雅な舞楽は終わります。(国栖奏保存会パンフレットより)


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舞翁、歌翁に続いて笛翁の参進


御巡楽では、奉賛者一人一人の名の読み上げに合わせて、間に「エンエイ」の唱和がある。エンエイとは遠栄(ウィキペディア)とも、延栄(『大和の祭りと芸能』)とも紹介されているが、長く栄よという意味だろう。

神社入り口に奉賛者の受付があり、僕も申し込み、名前を紹介していただいた。
最後の方で、「さいがこうざぶろう・・エンエイー・・・シャンシャン」で、とても幸せな気分に、思わず頭を下がる。

新撰は特殊である。
栗、一夜酒、うぐい、根せり、赤ガエルの特殊神饌が供えられる。壬申の乱の前、吉野に身を隠した大海人皇子(天武天皇)に捧げたものを模したものであろうか。
楽器が供えられるのもきわめて特殊で、そのいわれを知りたいものである。

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国栖奏の始まる前頃に吉野は激しい雪。またまたタイヤチェーンを巻く羽目に。この雪にも関わらず、参列者、参観者は多数。前には出れず


橿原神宮でも4月3日に奉納されるとのことである。国栖奏と久米舞でちょっとした話ができないやろうか・・・・
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# by koza5555 | 2017-02-10 18:24 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

南朝 戒重西阿と良円

外鎌山に登ると「南朝忠臣 西阿公之墓」という碑がある。
しばらく前から倒壊していて、こんなふうに寝かされている。
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桜井市の全域で南北朝が激しく闘った史実が残されている。
南朝軍の西阿、子息の良円などが戒重と河合に城を築き、外鎌山、鵄(とび・鳥見山のことか)、赤尾の山城・砦の記録がある。
一方、北朝軍は釜口(天理)に進駐し、さらに細川顕氏は阿部山に陣をしき、南北朝は入り乱れて(阿部山は戒重・河合の南方に当たり、いわば吉野との連絡路が閉じられる形)桜井市全域が戦場となったことが分る。

1337年に三輪西阿は櫟本(天理)にて北朝軍とたたかう。
1340年には北朝軍は開住(かいじゅう)西阿を討つために出兵。西阿は大仏供庄(大福)の年貢を横領。
1341年2月、幕府は西阿追討軍。釜口を奪い、阿部山に陣をしいた
     4月に河合城陥落、7月2日戒重城陥落、西阿らは外鎌山城に移り抵抗したが3日に陥落。
1347年、楠正行らは、出陣の前に後村上天皇に面会、西阿も同席している。「・・・楠将監西阿子息開地良円以下・・・」と太平記巻10に記されているのである。
同年、親子ともども 四条畷戦死した。

西阿を祀った碑は外鎌山に立てられたが、それは昭和45年のことである。

桜井市の粟殿(おうどの)の墓地には、西阿の子息、良円を祀る五輪の塔が建てられているのである。桜井市史の上巻942ページ
「為菩提亡父良円房・・・・・・・正平3年(1348年) 正月五日  願主尼良妙」
とあるらしい。(僕には全然読めなかったが・・・)

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良円を祀るという五輪塔


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戒重城の濠の跡。戒重城は江戸時代の前期に140年くらい織田藩が陣屋として使用、織田藩が芝村に移って廃城。しかし河合城、戒重城ともども明治20年頃までは大規模に濠が残っていたらしい


こうして考えてみると、南朝を助けた桜井(現在)の関係者は多かった。多武峰は無論のこと、三輪、長谷寺なども含めて多くの国民、地侍もその戦いに巻き込まれていったのである。
# by koza5555 | 2017-02-03 00:05 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

2月のウォーキングは忍坂(忍阪)

「忍坂山(外鎌山)からの眺望を楽しみ、王家の谷を歩いてみよう」をテーマに、2月22日(水)にウォーキングを案内します。

外鎌山に登ります。奈良盆地南部の素晴らしい眺望が楽しめます。標高は292メートルですが麓からの標高差は150メートルです。

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2月1日の忍坂の山からの眺望。大和三山、二上山、奈良盆地南部が一望できる

「こもりくの 泊瀬(はつせ)の山 青旗の 忍坂の山は 走出のよろしき山の 出立の くはしき山ぞ あたらしき山の 荒れまくおしも」(巻13-3331)と万葉集にも歌われた忍坂の山(外鎌山)に登ってみましょう。

石位寺で白鳳時代の薬師三尊仏(重要文化財)を拝観します。
また、舒明天皇陵、鏡王女墓(談山神社)を見学し、大王級の赤坂天王山古墳の横穴式石室を体験します。
最後の忍坂坐山口神社を参拝、境内の楠の巨樹に力をいただくというマルチのウォークです。ぜひぜひ、おいでください。

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忍坂坐山口神社の大くすのき

■実施日    平成29月2月22日(水)雨天決行
■集合時間午前10時 
■集合場所   近鉄大阪線大和朝倉駅 改札前
■コース(歩く距離約8km程度。小さな山ですが山登りもします)
朝倉台駅(集合10:00)w.c.→11:00 外鎌山頂上 → 11:30 鏡女王墓 → 舒明天皇陵→ 神籠石 → 12:00 石位寺w.c(昼食)→ 14:00 赤阪天王山古墳.→ 14:40玉津島明神 → 15:00 忍阪山口神社 → 15:30 朝倉台駅(解散)
■持ち物  弁当、水筒、帽子、雨具をお持ちください。小雨は決行ですが、コース変更をする場合もあります。※歩きやすい靴でおいでください。
 大和朝倉駅前(集合場所)では、弁当を買うお店はありません。必ず事前にお弁当を用意してください。

■参加費  1200円【拝観料300円(石位寺)、資料代含む】

申し込みは 大人の学校の溝口さん(メール)まで hiromi-03.30@kym.biglobe.ne.jp
もしくは   kozaburo@cg8.os-net.ne.jp

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赤坂天王山古墳、このウォークは横穴式石室に入ります。汚れます。覚悟してスラックスやジーンズを用意してください。
今日は一人で入りましたので、自撮りです(笑)
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# by koza5555 | 2017-02-02 00:05 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

サッカーのルーツは蹴鞠

談山神社の社報は「談(かたらい)」という。A4の4ページ。
長岡千尋宮司から、「雑賀さん、かたらいに書いて。一ページまるまる」と昨年の夏ごろに話があった。

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今回の「談(かたらい)」のトップ

最近は一年に2回の発行だが、発行部数が2万5千以上で、これはやりがいがありそうである。
第一回目は、蹴鞠を書くことにした。昨年の9月には東京での講演のおり、お茶の水の日本サッカーミュージアムも見学しており、準備はバッチリである。

こんな文章となった。

談山神社は春と秋、けまり祭を行う。境内の一角に青竹を四隅に立てた鞠(まり)庭でけまりを奉納する祭である。

鞠(まり)を順次蹴り上げ、地面に鞠が落ちると中断となる。演技の連続が面白みで、ラリーが続くと歓声や手拍子の応援も出て、静寂な談山神社はいつになく沸き立つ。一つの鞠を落とさぬように、鞠庭にいる全員が心技を一体にして蹴り続ける。背筋を伸ばした優雅な姿勢で蹴り続けて勝負を競わず、相手が受けやすい鞠を打ち続けることが上手と言われている。
演者の男女は平安時代の貴族のような装束に身を包み、「アリ」「ヤア」「オウ」の三声を掛けあいながら蹴り回す。青壮年は若さの力、老境は円熟の面白みで、年齢、性別に関係なく楽しめる。

今日は蹴鞠の鞠のことを紹介したい。鞠は白く塗り上げられた鹿革製で、中空となっていて、重さはサッカーボールの三分の一ほど、120g程度で整えられている。


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蹴鞠のマリ

この鞠作りをする人に、桜井市の藤田久沙夫さんがいる。
藤田さんは「鞠は二枚の鹿革で作ります。つなぎ合わせた革袋の中に麦を詰めて形を整え、白く塗り、穴から麦を抜きとって中空の鞠に仕上げます」と作り方を説明される。さらに「10年がかりの試行錯誤の末、やっと納得のいくものができました」と古典芸能を支える鞠が作れたこと喜びを語ってくれた。

 藤田さんの作った鞠は、談山神社により、日本サッカー協会に贈られて、東京の「日本サッカーミュージアム」(東京都文京区本郷)、「ボールゲームの歴史」コーナーの一番初めに展示されていて、「寄贈 談山神社 桜井市多武峰」と記されている。
 解説では「古代中国の周の時代(紀元前1100年頃~紀元前256年頃)には、皮を繋ぎ合わせ 毛をつめたボールを使った球技がありました。
この球技はのちに日本にも「蹴鞠」として伝えられ、主に貴族の社交上の遊びとして楽しまれました。蹴鞠とは、革製の鞠を蹴り上げ、地面に落とすことなく蹴る回数を競う遊戯です」と紹介されていて、FIFA(国際サッカー連盟)のプラッター会長が、世界のサッカーの発祥はこの蹴鞠だと宣言したことが紹介されている。

 「蹴鞠がサッカーの始まり」、サッカー協会はそんな展示をしているのである。


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展示の説明。右下に談山神社寄贈の実物のマリが展示されている


『日本書紀』は、「中臣(藤原)鎌足は専横を極める蘇我蝦夷、入鹿の親子の打倒を考え、中大兄皇子(天智天皇)に近づこうと考えた。法興寺(飛鳥寺)の槻の樹の下で皇子が鞠を打つ、そのとき沓が抜け落ち、鎌足が拾った。ひざまずいて差し出す、皇子もひざまずいて受け取った、と記している。
鞠を打つという言い方は微妙だが、「鞠を打つ、沓が抜け落ちる、拾う、差し出す」という一連の動作からは、現在の蹴鞠の姿を感じ取ることができるのではなかろうか。

談山神社の春のけまり祭は4月29日(昭和の日)、秋のけまり祭は11月3日(文化の日)、いずれも神廟拝所西の「けまりの庭」で行われる。

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年に3000円の会費で「談の会」の会員になっていただけると、こんな社報が届き、同伴2名までは入山が無料になるという、年間パスがいただける。とてもお値打ちで、入会をおすすめしたい。
お問い合わせは、談山神社、電話は0744 49 0001である。

# by koza5555 | 2017-02-01 00:09 | 桜井・多武峰 | Comments(0)