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大正4年(1915)刊行の『奈良県磯城郡史』は、「鳴動の時よくその響を聞き得る地を立聞きの芝と称し、粟殿四ッ川・高市村阪田・多武峰の北山の三個所」と記した。昭和32年(1957)発行の『桜井町史』もこれを紹介し、「立聞きの芝は北山字菖蒲一番地・粟殿(大灯籠)字四ッ川・針道字茶屋の垣内(一説に高市郡高市村阪田とも云う)」としている。併せ考えれば桜井市の粟殿・北山・針道と明日香村の阪田の四ヵ所という事である。
そんなことを考えていたが、「立聞きの芝跡を見に行こうか」と北山区の小谷元一区長からお誘いをいただいた。「立聞きの芝は旧道沿い、北山から今井谷に下るところで、道を知らなければ辿りつけない」と聞いた。神社から険しい道をしばらく下ると平らな場所に出る。今は立木が育ち眺望は難しいが、御破裂山と奈良盆地が一望という地形だった。小谷区長は「鳴動を聞く場所と言うが、ここは攻めてくる敵を見張る場所でもある」と言われる。
一方、針道の芝は「茶屋垣内」である。卜部普士区長は「茶屋という字(あざ)は残っていないが、茶屋向・茶之前という字がある。こちらからは御破裂山もよく見える。大宇陀への大峠の街道筋で茶屋があったところだ」と言われる。
また、粟殿の平野利文区長には、「あすか用水が三本に分かれるところが四の字の形で、ここを四ッ川といった。三輪から多武峰に至る旧街道沿いで御破裂山もよく見えたのでは」と教えていただいた。
立聞きの芝、確かに鳴動をよく聞き得る場所ではあるが、これらの場所はいずれも多武峰への街道沿いで山への入り口、要所に位置していたとみて間違いないだろう。
さて、鳴動と御破裂山の事である。
「御破裂山は高嶽と称し、談所ヶ森の後方三四丁にあり、その名の由来は永承六年(1051)正月24日、神像の右面四寸余破裂せしを始め」と『磯城郡史』に紹介がある。天下に変事あるごとに多武峰は鳴動した。東から鳴動すればとがめは国王、南ならば藤原の長者、北ならば藤原の氏人、西は万民、中心ならば多武峰の寺人に問題があると信じられ、この鳴動はご神像の破裂につながっていった。
鎌足公のご神像は天下国家の不条理を、怒りの破裂で予兆し告発したのである。御破裂はただちに都の藤原家に報告され、怒りをなだめる告文使(こうもんのつかい)が派遣されて御破裂は治癒されるとされた。
慶長十二年の御破裂を記録する『御破裂之覚』によれば、「御破裂山が鳴動し、神光は四海に輝き、国々に光が飛んだ異変があった。冬野八幡(明日香村)で御湯の占いをしたところ御破裂との神託があり、更に大原の宮(明日香村)でも同様な神託が出た。旧伝に従って三輪市(三輪恵比須神社あたりか)で辻占いをするとご破裂ではないという。そこで、ご神像を拝すると破裂している事がわかり、京に伝えられた」(現代文に訳)と記されており興味深い。鳴動、御破裂を前にして、人心は恐々たる有様だったとその模様も描かれている。
今となっては、鳴動・御破裂は「中世の怪異」として研究され、また立聞きの芝も過去の遺跡ということとなったが、御破裂山が鳴動したり、光物が飛行するなどの異変が、奈良やこの国を襲う事のないように、安寧と平和を互いに祈りたい。
3月に平城宮跡と周辺の陵・古墳を案内することになった。3月21日と22日の二日である。好評で、申し込みは定員までまであとわずかである。
猛烈な今の病が終息することを、ひたすら祈るばかりである。
先日も平城宮跡を下見した。青空に生える復元大極殿を前に、大和と寧楽の都を襲った1300年前の疾病に思いをめぐらした。
上も下も人民はバタバタと亡くなっていく。もっとも守らていると思える藤原四氏さえ亡くなる。情報のない中、治療方法のない中、当時の人々の思いはどんなであったであろうか。
奈良時代の天然痘の大流行によって、日本人の4分の1も亡くなったと言われている。
天然痘は大宰府(九州)から始まり、天平7年(735年)から天平9年(737年)にかけて、日本中を席巻した。
それが、続日本紀に残されている。
この頃大宰府管内で、疾病により死亡するものが多いという~長門国よりこちらの山陰道諸国の国守(くにのかみ)もしくは介は、ひたすら斎戒し道饗(みちあえ 悪鬼の侵入するのを防ぐため街道で行う祭祀)をして防げ。
8月23日
大宰府が「管内の諸国で瘡のできる疾病が大流行し、人民は悉く病臥しております」~と言上。
天平8年(736年)4月17日
遣新羅使の阿部朝臣継麻呂らが出発に臨んでの拝謁をした。
12月22日
去年の冬には瘡のともなう疾病(天然痘)が流行し、男女のすべてが苦しんだ。農作業も充分でなく五穀の実りも豊かでない。今年の田租を免除し、人民の命をつながせるように。
天平9年(737年)正月27日
遣新羅使の大判官従六位上・小判官正七位上らが、新羅から帰って入京した。大使・阿部朝臣継麻呂は対馬に停泊中に卒し、副使で従六位下の大伴宿禰三中は病気に感染して入京することができなかった。
4月17日
正三位の藤原朝臣房前が薨じた。不比等の第二子。(57歳)
4月29日
大宰府管内の諸国では瘡ができる疾病がよくはやって、人民が多く死んだ。
5月19日 詔りした
「4月以来、疾病と干ばつが並び起こって、田の苗は枯れしぼんでしまった」
6月1日
朝廷での執務を取りやめた。諸官司の官人が疾病にかかっているからである。
6月11日
大宰代弐・従四位下の小野朝臣老が卒じた。(あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり)
7月5日
大倭・伊豆・若狭の三国の飢餓と疾病に苦しむ人民に物を恵み与えた。
7月10日
伊賀・駿河・長門の三国の飢餓と疾病に苦しむ人民に物を恵み与えた。
7月13日
従三位の藤原朝臣麻呂が薨じた。不比等の第四子。(43歳)
7月23日 天下に大赦を行ない、天皇は次のように詔した。
疾病の気が多発するので、神祇に祈祭するけれどもまだ許される様子がない。
7月25日 右大臣(藤原武智麻呂)の屋敷へ。
左大臣に任ずる。その日のうちに薨じた。不比等の長男(58歳)
8月5日
参議・正三位の藤原朝臣宇合が薨じた。
12月27日
この年の春、天下の人民の相ついで死亡するものが、数えきれないほどであった。このようなことは近来このかたいまだかってなかったことである。
以上は続日本紀。宇治谷孟の現代訳である。12月27日の記録は、疾病は「過去形」になっており、最悪期は脱したと見られる。
龍王山古墳群に入ろう・「奈良県随一の古墳密集地帯を行く」というウォーキングを3月1日に案内する。やまとびとツアーズの企画だが、ありがたいことに定員はオーバーとなった。
龍王山、山頂近くにはタクシーで上がる。安易だが、時間と参加者の体力からみて妥当な設定である。
龍王山古墳群。山すそ、西門(さいもん)川の両岸を中心にした山中の古墳群。古墳(横穴石室含む)数は600基以上、発掘がすすめば総数は1000基を超え、日本最大の群集墳である。古墳の内訳は横穴式石室墳が300基。岩盤を穿って造られた横穴が300基とみられる。
標識がない。ここが新沢千塚古墳群(橿原市)、一須賀古墳群(太子町)、岩橋千塚古墳群(和歌山市)などと大きく違う。
『奈良県遺跡地図』第二分冊と、『龍王山古墳群』(橿原考古学研究所)をじっくり、眺めて案内の方向を考えた。
ポイントを絞って楽しんでいただくウォーキングである。頂上から下るのだから、遺跡地図96は初めに訪れる。だんだんと下がって、あれこれ見るのだが、「六地蔵周辺」を集中的に探索することとした。
期待していた342番と340番に入ってみた。奥壁の石が無い。側壁の石も抜けている。これは作った時とは違う形であるから危険と感じた。
そこで探してみると、素晴らしい石室があった。336番である。入り口が狭い。右片袖式の古墳である。持ち送りがきつく、それを上からシッカリ押さえつける形で大型の天井石…小ぶりだが、むちゃくちゃ美人古墳だ。
20基ほどの古墳に入ったり、覗いてみた。今日は感動する石室をたくさん拝見できた。
更に下って、横穴(おうけつ)墓を拝見する。龍王山古墳群には300以上の横穴墓が残されている。こちらは墳丘はなく、岩を穿って形を整える石室で、山中・山上の崖に掘られている。こんな感じかな。
龍王山古墳群の築造時期は、6世紀中頃から7世紀末まで。横穴式石室墳径10㍍前後の円墳が多い。墳丘を持たない横穴墓(おうけつぼ)は横穴式石室墳より遅れて造られ、7世紀のものが多い。
古墳群の出土物とかである。権現堂古墳(巨勢谷)と同じ形式の石室がみられる。三里(平群)古墳と同時期の馬具。牧野古墳(広陵町)や二塚古墳(新庄)と同時期の須恵器が出土。環頭大刀、玉類、耳環、馬具、農工具などの副葬品、数多くの土器が出土している。
石室に使用される石は榛原石、地元の石などが複雑に混じる。尾根ごとに石工が違うか。
やはり、被葬者像は気になる。盆地東部に本拠地があった物部、保積、大倭、和邇、柿本などの諸豪族を被葬者とみる。
大和王権の中枢にかかわる巨大古墳が置かれる地域でもあり、その影響下の数多くの豪族の墓とみるとの論もある。古墳の数が莫大。盆地各地の古墳との類似、出土品の共通性から。
龍王山古墳群は松本清張が『火の路』で「死者の谷」と紹介した。
「踏査により確認できた古墳総数(その分布範囲は東西1キロ半、南北1キロ)は、横穴式石室墳及びその可能性あるもの279基、完存もしくは破壊されていてもそれとわかる横穴は292基、総数571基である。その他見落としのものを入れると600基前後と考えられる。その古墳群は数といい、立地条件といい『死者の谷』と呼ぶにふさわしい。」(「竜王山古墳群の問題」清水真一『古代学研究62』)を松本清張が『火の路』に転載して、広く世に知られた。
3月1日が楽しみである。
奈良の都の時代の前の平城山辺り(古墳)を語り、平城宮の造営を語り、栄える平城宮を語り、奈良の都の終わりも語るツアーです。
昼食はランチビュッフェ、昼食を入れてツアーの参加料は破格の2000円。ぜひおいでください。
申し込みはWebで「やまとびとツアーズ」まで・・電話なら0744ー43ー8205です。
お待ちしています。
笠(桜井市上之郷)の「笠山三宝荒神」は、毎月28日が月次祭、1月と4月と9月の28日が大祭で、とくに一月は初荒神の特別大祭が行われる。
笠荒神は興津彦神、興津姫神、土祖神を祀る。興津彦神・興津姫神は同一の岩座に並ぶ木像極彩色玉眼入りのご神像で、光背には「竹林寺(笠のお堂で神社から500㍍ほど下ったところ)現住」とあり、竹林寺から遷されたものであることがわかり、時期は明治の神仏分離である。
笠は笠荒神と併せて、竹林寺に「板面荒神」が置かれている。
「良弁僧正が荒神の姿を板に描いたもので、さらに弘法大師がそれを写したもの」で、さらに、厨子の中には、「板面荒神」が二枚(二体)納められているとのことで、模写は何度かされてきたとも思える。
ちなみに開扉される荒神さまは優しいお顔だが、もう一枚は荒々しいお顔をされている。
大祭では、この荒神板絵の御霊が神輿で笠荒神にお渡りとなる。
お渡りは区長、荒神講の会長を先頭に神主、頭人が担う神輿、天満神社(笠の氏神)の一老12名がつき従う。
さらに笠は、荒神講とは別に、宮座が残っており「一老12名」によって氏神が祀られている。
竹林寺があり、村のそば畑で収穫された蕎麦で打たれ「笠そば処」の運営もあり、山村の笠は日々、忙しい。
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