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奈良・桜井の歴史と社会

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万葉集一番歌 春日神社境内(桜井市脇本)にて

1116日(日)、南都銀行の「〈ナント〉萬葉チャリティウォーク」に参加した。奈良女子大学名誉教授、高岡市万葉歴史館館長の坂本信幸先生が案内された。

ちょっと時間が経っているが、来年にお話しする準備で、備忘録みたいにものとしてアップしますので、よろしければお読みください。

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大和朝倉駅前にて、坂本先生のはじめのごあいさつ

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ウォークは、かって雄略天皇の初瀬朝倉宮とされた白山比咩(しらやまひめ)神社(初瀬の黒崎・萬葉集一番歌の歌碑あり)から始まり、続いて脇本の春日神社(現在はこの地を歴史学者も考古学者も朝倉宮とみる見方が多い)を訪れた。脇本の白山神社で坂本先生の講話が行われた。

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脇本の春日神社。現在は朝倉宮はこの神社の周辺だったと言われている

万葉集巻11番についてのみ先生のお話を紹介します。

天皇の御製歌(おほみうた)

原文は

篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑 名告紗根

虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座

我許背齒 告目 家呼毛名雄母

訳文は

篭もよ み篭持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな な告らさね

そらみつ大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ

我れこそば 告らめ 家をも名をも

先生は「万葉集は声を出して読め」と言われる。

「こもよ」は3文字、「みこもち」は4文字、「ふくしもよ」は5文字、「みぶくしもち」は6文字、文字数が一つづつ増えていく、勢いがあるとのことである。

そのあと、「このおかに」は5文字、「なつますこ」は5文字、「いえきかな」は5文字、「なのらさね」は5文字で、ごん、ごん、ごんと調子よく押し出していく・・

突然、「そらみつ」で変調して・・

力強く、

「押しなべて我こそおれ」、「しきなべて我こそおれ」

わたしこそ言おう。私の家も名前もである。

最後の「我こそは」5文字、「のらめ」は3文字、「家をも名をも」は7文字で、これは古い歌の特徴とのことでした。

大和史には、「雄略天皇の宮は岩坂谷にあり」とされたが、その後、黒崎となり、現在は脇本遺跡、ここ、脇本である。

「広場の跡があった。池があったり、5世紀の柱穴が出てきた」という事で。

雄略天皇は高御座で即位した初めての天皇とされる。高御座とは平城京跡の復元大極殿にあるもの・・今年は大嘗祭で令和天皇がお座りになり即位されたもの・・

また、『万葉集』はこの雄略天皇の歌から始まる。『万葉集』ができた8世紀の人は、雄略天皇が大和王権の版図を広げたと考えていた。現代の歴史学と考古学は、それをさらに裏付けている。

雄略天皇の果たした歴史の役割についてはまた触れるとして、『万葉集』の巻頭で、雄略天皇が「我こそは告らめ」とまずは「告る」のである。

雄略天皇は葛城の一言主大神と名乗りあう時も、「告られている」(のられている)。

『万葉集』の2番は舒明天皇の国見の歌である。こちらは天智・天武天皇の父親であるから、ここで出ても、当然のことがが、舒明天皇は「見る」である。

「支配地が豊かになるように」と願う国見の歌である。

3番」は狩りの歌である。

告る歌、見る歌、狩る歌と続いて、「告る、見る、狩るは古代の天皇がすべき大切な行事」、それは中国の故事によると坂本先生はお話しされた。

『萬葉集』は歌集だが、このように学ぶと、これは日本の国の歴史を記した礫書でもあるなと、僕は実感することができた。

坂本先生のお話は、いつもクリアで簡略、そして奥深い・・・ありがとうございました。

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黒崎(脇本遺跡の東方、300㍍くらい)の白山比咩神社境内の萬葉集発燿讃仰碑と一番歌歌碑。保田 與重郎揮毫

急用があり、このウォークは入り口の入り口だけしか参加できなかったが、実りの多いウォークだった。


# by koza5555 | 2019-12-05 08:18 | 桜井・初瀬

宝山寺 歓喜天

宝山寺(生駒市)歓喜天の縁日は1日と16日で、今月は1日に「厄除大根焚き」、16日は大注連縄の吊り替えが行われて忙しい。

歓喜天は大根が大好物で、縁日には大量にお供えが行われるが、121日は参詣者に大根炊きのお接待がおこなわれる。お接待は1130日の午後11時から日が変わる1日の正午頃までで、午後2時ころまで行われる年もある。「大根がなくなり次第終了」という事で、終了時間が毎年異なるのである。とにかく1000本の大根である。およそ、一本を7個に切り、一人に二個づつを提供するので3500人ほどが大根炊きがいただける。

宝山寺(ほうざんじ)のご本尊は不動明王だが、鎮守神として歓喜天が聖天堂(天堂)にあ祀られている。この歓喜天の大好物の大根がお接待されるとのことである。



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歓喜天像はビナーヤカ(古代インドの神)が十一面観音(女性の姿のビナーヤカ)を抱き締める姿とされる。ビナーヤカは仏教に帰依する事を約束して十一面観音と抱き合い、善神に変わったという。

この抱き合う姿がなまめかしい。神像には思えない恍惚の表情である。抱き合う姿は「六処の愛」といい、

鼻で相手の背中を愛撫、

胸を合わせる、

手で相手の腰を抱く、

腹を合わせる、

足を踏む、

赤い裳裾をつけるとされる。


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歓喜天が商売の神であり、健康を守る神とされるが、この姿からはまずは恋愛の神というのも理があるだろう

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宝山寺のポイントを箇条書きしてみると…

宝山寺は、生駒市にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天とも呼ばれる。江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。

湛海は、伊勢に生まれ、入滅するまでの四十年間、一度も山を出ることなく、ひたすら難行苦行の不動信仰を貫いたと言われている。

湛海作の本尊、不動明王は重要文化財に指定されている。1882年に新潟県の大工、吉村松太郎が設計した獅子閣も併せて重要文化財に指定された。

聖天堂に祀られる双身歓喜天が生駒の聖天さんとして信仰を集めている。宝山寺は商売の神として大阪庶民の信仰を集めた。

1918年には日本最初のケーブルカー、生駒鋼索鉄道(現、近鉄生駒鋼索線)が敷設された。

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# by koza5555 | 2019-12-01 13:19 | 生駒谷

龍王山古墳群

龍王山古墳群(奈良県天理市)に来年(31日)、チャレンジします。


高い所まで(龍王山)、楽に上がり(タクシー)、それなりの険しき道を下って魅惑の龍王山古墳群を探索して、とびきりの美味しきランチをいただくという、夢のウォークを用意しました。やまとびとツアーズ、「古墳に入ろう」シリーズです。

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ウォーキングの紹介は以下の通りです。

3/1() 名物ガイドと天理龍王山古墳群に入ろう!~奈良県随一の古墳密集地帯をゆく~

古墳ファンの心をくすぐる、知る人ぞ知る群集墳

天理駅を午前9時。解散は柳本駅午後345分を予定しています。

今回の古墳に入ろう!シリーズの舞台は天理市。龍王山古墳群は600基とも1000基とも伝わる、古墳時代後期から終末期にかけて造営された県内最大規模の後期群集墳です。

本ツアーでは、天理駅からタクシーで龍王山山頂付近へ向かいます。そこから、龍王山古墳群を雑賀耕三郎氏のガイドで巡ります。山麓では崇神天皇陵や黒塚古墳などの大型古墳にも足を運びます。昼食は、大阪心斎橋の人気店が2017年に移転オープンされた、洋食katsuiにて黒毛和牛ロースの網焼きとエビフライのセットをお召し上がりいただきます。

※解説を聞きながらのウォークのため、比較的ゆっくりとしたペースですが、龍王山山頂付近から下りの道が続きます。どちらかと言えば健脚向けです。


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# by koza5555 | 2019-11-30 16:30 | 天理・山の辺の道

いきもので読む、日本の神話

『いきもので読む、日本の神話』平藤喜久子著 國學院大學の教授である

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神話で語られる動物の活躍、人との関わりを『古事記』、『日本書紀』、『風土記』(出雲・播磨・豊後・肥前の五か国と山城国逸文・丹後国逸文)などから紹介する。

原典を紹介しながら、どのように今、祀られているかの解明・解説もあり・・目からウロコがうようよである。

たとえばウサギ。因幡のシロウサギは有名である。オオナムチ(後の大国主)が、兄神たちによって皮をはがされたウサギを助ける話である。助けられた兎が予言する「兎神」となる。この兎が神になるために、「瀬死の重傷から復活するという特別な体験」が力となる。

この兎は、鳥取市で「白兎神社」として祀られている。この神社は海岸の国道楚位にあり、2年ほど前の町の研修旅行の時、写真を撮ることができた。


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お正月には、大神神社の拝殿の前になで兎が置かれる。復活した「兎神」、ヤガミ姫との結婚を予言した「兎神」、きれいな美肌を取り戻す「兎神」として、初もうでの皆さんに激しくなでられる。

使者を務める鹿、古代も働いた犬、墓を守り抜いた忠犬の紹介もある。

また、蛇は伝承が多く、神話にも様々に紹介される。「神の姿は蛇」、「蛇をまたいで死に至る」(日本書紀 ヤマトタケル)、「生まれた子供は蛇だった」、「ヤマタノオロチ」「初恋の人は蛇だった」(ヒナガ媛)、「夜谷(谷戸の神)」(常陸の国風土記)、「蛇頭(じゃとう)人身」(肥前国風土記)などなどである。

「犬や鹿、猪、蛇など神話のなかに頻繁に登場するいきものがいます。おそらく古代の人にとって、良くも悪くもとても身近だったり、気をつけなければいけない存在だったりした」(p114)のである。

「平安時代に日本に持ち込まれた猫がいない」とか、「ちょうちょが出てこないのは不思議」とも紹介される。「蝶は神話のみならず歌にも歌われません。その理由は蝶は死者の魂と考えられ、縁起が良くないと思われていたと考えます」(p115)。

鳥の登場も多い。

鳥はどこからか来て、どこかに去っていく。

飛び来たり、飛び去る姿の不思議さから、鳥は霊魂を運び、時には穀物の魂も運ぶと信じられた。

まずは鶏。太陽神アマテラスは弟スサノオの乱暴に耐えかねて、岩屋に引きこもる。

神々が集まって、岩屋の前で祭を行い、アマテラスは岩屋の戸を開いた。この祭りの合図が「常世の長鳴鳥」、鶏の鳴き声だった。

20年に一度の伊勢神宮の遷宮では、新しい社殿に神をお移しするとき、鶏鳴三声といって、この神話に由来する鶏の鳴き声を模す儀式がおこなわれています。」(p127)」

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烏(八咫烏)、トビ(金鵄)、ハクチョウ、キジもそれぞれ説話がある。

キジを殺したアメワカヒコの葬儀では雁、サギ、カワセミ、スズメが活躍する。

セキレイは思わぬところで大活躍。イザナギ飛びましたいざナミがどのように性交するかがわからない、そんな二人にそれを教えてくれたのがセキレイだった。尾を上下に揺り動かすのが特徴で、それを見たイザナギとイザナミはそれを真似して性交の術を知る。

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日本書紀を見てみよう。

イザナギとイザナミは「ついに合交せむとす。しかもその術を知らず。時にセキレイありて、飛び来りてその首尾を揺らす。二の神、見して学びて、すなわち交の道を得つ」。『日本書紀』神代上第四段、一書第五

この本、おもしろい。おすすめである。


# by koza5555 | 2019-11-28 17:13 | 読書

万葉歌 遣唐使の歌

奈良県立万葉文化館(明日香村)が、「万葉集をよむ」という講座を毎月、開いている。文化館の研究員が、『万葉集』を数首だけ取り上げて、丁寧に読み解く。今年度は『万葉集』巻5である。1年かけて、巻5だけを解説するのだから豪華なものである。そして、講座は一回ごとに完結するから、いつからでも参加できる。

で、11月は27日(水)に開催、テーマは「遣唐使におくる歌(894896番歌)」で、講師は吉原啓研究員であった。


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紹介された歌は894番歌の長歌と895番・896番の反歌である。

以下、紹介する。

「好去好来の歌一首 反歌二首」

「天平531日、良(憶良)の家に対面し、献ることは三日なり。山上憶良慎みて上がる 大唐大使卿記室」

歌が詠まれたのは天平5年(733年)3月で、天平543日に遣唐使として出発した多治比広成に送られた歌である。

憶良は大宝元年(701年)に栗田朝臣真人の遣唐使で渡唐しており、経験者として出発間際の広成と面談したか。

長歌(894歌)と短歌をすべて読むのが吉原啓流である。長歌の表題にある「帰去来」(陶淵明の漢詩によるか)、それから歌の中の「神づまり」(『祝詞全講釈』によると神として鎮まる)などが順次、解説された。

反歌は二首。

5-895 「大伴の 御津の松原かき掃きて 我れ立ち待たむ早帰りませ」

大伴の御津の松原(難波のこと)を掃いて、私は立ってお待ちします。早くお帰りください。

5-896 「御船泊てぬと 聞こえ来()ば 紐解き放けて立ち走りせむ」

難波津に船が到着すると聞こえたら、紐を結ぶのももどかしく、走り出て迎えに参ります。

この二つの歌の解釈で上野誠と菊池義裕がガップリ四つという話である。ここらは、ちょっとレベルは高い。

上野論は「憶良が港の清掃をするなどはありえない。これは女性の立場で歌った歌」で、「立ち待つ」「はや帰りませ」は女性の表現である。待つ妹の立場で待ち焦がれる女性の気持ちを表現している」とする。

896番歌の「紐解き投けて」は「旅の安全を祈願して解かなかった「斎き」の紐を解き、「共寝」の紐解きであるとする。

菊池先生の論もみてみよう。「かき掃きて」は、実際に行われる、港ではなく「御津の松林」で、遣唐使を待つ地を清浄に保つ行為で、「斎き」の象徴的行為でもある。

「紐解き放けて」は無事を祈ってきた「斎き」の紐を解き、くつろいで相手に会おうとすることであるが、これは多治比家の婦徳という論である。広成の父の妻である音那は貞節を理由に元明天皇から称賛されている(続日本紀)。この伝統を踏まえ、「迎える妻を広成をささえる存在として焦点をあてる反歌である」との論である。

「上野論は笑いの歌」、「菊池論は婦徳の歌」という論で、いずれも捨てがたい。

遣唐使を送る歌では柿本人麻呂の巻133253歌と3254歌も有名である。

磯城島(しきしま)の 日本の国は 言霊(ことだま)の たすくる国ぞ ま幸くありこそ(3254番) 

この歌に関しては「言霊」問題が、解説された。折口信夫によれば、「完成された意味ある言葉」だけが、言霊となる。

またこれらの歌は、遣唐使に係る歌ではなく、九州に赴任する役人を送る歌という論もある。

他には・・・天平5年の遣唐使の歌では

旅人の宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ天の鶴群(たづむら)(巻91791

これも同じく、天平5年の遣唐使の船出の歌で

沖つ波 辺波(へなみ)な越しそ 君が船漕ぎ 帰り来て 津に泊つるまで(巻194246

さらに憶良の遣唐使の時代の歌は

いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴の三津の浜松待ち恋ひぬらむ(巻1-63

最後ですが、長歌に出てくる「値嘉」(ちが)の岬の事である。これは五島列島の値嘉島のことで、日本の西端と言うとである。

追儺の祭文(延喜式より)をみると、

東方は陸奥、西方は値嘉、南方は土佐、北方は佐渡とされており、それに照応する。

なんか、途中から箇条書きになってしまって、申し訳ない。遣唐使に係る歌だけは紹介した。一度、機会があれば確かめていただきたい。

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この講座は申し込みの必要がなく、無料である。駐車場も無料だが、この日は混みあう。

ちなみに12月は1218日(水)午後2時から「山上憶良の生死論(沈痾自哀の文)」となっている。

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# by koza5555 | 2019-11-27 22:29 | 万葉の旅