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奈良・桜井の歴史と社会

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惣谷狂言と篠原踊り

1月25日に五條市大塔の惣谷は狂言を、篠原は踊りをそれぞれ氏神に奉納する。

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惣谷狂言、8曲のうちの一曲、かなぼうし。2017年1月25日

22日(日)ころから全国的に激しい寒波、吉野もその例をまぬかれず相当な積雪となった。
惣谷や篠原に入るには国道168号を経て、宇井から県道に入る。道が思いやられたが、今年の僕のテーマは「吉野の祭り」。これは外すわけにはいかないのである。

篠原踊り、惣谷狂言というが、もともとは両村とも踊りがあり間に狂言という形だったらしい。それがいまでは篠原は踊り、惣谷は狂言が残るということである。

25日は、惣谷狂言を見学した。県道に沿って登ると集落の上に天神社がある。この境内、舞台は拝殿というか、そんなところを開け放ち、カーテンを吊る。舞台の飾りは注連縄と「餅花」である

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注連縄と餅花


五条市のHPによれば
奈良県の無形民俗文化財に指定されている「惣谷狂言」は、古くから惣谷地区で正月の神事初めに氏神の天神社と円満寺の境内で奉納のために行なわれてきました。以前は篠原踊りと同様の踊りも奉納されてきましたが、現在は狂言のみが天神社に奉納されています。
惣谷狂言は明治40年頃から演じられなくなり、大正天皇即位の大典で大正4年に演じられて以来途絶えていましたが、大塔村史編纂を機に復活の気運が高まり、昭和33年に復活されました。以来保存会によって「鬼狂言」「狐つり」「舟漕ぎ」「万才」「壺負い」「鳥さし」「鐘引き」「かなぼうし」の8曲が伝えられており、毎年この内の1~2曲が1月25日に天神社で奉納されています。


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こんなパンフレットも配られた。惣谷の村の自前である


今年は「かなぼうし」が演じられた。
かなぼうしとはかわいい子という意味らしいが、かわいい子は出てこない。
和尚さんに寺を譲られた小坊主が村人にとんちんかんな対応をくりかえし、和尚さんが叱り飛ばすという筋書きである。かといって小坊主は、和尚さんの弱点もしっかり見ている、これがオチでもある。
せりふだけ・・・ことさらな演技はしないが味はある。

惣谷、たかだが10軒あまりの村である。この小さな村に在住する5名の方が演じられていた。

たき火に当たりながらの話ではあったが、「惣谷狂言と篠原踊りを一緒に演じられないか」などという話もされていた。「2回はできない」とか「隔年で順番に場所を替えて」とか、「それだったら神さまへの奉納ではなくなり、意味が変わる」などと意見が交わされていた。

惣谷でも継続にはそれなりの困難さがつきまとう。「よその応援を得るような延命はダメ。できなくなったら終りでよい」と言い切る人もいたりしていた。

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惣谷狂言の日程は午後一時から天神社の神事。その後、着替えなどの支度があり1時50分ほどから8分間くらい演じられた。
その後、するめとお酒の直会、さらには餅まきである。僕も福をたくさんいただいた。

さて、篠原踊りは・・?
篠原踊りは雪のため今年は中止となった。「踊り手が上がってこれない」とのことだった。これはこれで、こんなこともあるだろう。

こんな雪だった・・・・写真は・・・・

篠原踊り、惣谷狂言は奈良県指定無形民俗文化財に指定されている。

途中で撮った賀名生の皇居跡。堀家である
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# by koza5555 | 2017-01-25 22:22 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

アンコールワット

寒い日本の冬を避けて、アンコールワットに行ってきた。
「どこか行こう」と、あっちゃんから誘いがあった。トラピックスのコースをみてみるとアンコールワットを目玉とする「ベトナム・カンボジア」というツアーがあり、これで即決である。

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アンコールワット

「アンコールワットは古代寺院だろう」と漠然と思えたが、実は10世紀から13世紀の頃のもの、年代的には古代とはいえないかもしれない。平安時代の後期から鎌倉時代にかけての遺跡である。
また、遺跡の数も膨大で、それぞれの遺跡の性格もさまざまだった。
代表的なアンコールワットはヒンズー教の影響が強く、アンコールトムは大乗仏教の影響が強いというように。

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アンコールワットの壁画の一つ。ヒンズーの神と阿修羅の戦いが様々に描かれている

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アンコールトム。文字通り石仏、仏頭である。これが49柱もあるのである。それぞれの柱に4仏である

遺跡保存館も訪れた。遺跡から移されたヒンズーの神像、仏像、碑文石などが展示されている。保守のための最低限の移動とのことである

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阿修羅。ヒンズー教では神の最大の敵である

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ガルラ(ガルーダ)も置かれていた

ガルダは鷲をイメージした鳥でヒンズー教の三大神のヴィシュヌの乗り物とされる。ヴィシュヌは太陽神でもあることから、それを守り乗せるガルダは像としても図としてもさまざまに表されている。ガルーダインドネシアの語源である。像を眺めると・・・「興福寺の八部衆にある」。調べてみるとその名は迦楼羅(かるら)。「かるら」とは「ガルダ」からきた言葉なんだあ・・・
インド起源の仏教とヒンズー、日本まできちゃうと渾然一体・・


アンコールの王宮は15世紀頃に放棄され、メコン川沿いにプノンペンに移動していった。熱帯樹林帯である。遺跡となると一気に密林に埋もれていくことになる。

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巨樹を取り除かず、復元前の姿を示す、そんな遺跡もあった


「19世紀にフランス人が発見した」とされるが、ガイドの主張は少し違う。
「仏教徒が住み修行した。住民も遺跡を活用していた」とのことである。そんな証拠にたとえば江戸時代の初期に日本人が個々に仏像を持ち込んだという解説もあった。タイを目指したようであるが、この地に仏像を収めたようで、その顛末がこの柱に書かれているという。遺跡となって500年,そんな時期にも仏教徒が住み、活動していた。

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漢字で書かれた日本人の壁書を示すガイドのブンさん

遺跡の復原は途上である。どの遺跡にも使い道が判らない石材が大量に積み上げられている。日本の上智大学とかも復元に参加しているとの紹介があった。

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ベトナムとカンボジアのことである。若々しい国だった。ベトナムは20歳代が人口の4割を占めるという。カンボジアはさらに子供の数が多いだろう。
バイクの大波がすごい。そして両国とも庶民の食事はすべて外食とのことである。学校に行く前に開け放たれたテーブルと椅子だけの食堂で小学生、中学生が食事(コメの麺)をしているのが興味深かった。校舎が不足しているので学校は午前と午後の二部制である。


「感動のアンコールワットと憧れのベトナム二都物語7日間」(トラピックスの)というツアーだった。どの会社でも似たようなツアーを持っているようである。ベトナムやカンボジアもおもしろいものである。

# by koza5555 | 2017-01-23 21:09 | 旅行 | Comments(0)

栢森の綱掛神事 稲渕も少し

あけましておめでとうございます。

今年の一番はツナカケ神事。
今年は1月11日に「栢森(明日香村)の綱掛神事」が行われた。

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飛鳥川に掛けられた栢森の女綱

「綱掛神事は、栢森と稲渕両大字に伝わる神事で、毎年正月11日に行われる。カンジョ掛神事ともいう。
 子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などこの道と川を通って侵入するものを押し止め、住民を守護するための神事といわれている。
 栢森大字の神事の特徴は、全体を仏式で行うことである。福石(陰物ともいう。)と呼ばれる石の上に祭壇を設け、僧侶の法要の後、飛鳥川の上に陰物を形どった「女綱」を掛け渡す。一方、飛鳥川下流の稲渕大字の神事は神式で行うことが特徴で、「男綱」を飛鳥川に掛け渡しをする。  (明日香村大字栢森です)
 こんな掲示版が栢森の綱掛け場に設置されていた。

稲渕と柏森のオツナカケである。
行事は古くて(300年前の)1751年の「古跡略考」でも、カンジョウの松とかカンジョ橋というのが記されており、オツナカケが行われていたことが判る。

日時は正月11日である。稲渕と柏森、初仕事、クワハジメの行う。
今年は稲渕はどんな具合か、9日(成人の日)に実施、栢森は古式に従い11日の実施だった。
    
稲渕は9日、三つ編み方式で80メートルの綱を綯った。その後に陽物(男性器をかたどったもの)を作り、ご幣を取り付けて綱に固定、綱は檜と柿の木に間に張られた。
陽物が川の中心にまっすぐ立つことが大事なようであるが、これがなかなか難しく、毎年苦労されている様子である。

柏森は11日の午後、大字の農作物出荷所に集合する。宮役と三グループの宮座(のようなもの)から当番が参加する。黙々と80メートルの綱を綯う。桜井の山村のオツナカケのような掛け声はなく、卑猥な戯言などもなく黙々と綯われていく。

併せて、陰物(玉ねぎのようなもの)も作られる。女性をかたどったものだがリアルには作らない。柏森の龍福寺の住職が供養を行う。

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綱打ち場


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出来上がった陰物


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綱打ち場から500メートルほどは、僧侶を先頭に綱掛け場に移動


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福石での仏事。般若心経を唱えられる


栢森のご幣は上流に向かっている。ご幣の向きは綱の道きりの意図が示されていると思うが、・・これはどうしたことだろうか。

『飛鳥の祭りと伝承』(古典と民俗学叢書)で上野誠が面白い論を述べていた。
稲渕と栢森の境目には「飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社(あすかかわかみにいますうすたきひめみこと)」が鎮座、稲渕、栢森、入谷、畑の人々が守る社であり、稲渕川水系の村々を統合する社でもあるという。
この社の前に南淵(なぶち)があり、大イデ(取水口)があり、この社ではかっては名も出踊りが踊られ、オンダが行われていたという。
オツナはこの祭、このミヤヤマを守るものとの見解とみることもできる、これが上野誠論である。

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こんな地図も書いてみた

皇極天皇が雨乞いをした飛鳥川上の神奈備の神の場とされており由緒は古い。「元飛鳥」との論もあり飛鳥坐神社の元の姿ともいう場でもある。

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神社の門前の飛鳥川。タギツであり、大イデも

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190段ほどのキツイ石段を登ると拝殿。拝殿の横に回るとお山がご本殿のような祀られ方である

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陰陽の石も境内に。石は倒れていたが

稲渕と柏の森の男女の勧請綱は、会うことが無く、結びつくことも無い。
それぞれ場で、それぞれの役割を果たすことを村人に期待されている。
# by koza5555 | 2017-01-12 19:37 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

邪馬台国はどこだ バトルに出演

本日、12月29日の奈良新聞に4ページにわたり「第五回おもしろ歴史フェスティバル」が報道された。

第5回おもしろ歴史フェスティバル「歴史を愉しむ」(同実行委員会主催、奈良新聞社・国営飛鳥歴史公園・国営吉野ヶ里歴史公園共催、飛鳥京観光協会・県立万葉文化館・NTT西日本奈良支店協力)が去る10月9日、明日香村の県立万葉文化館と佐賀県吉野ヶ里歴史公園で開かれ、インターネット回線で結んで実況中継された。奈良会場は約350人、佐賀会場には約200人の歴史ファンが参加した。
第1部は、昨年9月に続く2回目の歴史バトル「邪馬台国はどこだ?」を開催。邪馬台国の所在地を巡り、研究者や歴史愛好家が論争を繰り広げた。
(奈良新聞から)

この歴史バトルに出演の依頼があり、10分間ではあったが、「邪馬台国=纒向」論をお話しする機会を得た。

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僕の発言も紙面で紹介されている
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纏向遺跡は広さが約300㌶あり、箸墓古墳やホノケ山古墳が含まれています。出土した土器は地の地域からの搬入土器が多く、農工具はほとんど出土しなくて、土木用の多くの工具が出土しました。
纏向遺跡は計画的に造られた最初の都市と考えます。この地は、ヤマト王権発祥の地であり、さらには邪馬台国が存在したとしても不思議ではありません。
 纏向遺跡から出土した大型建物が注目されます。直径32㌢㍍の太い柱が5㍍間隔で5本並び、間口が20メートルもありました。当時の最大の建物です。さらにこの大型建物と合わせて、3棟のたてものが中軸線を一直線にして並んでいました。また、建てられた年代は200年代初めで、250年くらいまで建っていたと推定されています。卑弥呼が即位したのが180年ごろ、亡くなったのが247年とされていますので、卑弥呼の宮殿だったと考えることもできます。
 近くにある黒塚古墳からは、三角縁神獣鏡が33枚、画紋帯神獣鏡が一枚出土されており卑弥呼が受け取ったとされる鏡が含まれていると考えられます。また古墳の石室の北側から出土したU字型鉄製品は魏から届けられた黄幢との見方もあります。
纒向遺跡を邪馬台国としてみることができる地下からの証拠が出ており、総合的に考えると、邪馬台国は現在の纒向遺跡のちにあったと考えます。


来年も邪馬台国、そして奈良の魅力、もっともっと発信していきたいものである。
# by koza5555 | 2016-12-29 08:05 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

古墳時代の終焉

先日、古墳の始まりということをブログに書いた。
「倭国大乱」という弥生時代後期の2世紀後半の争乱を収めて、邪馬台国の成立、古墳時代が始まるという見方が順当である。
倭国が平和となってはじめて、戦には役に立たない大規模な古墳の造成が始まるのである。

古墳時代の始まりは書いたが、今日は古墳の終末、古墳はどんな形でなくなるかを考えたみたい。
7世紀後半、壬申の乱(672年)以降には豪族の古墳は急速に作られなくなる。
その後は大王家の八角形墳などが作られるが、8世紀にかけてそれも消滅する。

古墳の造成の停止、古墳時代の終焉というのも一気に来るわけでもない。
まずは6世紀末から7世紀初頭に前方後円墳の造営が停止されるところから古墳の終末が始まるとされる。
見瀬丸山古墳(欽明天皇の陵か?)や今城塚古墳(継体天皇陵)は前方後円墳の最期を飾る大型古墳と言われる。

同じ時代か、さらにさらに下がる前方後円墳が桜井にあることを知った。
前方後円墳の最後に近い、あるいは最後のグループといえるような古墳である。
こうぜ一号墳という。桜井中学校の真北、浅古である。これが6世紀末の古墳とされる。

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下から見たら、こんな感じだ


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号墳には二つの横穴式石室。これは東石室入り口


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これが西石室。規模はこちらが大きい。


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石室に入ると

壬申の乱(672年)以降、天武天皇の王権が確立したのちは、有力豪族の古墳は消滅する。単に墓・・ということである。たとえば宇陀の文祢麻呂(ふみのねまろ)の墓・・舎人といえでも壬申の乱の有数な将軍だが、古墳ではなく、墓地である。

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榛原八滝、稲佐山の麓。文祢麻呂墓

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同じころの明日香村の飛鳥の天武・持統天皇陵とされる野口王墓


古墳は作られなくなっていく。
古墳がつくられなくなる過程は、新しい大王を中心とする集権的な古代国家の形成過程に対応するのである。


古墳の終末の過程として、まず六世紀末葉ないし7世紀初頭に前方後円墳の造営が停止されます。それもたんに前方後円墳の造営が停止されるだけではなくて、それまで前方後円墳を作っていた有力な政治的支配者層の大部分が大型古墳をつくらなくなるのが推古朝ぐらいのできごとです。推古朝ごろに古墳の造営に関するきわめて強い規制がまず出されて、多くの有力な豪族が大規模な古墳をつくらなくなります。ただ。それでもなお地方の国造という位置につけられたような限られた有力な豪族層は大型の方墳や円墳を作りつづけますし、畿内の有力豪族層も前方後円墳に替えて大型の方墳や円墳をつくります。
 7世紀の中葉になると、即位した大王に限って八角墳をつくりだしますが、その背後には大王の地位を一般の豪族から超越した存在にしようという強い政治的な意図が認められます
(『古墳時代の考古学』白石 P271)
# by koza5555 | 2016-12-19 21:01 | 読書 | Comments(0)

塼積式古墳 舞谷と花山塚古墳

舞谷古墳群。浅古の交差点から桜井グリーンパークへの道、鳥見山から張り出した小さい稜線に舞谷古墳群という古墳が残されている。『桜井の横穴石室を訪ねて』によれば一号から五号までとのことであるが、見ることが出来るのは2号だけである。

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こんな古墳である。

いつもは笹でふさがれている道だが、桜井市(観光協会?)が最近のイベントのために切り払った。来年の春までは快適に見学ができる。
墳丘は横に長い長方形の方墳で、榛原石を磚状に加工した石材を用いて構築された磚積式の石室を内部主体にするという特徴がある。『桜井の横穴式石室を訪ねて』

こんな特異な形の石室は桜井でもここだけではなく女寄峠に残されている。
5年も前だが、こちらを探すのは大変だった。送電線を見上げながら、一万分の一の地図を見ながら4回目でやっと到達である。奈良まほろば検定の公式テキストに掲載されているのである。
花山西塚・東塚古墳という。

道順だが、昔(トンネルができる前)の、夏のバス停から林道を北に歩く。100メートル位行くと谷川の三叉路。そこを北からの尾根に登っていく。最近はテープが残されている。突き当りまで登った所から左にまくと右手に東塚が見えてくる。磚槨墳である。奥室はなく、羨道部は損壊している。

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こんなものかとさらに50メートル。

西古墳に到着。尾根の斜面を削って築かれた古墳で、円墳である。西古墳は玄室と奥室があり、境には石扉が設けられていた。壁石材に煉瓦状に加工した石材を用いており、磚槨墳と呼ばれている。
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鉄の柵が作られているが、天井から蓋をあけると中に入れる。ただし、年齢、体力、肥満度、よく注意して入るように(笑)。一人で行って猪のように捕まらないように。携帯の電波は届いていなし。


舞谷古墳群は榛原石を使用した磚積式の石室を採用し、同一集団によるものであることはまちんがいない。古墳の築造時期も7世紀中葉を前後する短期間で行われたと考えられている。舞谷古墳群の被葬者は.前代にすぐ西の尾根に築かれた古墳であるこうぜ古墳群や秋殿古墳群の後継者なのか、それとも埋葬施設が全く異なる構造をしていることから異なる集団なのか。(桜井の横穴式石室をたずねて)
これは花山西塚・東塚も同じことが問題となろう。

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一番近くで一番近い時期のこうぜ一号墳、西石室の内部。全く違うことは一目瞭然

「では、だれが、どんな氏族が」と、考えるのは自然の道理。

天理参考館には3~4世紀の磚積式の石室が展示されている。レンガの積み方の形は違うのだが、武寧王の副室などをみてみると、ドンドン横に磚を積み上げていく、桜井の古墳と同じ形も見られる。レンガを榛原石に変えれば同じ形となる。渡来氏族が墳墓を作るにあたり、百済の経験を活かしたと考えるのは、飛躍だろうか。
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最後に、桜井の古墳を回るためには必須の資料は埋蔵文化財センター発行の『桜井の横穴式石室を訪ねて』である。三輪の埋蔵文化財センターで発売、1000円
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# by koza5555 | 2016-12-18 23:12 | Comments(0)

継体天皇と阿蘇ピンク石

継体天皇の真の陵とされる今城塚古墳に関わって阿蘇ピンク石が発見されたと報道されている。
「石橋の材料  実は継体天皇の石棺  高槻古墳から破片流出」という記事が、11月11日に各紙(産経新聞、奈良新聞など)に報道されている。長さ110センチのピンク石、石橋で使われていたが付近の寺跡に置かれていたとのことだった。
「この石棺は無かったのではないか、破片しか出てこないじゃないか」と聞いたことがあるが、逆転の見事な発見である。

阿蘇ピンク石、これを考えてみた。
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東乗鞍古墳の阿蘇ピンク石石棺(今年の3月に撮影。今は石室に入れない状態である)

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奈良新聞11月11日付


継体天皇の石棺。
天理の東乗鞍古墳に阿蘇ピンク石。
桜井にはあちこちにある。
北の方から言うと慶運寺(箸中)の石棺仏。慶運寺古墳に置かれていたのだろうか。
三輪の金屋の石仏の縁の下にも見事な家型石棺の蓋石がある。
浅古の兜冢のピンク石のくりぬき式の家型石棺

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金屋の石仏の縁の下

『古墳時代の考古学』(白石太一郎司会の討論会 1998年)にその解明があった。
竜山石の長持形石棺は葛城氏の影響下につくられて、葛城氏の没落と共に消滅していくのだという倉敷考古館の間壁さんたちの研究があります。ところがその竜山石製長持石棺を用いなくなった段階ぐらいから、近畿で家形石棺がつくられ始めますので、その間のつなぎはどうも阿蘇石製石棺なのです。極端にいえば、葛城氏が大王家支えていた段階は竜山石で、葛城氏が没落すると同時に阿蘇の石がはいっているとすると、大王墓にもひょっとしたら阿蘇石が使われているのではないかということも考えられます。葛城氏にかわって胎動してくる大伴・物部氏など、大王を支える人たちの古墳がある桜井市や天理市にピンク石石棺がはいっているということも、付随した問題としてあるのではないでしょうか。(高木恭二 熊本学園大学講師 1998年当時)

大王家と大伴はこのピンク石石棺を作った宇土の地と、この地方の豪族を、とても重視していていたとの論である。

ピンク石の宇土半島の近くには菊水町、現在の和水(なごみ)j町がある。あの江田船山古墳の地で、5世紀末の遺物で文字が書かれた鉄刀が出た町である。埼玉の稲荷山古墳の鉄剣と合わせてワカタケルの文字が刻まれていた刀である。
中央で作ったか、地元で作られたかの論はあるようだが、中央直結の地であったことは十分示されている。

有明海沿岸は交易や外交に活躍した土地でもあった。
日本書紀によると百済に使えた日羅という人が出てきますが、これは火葦北国造(ひのあしのくにのみやっこ)の子どもです。葦北というのは八代の近くですね。 (白石)

こんな解説もあり、5世紀の有明海沿岸の力が浮き彫りにされている。
阿蘇ピンク石は、葛城から大伴への権力移行期の石棺で、外交戦略にたけた大伴と有明海沿岸のピンク石の石棺を作りだしていた諸豪族の力が結びついた特別な時代の産物だということだが、いかがだろうか。

政権の安定に伴い、二上山石の家形石棺、竜山石の家形石棺などが大王家、しょごうぞくの石棺の軸になっていくのであるけど。

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これは兜塚古墳、石棺
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# by koza5555 | 2016-12-17 23:27 | 読書 | Comments(0)

「国家誕生の地、桜井を語る」 〜マキムクからイワレヘ、大王の歩んだ道〜

「国家誕生の地、桜井を語る」〜マキムクからイワレヘ、大王の歩んだ道〜という講演会・シンポジウムが12月11日(日)桜井市民会館で開催された。

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大きな会場だが、良く入った、

石野博信氏(二上山博物館名誉館長)の記念講演、橋本輝彦(桜井市)さん、岸本直文(大阪市立大学教授)さん、千田稔(県図書館長)さんが基調講演、寺沢薫さんが司会だった。

石野さんは纏向王宮以後の大王宮というテーマで脇本遺跡を話された。
橋本さんは古墳時代のオオヤマト・イワレ地域の古墳と集落。
岸本さんは弥生時代の後期から邪馬台国(やまとこく)にかけての年代論。そしてオオヤマト古墳論の被葬者論を論じられた。
千田さんは、持論の「アメノヒボコが邪馬台国に影響を与えている論」だった。

今回の衝撃は岸本先生の弥生時代から古墳時代への移行時の年代論だった。

まずは、ヤマト国(邪馬台国)は一世紀に形成された畿内政権と言われる。「ビックリしましたか」と言われるが、ハッキリ言ってビックリである。
岸本論によれば、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は奴の国のことだろうが(西暦57年)、魏志倭人伝にいう倭国王 師升の107年の朝貢は、ヤマトを中心に統一された倭国に寄ったとの論である。倭国はこの段階ではヤマトを中心に統一されていたとの論である。
漢鏡の製造時期は明らかだから、それと出土の土器を合わせて行けば年代論はこれで決着といわれる。C14の示す年代でそれが補強されるとのことである。
さらに魏志倭人伝に記された「倭国乱れる」は、その後の事件で、統一政権の対する反動、揺り戻しという論だった。岸本論によれば、卑弥呼はその中で共立されるのである。

ほんまにビックリである。岸本先生の本、僕も読んだ記憶あるけど・・・・

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シンポジウムの写真はピンボケで

石野、橋本、寺沢司会からの激しい批判となるのは当然である。
ヤマト国(邪馬台国)を100年も繰り上げるためには、出土の土器が合わないとの指摘である。
また、中国製鏡との整合性を言うが、製造時期と埋没時期はタイムラグがあるのは当然という石野先生の指摘もあった。

いかが思いますか。これは、もう邪馬台国が大和だ九州だなどというレベルは論ずるまでもないということだった。


岸本さんが提起された問題を、もう一点だけ紹介したい。
オオヤマトの大王級古墳の被葬者を考えると箸墓、西殿冢、崇神、景行、茶臼山、メスリ山の六基の前方後円墳が問題になるが、これは二系統で考えるべきとの論である。

塚口先生の講演を聞いたことがある、豊岡卓之・橿考研企画部長の講演も同じ論旨であった。
塚口先生は茶臼山、メスリ山は四道将軍などの墳墓と言われる。
豊岡さんは被葬者論には及んでいないが、墳丘の解説を明確にされ、黒塚などにも論が及んでいる。

岸本さんは、箸墓は卑弥呼、西殿冢は台与、行燈山(崇神)は男王で、聖俗の聖王との解説される。
茶臼山、メスリ山、渋谷向山は聖俗と俗との断定である。墳丘が画鏡形で円と方が断続している。

聖俗、誰が王かという悩ましい問題も残るが、魏志倭人では卑弥呼を王としている。

シンポジウムは意見が分かれた。考古学に命かけてる、邪馬台国は大和や・・ぐらいしか一致点がないようなスリリングな討論で、僕も解決したり、課題ができたりであった。

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発言要旨集は500円。桜井市の埋蔵文化財センターで手に入る。

# by koza5555 | 2016-12-11 21:12 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

『未盗掘古墳と天皇陵古墳』

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桜井茶臼山古墳。こちらは未盗掘古墳じゃないけど、僕の古墳、お宝画像だ

未盗掘問題を論ずるためには、発掘とは何か、盗掘とは何が違うかを明らかにしなければならない。

考古学者が行う発掘の最大の目的は、遺物を掘りだすことではなく、遺物と遺構の関係を情報を入手することだ。
…これに対して盗掘は、このような情報に何の注意を払うことなく、もちろん記録を行うこともなく、それを暴力的にこわして遺物だけを取る行為にすぎない。
情報はその、その遺構を作って遺物を置いた過去の人々の行為を読み取るための、唯一無二の鍵となる。
(p18)

松木先生は、二つの未盗掘古墳の発掘を手掛けた。考古学者としては幸運な方というべきでしょうか。
一つは大阪大学当時の雪野山古墳。安土城跡の近くらしい。
今一つは、松木さんが中心となって岡山大学が発掘した勝負砂(しょうぶざこ)古墳である。
いずれも詳細な説明があるが今日は省く。

この発掘の経験と合わせて、発掘が中止された古墳の紹介がある。
羽曳野市の峰ヶ塚古墳の例である。
盗掘穴がある古墳だったが、掘りすすめると多くの副葬品が残された石室に至った。
遺物のなかでは魚佩(ぎょはい)といわれる(二匹の魚を腹側で向かい合せた形の金具、ベルトや刀の垂れ飾りか)が注目された。
藤の木古墳などの6世紀後半の古墳からは出土する。しかしこの古墳は5世紀後半で100年の差がある。その解明が待たれたが、「これほどまでの貴重な古墳の調査は、拙速を避けて未来にゆだねるべきだという判断が勝」ち、埋め戻されてしまった。
年代の差も不明、さらには竪穴式か横穴式かも不明である。

大王墓群のただなかにあって、それが竪穴式から横穴式へと移り変わっていくターニングポイントをなす古墳として、未盗掘ではないけれど、副葬品の残り具合も十分で、はかりしれない歴史的価値をを持っている峯ヶ塚。発掘中止崖冢として正しかったか、誤っていたいたかはだれにもわからない。・・・だが、それを解き明かす営みが、未来に向けての保存という理由のもとに、中途のままペンディングになっていること惜しむ声は少くない  (p211)

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最近入った横穴式石室。桜井の越塚古墳。石棺の器台が残っていた。

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これも最近入った桜井市のこうぜ一号墳西石室。ここは準ほふく前進である


日本の古墳に墓主の名前が入らないことの解説がありよく理解できた。
墓の主の名前がそこに残されていた事例は、日本の古墳にはない。だが中国には古くからそういう風習があった。神から墓地を買い取る「買地券」として、墓主の名を石に刻んだりすることはその典型
この風習は朝鮮半島までは伝わったが、日本には及ばなかった。
「誰それのが眠る墓」という意識よりも、巨同体のまつりの場として長の墳墓を築くという宗教的土俗性に遅くまでおおわれていた日本列島の古墳には伝わる由もなかった。


また、百済と日本の強固なつながりも触れている。
523年に亡くなった百済の武寧王の棺はコウヤマキだったことが判った。コウヤマキははモンスーンの卓越する日本でしか育たないもので、この棺の材料は日本から運ばれたものである。(p45)
西暦500年に対馬海峡を渡っていく巨大なコウヤマキ。古墳時代の英知と力は素晴らしいものである。


『未盗掘古墳と天皇陵古墳』 松本武彦(岡山大学教授) 小学館
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何を発掘したか、ではなく、発掘の考えかたを考えさせられる面白い本だった。
僕は図書館で借りたが、まだ3年ほど前の本である。
# by koza5555 | 2016-12-08 14:26 | 読書 | Comments(0)

上之郷 小夫の綱掛祭

12月と2月は小夫(桜井市上之郷)の綱掛祭である。
長谷寺から針のインターに抜ける県道を通るとき、この綱が目に入る。

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出来上がった綱を参道ころがし

12月4日(日)、午後1時からこの祭が執り行われた。
綱かけは桜井市でも各地で行われるが、シーズン入りという言葉を使ってよければ、小夫の綱掛は、綱掛シーズンの初めの祭である。今年は上之郷の三谷が3日に行われたと聞いたが、その規模、本格さでは小夫に敵わない。

午後1時に「当番となった垣内」のすべてのお家から、一人ワラ三把を持って集まってくる。
「当番となった垣内」も解説が必要である。小夫には4垣内(桑・上・馬場・東という)あり、一年ごとに祭当屋が回ってくる。この綱かけは「先廻り」といい、来年の当屋垣内の初めの仕事である。平たく言えば4年に一回当屋が回ってくる、そのまえに綱掛祭も回ってくるのである。。4年に一回だから、初めは作業のすすめかたに議論百出である。忘れたこともままありである。

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25メートルほどの大綱がなわれる。それと合わせて100メートル以上の細縄がつけられる。

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すだれを4枚。実は綱掛は3カ所になるので合わせて12枚。

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すだれの間は、こんなものがぶら下げられる。合わせて9本である。

お祓いを受けた後は、縄掛けに。
青竹の筒笛をブーブーと吹き鳴らす。単なる青竹、しかし、音はほら貝、顔負けである。

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綱掛は村の入り口の山と墓地の榧の樹の間に渡される。


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これは県道の綱


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これは初瀬川の上に掛けられた綱



小夫の綱は悪霊、疾病を絶対に村に入れないという毅然とした綱で、①川ずじ ②旧道、③新道である県道に至るまで、張り巡らすことが特徴だった。


小夫の綱掛は一年に2回である。同じ垣内が取り組み、12月のすだれは松、2月は榊と違えるのが特徴である。
# by koza5555 | 2016-12-04 23:00 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

『古代大和へ、考古学の旅人』  石野博信

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今朝の箸墓古墳。古墳時代の始まりはこの古墳からか

一月のおもしろ歴史講座(桜井駅前エルトの第4会議室・1月6日(金))のテーマは「桜井の古墳」である。どんなお話になるか、まだジタバタしている。

古墳時代ということを考えてみた。弥生時代のあと、古墳が盛んにつくられた古代のことである。大和を中心にして日本がまとまった、その時代である。同じような前方後円墳が全国で作られる。飛鳥・藤原、平城京の時代に古墳は終わりを告げる。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)を読んでみた。
きっとおもしろい観点があると信じて読んだが、やはり石野先生は裏切らない。
「古墳時代は戦争のない時代」と言われる。

弥生時代の高地性集落という問題がある。邪馬台国論でもさんざん考えてきた。
さらに弥生時代は、九州も畿内にも大規模な、そして無数の環濠集落が生まれた。吉野ケ里のような厳しく深い環濠、100メートルにも及ぶ大幅な水濠(いく筋もの溝に分かれていた)が置かれた鍵・唐古のような形である。

「高地性集落というように呼んでおります。そういう村が盛んに作られるのが弥生時代の中頃から終わり頃です。その辺と環濠集落の動きというのは当然関係があるだろうと思います。環濠集落というのはやはり敵が襲ってくる時に備えて村を濠で囲んでしまう。山の高い所の村も敵が襲ってくるのに、備えて中世の逃げ城のように山の方へ村をつくる。」
「この高地性集落が盛んに作られるのは弥生時代中期の後半で、瀬戸内海の要所要所へ作られていきます。弥生時代の後期になると近畿地方大阪とか奈良を中心とする地域にたくさんできます。近畿地方では弥生時代後期が終わって・・・バッタリと高地性集落が無くなります。私は世の中が平和になったんだと、そして墓作りにエネルギーが集中できる時代になったんだと思っています」
(p125)

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奈良盆地の高地性集落と主要な遺跡(p71)


「環濠集落」も解説、評価がきわめて端的である。
「弥生時代でも日本列島に米づくりが入ってきた時期の村の遺跡が、福岡空港のある板付にありますが、その遺跡も大きな掘がめぐらされています。きんき地方でも、大阪でも、奈良でも、そういう村はたくさん残っています。ですから、弥生時代の村が掘で囲まれているというのはごく当たり前のことです。ただし、日本の歴史の中では、そういう村があるのは弥生と、鎌倉、室町時代から戦国時代にかけての二つの時期だけです。村を全部溝で囲まなければいけないほど、この二つの時代は戦争がはげしかったと言えると思います」(p154)

古墳が全国で作られていく時代は、この時代を経てからのことなのである、古墳の形、副葬品、祭祀のことなど古墳は話題は多いが、その前提は戦争のない時代だったということがある。
こんな社会の成立に、邪馬台国がその触媒になったかもしれないと僕は考えるのである。


古墳時代はすごい。
平和な日本があって古墳ありき。
そして保守的にならずに、古墳の築造の思想と技術はめまぐるしく向上・前進していく時代でもあった。

「古墳時代、戦争のない社会、すごいわ」、こんな思いを理解していただけるようなお話しにしたいものである。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)
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# by koza5555 | 2016-12-03 10:04 | 読書 | Comments(0)

川西町 光林寺と富貴寺と六県神社

11月30日の当尾ツアーの帰り道、川西町の川端さんから、「川西の保田(ほた)、うちの阿弥陀如来も見に来て」と声を掛けられた。
「参ります」。ちょっと確かめてみると、これは快慶の作で重要文化財とのことである。
「切れ長の眼、魅力的な口もとの笑みは快慶仏の魅力を十分に見せていて、円熟の境に浸った作風である」と『大和のかくれ仏』(清水俊明著)でも、しっかりと紹介されている。

電話をかけてみて初めて分かった。川端さんはこちら、光林寺(浄土真宗)の住職夫人だった。


そっそく、拝観させていただいた。
浄土真宗と阿弥陀如来、これは基本の形だが、快慶作ということで、「これは客仏か」とも考えたが、きっちりご本尊・・・
内陣からも拝観させていただいた。80センチほど、端正なお姿で衣のひだが写実的である。
お顔は清水さんが言われるように優しさ一杯だった。
「法眼 快慶」とのことで、これは快慶の晩年の位である。

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左側に榧(かや)の巨木。実も収穫してオカキに入れる・・とか


100メートルほど南には六県(むつがた)神社、そしてその神宮寺として富貴寺。

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境内右手に寄棟造りのご本堂。この建物が、重要文化財。
「1178年に初めに堂を建立、現在の堂は1388年の建立」と江戸時代に柱に墨書(1679年)されているとのことである。

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保田の宮座といい、宮座で六県(むつがた)神社と富貴寺が管理されていたようであるが、川西町史(平成12年)によれば、六つのカイトの代表による敬神講で運営されている様子。

釈迦如来坐像と地蔵菩薩立像は重要文化財に指定されている。
釈迦如来像(重文)は、高さ84センチの桧材による寄木造で平安時代後期。
本尊の向かって右に安置されている木造地蔵菩薩立像(重文)は、高さ96センチの桧材による寄木造で彫眼、古色の声聞形立像である。
 

最後に六県(むつがた)神社
延喜式に載せられている。
広瀬郡と城下郡の境目にある。

祭神は、六県命で、
高市命
葛木命
十市命
志貴命
山辺命
曾布命
で、式内社として存在していた大和の六御県(むつのみあがた)のすべてを祀る式内社である。
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2月11日(祭)に行われる「子出来おんだ祭」が有名である。豊穣と子孫繁栄を願う神事である。
# by koza5555 | 2016-12-01 23:41 | 奈良 | Comments(0)

森浩一著作集 ① 古墳時代を考える

森浩一著作集が刊行されている。5巻までで、内容はどちらかといえば初期著作集だった。
僕ごときでは歯が立たないが、少しつづ、面白そうなところを。

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これは新沢線冢古墳、群衆墳。このご本とはあまり関係ないけど。

第一巻は「古墳時代を考える」である。「古墳時代の展開と終末」のうち、「古墳と古墳群」。1952年に古代学研究6に掲載されたものとのことである。
これがおもしろかった。古墳の在り方、とくに群集墳の検討から古代を探ろうという狙い。65年も前の論文で森先生も若かったと思う。

美濃波多古墳群が紹介されていた。三重県の名張にある。美濃波多古墳群は現在は美旗古墳群のことである。

ウィキペディアによれば
古墳時代の前期から後期にかけて、地域を支配した有力者によって築造され、伊賀地方で最大規模の古墳群が営まれている。現存しているのは、5基の前方後円墳と横穴式石室を持つ円墳1基、方墳1基で、カブト塚・矢羽塚・玉塚などの方墳と円墳の多くは消滅している。

森先生の古墳と古墳群では、こんな図面が用意されていた。
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古墳時代の史料化にあたっては古墳群の研究が必要とされて、初めに取り上げられたのが、美濃波多(美旗)古墳群だった。

前方後円墳の馬塚(うまづか) は盆地のどこからも見える。
問題は図面にある8基の古墳が「各期の代表的な形態を示していると言いえるほど、その相互間に顕著な相異をもっている」とし、地図の番号順に①殿塚、②女郎塚、③毘沙門塚、④馬冢、⑤玉塚、⑥王冢、⑦横穴石室の順で構築されたと論じられている。

古墳群を形成する8基の古墳は、築造時期が均等な時間で前後を持っている。
一時期に固まって築造されたのではなく、順次作られて古墳群になった。
40年ごとの築造・・という間の時間も明確にされて、一世代一墳、一氏族によって構築されたとするのである。

美濃波多(美旗)盆地は300町歩(300ha)で、これがこの氏族の経済力である。
なるほど。古墳時代・・300年くらい、大和と伊勢・東国との交通路の要地で40年ごとに古墳を造っていた氏族の暮らしぶり・・・

森先生は群集墳問題でさらに三島野古墳群を取り上げる。
同じように10基ほどの古墳で古墳群が形成されている。

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三島古墳群も古墳の形態から一世代一墳とみられるが、⑨茶臼山、⑩今城冢と巨大前方後円墳が築かれる。
 もともと大きな富裕の地を支配した氏族が考えられるが、全長223メートルの茶臼山古墳、312メートルの今城冢古墳は大飛躍である。「氏族団体の占有地域は急速に拡大した」とみるべきとされる。氏族から地方レベルということだろうか。
この地方レベルに拡大されていく過程と合わせて、継体天皇が位置づけられるとしている。

森浩一の結論・・「継体天皇は三島野古墳群によって表される氏族団体から抜擢されたことが考えられるのであり、中期の茶臼山古墳の規模からみて、すでにそれにふさわしい実力を備えた強力な氏族団体となっているのである。


奈良盆地内にも巨大古墳と群集墳の存在している。行燈山古墳、渋谷向山古墳と竜王山古墳群、鳥屋ミサンザイ古墳と新沢千塚、室宮山古墳と巨勢山古墳群などであるが、これらは巨大古墳が先行するのであるから、三島野とは条件が全く異なっている。

大和の場合は、巨大古墳に葬られている盟主をしたって、付近の山・谷に大量の群集墳が設けられたとみるべきだろうか。

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新沢千塚古墳群と桝山(現 倭彦墓)・鳥屋ミサンザイ(現宣化天皇)古墳
『巨勢山古墳群と室宮山古墳』(歴史に憩う橿原博物館講演・・白石太一郎)より


森浩一 著作集第一巻。古墳時代を考える
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# by koza5555 | 2016-11-29 21:27 | 健康 | Comments(0)

芝村騒動と龍門騒動

芝村騒動を上島秀友さんが書かれた。
上島さんは香芝市のお住まいで、10月に行われた「邪馬台国バトル」でお話しした折、石野博信先生のご紹介でお近づきになった。
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芝村騒動は、芝村藩の預かり地となっていた大和盆地南部の天領でおきた。
宝暦3年(1753)、十市郡の九ケ村が決起。京都町奉行所に箱訴した。箱訴は合法手段だったはずなのだが、村役人らが江戸の召し出され、吟味が開始された。吟味は過酷を極め、次々と犠牲者が出た。取り調べの対象は式上郡、式下郡の村役人にも拡大、40人以上が獄死した(
p4)

ぼくもこの芝村騒動のことをお話したことがある。僕なりに調べて、磐余・吉備のあたりのお話しの中での紹介だったが、知らずに話したことがたくさんあった。この本を読んで、芝村騒動の経過と全貌、本質が良く理解できた。

十市郡は広く幕府の天領となっていたが、その税収は芝村藩が代収していた。これを預かりというが、大名領などと比べても過酷な徴収が行われていたといわれる。
租税は五公五民、代理で徴収する(預かり)芝村藩は3%の手数料が入るという仕組みである。芝村藩は一万石、預かりが9万石ほどになっていたから、普通に徴収していても、一万三千石である。
しかし、検見と呼ばれる作柄の検査があり、これで税収が決めるが、百姓に有利な検見はないという状況が続いた。
「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでるものなり」(本多利明『西域物語』)というのが施政者の考え方だから、この状況は全国共通である。
ところが、これに合わせて、芝村藩の預かり地には「別の複雑な事情が潜んでいました。」(p38)

それは、「畝詰り」にも年貢がかかったということである。
畝詰りとは「実際の面積が検地帳に記載された面積よりも少ない」状態で、検地帳を基準に課税されると、五公五民ではなく、畝詰りの具合では七公三民にも変わってしまうのである。
もともとは郡山藩が柳沢忠明の時代に、藩の格をあげるために12万石を15万石に変えたという歴史があった。農地は増えていないのに、郡山藩のすべての農地は台帳では二割五分増しの面積に変わっていた。郡山藩の時代はその事情が判っていて、割り増し分は無税だった。ところが、盆地南部の領地が天領に変わって問題が生じる。
芝村藩はこの二割五分にも課税したのである。

ここらあたりを僕は知らなかった。この仕組みで芝村藩、預かりの村々は八公二民というような重税にあえぐことになったのである。
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300人もの江戸への呼び出しや40人もの犠牲。後日談も上島さんの視点は暖かく丹念である。
お薦めしたい。

芝村騒動といえば、吉備区では、毎年9月15日、吉備薬師寺において、芝村騒動の犠牲者の慰霊祭を行っている。
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吉備村からは8名が呼び出され、
平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死
長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還できたとのことである。
帰村した5家のうち、2家が途絶えて森本家、吉崎家、吉本家で供養を行っているが、「当屋を決めて、法要を行い、慰霊碑を拝み会食」という、供養である。
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吉備区集会場、薬師堂


合わせて掲載されている上田龍司さん(故人)の『竜門騒動』、『天保ききん考』、『いのちのかて 昔の稲作の思い出』も読みごたえがある。
『芝村騒動と龍門騒動』。大和の百姓一揆  青垣双書(青垣出版)。1200円+税
# by koza5555 | 2016-11-25 19:03 | 読書 | Comments(0)

えてこでもわかる  笑い飯 哲夫訳 般若心経

9月から桜井の広報大使は「笑い飯・哲夫」。
そういえば、「ムジークフェスト」で、僕がテレビに取り上げられた時のコメンテーターは、笑い飯哲夫やったな・・というようなことで、哲夫の本を読まさせてもらった。 

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 『般若心経』である。「えてこでもわかる笑い飯哲夫訳 般若心経」とあった。
 「お笑いの笑い飯が書いた般若心経か」とは思ったが、「広報大使やし、僕がテレビに出た時のコメンテーターやったし」と手に取ってみた。

これが、おもしろいし、考えさせられた。
あたりまえのことだけど、僕には書けん。「たとえ」が違うし、何よりも般若心経の理解度が僕とは全く違うレベルだった。

そして、「涅槃」を究竟(くきょう)しているわけですが、やっと出てきました。「涅槃」です。この世に存在する二字熟語で、一番好きなやつです。「涅槃」か「刹那」で迷ってたんですが、やっぱり「涅槃」が一位です。二位が「刹那です」。吉本興業の芸人プレフィールをみてもらったら、好きな言葉のところに、「涅槃」と書いてあると思います。社員さんに聞かれた時、そう答えました。この、かっこいい「涅槃」の意味はといいますと、「煩悩を滅ぼし尽くした悟りの境地。仏教の最終的な理想」とまた、意味もかっこいいんです。(p102)

般若心経、いよいよ終わりは
 「羯帝羯帝波羅羯帝(ぎゃていぎゃていはらぎゃてい) 波羅僧羯帝(はらそうぎゃてい)である。

哲夫はこんな訳を示してくれた。
全然意味わかりませんよね。これもサンスクリット語の音写なんです。・・・・意味は「ガンバッテーガンバッテー」ではないらしく、「往ける者よ往ける者よ彼岸に全く往ける者よ悟りよ幸いあれ」などとなるらしいんですが、なんのことや年、と化なるんで、個人的に「ガンバッテー」みたいな感じでいいと思います。個人的に「がんばってがんばってよくがんばってまさによくがんばって悟れよ幸いあれ」だと思います。(p128)

なるほど、結論もキチッとしてる。
「がんばってがんばってよくがんばってまさによくがんばって悟れよ幸いあれ」かあ。

では、さらにさらに僕もがんばろ やな
# by koza5555 | 2016-11-19 21:07 | 読書 | Comments(0)

阿蘇ピンク石 兜塚古墳 慶運寺の石棺仏 金屋の石仏と石棺

石棺だけを論じた本である。少し古くて20年前の本である。
『石棺から古墳時代を考える』―型と材質が表す勢力分布―
真壁忠彦 著  同朋舎出版である。

目次は「石棺の石材」、「石材産出地」、「舟形石棺の世界」、「長持形石棺」、「家形石棺」。
いやんなりました?

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これが今日の話題の阿蘇ピンク石の兜冢古墳(桜井市朝古)

話は様々な角度があるが、今日は阿蘇ピンク石のことだけを紹介したい

桜井のピンク石は他にも

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箸中の慶運寺の石棺仏。ピンク石である


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金屋の石仏堂の床下に保管されている石棺。ピンク石だ


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少し時期が下がるし、天理市だが。東乗鞍古墳の石棺(現在は管理者によって石室内の入室が禁止されている)

著者の真壁さんは、当時は倉敷考古館の学芸員
岡山県の南東部、邑久郡長船町の築山古墳(p189)のピンクの凝灰岩のが石材の産地が不明だった。
産地は不明だが、次々と同じものが明らかとなる。
まずは畿内に多い。たとえば、京終の野神古墳であり、桜井市朝古の兜塚古墳、東乗鞍古墳などである。

そこで産地を探した。二上山に似ている石があった。さしづめ二上山ピンク石である。
ところが、1991年、九州でこの石をみることなった。宇土半島に露岩があった。ピッタリである。二上山ピンク石 改め 阿蘇ピンク石のはじまりである。

「阿蘇山は凝灰岩を何度も噴出。これは一般的な黒灰色の凝灰岩で・・・ところが数度の噴出のうちで、一度は、ピンクの凝灰岩の噴出となったという」(p191)

阿蘇から次々と運び出される。石材というよりも。加工されていた可能性も論じられる。
席棺の分布の中心は大和であって、佐紀古墳群や葛城古墳群とは外れたところに分布しているという。中心の氏ではないということである。

箸中の慶運寺、三輪の金屋の石棺も同じような場所である。
元々は大型古墳が多い地域だが、この時期は大古墳が見られなくなっているという地域である。

「中期の大古墳の世紀が終わろうとした時期に、畿内に新しく台頭してきた新勢力の動きをみることができるのであり、その勢力が、旧勢力を代表する棺であった長持形石棺とは形も石材(色も)も違った新しい棺を採用したのがピンク石家形石棺だったのである」(p194)

「そういう意味では吉備の築山古墳は畿内新興勢力の石棺と同形態、同石材であり、畿内の新勢力と同質ということを古墳が主張している。」

この新興集団は歴史にどう立ち向かうか。
古墳時代の後期の石棺に大きな影響を与えていることからみて、飛鳥の時代にかけて大きな影響力を持ったとみるべきと強調がある。
ピンク石の家形石棺は歴史のアダ花ではなく、石棺の時代の主流を歩んだ石と言えるのかも・・である。

最後に、これが阿蘇ピンク石。これは現代に切りだされた石材の破片である。
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# by koza5555 | 2016-11-16 22:19 | 読書 | Comments(0)

『古墳は語る』 石部正志

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左側は岩屋山古墳(明日香村)、中がムネサカ一号墳(桜井)、右が峯冢古墳(天理市)。なんで、同じ形になるのだろう

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 『古墳は語る』。石部正志先生。丹念に初心者に古墳を教えてくれる本である。僕も勉強になった。かもがわ出版である。

箸中山古墳から古墳時代が始まる。古墳はそこからである。
吉備には楯築墳丘墓があり、ヤマトには突出部を持った円墳ができた。纒向の石塚や東田のことである。
その後、古墳の画期をなす箸中山古墳が作られる。
前方部が違うというのである。それまでの前方部(突出部)は出入り用の通路という。箸中山はそこが違う。前方部は急斜面、そして高い。前方部の先からは円丘が見られない、登れない。
この古墳の大きさ、姿は墳墓の形を一変させたもので、今までになかった王者が登場したことを物語るもの。(p39あたり)

箸中山古墳は石塚古墳などとは形も違い、入り口が違う、祭祀も違うといわれるのである。

さて、大古墳の造営地の移動が論じられる。時期と場所の検討である。
大王墓はオオヤマト古墳群に始まり、盆地北部の佐紀古墳群に移動し、4世紀の中期からは古市と百舌鳥古墳群に移っている。
その後は高槻の今城冢古墳を経て、太子町の磯長谷、飛鳥の地域が墓所となった。

ここでは、二つのことが問題となる。
①一つは大王位の継承のありかた
箸中山古墳に続いた大王墓は、西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→栁本行燈山(崇神陵)→渋谷向山(陵)と築かれたと推定され、いずれも三輪山に近い広義のオオヤマト古墳帯にありますが、造営地点がバラバラであることが気になります」(p171)と、場所があちこちに行ったり来たりすることに注目されている。
その後の奈良県北部への古墳群の移転、さらに大阪平野の百舌鳥・古市古墳群に移っていることも合わせて、これらの墳墓の場所のありかたは、「大王位直系親族世襲制の原則とは相いれない」(p171)と断言される。なるほどである。

②あと一つ、これらの地域が土師連(はじのむらじ)の勢力地域内であったと指摘があり、その上で、
「古墳時代の土師氏は、大古墳の造営と、古墳での祭祀の執行を仕事とした鞆造(とものみやっこ)系の大氏族でした」
また、箸中山墓古墳については、「箸墓ではなく土師墓(土橋寛論)ということ」だとして、「箸墓は土師史が古墳造営の主担者としての呼称に起源し、(土師氏の)始まりは箸中山古墳築造の時点、あるいは、さらに前に遡るかもしれません」とされるのである。
「首長のための厚葬墓の造営は、弥生時代後期頃から進みだしました。古墳祭祀の大きな要素の一つとして、築造企画に則った大墳丘の造営や埋葬施設の棺槨の構築と並んで、葬送儀礼用の特殊器台、特殊壺の製作と使用も大事な仕事だとすると、土師の仕事の始まりは吉備の楯築墳丘墓造営まで遡らせます」(p134)というのが、土師蓮の起源、役割についての石部先生の論だった。

土師(はじ)連はその後どうなるのかも解説がある。
「大古墳は6世紀末には終わり、火葬が普及する8世紀には高塚古墳が築かれなくなり、土師氏が墳墓のことで果たしてきた役割は無くなり、その後は菅原氏などに名前を替えて、学問の家として栄えていくことになります。」(p133)

なるほどなあ、「古墳を見れば作った人も見える」ということで、これは目からうろこである。
土師師は自らの仕事を文字で残さなかったが、この書の題名の通り(古墳は語る)古墳に語らせている。

僕なりに考えてきたことを少しだけ、あげてみよう。
たとえば桜井の艸墓古墳、竜山石の家形石棺が残されている。古墳の施主が播磨まで影響力を持っていたという論を聞いたことがある。

僕はこれがとても不思議だった。そんな論なら、「阿蘇ピンク石」の石棺に葬られた桜井市朝古の兜塚古墳の例、この方は九州まで影響力があったということになってしまう。

作る人のことを考えねばならない。それが土師連(はじのむらじ)で、「石材の入手も含めて広い地域に大きな力があったと考えるべきかな」と考えた。
あちこちの豪族が古墳造成と祭祀のノウハウを持つというより、大王家をはじめてして数多の豪族と結びついて古墳造成を進めたんではないか・・ということである。

羨道の入り口の天井の刻み。これは天井を伝う水滴を落とす仕組みという。

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左が岩屋山古墳(明日香村)、右が安倍文殊院西古墳(桜井市)
同じ人、同じ系列の人が考えたものであることは確実である。
# by koza5555 | 2016-11-15 15:08 | 読書 | Comments(0)

醸造安全祈願祭 大神神社

大神神社は11月14日に「醸造安全祈願祭」を斎行する。

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枡酒の振る舞い
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併せて奈良県酒造組合の振る舞い酒も


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出仕する祭員

酒造りの神様と仰がれるご祭神の神徳を称えて、新酒の醸造の安全を祈る祭典で、全国の酒造家・杜氏・酒造関係者が参列します。祭典後から醸造安全の赤い御幣と酒屋のシンボル「しるしの杉玉」が全国の酒造家・醸造元に授与されます。(大神神社HPより)

祭典は大神神社拝殿で参拝、続いて大物主の力で醸された神酒を崇神天皇に献酒した高橋活日(たかはしのいくひ)を祀る、活日神社にて玉串奉奠という祭祀である。

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いつもは森閑とした活日神社もこの日ばかりは


境内では全国から寄せられた銘酒の振る舞いがある。いわば、吟味し放題と言いたいが、いっぱいまでとの但し書きも。

大神神社の「しるしの杉玉」のことである。
醸造祈願祭の前日、11月13日には、吊るし替え(大杉玉掛け替え)が行われる。

「しるしの杉玉」は、拝殿と祈祷殿に吊るされるが、すべて人の手によってはこばれた。

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これは昨年の吊るし替え

昔の駕籠のように6人掛かりで運搬、どんな具合ですかとお聞きすると、「今年は230㎏です」と汗を拭き拭き、説明していただいた。神社の大杉玉が吊るし替えられ、祭りの準備が整えられます。

この醸造祈願祭、酒まつりを終えると、作り酒屋の紋章もともいえる「しるしの杉玉」は、「新酒の印」として全国の酒屋の店先に吊るされる。

この神酒は わが神酒ならず  倭なす 大物主の 醸みし神酒  幾久  幾久

崇神天皇8年冬12月、今頃だろうか。
崇神天皇が三輪の大神を太田田根子に祭らしめた日に、高橋活日が神酒を捧げて詠んだという。
全国の醸造元から届けられた数々の酒は壮観です。


大神神社、拝殿は寛文四年(一六六四)に徳川四代将軍家綱が再建したもので、重要文化財に指定されている。
また拝殿の奥正面にある三ツ鳥居は、三輪鳥居とも呼ばれ古来当社の特色の一つとされる。三つの明神型鳥居を一体に組合せた形式であり、重要文化財である。


以下は大神神社HPより
『日本書紀』の崇神天皇条には、高橋活日命(たかはしのいくひのみこと)が天皇に神酒を献じた時に「この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久」と歌ったとあり、大物主神のご神助により、会心の美酒を造ることが出来たことが記されています。このことからご祭神が酒造りの神として敬われることとなったのです。祭典では活日命の和歌で作られた神楽「うま酒みわの舞」が四人の巫女により舞われます。そして、境内では各地から奉献された銘柄を展示する全国銘酒展が催され、樽酒の振る舞いも行われます。

また、祭典前日には拝殿と祈祷殿に取り付けられている直径1.5m重さ250kgもある「大杉玉」が青々としたものに掛け替えられます。

# by koza5555 | 2016-11-14 13:48 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

国号地名。桜井市出雲、吉備、豊前、長門

島根県の方からお手紙をいただいた。「出雲とか、さらには吉備、豊前、備前など、こんな地名が桜井市周辺にたくさんあると聞きました。なんで」との質問だった。

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こんな地名が分からんということだ。ご返事を差し上げた
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 桜井市にとどまらず奈良県には、昔の国名を地名とする村名は数多く存在します。
桜井市でいえば出雲、吉備、豊前があり、安倍には長門もあります。桜井市jの近在の三宅町(但馬、三河)、天理市(丹波市、備前、上総)、橿原市(飛騨、大隅)、高取町(土佐、薩摩)などが知られており、県下全体では大字、中字で55ほどの村名が数えられております
 近畿地方には旧国号村名は、京都府で10カ所、大阪府でも6カ所などが知られていますが、奈良県の地名は発生が古いこと、数が多いことから特別の位置づけがなされています。
 古文書によると(大乗院雑事記、和名抄)、国名地名は東北地方の国名が無いこと、西日本の国名が多いこと、畿内は少ないこと、旧磯城郡・山の辺郡・十市郡(これらは奈良盆地の南部にあたります)に多いことを特徴としています。
 また、藤原京(奈良盆地の最南部)の造成(694年~710年)にあたっての貢進国が国名地名となっていることが多いことなどが指摘されています。藤原京造営時に生まれたとの見方もあります。
藤原京造営時、藤原京造営の貢進には人的なものも含められており、造営協力の各国(旧国)の出張所(宿泊所を含む)などが置かれた場所が、その後の村名になっていったとの見方が多いようです。
したがいまして、古文書による(現在も数多くが残っている)旧国名は大和平野の中央部と南部、藤原京跡周辺に集中しており、他は中ツ道、下ツ道、太子道、巨勢(こせ)街道などの当時の街道筋、交通路に集中していることが特徴です。
  『奈良県史14 地名』などを参照に返事を書いた。


桜井市の出雲はさらに面白い。こちらの出雲も「旧貢進国」論で解説できると考えているが、地元の伝承、信念はもう一つ、複雑である。
 
地元の伝承ではもともと出雲は桜井市だというのである。
日本書紀によると垂仁天皇の時代に、国内で初めて天皇の前で相撲が行われたとされている。
当麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢が「自分より強いものがいるならぜひ戦ってみたい」と豪語しており、それを耳にした天皇が対抗できる力自慢を探させ、呼び寄せたのがこちらの出雲の野見宿禰(のみのすくね)だということである。

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出雲十二柱神社

出雲国より「即日に招集」したという記述が日本書紀にあることから、「島根(出雲)から奈良まで即日に招集できたのか?」と考え、実は山陰の出雲ではなく、桜井の出雲から呼び寄せたというのである。

そんなことから桜井市出雲には野見宿禰に関する伝承が多く残されている。

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狛犬を支える相撲人形

十二柱(じゅうにはしら)神社には巨大な五輪塔が残されていて、これは近くの野見宿禰塚から移されたもの(現在は取り壊されている)であり、また神社のこま犬を支えるのは相撲人形で、野見宿禰の顕彰の力が入っている。


歴史の深さ、長さ、出雲の方の村名に対する誇りは、ひとしおである。
# by koza5555 | 2016-11-13 20:23 | 奈良 | Comments(0)

高畑町裁判所跡地の庭園遺構

「高畑町裁判所跡地の庭園遺構について」という発掘と現況の説明会に参加してきた。
「えー、報道されたの?」と驚かれるだろうが、20名くらいのグループ(アカダマ会)に対して、発掘を担当した大学教授と奈良県が特別に開いてくれた現地調査だった。

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裁判所跡庭園遺構内。石造宝塔(仏塔)これは古いものらしい。こんなものも拝見できた


一か月ほど前に元アカダマの大槻さんから、勉強会のお誘いのメールが届いた。
「高畑町の旧裁判所跡地に大正時代の庭園遺構が残されていることが判った。発掘を担当した京都造形美術大学の仲教授の話と現地見学だが」ということである。
9月・10月の土・日だったら無理だったが、良い具合に空いていた。

現地に行く前に、遺構地の歴史、遺構の現状を一時間もかけての解説を受ける。

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場所はここ。浮見堂の南、奈良市観光駐車場の西である


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東から見ると外見はこんな感じで・・

この中に庭園遺構が隠されていた。

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北側から入る。建物は一切残されていない。

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苔むした礎石。さっそく松田さんが確かめると・・・「これ、コンクリートです」(笑)
元々は室町時代に遡る興福寺の支院、松林院の庭園であるが、大正時代に大改変されており、庭園としては松林院時代へは遡れなさそうである。

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橋。切込みを入れてつなぐ。細工は細かい

仲教授によれば、「素晴らしい庭園が、まだまだたくさん残されている。その中でもこの庭園遺構は地形も利用されており、すばらしい。修復して公開するべきだろう」とのまとめだった。

良いものを見せていただきました。
修復、公開を待ちたいと思います。


こちらの庭園は室町時代、興福寺の松林院に始まるとのことである。支院では一番の上流、一番東にあるようである。松林院は一乗院、大乗院の二門跡に次ぐ四院家(松林院、修南院、喜多院、東北院)の一つである。

廃仏毀釈で松林院は廃止となり、所有者は松林為成、梅田春保を経て山口謙四郎(山口財閥)が所有し、別荘として使われることになった。
戦後、所有は裁判所に代わり家庭裁判所、官舎として使われ、平成17年に奈良県に所有が移された。
# by koza5555 | 2016-11-12 22:06 | 奈良 | Comments(0)