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奈良・桜井の歴史と社会

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神社検定 古語拾遺を勉強

6月26日に「神社検定」を受験する。
受験のテキストに「古語拾遺(こごしゅうい)」があった。
古語拾遺は平安時代、官人であった斎部広成(忌部  いんべのひろなり)により、大同2年(807年)に書き上げられたものである。

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古事記・日本書紀を斎部の立場で解釈、解説した書籍であるが、これが僕は初めて。
聞いたこともないのでは・・というものだった。

読んだだけ・・という所だが、少し書いてみた。

平城天皇の命により、斎部に伝わる伝承をまとめたというものである。
80歳を過ぎた老翁が書いた本である。

まずは斎部家である。
「中臣は天神寿詞(よごと)を奏して、忌部は神璽之鏡剣をたてまつれ」というような約割が決められていた。
中臣と斎部は同等のはずだったが、中臣の支配下に組み込まれていくことに、斎部広成はこれに怒りをぶちまけた。

そこで、斎部広成のめざしたものである。
斎部広成は歴史をどんなふうに認識しているか・・興味深い。

広成の歴史観は、推古天皇までが歴史時代、そのあと、孝徳天皇時代以降は現代と見ていたようである。
生まれた100年ほど前からを現代としてみる、僕らで言えば明治時代からが現代ということになり、その意味では共感が持てる。

広成の主要な主張は、歴史時代(神話時代)の天皇と各氏との関係を重視して、それに立ち返ろうとよびかけている。氏族の貢献を壬申の乱の功績だけで決めつけるな、こんな主張をしているようである。
律令の体制が、受け入れられない悲劇である。

広成は神話時代を日本書紀にそって紹介しながら、もれている事(直してほしい、戻してほしいこと)、十一ヶ条を書き連ねて、祭祀、神祇の諸制度の復活をめざしている。
部分的には斎部の主張は通っていくが、その後の歴史は中臣の圧勝、これも史実であり、斎部の主張は痛ましい。


それはそういうことで、西暦900年の頃の、当時の祭祀担当者の広成の歴史認識を紹介してみたい。
これは斎部広成がというより、著者の松本久史国学院大学助教授の考え方かもしれないが(ちなみこの本は神社本庁監修である)。

神代と人代の境目がおもしろい。
「人代の始まりは神武天皇」とするのが常識的な記紀の読み方。
ところがこちらは神武天皇が人代の始まりとしている。
「天石窟、天孫降臨、神武天皇の即位の各エピソードにおいて、登場する神々や出来事に類似性が見られます・・・神武天皇がつなぎにされているということで、連続性が重視された」

ここからは僕の意見だが、
欠史8代もすべてが神代ということになるのだろうか。
そして、ここまで考えてくると、神代はもっと下って神功皇后まで見ても良いのかも。人代は第15代の応神天皇以降と言う考えも成り立つのだろうか。

まあ、こんなことを勉強しながら、26日の神社検定、合格に向けて頑張りたい。
合格したらどんな特典があるのか、それは何ほどのものもありません。
乗ってしまった船、勉強である。すでに十分楽しんだが、最後まで頑張りたい。
60才代で、「秘かに一級までの合格」を目指しているのだが・・・・
# by koza5555 | 2016-06-05 18:19 | 読書 | Comments(0)

三輪神は軍神

「大神と石上」(筑摩書房)、和田萃と寺沢薫両先生の論文から考えた。

和田萃さんは冒頭で三輪の神の性格の変遷を説く。

①三輪山に籠りいます神は、蛇体の雷神・水神とされていた。それが神体山である三輪山を仰ぐヤマトの範囲の国造り神・守護神となり

②さらには大和・河内連合王権が各地に進出していった際、各地に勧請されたらしい。
それが各地に、大神神社、美和神社、三輪神社や、大神郷、美和郷が広く分布する背景となったのだろう。

③六世紀前半になって、三輪山祭祀は大きく変化する。
王権の守護神的色彩の濃かった三輪山の神が一転して祟り神(オオモノヌシ)にと変化し、国ツ神の代表的な存在となった。オオタタネコを祖と仰ぐ神君(みわのきみ)によって祀られることになった。

以上の三段階が、三輪山祭祀の歴史として紹介される。
この第二段階、②のことであるが、王権の拡大に伴い、三輪神が各地に勧請されていく時期である。
この時期の「三輪山の神が軍神としての神格をも有していたことは、筑紫の大三輪神社の創祀の由来にも明らかである。」との指摘である。

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三輪明神

本からここで少し外れるが、先日、「箸中区」でこの勉強をしてきた。
桜井市にお住いの松田度さんがコーデネーター?で、箸中区の杉本ご夫妻(ご主人は箸中区長)の肝いりの勉強会である。

今回は、大神神社の山田浩之主任研究員(権禰宜)が「三輪の神」を語られた。
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箸中の慶運寺のご本堂。講演する太田浩之大神神社権禰宜


「大和を中心に東西に三輪神が祀られるが、東国では和田説の説くように軍神としての性格が個々に確認できるが、西国でも同様の性格が担わされた」とされる。

「時に軍卒集い難し。皇后曰わく、必ず神の心ならむとのりたまひて、即ち大三輪社を建てて、刀矛を奉りたまふ。軍集自づから聚る」(仲衷天皇9年9月・皇后は神功皇后)
さらに備中国風土記、筑前国風土記などの紹介もしつつ、三輪の神が軍神の役割を果たしたことを論じられた。

こうした三輪の神の性格は、石上神宮などとは違い、今の大神神社に見出すことは難しい。歴史的にこんな役割を果たしたというだけのことだが、これは目からウロコだった。

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全国の三輪神社、三輪(美和)の郷 椙山妙子氏作図


ところでこうした、三輪の神の性格の変遷が、考古学的にも裏付けられるというのが、「大神と石上」の寺沢薫論文である。

考古学的に言えば、
考古学的に、三輪山祭祀はいつまでさかのぼりうるだろうか。確実な資料から判断すると、山ノ神遺跡や奥垣内遺跡のように磐座という神の拠り所を設け・・・5世紀の後半には明確に三輪山祭祀が始まっていた。先行遺跡の検討のなかで・・・四世紀中ごろにさかのぼる可能性がある。として、三輪全域で祀られたと証明がある。
①これが三輪の神が雷と言われる時期である。自然な祭である。

大和朝廷と一体の動きをとり、軍神的な役割を果たすようになると、それは6世紀初頭だが、三輪の祭祀は狭井川と大宮川の間、現在の大神神社の境内に移ったとされる。
神社というか、境内の成立である。
祟り神になり、その傾向を一層つよめたとされるのである。

祭祀場所が限られていく(同じ場所で何度も祀る)ことと、政権との一体化を強めた時期とが一致するのが、とても興味深い。
アミニズムの祭祀と政権が関わる専門的な祭祀、そんな風にはみれないだろうか。、


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6月4日の日の出

# by koza5555 | 2016-06-04 18:36 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

石上神宮の禁足地

和田萃先生の編で「大神(おおみわ)と石上(いそのかみ)」という本がある。「神体山と禁足地」がテーマである。

石上神宮を考えてみた。
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拝殿・国宝に指定されている

 ご祭神は武甕槌(たけみかづち)神が出雲遠征で帯びていた神剣である。神武天皇東征の折、武甕槌神が熊野の高倉下命に降して邪神の毒気にあった神武天皇を蘇らせた霊剣でもある。これを崇神天皇七年に宮中より現地、石上布留高庭に移し、土中深く鎮め石上大神と称え祀ったのが当宮の創めと伝えられ、以後代々、物部氏が祭祀をした。
この布留高庭が「禁足地」とされている。

明治7年、宮司の管正友がここを発掘した。
社伝の通り神剣が埋められているか。発見できれば正殿に祀ろう。
そして盗掘対策である。放置して盗掘に任せていいのか。被害は出ているのである。
発掘は成功で神剣は出たのである。


天理参考館に勤務されていた置田雅昭さんが、「禁足地の成立」でここらあたりの事情を書かれている。

発掘の状況である。
30センチ掘ると瓦が敷き詰めてあった。これを取り除いて下を掘ると石囲いがあった。
地表下90センチの所に剣、勾玉、管玉などを発見した。

側壁は「一尺或いは尺余の石を積み重ね」とあるから、二段以上積んだ石室のようなものだろう。石室の壁が板石を積んだものか、円礫であったのかはわからない。所伝はないが、発掘地の標柱が石室材の転用とすれば、花崗岩の円礫である。

石室の構造、遺物の構成などが、古墳時代の竪穴式石室、横穴式石室と共通する部分がある。花崗岩を用いた竪穴系の特異な構造を推測させる。
この古墳は出土品からみて 古墳時代中期前半である。


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布留社と示された禁足地瑞垣


境内の造成にも触れている。

境内は斜面に造成された一辺が120メートルの方形平坦地にある。北から見ると10メートルの段があり、この段を取り巻くようにいくつかのため池、空き地が残されている。ため池はもともと濠のように段をコの字に巡っていた名残の用である。すなわち段もまた人工的に造成したことがわかる。  と置田さんは言われるのである。

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境内図

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これは神社東側の周濠だったかもとされるため池

境内や東側ため池からは古墳時代中期後半の土器(土師器)が発掘されている。神宮の境内で古墳中期後半の祭りが行われたことを示唆する出土品である。

一辺120メートルの方形古墳が、石室、墳丘も合わせて、神宮に転用されていったという論であろうか。

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境内を闊歩するニワトリ


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大神と石上(筑摩書房)


7月1日に、桜井カルチャーで、「山の辺の道」を講演。これはとっておきの話題だろう。
# by koza5555 | 2016-06-01 16:23 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

ムジークフェストなら 大神神社

6月20日(月)は大神神社の大礼記念館で、石琴(サヌカイト)の音色が奏でられる。
臼杵美智代さんの演奏である。 木琴(マリンバ)の土屋さん、声楽の庵前さんという地元桜井で活動する音楽家との共演も見られるようで、とても楽しみである。

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大神神社の拝殿と祈祷殿の「しるしの杉玉」は毎年11月13日に掛け替え

このコンサートの前に、コンサートのお客様に大神神社を案内することになった。
桜井駅から大神神社に専用のバスが運行される。このバスで来られる参加者を案内するのだ。
演奏を聞きに来ても、神社を拝観しないまま、見学もされないまま帰られるのはいかにも惜しい・・・
そんなことから始まったが、・・・コンサートに来たお客さんを坐らせて「大神神社とは・・三輪山とは・・そもそも神とは・・」と話して、これで聞いていただけるだろうか・・である。

神とは山の中や海のかなたに住み、姿かたちを持たず、定期、あるいは不定期に人里を訪れる、
これが日本の神の姿で、あるいは祭りの姿ともいえる。樹木、岩、鏡、刀、人などを神は依代とするのである。
その後、祭りの場には建物が建てられ、これが神社、本殿とされていくのである。

「建物が建てられ神社・本殿が誕生」・・大神神社はここが違うのである。
「古来宝倉なく、唯三箇鳥居あるのみ」、これが大神神社。

大神神社は三輪山山中の磐座(奥津・中津・辺津の磐座)を神の依代として、神の山を拝む古来の信仰形態を今日も継承している。三ツ鳥居を通して神と対面するのである。

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三ツ鳥居。こちらは檜原神社だけど、

それで、この三ツ鳥居を拝見していただくというのはどうだろうか。
神のお姿、神社のあり方を解説しながら、「三ツ鳥居の拝見が大神神社が丸わかり、早わかり」である。

これならコンサートを聞きに来た方の心と共鳴できると考えた。
解説が簡単に組み立てられる。「神の在り方から三ツ鳥居に至る話」、韓明に話せそうだが、これは大神神社の本質にかかわる話となる。

ムジークフェストを担当する大神神社の神職にお願いした。
「三ツ鳥居は大神神社のポイント、この企画、拝観の便宜を図りたい」と大いに乗り気である。

記紀に記されたヒメタタライスズヒメに関わるササユリの話、
この地でお酒を造った高橋活日(いくひ)のお話しなどもしつつ、「三ツ鳥居」でガツンと勝負をかけてみる。

こんな組立で、ツアーとかのガイドを引き受けて良いかとも思うが、基本は神社と僕が用意するパンフに示されているから問題はない。
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大神神社の〆柱と拝殿


ところでムジークフェスト大神神社、まだ席が残っている。
申し込みは       こちらの ムジークフェスト大神神社
 
桜井駅発の臨時バスもあります。三ツ鳥居拝観ガイドつきのコンサート、ぜひお越しください。
# by koza5555 | 2016-05-27 23:42 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

ムジークフェストなら 2016 談山神社

談山神社、実は音楽と芸能の歴史の宝庫である。
重要文化財に指定されている神廟拝所(妙楽寺の講堂)、この上部欄間には素晴らしい天女奏楽図の壁画が描かれている。

笙(しょう)、鼓・鉦鼓(つづみ・しょうこ)、太鼓などを演奏する天女が描かれている。平等院の雲中供養菩薩を連想していただきたい
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天女奏楽図が残されている神廟拝所。堂内の撮影はできる


さて、6月12日(日)談山神社の権殿(祈祷所とも、妙楽寺でいえば常行三昧堂)にて、ムジークフェストならのコンサートが開催される。

今年の談山神社はチェンバロの演奏である。モーツアルトが小型ピアノみたいな楽器と共に演奏会場に馬車で駆けつけるという画面、映画の「アマデウス」に、確か、ありました。
あの「小型ピアノ」、このチェンバロを中野振一郎が演奏するのである。豊かな表現力で、、日本を代表する名手である。
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チェンバロ


この権殿は江戸時代までの妙楽寺当時は常行三昧堂、こちらが大和の芸能のメッカである。
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維摩八講会は平安時代から続く、多武峰の重要な法会であった。その中日二日間に神事として行われていた八講猿楽は、大和四座(金春・金剛・観世・宝生)が一堂に参勤する盛大なものだった。毎年、新作を一番は入れることなっていて、ここでの初演で好評だったものが、奈良や京都で演じられた。(道成寺など)今日まで伝わっている能もある。
絶世の美少年だった世阿弥は、多武峰の保護を受け京都に出て、将軍義満にひいきにされ、大和四座とは違った精神性の高い能を確立した。
多武峰は今日の能楽の揺籃の地だったと言える。

「多武峰様猿楽」とよばれる猿楽は、実際に馬や甲冑を使うという野趣あふれるもので、都の貴族や武士を驚かすに十分なものであった。この演出は延年の影響を受けたものとされている。延年とは正月修正会の後に、お坊さんが行う余興のことで、・・・多武峰の延年は山内の僧兵らが自作自演したもので、全国最大規模とされ、1515年からの70年間の演目台本が現存している。 「雅楽の奈良を歩く」(実業印刷(株) 笠置侃一監修)から

ムジークフェスト・・多武峰、お客様の多くは貸切のバスで談山神社に到着する。
到着時間は演奏会場の開場の40分くらい前で、到着した後は、僕が談山神社の縁起、境内の案内をさせていただく。


ムジークフェストのお客さまだから、・・西洋の古典的な楽器の演奏だから・・日本の多武峰の音楽と芸能の歴史を今回はとくに力を入れて紹介したい。
# by koza5555 | 2016-05-25 18:33 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

穴師坐兵主神社 相撲神社

今日は大相撲夏場所の千秋楽。ちょっと相撲の話題です。


穴師のカタヤケシ、相撲神社のことである。
穴師の相撲神社には、野見宿禰を描いたとする碑が建てられている。
当麻蹶速(タイマノケハヤ)と野見宿禰(ノミノスクネ)が相撲を取り、スクネがケハヤの肋骨を踏み折り、腰を踏みくだいて勝利したという。

この話は神話だろうが、この説話を穴師は大事にしてきた。大兵主神社の境内には「カタヤケシ」という土俵に関わる小字が残されたのである。カタヤケシのカタヤとは方屋(かたや)のことで、土俵場のことを意味しているとされた。

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穴師坐兵主神社、ご本殿と拝殿


さてカタヤケシに絡んでの大相撲のことである。

本場所、初日の前日には土俵祭りが行われる。相撲協会の幹部や三役以上の力士が参加するとのことである。
祭主は最高位の行事の立行事で、戸隠大神、鹿島大神、野見宿禰尊が相撲の守り神を勧請する。
神事のあと、祭主により「方屋開口」の言上があるという。
「(勝ち負けの道理があることを説明してから)ひとつの兆しありて形となり、形なりて前後左右を東西南北、これを方という。その中に勝負を決する家ならば、今はじめて片屋を言い名づくなり」である。
土俵祭りでは、カタヤがこのように解説されており、穴師のカタヤケシの理解がより深まった。

ちなみに千秋楽の表彰式後には土俵上で「神送りの儀式」も行われるとのことである。新人力士(序の口に出世できた)が、土俵上で行司を胴上げするという祭りで、これが「神送り」とのことだ。

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穴師坐兵主神社、摂社の相撲神社、相撲と神事、相撲と神社のつながりを示す絶好の場所である。

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長谷川路可画伯の「勝利の聖」
元の国立競技場の壁画のレプリカである。国立競技場では日本神話の「野見宿禰(長谷川路可)」とギリシャ神話の「勝利の女神(ニケの像)」の壁画がはめ込まれていたのである。

相撲神社の前からは纏向遺跡が一望である
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さて、大相撲夏場所の千秋楽。相撲好きは終盤戦に手に汗握ったが…結果は満足されましたか

大相撲、土俵祭りについては「皇室」(扶桑社ムック)第70号によった。神社検定の二級の参考書に指定されている。

# by koza5555 | 2016-05-22 10:03 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

奈良文化財研究所 瀬田遺跡(弥生時代の陸橋がある墳丘)

5月15日、奈良文化財研究所は「藤原京右京九条二・三坊、瀬田遺跡の調査」の現地見学会を実施した。

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場所は本薬師寺の南東100メートル位の所。現地を出たところから西方をのぞむ

今回の調査では、藤原京の西二坊大路や坪内道路、坪内に計画的に配置された大型掘立柱建物群などを検出し、藤原京の宅地利用に関する新たな知見を追加しました。
また、弥生時代末期の周溝墳墓群を確認し、陸橋をもつ大型円形周溝墓の存在が明らかとなったことで、弥生時代墳丘墓の発展過程の解明に寄与する成果を上げることができました。
  会場配布の奈文研のパンフから

本薬師寺の門前ともいえる場所になるわけで、この地での大型敷地の建物群は貴重ということだろう。
とはいっても、参加者のお目当ては、弥生時代の「瀬田遺跡」。こちらから弥生時代後期の円形周溝墓が発掘されたことである。周溝からでた土器によれば2世紀の築造とみて間違いないようだ。


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会場の状況

円墳は19メートル。6メートル位の周溝に囲まれているが、こちらの特徴は南側に周溝を埋める(横切る)形で台形の陸橋が設けられていることである。
周溝も含めると径で31メートルという。

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円形周溝墓の概念図

前方後円墳の原型と考えられる弥生時代末期(2世紀中ごろ〜後半)の円形周溝墓(陸橋がることが重要視された)ということである。
纏向遺跡の石塚古墳(奈文研の資料による)に先立ち、その原型が発掘されたということである。
石野博信氏は「前方後円墳の先がけのような姿で、纒向遺跡の前方後円墳が誕生する直前の大和盆地の姿を解明する資料にもなる」とされた。

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弥生時代の末期の円形周溝墓の図。陸橋のある形は大阪、四国では数多く出ているが、奈良県では初めてと解説があった。下の大きいのが纒向石塚古墳、右上の青い墳丘図が今回の周溝墓


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周溝をくっきり見ることができる

墳丘は藤原京の造成時に削り取られており、残念ながら埋葬視閲も不明である。
ポリテクセンターの改築工事に先立って発掘された遺跡であり、調査のあとは埋められると聞いた。

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弥生時代の遺物・土器

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付近から石包丁も出土した



# by koza5555 | 2016-05-16 20:40 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

明日香の二面石や猿石の哀しみ

明日香には、二人の人間の背中や側面がくっ付いた石人があり、このレプリカが飛鳥資料館の庭に集められて展示されている。また、橘寺には二面石がある。これらには伝説は伝わっていないが、背中のくっ付いた二人の人間の伝説は各地に伝わっている。 大和の歴史と伝説を訪ねて 三弥井戸書店  丸山顕徳花園大学教授

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橘寺の二面石。この石神たちはどんなに愛し合おうと、この背中合わせでは子孫を作り育てることはできない


吉備姫王墓の安置された猿石。こちらも表裏の二面石とみてまちがいない。
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山王権現の表裏


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男の表裏


二面石や猿石の姿の不思議さは誰しも思うことだろう。

先日、こんな画をみて衝撃を受けた。天理参考館である。
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トルファン古墓出土品、絹絵伏ギ女媧(ふぎじょか)図という
伏ギと女媧(ふぎとじょか)は中国の古代神話や伝説に現れる男女一対の神々である。上半身は人間、下半身は蛇であり、女神はコンパス、男神は曲がりを手にもち、尾をからませている。人類の始祖、天地創造の主などと理解されている。周囲には星宿が描かれる。
会場の説明板による

二面石のように背中がくっ付いている神話や伝説は、ギリシャ神話(プラトン)、ペルシャ神話、中国の神異経などユーラシア大陸に広く分布していると、先の丸山顕徳先生は指摘、する。
日本の神話ではこの伝承が残されてはいないのであろうか。私は、記紀神話のイザナギとイザナミの神話が、これにあたると考えている。背中のくっ付いた神々は、もともと一体だったが、、神の力などで分離し男女となる。そして二人は再び結ばれるという話のストーリーになっている。イザナギとイザナミは、もともとはアオカシキネの御子として生まれた兄妹であった。したがって二人の婚姻は兄妹結婚であった。人類の始まりは兄妹から始まるのであるから、近親結婚は致し方のないことであった。
神は兄妹を分離させ、再結合させたという道筋をたどる
二面石は、その結合のモチーフが固定化されて表現されたものと考えるのである。
丸山顕徳

背中同士がくっ付いている男女が、神によって切り離され、その両者が再び結合を求めあって結合するという愛の起源の話である。

引用ばかりでしたが、こんな話、いかがでしょうか。
切り離されることなく、だから、いつまでも男女の結合ができないという明日香の二面の石たち・・・どう考えられますか。

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石人像(重要文化財)飛鳥資料館の庭。写真は庭に置かれたレプリカ

二人の腕は二人の肩のうしろにおかれ、一方はもう片方に結びつき、それら互いにつながっていて、どちらもよく似ていた。そして両方の腰は寄せ合され、どちらが男性でどちらが女性か、はっきりしないほど、つながっていた ペルシャ神話より
明日香の石人像はペルシャ神話、そのものである。



大和の歴史と伝説を訪ねて  三弥井書店  丸山顕徳編
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奈良盆地の中南部をフォローしている。「この本は、一般書の体裁をとった専門書」という位置づけで、多数の研究者が執筆している。いわゆる伝説も、学術的にその裏付けまで解明するという手法で、唸らせられることがたびたびだった。
僕としても大いに活用していきたい。今年の2月の新刊本である。

# by koza5555 | 2016-05-13 15:26 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

大和名所絵図めぐり  天理参考館

天理参考館の企画展は「大和名所絵図めぐり」。寺社の案内資料の作成で、秋里離島の名所図会を利用することがたびたびで、これは拝見してみたかった。


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ポスターを見るとこんなな感じ。あれこれの講釈なしでこれは行って拝見しなければ・・である。
天理参考館が所蔵する江戸期から明治期にかけての日本各地の名所・寺社を描いた一枚物の刷物(一枚刷り:いちまいずり)から、今回は大和(奈良)地方のものを集めてご紹介いたします。古くから旅客の誘致に意を尽くしてきた、大和各地の名所・寺社の布教・宣伝活動の軌跡の一端を、様々な一枚刷りを通してご覧いただきます。
また、伝統的な印刷技術である木版印刷の技を、より身近なものに感じていただく機会のひとつとなることを期しました。
名所・寺社の景観や境内・本尊・宝物などを案内する一枚刷りを、大和の北から南へと縦覧いただき、ひととき、ふるさとの風物の移り変わりに触れていただければ幸いです  
天理参考館のお知らせから


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和州奈良之絵図。元治元年(1864)の奈良市の絵図の一部である。
地元の「絵図屋庄八」が版行した代表的な絵図らしい。良市の絵図は東を上に配するで伝統様式と紹介されている。「東が上」は今に残る最古の1666年の「和州南都之図」でも同じ様式とのことである。
明治維新直前という世相を反映して、明記される「御陵」の数が増えているらしい。


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ポスターにも使われていた「大日本早引細見絵図」を見てみると、奈良から榛原まで、
奈良(10ばん)、おびとけ、市ノ本、丹波市、柳本、芝村、はせ(8ばん)、榛原とされており、その先は本街道と青越えと分れている。文章だけでなく、こんなふうに地図で示されるとリアルに歩いている感じが出てきて嬉しい。

天理参考館、歴史を考える上での展示が充実している。この機会に一度伺われたらいかがでしょうか。

入館料400円。会期は6月6日まで、火曜日が休館日である

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特別展示室は三階である。重要文化財に指定されている盛装男子、こちらも三階の世界の考古美術コーナーである
三脚・ストロボと使わなければ写真も撮れる

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# by koza5555 | 2016-05-11 16:43 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

工藤利三郎(くどうりさぶろう)奇豪列伝

飛鳥資料館(奈良文化財研究所)に、「文化財を撮る写真が遺す歴史。」が展示されている。

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展示の山田寺仏頭 レプリカ

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奈良文化財研究所はさまざまな遺跡を撮影し、学術情報として蓄積してきたこと
遺跡と遺物の撮影のノウハウを紹介すること、
こんな展示だが、先人の業績も紹介しようという企画だった。

ここで、工藤利三郎が紹介されていた。明治から大正にかけて奈良を本格的に撮影したカメラマンということである。

工藤利三郎は徳島県出身の写真家で、明治26年(1893))奈良で「工藤精華堂」を開館し、明治41年から「日本精華」全十一輯(しゅう)を刊行しました。活動範囲は全国におよび、飛鳥地方にも撮影に訪れました。仏像や建物の全体像を、陰影を抑え気味に撮影)こうした、資料性の高い写真を多く撮影しています。 (会場掲示から)

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ちなみに飛鳥資料館の写真撮影は可である

どんな人やろ・・強烈に関心が湧いた

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調べてみると、「奈良まち 奇豪列伝」(安達正興著・奈良新聞社)に、この工藤利三郎が紹介されていた。

奈良の写真を撮りたいと徳島から、猿沢池の東の菩提町(現在の吉田旅館の所)に移り住む(明治26年45歳の時)。
①写真を撮っているうちに佐伯定胤(法隆寺管主)と知り合いになり、
②また同郷の喜田貞吉を学術的パトロンとして、
③明治28年に開館した「奈良帝室博物館」で工藤の写真が販売され、
さらに明治30年施行の「古社寺保存法」、この指定(特別保護建造物・国宝の指定を受けると維持修理費を内務省が交付する)をのぞむ寺社が申請の写真を工藤に依頼したなどで、工藤の名声はさらに高まり、家計も潤っていった。

その勢いで工藤は写真集、「日本精華」(全11巻)を刊行する。とても高価(一冊20円~30円、現在の20万~30万くらいか)で、販売は好調とはとても言えない状況だった。


そんな状況の上に、飛鳥園が大正13年に帝室博物館付近に転入・開業。工藤の平面的な写真と異なり、飛鳥園の小川晴暘(せいよう)(小川光三氏の父親)の作風は黒バックに浮かび上がる鮮烈な芸術写真、軍配は一目瞭然だった。

帝室博物館、各寺社は次々と工藤のもとから去っていき、酒に入り浸った晩年だったという。

工藤のガラス原版が奈良市教育委員会に引き取られた経過や養女、琴のさんのことなども触れられているが、今日は割愛、それらはご本をお読みください。

工藤利三郎、こんな写真家の経歴であるが、奈良を撮ったカメラマンの草分けとして寺社、仏像、遺跡の撮影で果たした役割、これは巨大である。

「奈良まち奇豪列伝」(工藤以外は石崎勝蔵、左門米造、ヴィリヨン神父紹介している)、
飛鳥資料館の「写真が遺す歴木」の拝観(65歳以上は無料・7月3日までの期日)、
今日はこの二つを、欲張りに紹介させていただきました。

最後の奇豪列伝で紹介されていた、当時の猿沢池の東側の概念図を紹介しておきます
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# by koza5555 | 2016-05-10 13:46 | 奈良 | Comments(0)

萬葉一日旅行

5月7日(土)、萬葉学会主催の「萬葉一日旅行」が明日香をテーマにして実施された。
僕にとっては、毎年、五月の連休明けの土曜日は大変な日程タイトの日、でも、これは見送りのできない勉強、ウォーキングとなっている。

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甘樫丘から畝傍山、二上山をみてみると

午前9時半、橿原神宮駅東口集合である。

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「一日旅行」の進行役は上野誠先生、「昨年までは坂本信幸先生と僕の解説が中心でしたが、今年はみんなで話そう」に変更したと挨拶があり、出発である。

始めは剣池、同志社大学の垣見先生が解説。
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長歌である。
「み佩(は)かしを 剣の池の 蓮葉に 溜まれる水の ゆくへなみ 我がする時に 逢ふべしと 逢ひたる君を な寐(い)ねそと 母聞こせども 我が心 清隅(きよすみ)の池の 池の底 我れは忘れじ 直(ただ)に逢ふまでに」(巻13-3289)

剣の池の蓮の葉にたまった水玉が、どこへも流れていけないように、私がどうしていいか分からないでいるときに、逢うのが定めと逢ったあなた。寝てはいけないと、母はおっしゃるけれど、(私の心は)清隅(きよすみ)の池の底のように清らかに澄んだ深い思いなの、決して私は忘れないわ、あなたにじかに逢うまでは

「蓮の池は本来は泥田、池の底まで浄く澄んだ心と言われても、これはありえないこと」などと、難しい歌でも笑いを取りながらの解説である。

剣池は孝元天皇剣池島上陵の周囲の池であるが、明治29年に拡張工事が行われたこと、初めの池の境界は池の真ん中の柱であるとの説明だった。


こんな具合で、明日香川、甘樫丘、雷丘、漏刻台、入鹿の首塚、飛鳥板蓋宮跡、石舞台、酒船石、飛鳥資料館前での解説が行われた。
剣池のような説明はとても行えないので、順々に画の紹介だけをしておきたい。

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上野先生に不思議なスポットライト。甘樫丘

雷丘は・・初めて登った。解説の東京大学の鉄野先生も「僕も初めて」とおっしゃいました。登っても何もなく、これは登るところに価値があるという感じの雷丘だった。羽易(はがい)の山が良い具合に見える。三輪山を頭、竜王山と巻向山を翼とみる見方である
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飛鳥板蓋宮跡

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石舞台での坂本先生の解説。演壇でもフィールドでも、先生は常にクリアだ

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酒船石


ありがとうございました。
充実した解説、資料つきで・・なんと無料。来年以降、「解説者は若手を抜擢」とのことで、さらに大きな期待が持てる。
# by koza5555 | 2016-05-07 23:31 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

纒向遺跡の大型建物

纒向遺跡の大型建物(トリイノ前)を、「今、古代大和は」(石野博信)で考えた。

5月6日(午後7時から、駅前エルトの2階)、桜井のカルチャーで「邪馬台国」の続編をお話しする。
前篇は「邪馬台国は大和」論で楽しく語らせていただいたが、今回の後篇は①纒向遺跡、②古墳、③女帝論を丁寧に具体的に語りたい。

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トリイノ前大型建物、復元模型

「今、古代大和は」(石野博信)が生々しいエピソード満載で、こんな話のためには強い味方である。

1971年に桜井市辻にアパートが建つことになり、続いて県営団地や纏向小学校が予定されて以来、五年間、纏向遺跡の調査が続きました。その結果、纏向遺跡は以前から有名なオオヤマト古墳地帯の、2・3世紀の大規模な「都市」と墳墓であることが判り、邪馬台国所在地論と重なって注目され、ついに調査開始から38年目の2009年(平成21年)に東西に一直線に並ぶ3世紀の大型建物群が桜井市埋蔵文化財センターの調査で出現しました(あとがき)。

桜井市の橋本さんからお聞きしたことがあった。
「纏向遺跡の中枢施設として可能性がある場所は二ヶ所考えてきていた。それは珠城山古墳の北方とツジトリイ前地域だった。珠城山古墳の北側は開発の規制がかかっていて急がなかったが、巻向駅の西方のトリイ前は宅地開発の話が出てきたので、こちらが急がれた」(橋本輝彦氏談)。

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トリイノ前、大型建物の発掘図というか、パワーポイントの出だし

 2009年2月から桜井市埋蔵文化財センターは、初めて纏向遺跡の中枢地を探す学術調査を開始した。纏向遺跡は二世紀末に突然現れ、四世紀中ごろに突然消える人工的集落でその規模は4万平方メートル(原文ママ)と巨大だ。しかし、160回をこえる発掘調査によっても中枢地と思われる建物群は見つからず、古墳を造るための労働者のキャンプ説が登場するほどであった。
 3月18日、ついに小さな祭殿の周囲に大きな建物群と柵囲いの一端が現れた。時期は三世紀前半、まさに邪馬台国と女王・卑弥呼が都を定めた時である。建物群は方位と柱筋を揃えて、整然と並んでおり、まるで飛鳥時代以降の宮殿のようだ。(二上山博物館広報 2009年4月号)

11月10日、桜井市纏向遺跡で「3世紀前半の大型建物が見つかった」と発表された。3世紀前半は倭国の女王ヒミコが都とした邪馬台国の時代である。一気に邪馬台国大和説が盛り上がり、あたかも決着したかのような雰囲気になった。
 それは三世紀前半の全国最大規模の建物であるだけでなく、前回の調査で分かっていた3棟の建物の中心と一直線に並ぶという計画的建物群であることが根拠の一つである。4~6世紀ヤマト王権の時代、つまり、古墳時代の全期間でも、これほど計画的な建物配置はない。(二上山博物館広報2009年11月号)

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今、古代大和は

# by koza5555 | 2016-04-24 16:02 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

信貴山縁起絵巻

奈良国立博物館の「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)」を拝観してきた。

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信貴山朝護孫子寺

縁起絵巻、朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)で模写を見たことはあるが、全三巻、本物・・・というのは初めてで、これは見ておかなければならない。

先に紹介しておくが、会期は5月22日まで(4月9日開幕)とのことで、まだ時間はたっぷりである。

絵巻は中興の祖とされる妙蓮をめぐる三つの奇跡が描かれる。
まずは、命蓮が駆使する空飛ぶ鉢が引き起こす奇跡を描く「山崎長者巻」。
命蓮が帝の病気平癒のために行う加持祈祷のありさまを描く「延喜加持巻」。
命蓮の姉の尼公が大仏の夢告で信貴山を訪れ感動の再会をする「尼公巻」の三巻である。

全ての原図が展示されていて、併せて着色された模写図も掲示されるという分りやすい展示となっている。

あとは・・・図録で説明したい(笑)。

誰が書いたの?
筆致の違いにより、宮廷絵師とは異なる画家集団により描かれた可能性が高いとされる。
同時に遠景技法が加味されており、中国(宋代)の山水画法の構成を学べるような条件がある画家集団ともされる。誰が書いたか、名前までは判らないが、テーマの選び方とその画力に感嘆させられる。

色はどんな感じ?
いまの絵巻は筆腺を主体とする淡彩画のように見えるが、顔料の剥落や退色による錯覚で、描かれた当初は発色の強い高級顔料がふんだんに使われいたとのことである。
すでに江戸時代にも模写されており、文化庁がエックス線などを駆使して復元模写を製作しているとの事であり、これらも合わせて展示されていた。
大事なものを大事にしてきた、その歴史に感動する。

「山崎長者巻」は「飛び倉」がメイン、倉を飛ばす「飛鉢法」、これが千手観音を本尊として毘沙門天の擁護のもとに獲得される「千手宝鉢法」であり、
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飛鉢


「延喜加持巻」に登場する「剣の護法」は千手観音の眷属である毘沙門天の功徳によるものであり、
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 剣の護法。法輪を回す童子

「飛鉢」と「剣の護法」、いずれも千手観音と同体とされる毘沙門天の霊験として語られており、命蓮の奇跡とされながらも、実は毘沙門天の功徳がモチーフと解明されている。
中興の祖というのはそういうことかなと、しみじみ納得できる。


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こういうものを見逃した悔しさは尾を引きます。会期は、一か月残されている。ぜひぜひおいでください。
# by koza5555 | 2016-04-21 18:12 | 奈良 | Comments(0)

卑弥呼は女王か巫女か

統治する女王か、占う巫女か?
卑弥呼のイメージは女王でしょうか、巫女でしょうか。

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 「邪馬台国と近代日本」(NHKブックス 千田稔)から。このイメージは女王だろうか、巫女だろうか

魏志倭人伝に描かれた卑弥呼は
「共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者の少く、婢千人を以て自ら侍(じ)せしむ。唯、男子一人有り、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す。」

ここから、卑弥呼は国の巫女的な役割で、佐(たす)けて国を治むとされ、男弟が政治をしているとの見方がある。
これが違うという学者がいる。義江明子さんという。

「つくられた卑弥呼 女の創出と国家」という本がちくま新書から出ている。義江明子先生が著した。珍しく桜井図書館でも入っていないような本である。
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こちらで、「卑弥呼は国の乱れを治められる王、佐(たす)けてというのも、あくまでも助けてであり卑弥呼に王権あり」とされるのである。

さらに、日本書紀が考えた卑弥呼を考えるべきだと指摘される。
書紀は卑弥呼を神功皇后に当てはめている。
神功皇后の実在性や新羅への遠征などの史実性はとりあえずおくとして

神の言葉を聞く力
武装して軍隊を率いてたたかう能力
征服により支配地域を広げ、国を富ます力
妻であり、母であること

以上が神功皇后の力と特徴である。
卑弥呼は神の言葉が聞けて、たたかい、統治するというスーパーウーマンである。
600年代に考えられた卑弥呼はこんなイメージだった。
ところが卑弥呼のイメージは、近世(明治時代)に劇的に変えられたとされる。

それは明治43年(1910年)の内藤・白鳥論争に含まれたとされる。

内藤虎次郎は邪馬台国畿内説を主張し、「ヤマトヒメを卑弥呼に比定した」。
「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす」は、天照大神を奉じて遍歴したヤマトヒメにふさわしい。
夫がいないというのだから、神功皇后にはあたらない。
「男弟有り、佐(たす)けて国を治む」の男弟は景行天皇のことである。

などと、ヤマトヒメの巫女的な側面が強調された。

一方、邪馬台国九州説をとなえた白鳥庫吉は、卑弥呼を九州の女酋の一人とみた。
卑弥呼は宗教的君主。
殿内深くこもって神意を伝えた。
男尊女卑は古来の伝統で、英明勇武だからではなく、神意を伝える巫女的な資質があっただけである。


やはり、卑弥呼の巫女的性格が強調される。英明勇武は男の仕事。義江さんは、卑弥呼を単なる巫女として位置づけた内藤・白鳥の結論は、明治の皇室典範などにもとづく女帝否定論からの断定であり、これが納得できないといわれるのである。

「統治し、託宣する卑弥呼」、義江明子論に僕は賛成の一票、みなさんはいかが思われますか。

以上です
# by koza5555 | 2016-04-19 20:50 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

大神神社と狭井神社の鎮花祭

4月18日、大神神社は鎮花祭である。

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午前10時30分、三つ鳥居の御扉を開扉して鎮花祭を斎行。

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神職はその後、狭井神社に参進。薬道から上がる
重ねて鎮花祭が斎行される。

この祭りは1300年前から、この二所(ふたところ)の祭りだった。

「大宝令」(701年成立)の朝廷の規定には、三月に花鎮めの祭が行われたことが見えている。「令」の注である「令集解」(りょうしゅうげ)に引く「令釈」などによれば、大和の大神神社とその荒魂をまつる狭井神社の祭りで、春の花が飛び散るときに、疫病の神も分れ散って疫病をはやらせるのを、鎮め留めるための祭りであるという。
春の花といい、飛び散るといえば、桜の花にちがいない。大美和の神は、「古事記」でも「日本書紀」でも、崇神天皇の代に、悪疫をはやらせる祟る神としてあらわれている。この花鎮めの祭りは、その大美和の神格そのままの祭りで、大神神社の信仰を象徴する祭りとみてよい。桜の花を祟る悪霊に見立て、花の散るときに、その霊を鎮める祭りを行わなければならないという思想である。
 小嶋瓔禮琉球大学教授 (大美和第93号 平成9年)

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特殊神饌。桃の花と百合根と忍冬(すいかずら)。まともな写真は撮れない。これは境内のポスター写真である。

疫病を鎮め抑えるという祭りである。
近畿一円の薬業界、医療関係者が参列されていた。

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これは祀られた薬の数々
# by koza5555 | 2016-04-18 22:56 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

卑弥呼と女性首長

女性の天皇といえば飯豊皇女。
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葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ)である


「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む」は、魏志倭人伝が語る卑弥呼の人物像である。
後世の人々を魅惑し、卑弥呼の人となりがいかなるものか、想像がかき立てられた。

さらに卑弥呼の後継は男王であるが、それを挟んで女王 台与が擁立される。

卑弥呼の時代に、なぜ女王が集中したのか、そしてその時代背景はいかなるものか。
卑弥呼は特殊な女王で、他には女王、女首長はいなかったか。
こんなことを考古学の立場で解明しようというというおもしろい本である。

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「卑弥呼と女性首長」(学生社)清家章(高知大学)著

まずは遺跡からみた男性と女性の判別。

墳墓に残された骨で性別が分るとのことである。
頭蓋骨と骨盤の形で男女が判明できる。
骨盤の妊娠痕という調べ方もあるようで、妊娠により骨盤の靭帯が肥大して骨が圧迫された痕をみることから女性として特定できる。
副葬品から分かることも多い。刀や矢じりなら男性の可能性が高く、珠は男女五分五分とのことである。車輪石や 「いしくしろ」を腕に置く副葬品配置は女性の可能性が高いなどのデータも示される。

このように考古学の研究を土台にして考えると
弥生時代中期までは男王
後期から古墳時代の始めは女王、女首長も数々生まれた(比率的には男王が多い)
古墳時代中期から男王

こんな結論がでるらしい。

女系で王権を引き継ぐということは、どの時代もなかったとも示されている。
卑弥呼の場合も「年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く」で、未婚、後継ぎを産まないことが女王に求められたとしている。

時代は少し下がるが飯豊皇女(いいとよのひめみこ)のことである。
雄略天皇の死後(5世紀末)に即位した清寧天皇が跡継ぎを残さないまま死去する。
それを引き継いだのが飯豊皇女である。
「臨朝秉政」(みかどのまつりごと)を行ったとされ、これは天皇に即位したという伝承である。
しかし、日本書紀にはすごいことも書かれている。
「角刺宮にてマグワイしたのだが、格別に大したことは無かったので、二度としなかった」と記されている。

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この飯豊皇女は葛城に葬られた。それを葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ)である

即位の時点では配偶者は無く、子もいない。古代女性が即位後は独身を保つ、皇位継承者を作らないということで、卑弥呼の「夫壻(ふせい)無く」は大和王権にも引き継がれている。
清家先生は、日本の古代王朝には女系相続がなかったことを証明しているのである。

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即位時の女王・女帝の婚姻状態

倭・大和には卑弥呼をはじめ数多くの女王、女首長がいた。
しかし高群逸枝(女性史研究家・娘時代、四国八十八カ寺巡礼のすばらしい道中記 -娘巡礼記― も記した)が描いたような 古代母系社会史は存在しなかったことを証明している。
清家さんは「女王・女首長は、例外ではないがあくまでも中継ぎであった」という結論を出している。

魏志倭人伝を振り返ってみよう。
其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為し、住(とど)まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。

更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女(そうじょ)壹(と)与(よ) 年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。

# by koza5555 | 2016-04-14 22:17 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

神武東征を「神々の系譜」で見てみた

神々の系譜(日本神話の謎) 松前健著 吉川弘文館

1972年に書かれた本である。このほど、これが復刊された。今年の2月であるからまだ新刊といえよう。

目次だけを紹介しよう。
「世のはじめの神々」としてイザナギ・イザナミの誕生などを語り、
つづいて「日・月二神とスサノオの崇拝」
「高天原の神話」
「出雲神話の謎」
「日向神話の世界」
「神武の東征」である。


僕の紹介は、今日は神武東征だけである。
日向発の神武東征については、いま僕が考えているテーマだった。
「日向(ひむか)」という名称も、古くは単に南九州の国には限らず、方々にそうした地名があった。おそらく、もともとは朝日・夕陽の照らす陽光の地を表す一般的な名称であろう。

日向はあちこちにあるが、わざわざ遠い南九州の日向国が選ばれて、皇孫の天降りの地とされたのには、必ず理由があるはずである。

恐らく古くこの地に隼人の有力な豪族がいて、皇室と結びつき、その伝える地方的な霊格と、皇室の祖先の御子の一人とが同一視され、宮廷の神話体系の中に組み込まれたのかもしれない。
隼人にそれだけの力を認めても良いだろうか・・というのが僕の素直な感想だ。


神武東征である。
まずは大和に入る前である。
兄弟はイツセノ命、イナヒノ命、ミケヌノ命、カムヤマトイワレビコノ命(ワカミケヌノ命)である。

難波から大和を攻めて孔舎衙坂(くさかのさか)でイツセノ命は重傷を負う。
迂回しようと紀伊半島の南端で暴風雨にあい、イナヒノ命、ミケヌノ命は波頭に消える。

松前健さんはこの熊野経由の大和侵入に意見がある。
大和については独立の神話とされる。
カムヤマトイワレビコは「神聖な大和の磐余の首長」という意味で、
相手のナガスネビコ一名トミビコは「大和の鳥見の首長」という意味。
大和の二人の英雄の戦いだと断定された。

ところが、前段の熊野、これは別の神話だと、合体させたと松前さんは言うのである。
熊野本宮も熊野大社も祭神は、「ケ」であり「ミケ」で食物という意味が含まれる。
カムヤマトの別名や他の兄弟の名前には、「ケ」や「ミケ」が含まれ、これは熊野の神の死と復活を語る霊験譚だというのでる。そして、この熊野の神話が朝廷に取り上げられたのは7世紀初めとのことである。
熊野を訪れた神がさまざま苦労し、いったん死んでも蘇生し、八咫烏の導きで切り抜けるという霊験譚である。

大和に入ってからのカムヤマトイワレビコの活躍の紹介も松前流である。
忍坂で八十建の一族を全滅させる。久米歌、久米の舞が舞われるが、これは今も橿原神具で歌われ踊られる。4月29日、昭和の日である。
大和に侵入してからは道臣命と久米命の活躍ばかりに焦点が当たる。

大和におけるカムヤマトイワレビコの活躍は、神武東征聖蹟碑でもたどることが出来る。
もちろん神話の世界であるが、これを現代に石碑で具体化した。
評価は様々だが、7世紀の人たちが何を考えていたかを現代(戦前だが)に「石碑で示した」ものである。

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大和におけるカムヤマトイワレビコ命、エウガシとたたかった血原。菟田穿邑(うだのうかちのむら)顕彰碑

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ナガスネビコを撃った時の磐余邑(いわれのむら)顕彰碑


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ヒメタタライスケヨリヒメを求めた狭井河之上(さいがはのほとり)顕彰碑

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カムヤマトイワレビコの祭、鳥見山中霊畤(とみのやまのなかのまつりのには)顕彰碑


神武東征の説話ができたのは、日向神話が朝廷に入り込んだ後のことであり、また出雲神話が朝廷に入りこむ前であったと思われる。私は日向神話の朝廷受け入れは、たぶん五世紀初頭、出雲神話の採用は多分7世紀中葉と思っているから、その中間であろうと思っている。この神武説話は、日向から東征の出発を、前提にしているから、日向神話がなければ成立しない。また、出雲神話が知られてから後ならば、東征の途中で出雲に立ち寄らないはずはないのである。


出雲神話、日向神話を検討したのちに、松前先生はこう結論づけた。
これは40年前の本で、今年復刻という本である。こんな結論、いかがでしょうか。
これ以外にも独創的な論点が数多くで、とても面白く、おすすめである。
# by koza5555 | 2016-04-11 23:03 | 読書 | Comments(0)

豊田狐塚古墳 発掘調査 現地説明会

4月9日、天理市豊田狐冢古墳、発掘調査 現地説明会が開かれた。

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横穴古墳、天定石が抜き取られている


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奥壁から羨道部をみて。両袖式石室である


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けっこうな人気で「1500人はいくのでは」と天理市職員


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解説は天理市教育委員会文化財課の石田大輔主査。晴れ舞台


「天理の古墳100」は、「布留・杣之内周辺」というくくりで、北の東大寺山古墳から南端は東西乗鞍古墳と記している。

真ん中に布留遺跡があり、その南北という形である。

今回はその北側、豊田の丘陵、布留遺跡(天理教本部や天理市の市街地)を見下ろす古墳の発掘だった。

「布留遺跡は旧石器時代から現代にいたるまで連綿と続く大規模は複合遺跡で、古墳時代中期~後期に最も繁栄を遂げます。首長居館や工房が見つかっており、有力豪族物部氏の本拠地であった可能性が考えられています。また、布留遺跡の南方には塚穴山古墳や峯塚古墳など終末期古墳を擁する杣之内古墳群が広がっています。」現地説明会資料から

「布留遺跡の北方には石上・豊田古墳群があり、二基の大型前方後円墳群のほか150~200基ほどの円墳が群集しています」。

今回発掘された豊田狐塚古墳(昨年紹介された豊田トンド山古墳と並んで)は、その一番南の丘に位置していた。布留の中心集落を見下ろす場所である。

この古墳には3基の木棺が安置されていたと推定され、出土遺物は6世紀中葉から後期に至って埋葬されたとされている。
物部守屋が敗退するのは587年、急速に影響力を落とすとみて、政権最終段階の古墳と見たいのである。

この地域には、中期から後期まで営々と古墳が築かれた。が、不思議なことに終末期古墳は残されていない。
その理由は何だろう。
王宮や神域として使われることなり、墓域でなくなる。
氏族の墓域が移動した。
氏族が没落した。

布留は物部氏の支配地域、石上・豊田地域、杣之内では終末期の古墳(横穴式石槨)を見ることができない。物部氏の光芒、没落を常に考えながら、この地域の古墳は考えたいものである。

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「豊田狐塚古墳は石上神宮や布留遺跡を見下ろす高所にあり、これらを強く意識した立地といえます。墳丘や横穴式石室の規模、副葬品の質・量からみても、首長層を支えた有力者の墓である可能性が高いと考えられます。」
古墳時代、古墳を造る熱情のすさまじさ、改めて感ずることしきりである。

市道の新設工事に当たり、影響を受けるとみられる古墳として発掘調査された。
古墳玄室は道路の下敷きということでは無いようであるが、豊田トンド山古墳と同じように埋め戻されるとのことである。今日の現場説明会が見学できる最後のチャンスということだった。
# by koza5555 | 2016-04-09 22:14 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

長谷寺と蜻蛉日記

8月に「初瀬・長谷寺」をテーマに講演することにした。
まだ先だし、やり慣れたところだが、パワーアップしたいと思った。

長谷寺は、源氏物語や蜻蛉(かげろう)日記に取り上げられていることを紹介してきたが、この蜻蛉日記の取り上げられ方が、きちんと話せてこなかった。
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桜、今年の長谷寺

そんなとき、ブックオフで108円で買った、田辺聖子の「蜻蛉日記をご一緒に」が本箱の隅に放置されていた。「長谷寺には確か二回きている」とむさぼり読んだが、ちょっと当てが違った。初瀬詣でのことが具体的に書かれているわけではないのである。

そこで、さっそく「日本古典文学全集」を桜井市の図書館で借りてきて、長谷寺のくだりを読み直してみた。

初瀬詣、椿市(つばいち)がポイントであることはよく分った。「椿市までは無事に来た」とか、「椿市に着いて、例のように、あれこれ支度を整えて出立するころには、日もすっかり暮れてしまった」、「椿市に帰って、精進落としなどと人々は言っているようだが」などと記されており、椿市が長谷詣での起点になっていたことが、きちん紹介されている。

あの有名な二本(ふたもと)の杉のことが紹介されていることにも注目した。
「はつせ川古川のへに二本ある杉 年をへてまたもあひ見ん二本ある杉」(古今和歌集 1009) 

坏(つき)や鍋を据えた乞食などに気を取られて、すがすがしい気分になれなかったと記している。
また、御堂に籠っている間(庶民の間に座っている・・あの礼堂であろうか)、眠ることもできず、それほどみじめそうでない盲人が人に聞かれていることを知るか知らずか大声でお祈りしている、それを聞くにつれ、涙がこばれたなどと記しており、お堂の情景が手に取るように見えるのである。

二回目の長谷詣では、「物音を立てずに通らなければならない森の前」のことが記されている。これは初瀬山口神社の前と思われると注に記されている。「祭神 手力雄命(たじからのおのみこと)が人の声を奪ったという伝承に従う」という意味らしい。
初瀬柳原に初瀬坐山口神社を遥拝する「伏し拝み」の場があり、毎晩、いまも献灯が行われているところである。1000年前から、あれは特別な場だったんだ・・と感銘。そんなことから決められた場だったんだ。

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初瀬柳原、伏し拝み

さて、蜻蛉日記、肝心の作者である。藤原道綱の母としかわからない。
田辺聖子は、蜻蛉日記が源氏物語にも大きな影響を与えたと分析する。

「年月はたっていくけれど、思うようにならぬ身の上を嘆き続ける・・あるかなきかの思いに沈む、かげろうのようなはかない女の日記ということになるだろう」と、日記を書き、その名を「蜻蛉日記」として世の残した、ものすごい女性の生きざまであり、巨大な遺産というべきである。
何をいまさらということだが、僕の感想である。

田辺聖子は、すれ違いとか女性と男性の求め方の違いとかにも触れながら、「普遍的な男と女のあり方が論じられており、人類の夢が語られる」と評価する。今でもさまざま教訓的だが、読者の人生キャリアによって蜻蛉日記は響き方もさまざま違うと締めくくる。
「蜻蛉日記をそれぞれ受け止めてみよう」だろうか。

最後に百人一首から
嘆きつつ 独り寝る夜のあくる間は いかに久しきものとかはしる(右大将道綱の母)
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# by koza5555 | 2016-04-06 19:41 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

談山神社の神幸祭

4月10日、談山神社は神幸祭である。
今年はお渡りがある年で、4年に一度の一の鳥居までの神輿渡御が行われる。
談山神社の神幸祭、毎年、4月の第二日曜日に斎行されるが、お渡りで歩くのは2年に一度、一の鳥居まで下るのは4年に一度であるので、今年は神幸祭、お渡り拝見のチャンスである。

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これは4年前の神幸。桜井市下の西内酒造前である

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これは二年前、僕の役割は錫杖を持って先導する役割、小目代(こもくだい)だった。

僕は、談山神社の氏子総代を務めさせていただいている。28の大字が談山神社に関係しており、それぞれに氏子総代が委嘱されている。多くは区長が兼ねている。この氏子総代をはじめ、お渡りに出仕せよとのことである。僕の大字からは一人の出仕要請、今年も僕が出ることにした。

式典は10時からで10時半すぎに境内を出発する。
コースは社務所前から門前に出て売店下の駐車場まで渡御する。
駐これは境内の写真である。
車場から聖林寺前(バス停)までは車で移動、その後旧道を渡御する。午前11時頃である。西内酒造の前などを通り、一の鳥居までの渡御である。

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これは二年前、境内(学頭屋敷跡)の写真である。

境内、もしくは西内酒造前辺りが撮影ポイントである。ぜひおいで下さい。
# by koza5555 | 2016-03-31 05:38 | 桜井・多武峰 | Comments(0)