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落杣神社と御霊神社
阪合部(五條市)の黒駒(くろま)古墳を案内する。古墳は御霊神社・落杣神社の境内に鎮まる。
『延喜式』(920年頃)が記すのは落杣神社。「宇智」の項で「落杣神社 鍬」とあり、祭祀の時に「鍬」が届けられていたか、あるいは坂合部磐鋤を意識しているのか。
落杣神社は黒駒集落の丘陵の北端に位置して、坂合部連の租神を祀る社として坂合部の人々の崇敬を集めてきた社である。
嘉禎(1235年~)年間に、御霊神社が分社され、御霊・落杣の両社が阪合部十二ヶ村の氏神として祀られることになった。しかし、御霊信仰の強さから、いつしか「落杣神社」の名は忘れられた。江戸期の灯籠は「御霊大明神」など、いずれも御霊神社だけに奉納されたものとして銘が刻まれている。
本社東方の斜面には、俗に「落杣さん」と呼ばれる高さ3m、幅4mの大岩が置かれる。一時的には、この大岩が落杣神社ともされ、「落杣神社 俗称磐境大明神 祭神大山祇命」(昭和21年 宗教法人法による届け書)と認識されている。
付近の古墳(現黒駒古墳)は、干ばつが続くとき、村人がこの前で火を焚き雨乞いをしたという。
神社の参道を歩くと向かって左側に鐘楼が見ることができる。鐘には「和州宇智郡坂合部金龍山社頭之鐘銘」「和州葛下郡五位堂村 杉田六兵衛作」と刻まれ、元禄13年(1700)に改鋳されたとも刻まれている。
元々は「明け六つ、昼九つ、暮六つに突いていたが、明和元年(1764年)8月2日の大風で鐘楼が倒れ、鐘も破損したので改鋳したい」との願いが芝村藩に提出されている。
現在は、鳥居には御霊神社と落杣神社の額が掲げられている。
本殿は平成21年に奈良県文化財に指定されている。
坂合部連を考えてみる。
坂合部連については、境界を守る氏族としては畿内にとどまらず各所に置かれたが、『書紀』に残る坂合部連はいかにも悲運である。
安康天皇3年(450年)「坂合部宿禰は皇子の屍を抱いて共に焼き殺された」と書紀は記す。壮絶で忠烈な死にざまである。「皇子と宿禰の骨を一つの棺に入れて新漢(いまき)の南の丘に葬る」と『日本書紀』が記した。これに基づき、明治9年にジヲウ古墳は「坂合黒彦墓」に定められた。
斉明天皇皇極重祚2年(656年)「有間皇子の変 11月9日、有間皇子と坂合部(さかいべ)薬・・・とを捕らえて、紀の湯に送った。・・・11日有間皇子を藤代坂で絞首にした。・・・坂合部薬を尾張の国に流した。」
天武天皇元年7月7日(672年)「七日、男依等は近江軍と息長の横河(米原町の辺り)で戦い破った。その将、坂合部薬を斬った。」
しかし、坂合部連は滅亡していないしぶとさがある。
もともと坂合部は遣唐使のメンバーで何度も紹介されているが、壬申の乱以降も遣唐使に加わり、連(むらじ)・宿禰の姓(かばね)も授かっている。
坂合部岩積は653年の第二次遣唐使船に学生として、665年の第五次遣唐使船(副使・帰国時は代表)でも、唐に渡っている。
斉明天皇5年(659年)坂合部磐鍬(さかいべのいわすき)は、第4次遣唐使船の大使として長安に至る。
天武天皇11年12月2日(682年)境部連(さかいべのむらじ)姓を賜り連となる。
当主は坂合部岩積?天武天皇13年(684)に坂合部岩積は宿禰の姓(かばね)を授かる名族である。
ワカタケルに攻められ、有間皇子とつながり、壬申の乱では関ヶ原で討ち死にする。氏族としては滅亡するかと思いきや遣唐使としては活躍を続ける。
黒駒古墳は坂合部連の祖を埋め、落杣神社は坂合部の祖霊を祀る。
安楽寺塔婆(御所市稲宿)
「安楽寺
高野山真言宗。もと法相宗。本尊、十一面観音。
境内に大日堂といわれる三重塔の初層が残り、桁行三間、梁間三間、一重・宝形造・本瓦葺。葛城寺縁起によると、延宝年間(1673―81)に三重塔の九輪が墜落し、上の二層を失い下層のみをとどめたという。鎌倉時代の建立とみられ、中世三重塔の一例として保存され、「安楽寺塔婆」として国重要文化財に指定されている。」(奈良県史6p450)
安楽寺遠望。現在
稲宿には葛城寺と安楽寺が残っている。
安楽寺は真言宗、葛城寺は浄土宗だった。「だった」というのは葛城寺は平成27年に広陵町に移転、この場は廃寺となっている。
安楽寺塔婆。国の重要文化財
塔に向かいあった台地、「上ノ坊」に葛城寺が置かれていた。屋根に中世の瓦がのっている。地形的には、宝塔はこの寺塔だったと思われる。
安楽寺も元々はこの寺内にあったが、現在の場所に移されたと『奈良県寺院明細帳』(明治24年)に書かれていると、『御所市寺院建築調査報告書』が紹介している。
すべての元は葛城寺である。大和国条理復原図から稲宿の小字名を調べてみた。塔は宮ノ下。向いの山、上ノ坊には(元)葛城寺。他にも宮ノ前があり、安楽寺は古安寺。さらに大門もあれば、小門もある。路ノ坊とか谷の入り口は出口といい、広大な寺地が想定される。
こうした小字名が残ることから、『南葛城郡史』は、この地を聖徳太子草創の葛城寺と推定している。
寺は中世に繁栄するがその後に衰退し、三重塔も崩落するという事態に至った。
破損した二・三重と相輪を延宝8年(1680)に降ろし、初重のみで宝形造の塔に改修している。
1990年に保存修理が行われた。建立時の形式に復原し、宝形造の屋根を整備している。本来の塔の形を復原して、縁と飛檐垂木(ひえんだるき)の復活など大規模な改修を行った。
鎌倉時代の初期の建築と判断され、重要文化財に指定されている。
屋根の母屋に「三重之宝塔ハ正嘉二年午十月十日二十下シテ一重ト改」(1258年)とあるが、この改修は延宝年間であることは確実で、1200年代に修理したとは解されていない。しかしこの年号が、当初の建造の時期を示すものと考えると、建築様式からみて時代が合ったりして面白いが、その証拠はない。
参考文献
『重要文化財 安楽寺塔婆修理工事報告書』
『御所市社寺建築調査報告書』
『御所市史』「寺院」「古瓦」
名称 安楽寺塔婆 一基
●構造型式 桁行三間(けたゆきさんげん)、梁間三間(はりまさんげん)、一重(いちじゅう)、宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺(元三重塔初重)
●時代区分 鎌倉後期
●指定年月日 昭和36年3月23日
安楽寺塔婆が建つこのあたりには、中世まで葛城寺(かつじょうじ)の大規模な伽藍が営まれていたが、近世初頭に衰退し、この建物は現在は「大日堂」と呼ばれている。
この建物は、もと三重塔の初重が残ったもので、江戸時代前期の延宝8年(1680)に破損が著しかった二・三重及び相輪を降ろして初重のみを残し、軒を一軒(ひとのき)に縮め宝形造の屋根に改め規模を縮小した。また内部中央の須弥壇を撤去し、その奥に厨子と両脇壇を設け、正面連子窓を半蔀戸(はんしとみど)に改造していた。それでも残存する三手先組物(みてさきくみもの)や長押・円柱(まるばしら)などの軸部材(じくぶざい)は、建立当初の部材・形態をよく残しており、また屋根内部には二・三重の部材が転用されながら保存されていた。
昭和63年10月から工期23カ月で保存修理を行い、初重は建立時の形式に復原し、宝形造の屋根を整備した。
平成23年8月 御所市教育委員会 御所市観光協会
『葛と日本人』有岡利幸著 八坂書房
クズをトコトン考えてみる。
クズという和名は、とくに良質のクズ根を産する大和・吉野地方の国栖という地名に寄ったという説が有力である。「くず」は「くにす」の変化したもので、上代、各地に散在していた短身長肢の先住民を一般に称したが、ことに吉野川の川上に住む国栖は、古くから朝廷から特別の扱いを受け、宮中の節会の際、貢物を献じたり、歌舞や笛を奏字たことで知られ、彼らの住む地もまた国栖の名で呼ばれていた。(p10)
書籍の順とは違うが、先ずは親しみのある葛粉からみてみよう
「葛粉は各地で多く生産されるが、とりわけ大和国の吉野地方に産するものが第一であるという。それは葛粉の色が白く、まるで雪のようだからとしている。」江戸中期の書物『本朝食鑑』によるとの紹介である。
吉野川流域には上流の国栖、下流の葛があるが、現在はいずれも葛粉の産地ではない。
「奈良県産の葛粉はふつう吉野葛とよばれているが、・・現在は宇陀地方が主要な産地となっている。・・・元和二(1616)年に吉野川流域の下市に居住していた南朝の遺臣の森野家が宇陀に移住し、葛粉の生産を始め、徳川幕府に献上していた。また葛粉を朝廷に上納していた京都の黒川家も慶安三(1650)年に宇陀に移住している。以来、奈良県の・・・宇陀地方が全国の葛粉生産量の半分を占めるようになった。
江戸中期の百科事典『和漢三才図会』(1712自序)に「屑根は和州金剛山より出る物良し丹波これに次ぐ、葛粉は吉野の曝し葛最上と為す。諸国に亦多くこれ有り」と記されていた。」(p136)
宇陀市大宇陀の森野薬草園
宇陀市大宇陀の黒川本家
クズと聞いて何を連想するだろうか。
クズと云えば、「山際などに猛烈に繁茂する絡まるツタの姿」。
あとは、「万葉集、秋の七草の葛の花」、山上憶良のことだろうか。
「秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種(ななくさ)の花」(巻八―1537)
「秋の花尾花葛花(くずばな)なでしこの花女郎花(おみなえし)また藤袴朝がほの花」(1538)
クズの花が咲く、「秋の野」を考えながら、クズの葉、クズの花の事を考えてみる。
まずは「クズのつるは萬世に絶えじ」である。
「クズのつるは長々と地上に這う。普通のものでもその長さは10~20㍍に達する。一株のクズのつるの長さはどれだけあるのかを早稲田大学の伊野良夫が学生たちと調査し、『植物の生活誌』(平凡社、1980年)に「クズ」のタイトルで報告している。それによれば巻きついたものをほぐし、土中のものは掘り出して一株のつる全部を伸ばして測定した。・・・その中で当年に成長したつる1471メートルであった。」(p37)
1カ月あたりで平均123メートル、一日あたりだと4メートル、一時間に17センチも伸びると紹介している。
クズのつるが伸びる、葉が茂るのは万葉の時代も同じである。
「真くず這う夏野の繁くかく恋ひばまことわが命常ならめやも」(萬葉集巻十―1985)」
「赤駒のい行きはばかるまくず原 何の伝言(つたごと)ただにし吉(よ)けむ」(3069)
クズのつるは野にもはびこり、道にも伸びて馬の通行も妨げたと歌われた。
奈良辺りの葛は冬は枯れる。しかし、地下ではしっかり力を蓄えている
秋の「七種の花」の咲く場所、繁る場所を有岡さんは検討する。
「秋の野」に注目する。「原」ではなく、「野」であり、それは原野ではなく、人家や水田の周辺などを「秋の野」というのだろう。当時も水田の周辺には高木を繁らせない。これを「庇陰地(ひいんち)」といい、水田から30メートルくらいの高木を切り取り、陽を遮らない工夫がある。
この解放地に草が繁るのである。そして、それが水田の肥料になる。この肥料用の草地は、水田の広さの10倍ほども必要だったとのことである。
さらに、有岡さんは香具山を例にとり、「香久山の樹木や草類は麓の百姓の住居建築用あるいは調理や採暖のために伐採のために利用されていた。伐採された跡地には草が生え、その草は百姓たちの栽培する水田の稲の肥料や農耕用の牛の飼料として利用された。」(p60)と述べる。
こういう景色があるからこそ、「香具山に登りて望国(くにみ)しましし時の歌」という景色もあり得るのである。
「近世の近畿地方の里山のほとんどは草山で、樹木の生えた山はほとんど存在していなかった。江戸時代に刊行された『都名所図会』や『大和名所図会』などの山地の描写からそのことがうかがえる。近世の近畿地方の里山は秋の七草の生育地であった」(p57)
秋の七草と言っても、クズへの対応は難しく、今では害草と言われている。
本来、クズはたい肥として使われた。さらにクズはマメ科の植物なので牛も馬もよく食べ、また一か所に繁茂するため、大規模に刈り取る事が出来た。
ところが今では、その強烈な繁殖力で山地や農地で猛威をふるっている。
かつては有用植物として古代・中世・近世の農民たちに盛んに利用されたが、その後の経済の発展、農業のあり方の変化から、クズは今では大変な害草とされている。
クズの強烈な繁殖力は持て余されている。それは日本の事であるが、砂漠化防止、家畜の飼料として「有用植物」として輸出されたアメリカでも同じ状況になっている。
アメリカでクズの苗や種が販売されていた時期があるが、東部・南部で強烈に繁茂して、現在では害草に指定されているとのことである。
カードにも kudzu は採り入れられている。こんな毒々しい扱いである。
人がクズに埋もれてしまうカードもあるようである。
クズはすごい。クズの繁殖力が人や他の生物に期待されたり、共存する時代が来るかもしれないが、それはいつの事だろうか。
新宮山古墳(しんぐうやまこふん 御所市稲宿新宮山745)
古墳の所有者は新宮家(しんぐうけ)の9名の方である。古墳名は所有者に由来するもので、あくまでも「しんぐうやま」、「しんみややま」とは読み違えないで頂きたい。僕も、かつて「しんみややま」古墳と読んで正されたことがある。(笑)
昭和55年(1980)3月に奈良県史跡の指定を受けた。発掘調査はされていないが、史跡指定にともなう調査が行われ、『奈良県指定文化財54年版』に収録されている。
他の参考資料は『大和の古墳を語る』(この項泉森皎氏執筆)、あとは現地の「県史跡新宮山古墳」(掲示責任者名記載なし)である。
読み比べると大本は『奈良県指定文化財54年版』である。
位置と墳丘
新宮山古墳は稲宿の集落に接し西南に位置する。西南方向から東北に向かってのびる比較的傾斜の急な尾根上に築かれた古墳である。墳丘は円墳とされ、径は約25mである。
石室
東南方向に開口する横穴式石室である。横穴式石室は両袖式で、全長13.6m、玄室の長さ6.3m、幅2.5m、現高3.0m、羨道の長さ7.3m、幅1.7m、現高1.4mである。
玄室の側壁は上方の石を内側に張り出している。玄門上部の見上げ石は2石で奥壁に比べると持ち送りが大きい。
天井石は3枚で、袖部には大きな立石を使用している。石室の石はいずれも粗粒の花崗岩である。
玄室内の奥に箱式石棺、手前に刳抜式家形石棺が置かれている。
箱式石棺(奥側)
箱式石棺は蓋石と両側版とみられる2m前後の板石が残る。板石の内側は赤色顔料が一部見受けられる。
石棺材については、各書の記述が異なる。
●石棺の材質はやや硬い凝灰岩である。(奈良県指定文化財)
●石棺の材質は吉野川(紀ノ川)周辺で産出する緑泥片岩の板石を組合せたもので、鮮やかな赤色顔料が塗られている。(現地掲示板)
●石材は吉野川流域の結晶片岩である。(大和の古墳を語る・泉森皎)
家形石棺(入り口側・追葬とみて)
刳抜式家形石棺は、盗掘孔は穿たれているが、他は完全な形で残る。身の長さは2.3m、幅は1.1mである。蓋石は屋根形で、縄掛突起が両長辺に2個ずつ、両短辺に1個ずつ造りだされている。
棺の内側は丁寧に刳り抜かれ、加工の痕跡が残る。石棺内面には赤色顔料が塗られている。
刳抜石棺の石材について
▼石棺の材料は蓋が緻密は凝灰岩、身は浮石を含む凝灰岩石である。(奈良県指定文化財)
▼家形石棺は、兵庫県高砂市周辺で産出する凝灰岩(竜山石)でつくられている。(現地掲示板)
▼二上山系の凝灰岩を刳り抜いた家形石棺が追葬時に用いられている。(大和の古墳を語る)
出土遺物
◆出土遺物は不明である。築造年代は石棺の形式から古墳時代後期中葉のものと考える。(奈良県指定文化財)
◆古墳の周辺は、古代豪族巨勢氏の本拠地であり、高取町の市尾墓山古墳・宮塚古墳、御所市樋野の権現堂古墳などとともに、6世紀代の巨勢氏の活動を示す重要な古墳である。(現地掲示)
◆出土遺物は知られていないが、石室の様相や家形石棺の特徴から見て、6世紀中葉~後半に築造されたと考えられる。(現地掲示)
この古墳を奈良交通のツアーで案内する。
2月11日(土)は巨勢谷の新宮山(しんぐうやま)古墳に解錠入室する。この古墳は学術的な調査などで入室はできるが、一般的には峻拒されている古墳である。今回は特別に古墳の持ち主の新宮(しんぐう)家のご了解を戴くことができた。諸般の事情で「今回だけ」で、これは「夢の古墳ツアー」である。
概要は下に表示しておく。2月11日の「吉野川沿いの美古墳を究める」である。
参考資料は『奈良県指定文化財54年版』
『大和の古墳を語る』(この項泉森皎氏執筆)
現地の「県史跡新宮山古墳」(掲示責任者名記載なし)
図面は全て、『指定文化財54年版』による
上宮奥(宇陀市大宇陀)の綱掛
上宮奥の綱掛が行われた。
宮奥の綱掛
令和5年は1月8日(新年の第一日曜日が恒例)に、綱掛が行われた。
綱の調整、祭祀は興隆寺似ておこなう。午前9時に全戸7戸が参集、祭祀の後、綱造りを始める。
荒縄3本を束ね、荒縄をその周りに巻いていく。
「藁で編んでいたが、今はこれである。藁が品種改良で短くなり、作付農家が二軒になぅってしまい荒縄で編むことになった。行事継続のためには、これが良かった」(松浦さん)。主として男性が行うが、女性も綱を持つなど参加する。
網には「タコの足」を取り付ける。
藁紐を四本。この紐は「さんばいこ」という。腰にぶら下げて稲を刈る。すばやく刈った稲を束ねるための道具である。今では使われることがないが、こんな行事の中に残されている。この「さんばいこ」に、樒(しきみ)を取り付けて、紙垂を挟む。
「タコの足」は普通の年は12本、閏年は13本とのことである。女性が分担して作り上げていく。
縄を支柱に載せ、タコの足を取り付けると綱は完成する。
乱声、乱打
床下からたたき台を取り出す。4間ほどある分厚い板である。持ち上げるのに4人掛り。踏み石の上にそえて、村人全員で樫の棒でバンバンを叩く。ささくれ立つ迄たたくのである。梵鐘を鳴らし、垣内(お名前・かいとさんという)区長がほら貝を吹き鳴らす。
しばらく前まで叩き棒は、ハゼ(漆の木)だったとのこと。「かぶれがひどいので樫に変えた」とのことである。かぶれることは無くなったが、「樫は強いのでなかなか割れないのが難」とのことである。
その後、200㍍ほど離れた綱掛場に移動、綱掛を行う。
ポールが立てられており、ワイヤも張られているので「綱掛は楽になった」。これも行事継続の智恵」とのことである。
宮奥(上)は7軒、村中総出の行事だが、「これを続けられる限りやろう」と、前区長の松浦さんは笑っていた。
宇陀チャンネルの言によれば、「宇陀市で綱掛をしているのは二か所のみ」とのことである。それは、こちらと室生の深野だろうか。
宮奥村の歴史
『奈良県宇陀郡史料全』と『大宇陀町史』に紹介されている。ポイントを拾うと。
もともと宮奥は式上郡に属して戒重藩(織田家)の支配を受けていたが、元禄12年(1699)に宇陀郡に編入(大宇陀町史)された。多武峰からは大峠を越えての郡制だった。今は宮奥トンネルのおかげで桜井からは近い。
「本村元単に宮奥村と称し、中宮奥村、下宮奥村と一村たりしに元禄年間頃分別して三村となる」
「慶長の頃より長益(織田)の所領たり、…五男尚長の領する所となり世々相継て領治す、明治二年六月・・柳本藩の管地となる、同4年奈良県の治に移り、同9年堺県に合わせ、同14年大阪府管す。」『奈良県宇陀郡史料p54』
街道の事
「村の北方十市郡八井内村界より村の中央を東進し本郡中宮奥村界に至る十五町53間、幅一間二尺之を多武峰街道と云う」『奈良県宇陀郡史料p55』
「大峠は針道峠ともいい、上宮奥から熊が岳から竜門岳の鞍部をこえ、多武峰に下る道である。江戸時代には南宇陀・東吉野地方の人たちは多武峰やさらに西の飛鳥方面へ出る道として利用した。別に多武峰街道の名もあり、岡寺の厄よけ詣りにこの道を通ったようだ。宮奥の人は、大正ごろまで薪炭を峠ごえで運んだという」『新訂大宇陀町史p621』
神社の事
上宮奥には亥神社(御井神)と九頭神社(衝立船戸神・道反神)が祭られていたが、明治42年2月6日、亥神社に合祀された。
寺の事
廃寺、興隆寺。神戸村宮奥にあり。堂宇現存す。鐘楼も残る。鐘は太平洋戦争時に供出されたが、平成8年に再鋳する。銘に「平成八丙子稔春再鋳 大字上宮奥区民一同」とある。
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法隆寺 |
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