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奈良・桜井の歴史と社会

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土笛 竹内もと代

「土笛」 竹内もと代。くもん出版からで少年少女向け(小学校高学年?)だろうか。

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古事記、日本書紀にもとづく「イワレビコの東征」をテーマにした児童小説である。
「土笛」とあるから、連想できるだろうが、イワレビコによって攻め滅ぼされる「土蜘蛛族」が主人公である。
「攻められる側の痛みに立つことで、家族や生まれ故郷を思う気持ち、失われる命の切なさなども描きたかった」(作者より)とあり、穿(うがち)のエウカシとその娘が活躍する。


楽しく読むことができた。
二つの着想に感心した。
一つはエウカシとオトウカシは朱砂(すさ)(丹、水銀のこと)の分配をめぐっての争いがあり、そこから分断されたとされている。
なるほどなあ。
イワレビコは大陸との交流が強い先進部族で、朱砂の価値を十二分に理解していた。
この知識をもとにオトウカシを誘ったという分析でとても面白い。

いま一つは穿のエウカシが殺されるところのエピソードである。
イワレビコとの対面のための仮宮にエウガシが罠を作ったと言われている。
逆にそのたくらみを見破られ、その罠にかかりエウカシは押しつぶされたとなっているが、竹内さんはここがおかしいと言う。
「宇陀の高城に鴫(しぎ)をとるワナを張って、俺が待っていると鴫はかからず鷹がかかった。これは大漁だ」(イワレビコが歌を詠んで。久米歌として残されている)ということで、イワレビコ自身があからさまにワナを仕掛けたのは俺だと言っている。
エウカシはだまし討ちなどはしない勇者だと称えられるし、自らの計略を歌に残したイワレビコも立派だということである。

竹内さんはこの出来事をエウカシの娘、ミズハの目を通して書き連ねていく。
しかもこのミズハが実はミツハノメのよりしろという設定で、神の使いにもなっている。

奈良県の歴史をもう一つの面から見た思いである。

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ところで、「エウカシ、オトウカシ」、「日本神話に導かれて」の竹内もと代さんの講演会が菟田野で開催される。
10月14日(日)、会場は菟田野農林センターで午前講演、午後ウォーキングである。
これは面白そうである。僕は日程が合わないが…
# by koza5555 | 2012-08-31 00:03 | 読書 | Comments(0)

初かすみ酒房  久保本家酒造

しつこく宇陀市を歩いている。
先日も宇陀松山のライトアップで大宇陀を歩いた。
久保本家の前で、あっちゃんが「難波にも久保本家という居酒屋がある」と言い出した。
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NAMBAなんなん店

久保本家にツアーで訪ねれば、「難波の居酒屋」は当然話題になるよね。
でも、行ったことのないお店は紹介できない。

そんなことで、話は広がっていく。
大阪に出かけたあっちゃんと難波で待ち合わせした。
お店はNAMBAなんなん、高島屋の横、無印良品の地下入口の直近である。

「創業300年以上、久保本家酒造直営の居酒屋、お酒がおいしいことは言うまでもなく、おでんや串焼きを中心に一品100円からとお手頃価格の料理と、元気な接客をお楽しみください」(初かすみ酒房SHOPS)とある。

お昼のランチである。このランチには「一口ビール」が付いている。
体調が万全でなくお酒はいいと言うあっちゃんも、このビールに顔がほころぶ。

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おすすめのおでんはやはり美味しい

僕は焼き魚のセットだった
小鉢はいろいろなものが用意されており、選択ができる。
写真にはないが(後からでてきた)、おでん汁にとろろ昆布をうかべたお汁をいただいた。出汁タップリの濃厚お澄ましである。
お昼の食事もとても手ごろである。

そうはいっても、久保本家経営の居酒屋である。
久保本家のお酒ならなんでもと、たっぷりと並んでいた。
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「初かすみ酒房」はNAMBAなんなんの難波店と
日本橋のなんばウォーク、
あらたに阪急かっぱ横丁に阪急梅田店が新規オープンとのことである。
# by koza5555 | 2012-08-30 00:26 | | Comments(2)

レイランディ

例年、今頃に剪定をする。


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剪定前と剪定後。レイランディである

一年に一回だが、池ノ内のN造園さんが今頃になると現れる。
「明日やらさせてもらってもいいですか」と、これは断れない。
「今日の午後からやりたいが」といわれたこともある。
植木屋さんはお天気次第の仕事だから、手が空いたり、仕事が押して来たりで日程が事前に決まらないのは毎年のことである。
亡父がNさんのお父さんに松を植えてもらい、庭を作ってもらった時からの40年来のお付き合いである。

4年ほど前に敷地の形を変えた時も、庭づくりはN造園さんにお願いした。
レイランディを3本植えた。
レイランディ、帝塚山大学の正面玄関前の芝生に姿のいいのが一本立っている。
わが家のレイランディはそれよりは小さい。それでも、植えてから3年、相当しっかりしてきた。


ちなみレイランディ、アラスカヒノキとイトスギの一代限りのハイブリッドで、暑さに強いというのが特徴である。
一年に1メートルも伸び、放任で育てると樹高30メートルにもなるということであるから、刈込などの管理が必要である。


盆栽ではなく植木屋さんの剪定仕事をここら辺りは「木つくり」という。奈良の言葉はきめ細かく優しい。

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おばあちゃんが植えた金柑。この樹も植え替えて3年、大分しっかりしてきた。
# by koza5555 | 2012-08-29 00:04 | 健康 | Comments(0)

桜井周辺の初期大王墓をめぐって 白石太一郎近つ飛鳥博物館館長

第51回 桜井市夏季大学で白石太一郎先生の講演があった。
演題は「桜井周辺の初期大王墓をめぐって」で、大和・柳本古墳群の解説である。

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大神神社大礼記念館まえから。大鳥居、二上山を見て

講演は「奈良盆地は三地域に分けて考えよう」と始まった。
盆地の南部の東はヤマト、西は葛城。
北半分は「曾布(そふ)」の地、いわゆる添上郡・添下郡とのことである。

このヤマトの地に代表的な6つの古墳がある。
これを検討し、桜井周辺の巨大古墳がヤマト王権の初期大王墓であることを論証するというテーマである。

結論を急ぐようであるが、
一番古いのが箸墓古墳(桜井市。ヤマトトヒモモソヒメの陵とされている)。
次が西殿塚古墳(天理市、手白香皇女衾田陵である。継体天皇の后であるが、時代が200年も合わない)。
3番目が外山(とび)茶臼山古墳(桜井市)。
4番目がメスリ山古墳(桜井市)。
5番目が行燈山古墳(天理市、崇神陵)。
6番目が渋谷向山古墳(天理市、景行陵)とのことである。
6古墳、陵とも西暦で250年から350年の間のもので、大阪や馬見古墳群、佐紀盾並古墳群と比べても100年~200年ほどは古い時代のものである。

壺、埴輪、出土物(とくに三角縁神獣鏡などの鏡)などで、建築順、時期などの考証が正確になってきていると強調がある。

興味深い話が3つほどあった。

一つは岸本直文氏の古墳の「2系列説」である。
祭祀の王(女王)と政治の王が並列に存し、陵もそれぞれ作られたという論である。
ヤマト古墳群で言えば、6基あっても二系列の3代ということになる。
白石先生は「古墳は作成時は明確で、100年以上で3代というのは考えにくい」とこれには反対と表明された。

二つにはそれとの関わり合いで、初期ヤマト王権では祭祀と政治は別々の行われた可能性もあるとの指摘があった。
西殿塚古墳(手白香皇女衾田陵であるから発掘はできない)のように、前方部と後円部にそれぞれ高まりがあり、二つの竪穴式古墳が存するとみられると言われた。同時期の二人の王が埋葬されている蓋然性が高いとの分析である。
この測量図にもとづき、こういう論拠があるとは知らなかった。
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西殿塚古墳(手白香皇女衾田陵)。二つの高まりが明瞭である

三つ目として、「メスリ山古墳は大彦墓として、安倍氏族の奥津城の始めなどというのは論拠がない」と言い切られた。
メスリ山古墳も軍事、祭祀に有能な大王墓との主張である。

大和(大和・柳本・十市)の古墳群は初期ヤマト王権の古墳群であることは疑いなかろうと結論づけられた。
纏向遺跡などとともに、文献資料だけでは明らかにできない邪馬台国から初期ヤマト王権への変遷過程を解明することができる歴史的資料群があるという。
「飛鳥の時代以降の宮、都、古墳は国と県で主導的に調査をおこない、手厚い補助を行っている。
いまヤマト王権誕生のこの地域に、国と県の力が必要である」と強調された。

行燈山古墳、渋谷向山古墳も述べられたが、ここは僕も何回も書いているので今日は省略する。
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講演する白石太一郎館長

普通の話だが、観点に独創性があり勉強となった。
暑い日(会場内は寒すぎ)、お互いにお疲れ様でした。
# by koza5555 | 2012-08-28 00:05 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

桜井夏季大学 第51回

大神神社、大礼記念館で第51回桜井夏季大学が開かれた。
桜井観光協会の主催である。

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大神神社境内

午前の部は帝塚山大学考古学研究所、甲斐弓子研究員が「国家繁栄の視点から見た初瀬川周辺―古事記の中の桜井」の講演を行った。

勉強できたことは3つである。
一つは相撲の起源や役割についての詳細な説明をいただいたことである。

垂仁天皇の7年に當麻蹴速と野見宿禰の相撲のことを触れた後、この相撲というのは除災招福、相撲による祓えのことを示していると話された。
相撲は俵で結界(土俵)が作られる、四股を踏むのは地の悪霊を追い出す行為、手を打つのは神を招きよせる行為と聞き良く理解できた。

日葉酢媛命の葬儀に当たり埴輪を作ったことにも触れながら、年は違うけど相撲は7月7日、日葉酢媛命の崩御は7月6日ということで、相撲による国家の祓えをしたことを記述したのではないかという指摘があった。

これらにちなんで、聖武天皇が天平6年(734年)7月7日に相撲をご覧になられた。
826年に相撲節会が7月16日に改められるまでは7月7日が相撲節会だったと歴史を語られた。

いま一つは江包、大西などを中心にして纏向の西に出雲荘という屯田(みた)があった。のちには興福寺の荘園になったそうであるが、そのことの説明を受けたことである。

あ、ここに出雲があったかと目からうろこである。
興福寺雑役免田(1070年)によって、出雲荘、江包、大西が明示されていると岸俊男元京大教授が指摘している。
出雲臣の祖は淤宇(おおの)宿禰といい、倭屯田(やまとみた・出雲荘のこと)を支配下においたとのことである。

なるほど。
お綱祭りの泥相撲もいわば野見宿禰が関係しているんだと大いに納得できた。
「現在の出雲はこの出雲荘の長官の自宅があったということだろうか」という説明をされた。

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講演する甲斐弓子研究員

三つ目はヤマトタケルの宮のことである。
「ヤマトタケルには宮があった」と甲斐さんは熱弁をふるう。
その場所は、ヤマトタケルがいまわの時に歌った「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし」という景色がみられる場所で、「そこを探しましょう」と言うのが講演のシメだった。

最後に、地名の粗雑な読み違えや出雲(現在の)やダンノダイラについての説明は少しがっかりだった。
しかし、こんな誤りは僕などはいつも冒しそうな誤りで、「あくまでも実地を見て、あくまでもくれぐれも調べて」と肝に命じたい。
なお、ダンノダイラや現在の出雲については、「大和出雲の新発現」(榮長増文著 えいなが・ますふみ)という詳細なご本が出ていることを紹介しておきたい。

苦言も呈したが、新たな視点も考えさせられて刺激を受ける講演会だった。
# by koza5555 | 2012-08-27 00:02 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

大和桜井園の盆踊り

大和桜井園の地域ふれ合い盆踊りが開かれた。
38回目とのことである。

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盆踊り風景

大和桜井園、地域の特別養護老人ホームである。
そして、デイサービスもあれば、僕らの校区を担当する包括支援センターもここに置かれている。

そんなこともあり例年、校区の民生委員協議会から2名のボランティアを派遣するという慣わしである。

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他校区や地元の信用金庫から大量のボランティアの参加で、手際よく準備が進む。
午後2時の集合で万国旗や行燈のセット、祭の準備などに汗を流す。

奈良の盆踊りに初めて参加した。
ずっと「河内音頭」である。「民謡 河内音頭、きまぐれ家」が2時間の生演奏である。
東海なら郡上踊りのいくつかとか、炭鉱節などというパタンであったが所変われば・・・である。

僕らは設営、本番では風船釣り、後片付けという役割分担である。

最後に桜井音頭が踊られる。
「初瀬は照る照る 黒崎は曇る 三輪の馬場先は 雨が降る」の素麺掛唱(そうめんかけうた)の踊の振り付け、小道具を考えたわが町の植松先生もグループを引きいて元気に踊られた。

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午後9時過ぎにはすっかり片付いて解散となった。
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皆さん、踊りが好きで歌が好き。
# by koza5555 | 2012-08-26 00:02 | 民生・児童委員・町内会 | Comments(0)

宇陀市のマンホールふた

合併により宇陀市が誕生してから6年を経た。
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これが宇陀市のマークである。4町村の合併を端的に示している

大宇陀の松山を案内することになった。
町並みを見たり、足元を見たりして歩いているとマンホールの蓋が鮮やかである。

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大宇陀のマンホール蓋。カザグルマを意匠化したものである

大宇陀はカザグルマ自生地の北限で天然記念物に指定されている。宇陀アニマルパーク入り口の北側に自生地があるが、樹相の変化や盗掘による衰退があり保全、回復の事業がすすめられている。

少し考えてみた。
合併前、各町の花、鳥、木はどんなふうだっだろうかと。
そこで、丹念聞いてみた。宇陀市ではわからず、各地域事務所(元役場)まで行ったり、電話で確かめた。

大宇陀はカザグルマ、ホオジロに橡(くぬぎ)。
榛原は山つつじ(鳥見山に群生)、ウグイスにヒノキ。
菟田野はアジサイにウグイスに杉。
室生はスズラン(向淵・むこうじ)と松(三本松にちなんで。いまは枯れたが、天然記念物だったそうである)。

合併した宇陀市はスズランとウグイスとヒノキとなった。
いろいろと苦心の融合である。

ちなみに
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これが榛原。鳥見山も山つつじもよく分かる

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これが菟田野。ウグイスにアジサイである

室生は公共下水がなかったからマンホールの蓋はないとのことである。

そして、現在の宇陀市のマンホールの蓋はどうか。気になるところである。
市の下水道課にお聞きすると、「新しいマンホールは作っている。図案は幾何学的な模様です」とのことである。10年もすると宇陀市のマンホールの蓋は全部変わってしまうのだろうか。
# by koza5555 | 2012-08-25 00:02 | 奈良 | Comments(0)

宇陀松山夢街道 町並みライトアップ

23日(木)~25日(土)にかけて、宇陀松山夢街道町並みライトアップが行われる。
重要伝統的建造物群保存地区である。

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23日が初日で町並みライトアップ。
久保酒造、芳村酒造、黒川本家など主だった町屋がライトアップされる。
24日はアニマルパークのライトアップが加わり、最終日の25日は松山のメーンストリートに行燈が並べられる。

12月に行う古事記と宇陀のツアーでは、最後に松山を訪れる。
道の駅「宇陀路大宇陀」にバスを停めたあと、

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宇陀市中央公民館の「安騎野の朝」を見学

それから
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黒川本家(葛を商う「山ノ坊屋」家屋、江戸時代中期築、間口10間半、切妻)

そして
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郡司家(「更紗屋」家屋、明治元年頃建築)

川辺家、林家、千軒舎を経て、久保酒造というコースを歩きたい。

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久保酒造

松山城は戦国時代の宇陀三将(秋山、沢、芳野)の秋山氏により築かれた秋山城の城下町を起源とする。
その後豊臣秀長配下の大名、なかでも福島高晴により現在の町並みが作られ、地名も松山町に改められた。
江戸時代から明治時代にかけて宇陀郡の商工業の中心となり、当時からの商家が数多く残る中心街を国の重要伝統的建造物群保存地区として指定されている。

宇陀の歴史は中世以降も激動である。
中世は菟田野が中心商業地であった。元市場という。
秋山氏が阿貴(あき)(のちの松山のこと)に城下を開いてからは松山が中心となる。
明治時代までその勢いは続いた。桜井と松山の路線バスは大正6年に開通しており、松山が宇陀の入り口であった(参宮線の桜井、榛原間の開通は昭和6年)。
いまは榛原に宇陀市役所があり、経済の中心地は榛原に移っている。
こうしたこともすべて踏まえて、榛原、大宇陀、菟田野、室生の合併も行われたと理解して宇陀市を歩こうと思う。
# by koza5555 | 2012-08-24 00:02 | 宇陀 | Comments(0)

夏休みの作品

孫が一年生の夏休みを送っている。

夏休みの作品が難関である。
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犬と犬だが

孫は学童保育の世話になっているが、夕方迎えに行くのは僕たちである。

「習字だ」「英語だ」と、学童保育が終わってからママが迎えにくるまでの間を忙しく過ごす。

夏休みの宿題は、「アレッ」と思うほどわずかである。
しかし、難関は「夏休みの作品」である。
担任の教師のお薦めは「絵」である。僕が言うのもなんだが、孫のスケッチ力はそれなりのものがある。

しかし、あっちゃんは「木工所の娘」で、どうしても木工展への思いが捨てきれない。
先日、学校の中から木切れを拾ってきた。剪定したまま放置されていた木切れである。
三人(あっちゃんと孫、僕)で「どうする?」というと「鳥か動物に」ということになった。
監督は孫?職人はみんな?みたいな感じで、久遠(くおん、犬の名前)を見ながら、あれこれと作り上げた。

頭を取り付けるために、7センチくらいのステンレスの皿ねじだけは買った。
犬に見えますでしょうか。

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5年前、パソコンで遊ぶ孫と久遠

犬を作った孫は5年前、赤ちゃんだった。今は立派な小学生である。
久遠は5年前、子どもの犬だった。今は普通の大人の犬である。
# by koza5555 | 2012-08-23 00:04 | 健康 | Comments(0)

飛鳥歴史公園

「灼熱の太陽」って言すぎじゃないですよね。
ものすごい陽射しです。

午後だけですが、どうしても日覆いがしたい植木がありました。
いろいろひねくり回していると

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こんなレジャーシートが出てきました。

国営飛鳥歴史公園開園20周年とあります。
あっちゃんの記憶では、15年も前に「飛鳥里山クラブ」を受講し、その講座のなかで、いただいたか購入したものとのことである。

飛鳥里山クラブ、あっちゃんは3期生で今年の募集が17期生だった。

飛鳥里山クラブは国営飛鳥歴史公園が事務局を作り運営する。

「飛鳥の魅力をより多くの人々に伝え広める活動を行うボランティアグループ」で、「この活動を行っていくため、入会初年度に全20回の講座」を持ち、その内容は里山づくり・生き物・歴史・風土地理・ものづくりなどの飛鳥に関連することを屋内や野外で学ぶ」とある。

飛鳥そのものを学ぶとともに、里山の普遍的な価値を学び、里山と楽しみ、里山を守るために汗も流し、技術も身につくという講座である。

あっちゃんはこの里山クラブではるるんや山里Cyafe(ちゃふぇ)のNさんと知り合った。
そして、僕もその友達となった。

里山クラブ、3月が例年の募集の時期である。抽選となるような人気である。
飛鳥だけなら「いいかな」とも思うが、山を歩いたり、自然を楽しむスキルアップが確実で魅力的である。

春にも一旦心に決めていたが、健康に留意して、来年度、僕も行こうかと心に決めるのである。

そして、このレジャーシートは引き続き保存ということになり、丁寧にたたみ、収納することにした。
# by koza5555 | 2012-08-22 00:03 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

キバナコスモスと藤原宮跡

桜井から西に出るときは藤原宮跡、醍醐池の道が抜け道になっている。
この道を通ることが多いが、宮跡周辺はコスモスやハスなどで通年、花が楽しめるような工夫がある。
なかでも、夏のキバナコスモスが強烈である。
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キバナコスモス
キバナコスモスの原産地はメキシコで、大正時代にヨーロッパを経由して渡来した。
キバナコスモスの花期は長く、6月から11月にかけて直径3〜5cm程度の黄色、またはオレンジの鮮やかな花を咲かせるのが特徴である。
コスモスの原産地もメキシコで、高地がコスモスで低地がキバナコスモスとのことである。
したがって、暑さに強いのがキバナコスモス、涼しくなったらコスモスという順が納得できた。
来年は「7~8月にキバナコスモス、9月に入ったらコスモス」という順序を忘れぬようにである。

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耳成山をのぞんで。キバナコスモスは盛りを過ぎていた
8月19日。醍醐池西側のキバナコスモス。面積は約7,000平方メートルもあるが、撮りに行った時期が10日くらい遅れたようです。
# by koza5555 | 2012-08-21 09:53 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

山辺道

酷暑のなか、山辺道を歩いてきた。
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赤い線が歩いた路である

山際と集落を縫うような道である。

ところで山辺道は古事記と日本書紀に明示されている。
「山辺道をたどる」みたいな記載ではなく、陵墓の説明の中ではあるが。

古事記は崇神天皇の陵を「山辺之道勾岡上陵」(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)としている。
景行天皇陵は「山辺之道上陵」(やまのべのみちのえのみささぎ)である。
 
一方、日本書記は崇神、景行両天皇とも御陵は「山辺之道上陵」(やまのべのみちのえのみささぎ)としている。

ここらあたりの記述は、現地の実情を反映しているとみて差し支えない。
こんなふうに、山辺道が通っていた。


古代の山辺道を考えてみたい。
景行・崇神天皇陵の西側(下側)を通っていることは間違いない。
現在のように、民家を縫うような道でないことは確かである。

しかし、この道はまだ発掘されていないから、それぞれの想像力、推理力の世界である。
古代の地形を考えることが前提となる。

古代想定の山辺道、でも、これは歩けない。
現在の山辺道を歩きながら考えるのみである。
天理トレイル青垣から歩き始めた。

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景行陵、北側から見た耳成、畝傍山

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おなじみの三輪山。酷暑のなか歩く人はいなかった

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珠城山古墳と二上山

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東谷の手前の三分石。持ち山の面積に応じて水利権が石で分割されている

纏向周辺は大型古墳があり、いくつかの宮があったとされている。
ヤマトトトヒモモソヒメの箸墓古墳と合わせて、これが邪馬台国そのもの、そして連続した王権という見方の方も増えている。

邪馬台国の問題はさておいても、この一帯が大和王権の始まりの地であることは間違いないだろう。
# by koza5555 | 2012-08-20 00:28 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

喫茶 工場跡事務室と東大寺 御拝壇

あっちゃんが「喫茶 工場跡事務室」に行こうという。
最近は極端な出不精のあっちゃんのリクエストだから、奈良行きを嬉々と計画した。
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戒壇院北口から工場跡をみて
たかだか20キロ先の奈良だが、最近はなかなか一緒という機会が少ない。

車は氷室神社に停める。ここが目的地に近い。歩くのは嫌いではないが、とにかく暑い日だった。

すでにブログではアップ済みである。
一度は行きたいと思っていた奈良国立博物館仏教美術資料研究センターを訪れる。
それから東大寺の参道に入り、大仏殿をかすめて、喫茶工場跡事務室である。
周りをキョロキョロ見回して車に戻り、僕のリクエストの奈良市写真美術館、「入江泰吉 神宿る大和」を拝見するというコースにした。

喫茶、工場跡事務室。東大寺中御門(なかみかど・焼門のこと)跡を東に入った北側にある。戒壇院への登り口の反対側である。

乳酸菌飲料「フトルミン」(昭和30年代に廃業)の工場跡とのことである。
このレトロな工場跡に「喫茶 工場跡事務室」がある。
金・土・日・祝のみ営業である。

人気の「梅シロップのかき氷」や発酵バターのハニートーストなどをいただいた。


戒壇院を上がる前に中御門跡を見学した。
中御門跡と戒壇院の間に石組の壇がある。
苦労して「御拝壇」と読んだ。

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御拝壇
東大寺についてはたびたび歩き回ってきたが、この御拝壇はまったく認識がなかった。
ネットで調べても、「東大寺境内に入る前に、僧侶がこの壇に座って東の方へ向かって拝んだ?」など言うものもあり、いかにも不思議な壇である。

東大寺でお聞きするしかない。
「東大寺要録に記載がある。聖武天皇が壇の南の小高い丘で(現在は竹藪)大仏を御拝されたとのことである。」
「都が移ってからは、白河天皇、鳥羽天皇が上皇になったとき東大寺を参拝された時、まずこの場で御拝されたとのことである。」
「現在の拝壇はこの故事にならい江戸時代に整備されたものである」とお聞きした。

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御拝壇、喫茶工場跡事務室

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戒壇院

御拝壇は通りがかりの発見であったが、近代化遺産の話になるとあっちゃんの目はキラキラである。
# by koza5555 | 2012-08-19 00:07 | | Comments(0)

納骨施餓鬼法要

菩提寺から、17日午後7時から納骨施餓鬼法要を行うとの案内が届いた。

おばあちゃんが逝って3年を超えた。
このおばあちゃんの遺骨が納骨堂に収められる。
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納骨をおこなう

ご住職にお聞きすると、30年前に逝った父の遺骨はお寺で預かっていただいていることが判った。それで、3月のお彼岸におばあちゃんの納骨を済ませた。

このたび、納骨施餓鬼法要の案内が届いた。「本堂に安置していたお骨を、ご遺族の手で納骨堂に収める儀式」とのことである。納骨と施餓鬼(亡者への施食)を併せて行う儀式と思われる。

この一年に納骨された遺骨に参加者全員が順次焼香したのち、すべての遺骨を全員で手渡し(手繰って)でまわすという儀式である。
一人一人の遺骨を大切に回し、深く頭を下げる。
おばあちゃんの骨壺が回ってきたときには、一気に思いが押し寄せ、目頭が熱くなる。

その後、遺骨は納骨堂に収められた。遺骨になってからではあるが、おばあちゃんはともかく30年ぶりに父の隣に納まった。

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菩提寺は浄業山 大願寺

菩提寺は浄業山 大願寺浄土宗である。
桜井の寺町にある。桜井の大火は西に燃え広がり、寺町は被害を免れた。

延宝六年(1679年)の刻印がある鬼瓦が置かれていたとのことである。

中将姫が長谷寺へ詣でるときは、大願寺で休んだという伝説がある。
桜井市史は「大願寺が江戸時代を通して當麻寺の奥の院の末寺だったことによる」と、その説の出所を解説している。

       大願寺  630-0091 桜井市桜井1090番地
# by koza5555 | 2012-08-18 00:02 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

奈良国立博物館 仏教美術資料研究センター

春日大社の参道に入ると左側に和洋折衷の見事な建物がある。
国立博物館の図書館のようであるが、もともとは「奈良県物産陳列所」とのことである。

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仏教美術センター

「奈良県物産陳列所として明治35年(1902年)に竣工したもので、設計は建築史家 関野貞である。・・・昭和58年(1983年)に重要文化財に指定され、現在は当館の仏教美術資料センターとして活用している。」(奈良国立博物館)

「ならら」の8月号をパラパラとめくっていると、この博物館が水曜日と金曜日に公開されていると掲載されていた。
調べればわかったことであるが、目につくところにはそんな掲示はされていない。
そんな疑問を持ちつつも、「内部が見学できるなら」と訪れてみた。

インターフォンでのやり取りである。
「見学できますか?」と、こちらはあくまでも観光客気分である。
「何を調べますか?」
「建物をみたいのですが」
「資料を見るためなら入れますが」と、話が少しちぐはぐである。
なんとなくわかってきて、「どれってことはないですが、どんな資料が公開されているかを見るだけでもいいですか?」のようなやりとりがあって、敷地に入る扉のロックが外される。

入館口は西側にある。
西のウィングは事務室などで、東のウィングが書庫である。
正面ホールは、広々とした空間になっており何もない。

仏教美術資料センターというだけの、膨大な資料が開架で公開されている。
僕等は郷土史みたいなものを適当にパラパラと見ていただけである。それでも一時間くらいはすぐだった。

入館時にスリッパにはき替える。受け付書類は一人一人で行う。
入ってみれば、「ああ、こういうことね」と判るが、「目的がきちんとしていなければ来なくてよろしい」という施設であるから、「調べる目的を持って訪れるとより楽しい」。
料金は無料である。カメラや携帯は使えない。

ここに入館して、皆さんは活用したりしているんでしょうか?

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入口の掲示
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# by koza5555 | 2012-08-17 06:01 | 奈良 | Comments(0)

こんぴらさん

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こんぴらさん、本宮より

お盆の最中、「徳島・阿波おどり」というツアーに行ってきた。
「徳島に行き阿波おどりを堪能しよう」がメインのツアーである。

踊りは徳島であるが、宿泊は高松のビジネスホテルである。
踊り会場を出てからシャトルバスで河川敷の駐車場に移動、そこでツアーバスに乗り換えホテルまで60キロ走るという、けっこうな段取りである。

二日目はこんぴらさん、
高松泊まりということもあるが、「阿波おどりとこんぴらさん?」の、そんな思いが一杯のコースであったが…

金毘羅船船の歌詞を眺め直していると・・・
「阿波の殿様 蜂須賀(はちすか)さまだよ
シュラシュシュシュ
私ゃあなたの そばそばそばだよ
ほんとに金毘羅大権現」
という歌詞もあり、歩いて回った昔でも阿波、金毘羅参りはセットだなととわかる。


さて、こんぴらさんは正月に行ったばかりであるが、今度は真夏に汗をかこうという趣向である。
先月に心臓のカテーテルをしたばかりだが、まずは試運転になるかとも思う。

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お盆ということもあってか相当な人出である

猛烈な汗となったが、本宮まで785段、ゆっくりゆっくり登ってきた。

そんな具合にゆっくり上ったから、今回は小林一茶の句碑に気がついた。

おんひらひら 蝶も 金毘羅 参りかな


こんぴら狗というのもあった。この犬は江戸の昔、主人の代参をしたとある。
微笑ましい顔をした犬で、慰められた。

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こんぴら狗

乗用車でドライブするのもいいが、ツアーもなかなか良い。
ふたりで車のお出かけは何となく日常という感じであるが、ツアーははっきり「旅行」という気分で存分に楽しめる。
人が組んだ段取りだから、あれこれの不満もないわけではないが、やはり旅行の楽しさはツアーでこそ、高まる。
# by koza5555 | 2012-08-16 12:28 | 旅行 | Comments(0)

ツアーで阿波おどりに

徳島に行ってきた。阿波おどりを楽しんできた。
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無敵の二拍子

四国を歩いた時に知己となった方に、「夏に来い。元気になれる」と激しく誘われた。
二十年も前のことである。一度は行ったが、今度はあっちゃんと明るく行ってきた。
それで「お盆に行くか」ということであるが、この時期にしかやらない。

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二拍子のリズムとリズミカルな踊りは限りない魅力がある

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いわばメイン会場の藍場浜演舞場
# by koza5555 | 2012-08-15 23:50 | 旅行 | Comments(0)

「山の神」と「山の子」

父母のお墓詣りのため、生まれ育った岐阜市の野一色に帰った。

さて、今日は岐阜の「山の子」の話である。
いのこの暴れまつりのことを奈良まほろば検定で学んだ。
桜井市の高田の祭である。山口神社の山の神に捧げたもの子供たちが奪いあい暴れる祭りである。
この祭りのことを考えながら、岐阜市の野一色の「山の子」を思い出した。

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山の子のポスター、山の子の松明の絵があればいいんだけど…

「山の子」のお祭は、大きなワラ人形を松明にして、夕暮れの神社の境内を駆け上がり、「山の神」という石にその火を奉納するという行事である。

春、田植えの前に山の神を迎える。秋、12月の満月の日に盛大に松明で山にお送りするという祭である。来年もよろしくお願いしますという気分もあるが、一番は「山の神に山へお帰りいただく」という目的である。

岐阜市の中山間部では当時、広く行われており、濃尾平野に面する野一色がその南限であった。

「山の子」は面白かった。
ワラで大きな松明(人形)を作った。
我が家は農家ではなかったからワラ束をいただく必要があった。竹も切ってきた。
しっかりと締め上げたワラ人形を作らないと、参道を駆け上がるまでに燃え崩れてしまう。子どもの力には余る仕事だったが、ほんとうに頑張って作り上げた。。
松明行事が終わった後は、自分たちで集めた材料で五目御飯が炊きあげられた。
この五目御飯は美味しかったが、その材料のお米や野菜を集めて回ることも行事の一環である。
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岐阜市野一色の白山神社

僕らの頃は野一色の男の子だけの行事だったが、その後中止となった。
現在は小学校の男女全体が参加する行事とのことである。
一旦は中止になったが、今では小学校の課外活動として復活しているのである。
# by koza5555 | 2012-08-14 00:08 | 旅行 | Comments(0)

日本武尊と草薙剣

熱田神宮を参拝した。

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拝殿前。初詣は大量の警察官によってロープ規制が行われる。


熱田神宮には何十回行っただろうか。
若いころから公私ともに行く機会は多かった。
昨年の秋、甥の結婚式で祈祷殿、熱田会館を訪れた。

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正面参道と東西の参道が合流するところの大楠(おおくすのき)。

古事記、日本書紀を読んでくると熱田神宮への見方は一味、違う。

草薙剣の剣が祀られていることはよく知っていた。
熱田大神は草薙剣を御霊代(しろ)として、天照大神であるとの解釈があったり、
日本武尊こそを祀っているのではという解釈もあるとのことで、これは驚いた。

こんなことも知らずに、何を考え、何を見てきたかとと思うと忸怩たるものがある。

日本武尊は東伐に当たり、伊勢神宮に倭姫命を訪ねて患い泣いたところ、草薙剣を賜った。その力も借りて、東伐を成功させて終わりに帰還する。尾張国造の娘、美夜受媛(みやずひめ)の元に戻る。
日本武尊は草薙剣を美夜受媛に預けて、伊吹山の山の神をとりに山の登るが、逆に伊吹の山の神のたたりを受け病床につくというのが、記紀ともどものアラ筋である。


したがって、熱田神宮はその剣を祀り、相殿として天照大神、素盞嗚尊、日本武尊などが祀られているのである。

素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から剣を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(ににぎのみこと)に授けたということである。

三種の神器のうち草薙剣は熱田に置かれ、伊勢神宮に次いで権威ある神社として栄えている。

最後に。
名古屋市の下水道のマンホールのデザイン、これはなんだろう。
蜂ですか。いやあ、水すまし、アメンボだった。水がきれいになるようにという分かりやすい話しらしい。十数年前のコンクールの入賞作で、その前は幾何的な模様だったと記憶している。

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熱田神宮から出てきたところで、マンホールの図柄が気になった。始めは「蜂」かと思い、「名古屋市章の丸八の語呂合わせ?」などと思ったが・・・

ちなみに名古屋市の市章の丸八印は尾張徳川藩の略章から採られたとのことである。
# by koza5555 | 2012-08-13 00:05 | 旅行 | Comments(0)

蓬莱軒でひつまぶし

父母のお墓詣りに岐阜に帰った。
昼食は名古屋により、蓬莱軒の本店で「ひつまぶし」とした。
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蓬莱軒のひつまぶし 3100円

蓬莱軒が「ひつまぶし」の商法登録を持っているとのことである。
名古屋生活が長い僕は、「ひつまぶし」なら瑞穂区のどこ、千種区ならあそこ、豊橋ならあっち、おちょぼ稲荷なら…と講釈は限りないが、今日は本家の宮の渡し(熱田神宮の南方)の蓬莱軒に寄ることにした。
ちょっと遠回りだが、名古屋市南部の都市高の整備がすすみ時間的にはあまり差がない。

奈良に来てから、大阪、奈良とウナギ屋はたくさん回ったが、まだ納得のいくものに会えていない。
久しぶりにウナギが満喫できた。
「ひつまぶしは普通サイズでも量が多すぎ」というあっちゃんは、丼の並にしたが、これはこれで十分満足できる。

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ウナギ丼並 2100円

蓬莱軒は宮(名古屋)と桑名を結ぶ七里の渡し(しちりのわたし)の宮の宿にあった。
東海道53次の日本橋から数えて41番目である。

宮と桑名の間、30キロを4時間程度で移動したとのことである。
陸路で言えば、荘内川、木曽川、長良川、揖斐川と幾多の川、幾多の渡しがあり二日程度は確実にかかる。
海難事故が多くてもこの時間差は魅力的である。

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七里の渡し公園

この「宮」の陣屋跡地に蓬莱軒の本店が創業された。
いまも「宮」宿の渡船場跡は、宮の渡し公園として整備されている。


蓬莱軒、180席というから大きな店である。
だからと言って鰻を粗雑には扱わない。
「焼きたての鰻を熱々のごはんで提供する。席に着いたらすぐひつまぶしがきた。これでは鰻屋ではありません。お客様の顔を見てから鰻を火床にかける」のが蓬莱軒の姿勢である。

蓬莱軒、TEL052-671-8686、水曜日(祝日は除く)が定休で電話予約は会席料理のみとのことである。
店に行き、受け付けがすむと来店時間が指定される。僕等は40分待ちであったが、出てきた時は90分待ちになっていた。
待ち時間を見ながら宮の渡し、熱田神宮などの参拝など時間の使い方が有効にできる。
# by koza5555 | 2012-08-12 06:09 | | Comments(2)