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奈良・桜井の歴史と社会

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大宇陀の 青木月斗

大宇陀を愛し、初霞を愛した 青木月斗(げっと)。ヤフーのブログの頃に青木月斗を書いたことがある。

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野の見える 窓あけにけは 雛祭り  月斗  

先日も町内の福祉の会議で話題になり、僕の誤りが即座に正された。

「大宇陀でガイドをする。青木月斗も目玉か」と雑談していた。
すかさず、老人会のT会長が、「青木月斗は知っている。奥さんが目を見張る美人だった」などという。
思わぬ反応で、聞き直すと、Tさんは「僕の実家は芳村酒造の向かい。月斗は大阪から疎開してきていた」という。

住んでいたところについても、「今の神社の句碑があるところは後から住んだ。あれが芳村の離れとは違う」とか、「亡くなったのは大阪に戻ってから」とのことで、僕が聞いた話とは違っていた。
「月斗の住んだ家の塀には句が書かれていたが、〇〇さんが板を外して持って行った」とかの生々しいお話しもあった。

地元というのはすごい。
話が具体的で、論ずるということにはならない。ただ、拝聴するのみである。


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芳村酒蔵の手前から東、山に入った左多神社、鳥居の横に置かれている。
「山より野より水より起る秋の聲」


青木月斗は、門弟を頼り、難波の戦禍を避けて大宇陀に疎開した。昭和18年のことだ。戦後、大阪に戻り、さ昭和24年に死去した。

芳村家(酒蔵)別宅に寄寓したのとのことであるが、久保酒蔵で開かれる句会も数多かったという。

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久保本家

大宇陀の各地に句碑がある。
久保順一さんの宅内にも句碑があるとのことである。

日の本の大和の国の初霞
初霞水は南へ流れけり


大宇陀に行ったならば、青木月斗、忘れてはならない俳人である。


「菜園の風露に秋の近つきぬ」は森野薬草園の句碑である。

「ぬなは生ふ曲玉池や青あら」は榛原の鳥見山山頂、池の畔に立つ。


ネット上に青木月斗の句碑を整理した資料があった。
事実は自らで、確かめる必要があるが、宇陀市の青木月斗の影響力がよく分かる資料である。
# by koza5555 | 2012-07-11 14:23 | 宇陀 | Comments(0)

手すき和紙 福西和紙本舗

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紙をすく。国栖の福西正行さん

談山神社、「談の会」(かたらいのかい)のバスツアーは吉野の丹生川上神社の中社や上社などを訪ねるものだったが、手すき和紙の福西和紙を訪問するスケジュールが入っていた。

「室原先生が入院する前にセットしておいてくれた。どういうお話になるか」と長岡宮司のお話も、期待をかき立たせる。
参加者の知らなかった日程で、ミステリーツアーの様相である。

「壬申の乱、東国発ち」のツアーで大海子皇子を扱ったのだから、浄見原神社、国栖奏、国栖の紙漉きを知らないままというのは、とても後ろめたいものだった。
今年、国栖は何回も通過したが、通るたびに、その後ろめたさがつのった。
いつも時間に追われ、未解決のままツアーを迎えた。

「談の会」で、紙漉きの上西和紙に連れて行っていただけるのは、とりあえずありがたい。

福西和紙本舗では、まず福西弘行さんが和紙を作る工程を説明する。
戦中に高等小学校を出られたとのこと。僕よりは10歳以上のご年配だろう。
現役である。
掛け軸の裏打ち紙として使われる宇陀紙の保存技術保持者とのことである。

紙漉きというが、楮作りであり、その楮を蒸し、皮をはぎ、天日干し、水漬けと大変な工程である。

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楮栽培などのパネルを掲げて説明する弘行さん

吉野宇陀紙。掛軸の裏打ち紙として使われるとのことである。

「風船爆弾用の紙を戦時中に漉いた。紙を名古屋に送り巨大な風船が作られていた。これはおじいちゃんの知恵で、この仕事のおかげで徴兵に免れた人が何人かいた」などというエピソードも聞いた。
手すきの和紙、強いものである。

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福西和紙本舗から吉野川をのぞむ

国栖の里観光協会で紙すき、木工、割りばしなどの物づくり体験が紹介されている。
# by koza5555 | 2012-07-11 06:30 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(2)

談山神社、「談の会」のバスツアー

金曜日にバスツアーの準備で宇陀を回ったばかりだったが、土曜日は談山神社、「談の会」(かたらいのかい)と近畿迢空会共催の「記紀・万葉と南朝の吉野めぐり」のバスツアーに参加した。

桜井駅発、丹生川上神社中社、丹生川上神社上社、蜻蛉の滝、宮滝、吉野神宮というコースである。


回ったところばかりだが、案内が談山神社の長岡宮司、「談の会」事務局長の室原敬和さんということで、このお話を聞きたいと申し込んであった。
室原さんは急病のため不参加、ガイドは長岡宮司と迢空会の鈴木正彦会長が行うこととなった。
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丹生川上神社中社。向かって、右側が鈴木正彦近畿迢空会会長。左側が談山神社の長岡千尋宮司
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蜻蛉の滝                   木の精をいただく。中社にて

このツアーの一番のテーマは、「吉野離宮はいずこか」であろうか。
中社、上社、宮滝などが想定されるが、長岡宮司の絶対的なすすめは上社である。

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丹生川上神社、上社
本殿は流造銅板葺。伊勢神宮の古材を用い、平成10年に造営された。なお、旧社殿は飛鳥坐神社に移築され、同神社の本殿などになっている。


縄文時代にさかのぼる祭祀遺構が発掘されていること、旧社殿(大滝ダム建設に伴い川沿いから山の中腹に移転している)は白屋山をご神体として祀る絶好の位置にあること。
神がくだり、神が鎮まる場所として古代人が考える地形そのものであると力説された。
持統天皇が31回にも及ぶ吉野行幸は、その場所での水の祭祀の為だったとのことである。
蜻蛉の滝もその一翼を担うとの見解である。

僕の意見はもちろん別である。
今日はこの持論は展開せずに、神の降りるところを感じ、神の鎮まるところを感ずる神道者の意見を、紹介するだけにしておく。

祈雨は黒馬を、 止雨は白馬が奉納された。時が下るにつれ、馬の代わりに絵に描いた馬が奉納され、これが絵馬の起源ともいう。
丹生川上神社の下社は10年ほど前、白馬だけの絵馬を出していたそうである。「どうして黒馬はないのか」とお聞きすると、宮司は「観光客は雨をのぞまない」と言ったとのエピソードを鈴木先生が紹介して、丹生川上神社の役割を紹介していた。

丹生川上神社の三社の関係はどこまでも生々しい。
明治以降に、三社が順次丹生川上神社として認められた時期があることから、その対抗心もことさらである。

いずれが丹生川上神社かという問題と、吉野離宮はいずこかという問題は切り離した方がいいと思うが…
# by koza5555 | 2012-07-10 22:21 | 桜井・多武峰 | Comments(4)

古墳の上には村の鎮守

台風のさなかではあるが、連合区の役員会が開かれた。

議題は協力金の徴収、連合区所有土地の立木が倒れて隣家に圧し掛かった件の処理、神社の例祭の準備と祭典の計画、自主防災会が新たに取り付けるサイレンの補助金の確認などである。

さて、今日は村有地のなかにある古墳の話をしよう。

連合区は新興住宅地を抱えるとはいえ、歴史のある村だから多くの不動産を持つ。
300人も入るという公民館を持っている。
ため池を持っている。
墓地がある。
お寺もある。宗派を問わず葬儀や法要のお手伝いができる村立のお寺である。
それから神社もある。
この神社がたいそうで、実は古墳も含めての境内がある。

奈良まほろば検定を勉強すると、桜井の磐余の道には、安倍一族の奥津城と言われる安倍文殊院東・西古墳、艸墓(くさはか)古墳などは避けて通れない。

合わせて、谷首古墳も勉強したはずである。
この谷首古墳、実は墳丘上に八幡神社がある。
この八幡神社がわが村の鎮守である。

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画像は八幡神社境内と谷首古墳の横穴の入り口である。


谷首古墳は後醍醐天皇の時代に砦が築かれたという歴史がある。
天皇の京からの脱出に始まる南北朝時代に、桜井は三輪西阿が南朝側として戒重(かいじゅう)城に立てこもり、安倍山、谷首古墳の上などに砦を築いた北朝側の細川軍との長い戦が行われた。
谷首古墳はその後も戦国時代にかけて砦の歴史がある。

いつころか、この砦跡が神社として、村の鎮守として祀られることなった。

今でも年に四回の例祭、秋祭りも執り行われる。
谷首古墳を見学されたときは、こんな歴史でもあるからわが村の鎮守にもぜひお寄りください。


ところで台風12号、日本海に抜けたとのことであるが、大きな被害も出ている。
風雨は今も激しく、十津川村では家も流され、行方不明者も出ている。
被害者の心情、いかばかりかと思う。
# by koza5555 | 2011-09-04 09:31 | 桜井市と安倍 | Comments(0)