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奈良・桜井の歴史と社会

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ブラックベリーのジャム

先日来、ブラックベリーのことをいろいろ書いた事がある。
僕が庭のフェンスで育てるブラックベリーが鈴なりと言おうか、ブドウのようなというか、日に日に実が熟して来ている。

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真っ黒に色づき、大きく実ったブラックベリーはいかにもおいしそうである。

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ブラックベリー。米国中部原産とのことである。
5月下旬から6月に花が咲き、7月に結実する。
激しい酸味があり、そのまま食べることは難しい。


こんな具合に収穫できた。800gぐらいある。
今年は長い枝を4本育てたので、目算で4キロぐらい収穫できそうである。
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レシピは簡単である。
昨日の場合は
ブラッツクベリー800グラムに砂糖を600グラム(ブラックベリーは酸味が強いので砂糖は7割くらいの見当である)。
ブラックベリーの場合は下ごしらえは何もしない。よく洗うだけである。
そのまま、10時間くらい(一晩おくことが多い)置いておくと、浸透圧で水が出切っている。
弱火で1時間10分、煮る。灰汁は取る。
少し粘りが出たところで、火を消してレモン汁(昨日は食酢)を入れる。
熱湯消毒した瓶に、詰める。

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実が硬くてワルイドな味であるが、美味しい。硬い実がガラス越しにきれいである。

ご近所にいれば皆さんにも味わっていただけるのに…
# by koza5555 | 2012-07-14 06:40 | | Comments(0)

古事記の歩んできた道 奈良国立博物館

記紀万葉というが、名古屋の頃に古事記や日本書紀を手にすることはなかった。
いまとはエライ差があるけど。

そこで「名古屋のことなら任せて」と言う僕だけど、「古事記、真福寺本?」。
それ、どこのお寺?万松寺?などとあれこれ考えていた。
現在の所蔵地が大須観音内と知り、すべて合点がいった。
大須観音の歴史を勉強したことはないので、わからぬことばかりだが、現在も町をささえる寺院だもの、歴史も深いんだと一人で納得。

国立博物館で古事記編纂1300年に合わせて「古事記の歩んできた道」の展示が行われている。あとわずかということで、見学してきた。
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古事記の写本としては最古の「真福寺本」(国宝)が展示されていた。
太安万侶(おおのやすまろ)の墓誌も展示されている。

左京の四条四坊に住み、従四位下勲五等で、養老7年7月6日に歿したとのことである。
今でも異見を言う方がいるようだが、古事記偽書説を完膚なきまでに打ち破ったものと言える。


個人的には岐阜市天道町の天海水湯のビラが気に入った。
明治36年の引札とのことであるが、スサノオ神がヤマタノオロチを斬っている絵である。
今、岐阜には天道町はない。銭湯だから町の中心部だったんだろうが。
明治36年にもあんなビラがあったんだ。

特別陳列「古事記の歩んできた道」は7月16日(月)までである。残りわずかだが、これから古事記のことを考えるかもしれないという方は、見ることをお勧めする。
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# by koza5555 | 2012-07-13 09:07 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

芸三職 森川杜園

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御霊神社を護る狛犬。「神さまを護っとるのを忘れとるようなおかしな狛犬だが、・・顔がおもしろい」と森川杜園に絶賛させた(あくまでも大津さんを通してだが)狛犬を見てみたかった。

森川杜園の本のことを前のブログで書いた。サラッと本の感想を書いたが、いくつか気になった。
杜園の生れた町、仕事をしていた町を見たかった。
森川杜園が模造した東大寺南大門の狛犬を見直してみたかった。
所用で奈良を訪れた。いくつか思いつくまま、回った。

正倉院御物の模造とか奈良人形などは、展覧会でも無ければ、見ることができない。
でも、時間をとれば、今日でも見て、杜園を偲べるものがある。

まずは、とにかく井上町。森川杜園が生まれ育ったところである。
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植桜楓之碑は見るだけでも
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東大寺、南大門の狛犬。伊行末の仕事だが、杜園が作った模造は「頗る真に迫る。実に妙手」と博物局から感状が出る。
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古希の祝いは御陵神社で。この拝殿で森川杜園が演じたのだろうか。
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前段が長くなったが、「芸三職 森川杜園」。大津昌昭さんの著作である。

「ならら」に長く連載されたものであるが、このほど、単行本として出版された。
単行本を読み直してみると感ずることは多い。

森川杜園を通して奈良を見てみると、奈良の素晴らしさが浮かび上がる。いま、この奈良のあれこれを勉強していること、ここに僕は大きな喜びを感じることができた。


森川杜園の人生を改めて考えなおしてみた。
「達者でいればなんでもできる」という言葉に励まされて、森川少年は絵師、人形師、狂言師の三職の道を歩む。
とくに狂言師の勉強は偶然もあったようであるが、奈良まちの知識人(?)のたしなみみたいなものでもあったようである。しかし、初めてみればきわめて相乗的で、特に人形作りに大きな影響を与えて行ったことがよく理解できた。

川路聖謨は昨年勉強した。奈良奉行は川路聖謨にとって都落ちだったが、奈良にとっては素晴らしい人材だった。
はげ山になりかかったならやま丘陵をはじめ奈良の町に松を植え、桜を植えた。
あれ以来、五十二段にさしかかるとき、必ず足を停めている。

師、伴林光平の人生と無念も丹念に語る。
「雲を踏み嵐を攀じて御熊野の果無山の果てもみしかな」。森川杜園は南山踏雲録はみていない。
あわせて、北畠治房(平岡鳩平)に対する批判はきちっと行っている。伴林光平と同行していたが逮捕を免れた。北畠治房、維新後、若草伽藍の塔の芯柱礎石を持ち出した(現在は復帰している)ことでも名高い。

あとは、神仏分離についても文化財の保護の面から迫りつつ、信仰の面に踏み込んで、森川杜園に語らせている。
聖武天皇陵を守ってきた眉間寺の廃寺とか内山永久寺の廃寺などを激しく惜しむ。
そして、興福寺の荒廃を描きつつ、その復興の歴史を丁寧に描く。

これらの時代に森川杜園は、神鹿を描き、彫り、
伎楽、能を彫り、描き、そして狂言を演じ、
正倉院御物の複製などでも大きな役割を果たした。

連載は読んできたつもりだったが、感動の大きい本であった。
奈良の歴史、とくに徳川から明治時代に移る奈良の町を身近に感じさせる「芸三職 森川杜園」で、読み直す価値があった。

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# by koza5555 | 2012-07-13 05:26 | 奈良 | Comments(0)

日本葬制史を読んだ 

「日本葬制史」を読んだ。吉川弘文館の本である。
縄文時代、弥生時代から近代・現代に至るまでの葬送と墓制の歴史の解明である。

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箸墓古墳、北方から(春、菫の咲くころの画像である)

縄文や弥生時代はさておいて、古墳時代を考えた。
「人のお墓を見て何がおもしろい?」、そんなことを言われた方がいた。
その後の勉強で、また違う目で古墳を見られるようになったと書かれていたような記憶であるが・・・
奈良まほろば検定試験に合格するためには、古墳の勉強や見学は避けて通れないし…

この言葉を読んだとき、僕は少し驚いたし、改めてわがこととして考えた。
古墳を見たり、潜っていくとき、お墓に入るという気持ちがなかった僕。
古代の大庭園のように古墳をみて、大型の土木工事を考えるばかりの僕。

ツアーの案内で桜井市の艸墓古墳に入った時、その前に立ち寄った安倍文殊院で「穢れがあるところですから」と、お念珠をいただいたことを思いだした。

古墳を大切にした中世や近世の古墳周辺の住民の考え方なども、お墓を大事にするような考えだっただろうかとも考えた。

古墳時代の冒頭に「古墳とはなにか」という問いがある。
「高い墳丘をもった墓」という物理的な見方と
「弥生時代の墳丘とは違い、王権継承儀礼を伴う墳丘を古墳という」(石野博信さんなどの説)という説がある。

森浩一さんなどは、考古学からみて、「古墳は屍処理に必要以上の土地を、永続的に死者に使わせているところ」という見解だそうである。

このあたりまで来ると、「古墳は墓だけど、ほんとに墓?政治や社会的な位置は?」という疑問も正当性を得てくるみたいな気がして、すごく納得できる。


群集墳と巨大古墳との祭祀上での連動などを考察して、その関連性を解き明かす努力をされている。

飛鳥・奈良時代の墓誌一覧表なども付けられており、参考になる。

火葬と土葬の問題では、歴史をたどる綿密な解明がある。
700年、僧道昭の火葬に始まり、703年に持統天皇の火葬が行われる。
江戸時代や明治時代の火葬論もとてもユニークである。
土葬があって、そのあと火葬というのは、硬直した論であることを丁寧に論証する。

葬儀についても、村の互助的なものがあり、徐々にそれがなくなるという論は思い込みで、たとえば江戸時代から、現代のような葬儀社が町でも村でも存在したことを証明している。

墓地論もいろいろ多彩で、すべてを紹介できないが、般若寺の南方には、1200年代から墓地が形成されたこと、般若寺の伊行末(ぎょうまつ)によるとされる二柱の「笠塔婆」は明治維新までは、この墓地の入り口に立っていたと紹介されている。

勉強になったというか、おもしろい本であった。

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# by koza5555 | 2012-07-12 08:52 | 読書 | Comments(2)

大宇陀の 青木月斗

大宇陀を愛し、初霞を愛した 青木月斗(げっと)。ヤフーのブログの頃に青木月斗を書いたことがある。

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野の見える 窓あけにけは 雛祭り  月斗  

先日も町内の福祉の会議で話題になり、僕の誤りが即座に正された。

「大宇陀でガイドをする。青木月斗も目玉か」と雑談していた。
すかさず、老人会のT会長が、「青木月斗は知っている。奥さんが目を見張る美人だった」などという。
思わぬ反応で、聞き直すと、Tさんは「僕の実家は芳村酒造の向かい。月斗は大阪から疎開してきていた」という。

住んでいたところについても、「今の神社の句碑があるところは後から住んだ。あれが芳村の離れとは違う」とか、「亡くなったのは大阪に戻ってから」とのことで、僕が聞いた話とは違っていた。
「月斗の住んだ家の塀には句が書かれていたが、〇〇さんが板を外して持って行った」とかの生々しいお話しもあった。

地元というのはすごい。
話が具体的で、論ずるということにはならない。ただ、拝聴するのみである。


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芳村酒蔵の手前から東、山に入った左多神社、鳥居の横に置かれている。
「山より野より水より起る秋の聲」


青木月斗は、門弟を頼り、難波の戦禍を避けて大宇陀に疎開した。昭和18年のことだ。戦後、大阪に戻り、さ昭和24年に死去した。

芳村家(酒蔵)別宅に寄寓したのとのことであるが、久保酒蔵で開かれる句会も数多かったという。

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久保本家

大宇陀の各地に句碑がある。
久保順一さんの宅内にも句碑があるとのことである。

日の本の大和の国の初霞
初霞水は南へ流れけり


大宇陀に行ったならば、青木月斗、忘れてはならない俳人である。


「菜園の風露に秋の近つきぬ」は森野薬草園の句碑である。

「ぬなは生ふ曲玉池や青あら」は榛原の鳥見山山頂、池の畔に立つ。


ネット上に青木月斗の句碑を整理した資料があった。
事実は自らで、確かめる必要があるが、宇陀市の青木月斗の影響力がよく分かる資料である。
# by koza5555 | 2012-07-11 14:23 | 宇陀 | Comments(0)

手すき和紙 福西和紙本舗

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紙をすく。国栖の福西正行さん

談山神社、「談の会」(かたらいのかい)のバスツアーは吉野の丹生川上神社の中社や上社などを訪ねるものだったが、手すき和紙の福西和紙を訪問するスケジュールが入っていた。

「室原先生が入院する前にセットしておいてくれた。どういうお話になるか」と長岡宮司のお話も、期待をかき立たせる。
参加者の知らなかった日程で、ミステリーツアーの様相である。

「壬申の乱、東国発ち」のツアーで大海子皇子を扱ったのだから、浄見原神社、国栖奏、国栖の紙漉きを知らないままというのは、とても後ろめたいものだった。
今年、国栖は何回も通過したが、通るたびに、その後ろめたさがつのった。
いつも時間に追われ、未解決のままツアーを迎えた。

「談の会」で、紙漉きの上西和紙に連れて行っていただけるのは、とりあえずありがたい。

福西和紙本舗では、まず福西弘行さんが和紙を作る工程を説明する。
戦中に高等小学校を出られたとのこと。僕よりは10歳以上のご年配だろう。
現役である。
掛け軸の裏打ち紙として使われる宇陀紙の保存技術保持者とのことである。

紙漉きというが、楮作りであり、その楮を蒸し、皮をはぎ、天日干し、水漬けと大変な工程である。

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楮栽培などのパネルを掲げて説明する弘行さん

吉野宇陀紙。掛軸の裏打ち紙として使われるとのことである。

「風船爆弾用の紙を戦時中に漉いた。紙を名古屋に送り巨大な風船が作られていた。これはおじいちゃんの知恵で、この仕事のおかげで徴兵に免れた人が何人かいた」などというエピソードも聞いた。
手すきの和紙、強いものである。

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福西和紙本舗から吉野川をのぞむ

国栖の里観光協会で紙すき、木工、割りばしなどの物づくり体験が紹介されている。
# by koza5555 | 2012-07-11 06:30 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(2)

談山神社、「談の会」のバスツアー

金曜日にバスツアーの準備で宇陀を回ったばかりだったが、土曜日は談山神社、「談の会」(かたらいのかい)と近畿迢空会共催の「記紀・万葉と南朝の吉野めぐり」のバスツアーに参加した。

桜井駅発、丹生川上神社中社、丹生川上神社上社、蜻蛉の滝、宮滝、吉野神宮というコースである。


回ったところばかりだが、案内が談山神社の長岡宮司、「談の会」事務局長の室原敬和さんということで、このお話を聞きたいと申し込んであった。
室原さんは急病のため不参加、ガイドは長岡宮司と迢空会の鈴木正彦会長が行うこととなった。
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丹生川上神社中社。向かって、右側が鈴木正彦近畿迢空会会長。左側が談山神社の長岡千尋宮司
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蜻蛉の滝                   木の精をいただく。中社にて

このツアーの一番のテーマは、「吉野離宮はいずこか」であろうか。
中社、上社、宮滝などが想定されるが、長岡宮司の絶対的なすすめは上社である。

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丹生川上神社、上社
本殿は流造銅板葺。伊勢神宮の古材を用い、平成10年に造営された。なお、旧社殿は飛鳥坐神社に移築され、同神社の本殿などになっている。


縄文時代にさかのぼる祭祀遺構が発掘されていること、旧社殿(大滝ダム建設に伴い川沿いから山の中腹に移転している)は白屋山をご神体として祀る絶好の位置にあること。
神がくだり、神が鎮まる場所として古代人が考える地形そのものであると力説された。
持統天皇が31回にも及ぶ吉野行幸は、その場所での水の祭祀の為だったとのことである。
蜻蛉の滝もその一翼を担うとの見解である。

僕の意見はもちろん別である。
今日はこの持論は展開せずに、神の降りるところを感じ、神の鎮まるところを感ずる神道者の意見を、紹介するだけにしておく。

祈雨は黒馬を、 止雨は白馬が奉納された。時が下るにつれ、馬の代わりに絵に描いた馬が奉納され、これが絵馬の起源ともいう。
丹生川上神社の下社は10年ほど前、白馬だけの絵馬を出していたそうである。「どうして黒馬はないのか」とお聞きすると、宮司は「観光客は雨をのぞまない」と言ったとのエピソードを鈴木先生が紹介して、丹生川上神社の役割を紹介していた。

丹生川上神社の三社の関係はどこまでも生々しい。
明治以降に、三社が順次丹生川上神社として認められた時期があることから、その対抗心もことさらである。

いずれが丹生川上神社かという問題と、吉野離宮はいずこかという問題は切り離した方がいいと思うが…
# by koza5555 | 2012-07-10 22:21 | 桜井・多武峰 | Comments(4)

古墳の上には村の鎮守

台風のさなかではあるが、連合区の役員会が開かれた。

議題は協力金の徴収、連合区所有土地の立木が倒れて隣家に圧し掛かった件の処理、神社の例祭の準備と祭典の計画、自主防災会が新たに取り付けるサイレンの補助金の確認などである。

さて、今日は村有地のなかにある古墳の話をしよう。

連合区は新興住宅地を抱えるとはいえ、歴史のある村だから多くの不動産を持つ。
300人も入るという公民館を持っている。
ため池を持っている。
墓地がある。
お寺もある。宗派を問わず葬儀や法要のお手伝いができる村立のお寺である。
それから神社もある。
この神社がたいそうで、実は古墳も含めての境内がある。

奈良まほろば検定を勉強すると、桜井の磐余の道には、安倍一族の奥津城と言われる安倍文殊院東・西古墳、艸墓(くさはか)古墳などは避けて通れない。

合わせて、谷首古墳も勉強したはずである。
この谷首古墳、実は墳丘上に八幡神社がある。
この八幡神社がわが村の鎮守である。

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画像は八幡神社境内と谷首古墳の横穴の入り口である。


谷首古墳は後醍醐天皇の時代に砦が築かれたという歴史がある。
天皇の京からの脱出に始まる南北朝時代に、桜井は三輪西阿が南朝側として戒重(かいじゅう)城に立てこもり、安倍山、谷首古墳の上などに砦を築いた北朝側の細川軍との長い戦が行われた。
谷首古墳はその後も戦国時代にかけて砦の歴史がある。

いつころか、この砦跡が神社として、村の鎮守として祀られることなった。

今でも年に四回の例祭、秋祭りも執り行われる。
谷首古墳を見学されたときは、こんな歴史でもあるからわが村の鎮守にもぜひお寄りください。


ところで台風12号、日本海に抜けたとのことであるが、大きな被害も出ている。
風雨は今も激しく、十津川村では家も流され、行方不明者も出ている。
被害者の心情、いかばかりかと思う。
# by koza5555 | 2011-09-04 09:31 | 桜井市と安倍 | Comments(0)