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奈良・桜井の歴史と社会

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談山神社の神幸祭

4月10日、談山神社は神幸祭である。
今年はお渡りがある年で、4年に一度の一の鳥居までの神輿渡御が行われる。
談山神社の神幸祭、毎年、4月の第二日曜日に斎行されるが、お渡りで歩くのは2年に一度、一の鳥居まで下るのは4年に一度であるので、今年は神幸祭、お渡り拝見のチャンスである。

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これは4年前の神幸。桜井市下の西内酒造前である

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これは二年前、僕の役割は錫杖を持って先導する役割、小目代(こもくだい)だった。

僕は、談山神社の氏子総代を務めさせていただいている。28の大字が談山神社に関係しており、それぞれに氏子総代が委嘱されている。多くは区長が兼ねている。この氏子総代をはじめ、お渡りに出仕せよとのことである。僕の大字からは一人の出仕要請、今年も僕が出ることにした。

式典は10時からで10時半すぎに境内を出発する。
コースは社務所前から門前に出て売店下の駐車場まで渡御する。
駐これは境内の写真である。
車場から聖林寺前(バス停)までは車で移動、その後旧道を渡御する。午前11時頃である。西内酒造の前などを通り、一の鳥居までの渡御である。

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これは二年前、境内(学頭屋敷跡)の写真である。

境内、もしくは西内酒造前辺りが撮影ポイントである。ぜひおいで下さい。
# by koza5555 | 2016-03-31 05:38 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

東乗鞍古墳 天理市杣の内

「山の辺の道に沿って石室が見学できる古墳?」と聞けば、「まずは東乗鞍古墳」が衆目の一致するところ。奈良まほろば検定の公式テキストにも収録されているが、僕はこれを拝見していないのである。

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東乗鞍古墳、玄室内の石棺

今年の秋、10月のことだが、「桜井と天理の古墳」、「山の辺の道と天理・桜井」という講座を引き受けているのである。見てない所は話せない。少しづつ準備をすすめていて、とりあえず東乗鞍古墳を見学してきた

場所は県道51号線、親里競技場の東側。
山の辺の道で言えば夜都伎神社を南にでて、西から北に向かう。神社の真北あたりの左手に小高い山が見える。

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これが東乗鞍古墳、前方後円墳である。
看板は何もないが。何となく「ここか」という畦道がある。
竹藪に入る。道なり左に向かうと…右側を見ながらすすむと、これやという感じ。
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ここはほふく前進はいらない(笑)。
阿蘇溶結凝灰岩製のくりぬき家形石棺が見える。手前は石棺の底石である。
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土砂が石棺の上に流れ込んでいる。とても動的な風景で感動した。
(阿蘇の人も含めて)造った人々、埋葬された人、盗掘した人、守ってきた人々、すべてを感じさせる石室だった。

出口を見てみた
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地図はこんな感じ
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東乗鞍古墳 (天理市杣之内町)
 築造は六世紀前半(古墳時代後期前半)。
乗鞍の名は中央が低い馬鞍の形状から付いたもの。全長75㍍、後円部径44㍍、前方部幅68㍍での前方後円墳である。前方部は西である。後円部中央下段には南に開口する右片袖式の横穴式石室が築かれている。
また玄室には九州・阿蘇の凝灰岩で造られた刳抜式の家形石棺が収められている。
手前には二上山白色凝灰岩製の組み合わせ石棺の底石が残こされている(奈良まほろば検定公式テキストからの抜粋)。
# by koza5555 | 2016-03-30 00:05 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

夜都伎神社

先日(3月26日)、天理市乙木町の夜都伎(やとぎ)神社を参拝した。
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拝殿が一新されていた。藁葺の屋根の葺替である。
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境内を掃除していた氏子の皆さんにお聞きした。
「昨年の10月に葺き替えた。何年も前から予約していたんだ。こんな業者もあるんだな」と言われ、「きれいなったが氏子は乙木の60軒だけ。負担は大変矢がきれいにしたかった。村も若い子がいないんで次回はどうなるか」などと、葺き替えの経過のあれこれを聞かせていただいた。

参拝してから、もう一つの目的の「鹿の足石」を探しに山へ。神社から300mくらいと聞いている(人を介してだが、春日大社の神職に)。

こんな石である。
鹿の足石(乙木町)
夜都伎神社の東方に、鹿の足石とうのがある。その石面に神鹿の足跡が、かすかに印されている。男子13歳のものが詣って見ると判然と見えるという。奈良の春日明神が、鹿島から遷られるとき、ここでその神鹿が休んだ跡という。(
天理市史 下巻482ページ)

歩き始めたが、すぐ挫折。
降りてきて、さきほどの氏子のみなさんにお聞きすると「大きな石がある。だけどヤブだらけで道もなく、知らなければ行き着くのは無理や」とのことだった。地元の方に頼んで、本格的な「探索隊」が必要かも・・である。

ところで、山の辺の道。
歩かれたら夜都伎神社、ぜひともお寄りになりますように。
僕がいた30分くらいの間、多くのハイカーが歩いていった(土曜日の午後)が、どなたも寄られることはなかった。

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夜都伎神社
天理市乙木町の北方集落からやや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し、俗に春日神社と言い、春日の四神を祀る。
乙木には、もと夜都伎神社と春日神社の二社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池と交換して春日神社一社にして社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社である。当社は昔から奈良春日神社に縁故深く、明治維新までは当社から蓮の御供えと称する神饌を献供し、春日から若宮殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝えられる。
現在の本殿は明治39年(1906年)改築したもので、春日造檜皮葺、高欄、浜床、向拝彩色7種の華麗な同型の四社殿が末神の琴平神社と並列して美観を呈する。拝殿は藁葺でこの地方では珍しい神社建築である。
鳥居前の神社の掲示から

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# by koza5555 | 2016-03-29 05:12 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

門のこと!転害門の魅力 朱雀の会の企画ウォーク

3月27日(日)、なら・観光ボランティアガイドの会(朱雀)の企画ウォーク、「門のこと!転害門の魅力」に参加してきた。

コースは、興福寺南大門→菊水楼表門→春日大社一の鳥居→春日大社五重塔、楼門→鴎外の門→東大寺南大門→大仏殿中門→勧進所表門→会談堂南門→東大寺西大門跡→焼門→転害門。
午後一時出発、資料代が200円ということである。

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転害門

メインは転害門と東大寺南大門であるが、その他にも二重門、楼門、八脚門、四脚門、薬医門、高麗門とさまざま見学、解説を受けた。

はじめは興福寺南大門跡。こちらの「月輪山」という額が埋められたという・・この場所が門の西側に置かれている「額冢」である
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菊水楼表門。こちらは薬医門
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薬医門とは本柱と控え柱だけの門で、薬医門のいわれは、「矢ぐい」(矢をくいとめる)から、あるいは医者の門に使われたとも言われています。

春日大社一の鳥居を経て、春日大社西塔跡、西門の複郭の南に桁行3間の楼門の礎石が残っていた。
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鴎外の門に寄り、そこから東大寺である。  

東大寺南大門は二重門
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興福寺南大門は享保2年(1717年)に火災で焼失。桁行5間、梁行2間の二重門(屋根が二重、楼門は一重目に屋根がない形)であった。
大仏様。上層まで立ち上がる太い柱に、何段もの「貫」で前後左右に結び付けて、丈夫な軸組を造ることが一番の特徴である。
「貫」が各柱の内部でつなぎ合わされている。その取り付けられるさまを示す模型が作られていた。

大仏殿中門は楼門で一階の屋根がない。こちらを経て、勧進所 表門は高麗門。親柱二本、控え柱二本は薬医門と同じだが、控え柱まで屋根をつける。
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戒壇院 南門は四脚門。本柱は丸柱、ぞの前後に細い4本の控え柱が置かれる。
そして、南に下がり、東大寺 西大門跡
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これは二重門だった。平城京の二条大路に面していて、平城宮から東大寺への主入口になっていた。和様の二重門で、南大門級かそれ以上の規模があったと言われる。
天正11年(1583年)に大風で倒壊し、再建されていない。東大寺ミュージアムに、こちらの扁額が展示されている。

東大寺焼門跡。これは八脚門である。

最後にメインの東大寺転害門に。
東大寺創建以来の建物で、一条大路に面している。三間一戸の八脚門である。鎌倉時代に大幅な改修工事が行われた。
神仏習合の名残で、手向山八幡宮の氏子によりしめ縄が張られている。毎年10月5日の転害会ではお旅所となる。
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「門前の石のくぼみは盃状穴(はいじょうけつ)とのことで、雨だれではありません」と説明がある。
女性を象徴する宗教的なくぼみとのことで、僕も雨だれと説明したことあり、冷や汗である。

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南大門や転害門の50分の一の模型というのが作られており、それを手に取ってわかりやす解説、これは感嘆した。解説資料も大変丁寧、力の入ったウォークだった。
# by koza5555 | 2016-03-28 08:18 | 奈良 | Comments(0)

桜井市ムネサカ古墳群

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これが一号墳である。白状するが今回は到達。3回目だった。

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前回の敗退を教訓して今回は登山靴。

森本運輸の駐車場から入る。もちろん事務所には声をかけて許可を得る。一回目はこれも知らず、国道から無理矢理、登ったのである。
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道なりに登る。道標がある。今回も右に折れた。青い線である。
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こちらにはもう一個、道標がある。そこから稜線へ直登である、石室の入り口が無い、小高い山に上がった。くるりと周りを見てみると、丘尾切断型の円墳の上にいるように思える。西に下りてから南に回ると、ありました。

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一号墳の入口

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内部から外をみてみると


西北の方向に二号墳、これも戸惑ったが発見できた。
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しかし、これは狭い。3メートルくらい匍匐前進すると中は広そうだが、これは勇気ある撤退かな。

下りの道でよく確かめてみると、笹やぶも赤い線に沿って踏み分けがあった。


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桜井市の埋蔵文化財センターは「桜井市の横穴石室を訪ねて」を発行している。100ページくらいのリーフレットである。

このリーフレットをペラペラとめくるとムネサカ古墳がとても気になったのである。忍坂から女寄峠に登るR166の左側の山手にあるという。

終末期の大型円墳と石室、これが二つ並んで残されているのである。石室の石積みは玄室・奥壁とも二段積み、羨道は一段積みで、ほぼ切石状態で漆喰も使われているとのことである。
 このような石材の構成や規模は、明日香村の岩屋山古墳とほぼ同一でである。同じ設計図を用いて作らたとも考えられ、石室を作った工人は同じだったのかもしれない。

ムネサカ古墳群(桜井市大字粟原字峯坂)
# by koza5555 | 2016-03-24 21:49 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

お伊勢参りと長谷詣

大阪の玉造から始まるお伊勢参り、この玉造の二軒茶屋跡の石碑をみて、関わりがある玉造稲荷神社を参拝してきた。

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玉造名所 二軒茶屋・石橋(黒門橋)

「旅は巡礼から始まった」という言葉を聞いたことがある。巡礼は観光を含むすべての旅行の原点ともいえる。
巡礼路は歴史が古く、限りなくエピソードが転がっており、講演やツアーのための情報は満載である。

「長谷春秋」(大本山長谷寺発行)をくってみると露の五郎(二代)師匠が、「初瀬詣七色ばなし」と称して、お伊勢参り、長谷詣を長谷寺で講演していた。
講演と言っても噺家である。ほぼ・・・落語である。

お伊勢まいり、大阪から参れば片道七日間、往復で十五日。これで見物したりして行くと、大体一月の旅行。
それで「長谷までのお参りもあり」ということになり、長谷まで行くと、観音さんが代わりに行って来てくれたり、天照大神の姿とされている雨宝童子が観音様の脇侍におられたりもする。雨宝童子、侮るなかれで「伊勢まで行きました、大神にお会いしてきました」という意味もあるかもしれない。

露の五郎さんの初瀬での講演は30年も前のことだが、最近、「伊勢参宮神賑(いせさんぐうかみのにぎわい)」を、四代目桂文我が著した。上方落語「東の旅」通し口演である。

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露の五郎さんの講演は長谷までだが、この桂文我の「神賑(かみのにぎわい)」は大阪から伊勢まで、それも往復であるから22話もある。
玉造の二軒茶屋・石橋跡から始まり、奈良、長谷、そこからずっと伊勢に至り、外宮・本宮まで参拝するのである。そして、話はそこで終わらず、そのあと桑名を回り、戻って鈴鹿峠、なにかお多賀さん辺りに寄ってから、大津・京都。三十石舟に乗り大阪に戻るという道順である。

長谷寺や榛原のあぶらや、室生の三本木あたりのツアーをすると、伊勢本街道とか「あお越え」ということが必ず話題になった。
この本を読んで、僕は「お伊勢さん参りのはじめ 玉造」を見に行きたくなったのである。

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JRの玉造のすぐ東である。掲示がある。
この付近は、旧奈良街への大阪側からの入り口で、街道の南北には、旅行者めあての茶店があり、俗に「二軒茶屋」と呼ばれて繁盛した。」
石橋は、付近を流れていた猫間川に架けられていたもので、正しくは黒門橋という。慶安3年(1650年)幕命により、当時では珍しい石造りの橋として架けられていたと伝える。  
東成区役所

昭和14年頃までは猫間川が流れていた。それは小さな川だったが、ここらあたりが大阪市内と東成郡の境だった。
だからこの猫間川を渡ると・・・旅立ちであった。
ここに日本で一番古いという石橋が架かり、枡屋・鶴屋という二軒の茶屋がおかれたとのことである。
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さらに旅立ち前の参拝は、市内よりの玉造稲荷神社だったという。
この地が、お伊勢参りでは西日本の拠点となったことから、神社社域は「暗峠越え奈良街道」の要地となった。


この地から全国へ広がった旅のシステムがあるという。
江戸時代の伊勢参りでは、「ぼったくり宿」や「おいはぎ」など、安全な旅は難しいものでした。
そこで玉造の松屋源四郎は旅人に安全な旅を提供しようと、「浪花講」を立ち上げ、街道沿いの優良旅籠と契約して、旅籠には看板、旅人には鑑札を持たせるというシステムを確立しました。1804年のこと(難波講と改称は1841年)だと言います。
このシステムは大変な人気を呼び、各地に世話人を置き全国に広がったという。

初瀬の井谷屋には講の看板がたくさん並べられているが、その看板の正確な意味を僕は始めて知った。
(難波講の解説は要約だが玉造稲荷神社のパンフレットから)

初瀬街道、伊勢街道、考えるだけで楽しくなる。

おまけ画像である。3月22日、昨日の氷室神社のしだれ桜
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# by koza5555 | 2016-03-22 22:35 | 読書 | Comments(0)

ヒミコの系譜と祭祀

邪馬台国のツアーで質問を受けた。「『鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす』卑弥呼の祭祀はどんなものだっただろうか。」
また、京都で古墳のガイドをしている方からは、「巫女埴輪の解説をしている。巫女埴輪は卑弥呼とのつながりはないだろうか。」

難題である。

これを考えながら、探し出したのは「ヒミコの系譜と祭祀」(川村邦光著)である。
日本のシャーマニズムの研究、祭祀の古代のあり方を研究されている。
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 「ヒミコの系譜と祭祀」  川村邦光  学生社である

今日は日本のシャーマニズムとシャーマン、これはパスして卑弥呼と箸墓古墳から考えてみよう。
まずは箸墓古墳のことである。
ヤマトトトビモモソヒメは箸でホトを突いて亡くなったとされる。まずはこれが問題である。

原始宗教、シャーマンの祭祀の中で、「女性の性器・ホトを突く」は性交を意味して、妊娠、出産につながる一連の生のプロセスを示す言葉として、常に豊穣な実りを示すシンボルとしてあつかわれている。
しかし、「ホトと突く」が逆に死につながる例が二例だけ示されていることに、川村先生は注目するのである。こんな事件は大きな歴史の転換点に現れたということでもある。

①その一例はスサノオが高天原にて乱暴狼藉を働く場面。屋根を開けて皮をはいだ馬を投げ入れる。機織り女が驚いて、「天のはた織女 見驚きて、杼(ひ)にホトを突きて 死にき」である。
アマテラスの統治する高天原、女の世界をスサノオが暴力的に侵したことをシンボリックに表したとみることができる。
怒ったアマテラスが岩屋に入り、困った神々が集い、歌舞音曲、魂振りを行い、鏡をアマテラスに差し出されて、アマテラスは岩屋を出ることになった。社会・時代は新しくここから始まったとされる。

②もう一例は箸墓古墳とヤマトトトビモモソヒメの伝説で、「箸にホトを突きて薨(かむさ)りましぬ」である。
オオモノヌシは大和の国ツ神として、国家的な神として祭祀されるようになります。オオモノヌシは、巫女の祭祀する地域の神から王権の神へと変容し、宗教的な権威および権力が巫女から、大王へと移っていった、とも言うことができます。
 そこでおこったのは、巫女による蛇の祭祀の断絶だったと考えることができます。ヤマトトトビモもソヒメの「ホトを突く」ことによる死とは、卑弥呼に象徴されるような、古代の巫女王の終えんを告げているのではないでしょうか。

これをシンボリックに記念したのが、箸墓とよばれる、巨大な古墳だったのでないかと思われます。大王の時代、古墳時代の開始を告げる、前方後円墳です。


古墳の造営を指揮し、巫女王を弔うとともに、自らの政治・宗教的な力を掲示したモニュメント、この王の名はハツクニシラススメラミコト、崇神天皇とされているのです。

卑弥呼の時代には政治と祭祀を執り行った祭司が、政治から切り離されていく境目に箸墓古墳があるとの解説である。


シャーマニズムと言えば、神功皇后も忘れられない。
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戦前の「神功皇后の一円札」なども紹介されている。これはイタリア人、エドアルド・キヨッソーネが描き、容姿からは西洋と日本女性の折衷的な印象とされている。


巫女埴輪の編年と紹介もおもしろい。(p138)
巫女埴輪は5世紀中葉に出現する。これは卑弥呼とは200年の差もない。
政治と祭祀に絶大な権限をふるった卑弥呼とは全く違うだろうけど、6世紀後葉まで150年にわたり、各地で巫女埴輪は立てられ、それが出土しており、巫女の役割は営々と続いていったことの考古学的証拠と言えるだろう。

巫女の装束としてはオスイ(袈裟状の着衣)、タスキ、帯、垂れ紐が共通とされる。
番上山古墳(藤井寺市 出現期・5世紀末)から出土の巫女埴輪。5世紀末、出現期のもので近つ飛鳥博物館に展示されている(いた?)とのことである。

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この埴輪は古墳時代のものであるが、「この服飾は弥生時代からのものでは」との論もあるようである。

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唐古鍵や清水谷などから出土の祭司の服飾との共通性も指摘されていて、服飾的には卑弥呼の制服は、この間にあると見ることは難しいだろうか。

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箸墓古墳
# by koza5555 | 2016-03-18 21:17 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

記紀に載らない大和の神話

奈良県神社庁研修所の主催で、「神職・氏子合同研修会」が橿原神宮会館で開催された。3月17日のことである。
毎年、誘われているが、いままでは時間が合わなかった。

今年は時間に余裕があり、しかも講師は(昨年まで春日大社の権宮司の)岡本彰夫奈良県立大学客員教授である。聞かない手はない。

演題は「記紀に載らない大和の神話」。氏子は単なる勉強だが、神職は0.5日の研修終了にカウントされるとのことで業務でもあった。

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橿原神宮会館

「神話は荒唐無稽なものか?」「日本人は今も神話の中で活きつづける」というテーマでお話しが始まる。

神話や伝承の「発掘」の難しさが、まず紹介された。
元治元年(1864年)のことだが、藤堂藩の谷代官所から桜井村の庄屋に「古蹟を調べて報告せよ」との沙汰があった。
その指示にもとづき、桜井村は東光寺記とか大和名所図会を提出したが、代官は「書物に無いことを報告せよ」と改めて達した。しかし桜井村はその後の対応をしなかった。
代官所から人を出しての調査に対し、桜井村は「当宮(等彌神社)は聞くに神武天皇様、長すね彦を打ち取りなされ、この氏神にて神代の神を、お祭りなされ候との事、もしもそれがまことならば、田地も山もお上へお取り上げに相成り、下々の難儀に相成るべしとて・・・」と村の事情を述べ、等彌神社の前の桜井市の図書館周辺などに、神武天皇の祭りの庭に関わる小字が密集していることを示した・・・

こんな話から岡本先生の話は始まった。
それにしても、江戸時代の庄屋もつらいものである。

岡本さんのお話の項目立ては
①神武天皇の神話(いわゆる神武東征、東遷)
②垂仁天皇の皇女、倭姫命の神話。天照大神の遷宮に関わるお話である。
③大化の改新の神話・・これは入鹿の首塚に関わるお話である。さらには御破裂山と鳴動のこと。
④春日大社の神話。タケミカヅチの命の大和入りの話。

こんなくくりで、それぞれを独立させながら、ていねいな調査と深い知識に裏付けられた講演をされた。
「功を忘れず・人を忘れず・経緯を忘れず」で、人を語りながら、それぞれのテーマの道順、地名、エピソードを語るわけで、いわば「奈良の街道を行く、岡本流」である。

「奈良でしか話せない」、「奈良でこそ話せる話がある」と岡本さんは伝承と神話を通して大和の魅力を熱弁され、「神職も氏子の皆さんも、それを語っていただきたい」と強調される。

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等彌神社は神武天皇の神話の中心的神社

神武天皇聖蹟碑についても、力をこめてお話しになった。全国で19基、奈良で7基、紀元2600年に立てられたあの聖蹟碑のことである。
「奈良県に7ヶ所、あの掃除に参りませんか。宇陀はきれいやった、村で掃除している。三輪もきれいや。他は草ぼうぼうで、あれを掃除して回りませんか」と橿原神宮会館で神職と氏子に呼びかけられたのである。

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「かみのみあと」を熱心におすすめになった。今日のお話しのいくつかは、「かみのみあと」でも触れられていた。
僕はこの本を見るのは初めて。これだけすすめられて持ち帰らないというわけにはいかない。
この本を丹念にたどれば、県下のおもしろい、たくさんの伝承と神話を知ることができる。県下全体を紹介するテキストならば、奈良まほろばソムリエの公式テキストが使いやすが、これとはまたちょっと違う角度の取り上げで、こちらは地元の伝承が息づく紹介となっている。
ちなみにお代は千円、奈良県神社庁の発行である。

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附録も充実していて、鳥見山の貴重な地図(神武聖蹟碑の建立の頃・・昭和15年の地図か)も添付されている。茶臼山古墳の西側に上げ山古墳(今はない)、金ケ崎などが明記されていて興味深い。こちらで画文帯神獣鏡が出土している(拓本が等彌神社の保存)。

今回の講習、単なる勉強ではなくて、積極的な行動が呼びかけられた。主催者の狙いもあるが、岡本彰夫先生の思いがあふれる講演だった。

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岡本彰夫さん、ますますお元気で快調である。
# by koza5555 | 2016-03-18 10:45 | 奈良 | Comments(0)

柳本大塚古墳と大神教本院

桜井から天理に入ると、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、行燈山古墳(崇神天皇陵)、黒塚古墳など邪馬台国から大和王権への移行にかかわったみられる大王、重臣の大型古墳が点在している。
これらの古墳は、いわゆる山辺道に絡む形で連なっていて、数多く訪れるハイカーの心をひきつけてやまない景観を作り出している。。

ちょうどこの辺りだが、もう一つ西の上ツ道に絡んでの三つの古墳を今日はみてみたい。山の辺の道とは異なり、訪れる人もわずか、上ツ道を歩く人も気が付かずに通り過ぎることも多い古墳である。

栁本大塚古墳、石名塚古墳、ノベラ古墳と名付けられている(以下の古墳のデータは「天理の古墳100」より)。

北からノベラ古墳。
南に下がり、一番大きい石名塚古墳、全長が124m(ため池により少し削られている)、古墳時代前期前半の築造とされる。埴輪が発掘されている。
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上ツ道からはしっかり見えないが、西側の農道に出てみるとクッキリ見える。前方部を南に向けた前方後円墳である。
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一番南は柳本大塚古墳。こちらがお目当てである。墳丘は前方部を南に向けた前方後円墳で全長94mを測る。
明治28~29(1895~1896)年頃に後円部墳頂の竪穴式石室が盗掘され木棺材のほか、副葬品が出土した。
また、大正7(1918)年二は後円部で耕作中に竪穴式石室の北東部で耕作中に小石室が見つかり、大型内花文鏡が出土している。

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こんな鏡である。今は宮内庁が管理しているという


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行燈山(崇神天皇陵)から出た、銅版はこんな形


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明治年間に盗掘された時、抜き取られた割竹型木棺の一部分が巡りめぐって桜井市の大神教本院(大神神社参道、右手)の玄関額として利用されていることが近年(橿原考古学研究所から)報告されている。本棺は直径120cm以上のコウヤマキの大径材を使用していたことも判明した。

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栁本大塚古墳。地主の中川さんの許可を得て墳丘上に

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前方部の南には箸墓古墳


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後円部の墳頂はブドウ畑。その周囲のキャベツ畑は なにげに円形。「効率的や」と中川さん。「少しでもほっておくと、すずんぼ(笹や女竹)が生えて大変や」とのこと。古墳らしくない外観だが、中川家が墳丘は守っているのだ。
# by koza5555 | 2016-03-16 10:23 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

大安寺とガン封じの笹酒まつり

大安寺にお礼のお詣りである。

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奈良市 大安寺

「雑賀さんの病気平癒の祈願、貫主さまにお願いしておいた」と、大安寺の長岡さんから、連絡をいただいた。
実は2月15日に、僕は胃ガンの内視鏡手術をうけたのである。胃の中心あたりの粘膜にガン細胞ができているとのこと、あれこれ、あちこちに迷惑を掛けながら、2月15日にご近所の病院での施術で、ガンの粘膜を取り除くことができた。今のところ幸い、転移なしである。

それで13日(日)にお礼のお詣り、東大寺のお水取りの前に伺ったが、あくまでも本筋は大安寺ということである。

大安寺といえば光仁会、笹酒まつりであるが、平城京の時代には巨大な東西の塔をもつ筆頭官寺の役割を果たした歴史ある大寺であった。

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大塔の跡地、礎石も残されていた

この辺りを「知らなかった!もっと知りたい大安寺」(「仏教文化の源流 大安寺国際シンポジウム全記録」南都大安寺発行)にとても詳しい。

『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、聖徳太子が額田部に建立した熊凝精舎が前身とされ、その後に百済大寺、高市大寺、それが大官大寺と改称されたのち、霊亀二年(716)に現在地に移されたとの歴史を誇る。

第49代光仁天皇の御忌法要。光仁天皇は在野時代しばしば大安寺を訪れ、竹林で「林間酒を温める」風流を楽しむなどした…この故事にあやかって悪病を封じて息災を願い、御忌1月23日を「ガン封じ笹酒まつり」としている(「知らなかった!もっと知りたい大安寺」より)。

「もっと知りたい大安寺」は、さらにエピソード満載である。
大学院生の頃、発掘に関わったという菅谷文則さんのお話は印象的である。
池田源太先生のが光仁会の復興ということを盛んにおっしゃっていました。大学院の授業でもなぜか笹酒の話をよくされていました。「がん封じに結び付けるのがいいのや」ということを盛んにおっしゃっておられました。お寺の行事が新しく復興していく時の今日的意義を付けをされていらっしゃった。
 笹酒まつり、盛り上げていくための先人の苦労もあるのである。

日本のお寺は名前を二つ持っているというお話も興味深い。
地名を元にしたものは、「てら」と読む。「あすかでら」、「かわはらでら」、「いかるがでら」。
同時に「じ」の読み方もある。「がんごうじ」、「ぐふくじ」、「ほうりゅうじ」

こんな具合で、寺は二つの名前を持っているのだが・・・・
大安寺は和風の、土地の名で読む読み方がない。あくまでも「だいあんじ」。国家安泰の意味しかない大安寺、これが珍しいと言われるのである。


千田稔先生の「百済大寺が大安寺のルーツ」論も目からうろこである。
聖徳太子が額田部に建立した熊凝精舎が大安寺の前身、これは「額田氏出身の道慈が作り上げた一つの物語かもしれないという見方がいまのところ許されています」。

大安寺は巨大な官寺として始まり、名を変えながらも官寺として続いてきた歴史との論で、言われてみれば、これは納得できる論である。

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大安寺、歴史を知れば知るほどおもしろい。
ガン封じの笹酒まつりと祈願、もう一つ深く、信じたくもなる。

ありがとうございました。

夜は東大寺の修二会。お松明と聴聞である。
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小雨、寒かったが、堪能した。
# by koza5555 | 2016-03-15 15:51 | 奈良 | Comments(0)

くどやま 慈尊院と真田庵

3月7日(月)は桜井市民生児童委員協議会の「日帰り研修」。和歌山県を訪れた。和歌山市の福祉施設の研修のあと、九度山町の慈尊院と真田庵に立ち寄った。
研修の目的とも、行程とも順序が違うが、今話題の九度山である。紹介は九度山からである(笑)。

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慈尊院

慈尊院、弘法大師が高野山参詣の表玄関として伽藍を草創したとあり、大師のご母堂が我が子の開いている山を一目見たいと逗留した院として名高い。女人の高野参りは当院までということもあいまって子宝、安産、育児などを願う院、その象徴として「乳房型絵馬」を奉納する院として著名となった。
これを僕は知らなかった・・・・

これは鉄田さんのブログに詳しい

「慈尊院、乳型はどうでした?」と、何人もの方から激しく突っ込みを頂いたが…「あれ?」てな具合で、写真の一枚もない。情けない・・笑

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丹生神社には上がりました

「くどやま道の駅」を経て、真田庵に寄りました。こんな感じです。
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真田庵のすぐ北側に、この13日から「真田ミュージアム」(九度山町が運営する)が開館、その準備がすすめられている。「道の駅 くどやま」から徒歩5分、真田庵の北門を出ると左に見えるとのことで、まだ工事中。僕らは、これを見られなかった。大河ドラマ真田丸、九度山の観光はこれからがフィーバーである。

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丹生川から紀ノ川をのぞむ


研修は和歌山市のわかうら会(社会福祉法人)。施設利用者のさまざまな趣味が活かせるような設備が充実していると一同、感心。「末永くこの地で、健康に暮らしていただきたい」との土山憲一郎理事長の思いが生かされていた。

ロケーションは温暖・穏やかな和歌浦を臨んでいた。雜賀崎の内懐にあたり万葉集でも特筆される「和歌浦に汐満ちくれば片男波 芦辺を指して田鶴なき渡る」巻6-919(山部赤人)である。
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# by koza5555 | 2016-03-11 06:34 | 大阪とか京都とか | Comments(0)

横穴式石室の編年・・・標識古墳を訪ねて

「古墳の知識1」、白石太一郎著(平成4年 東京美術)を読んだ。

「ときどき円墳を土饅頭形に復元した例を見かけますが、これは誤りで、日本の円墳は前方後円墳の後円部などと同様に、墳長部に平坦面をもつ截頭(せつとう)円錐台形を基本とします」。
良く理解できました。黒塚古墳であれ、ナガレヤマ古墳であれ、墳墳が平らであることが本来の姿なんだ。説明する場所のために平らっていうことではなかった(笑)。

「横穴式石室の展開」という所に目を見張りました。あれこれ、古墳を見に行っていても、論理的には古墳を見ていないなあと反省。これは近畿地方を中心に考えた「横穴式石室の編年と標識古墳」の紹介である。

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岩屋山古墳の石室内部から。側面が平滑に仕上げられた切石造が美しい

「奈良県、大阪府地方の近畿中央部の横穴式石室の流れは、基本的には塔塚式→芝山式→勝福寺式→二塚式→天王山式→石舞台式→岩屋山式→岩屋山亜式→二子塚式の九形式に編年できます。
 このうち塔塚式は大阪府の塔塚古墳(堺市 方墳)、芝山式は東大阪市芝山古墳(前方後円墳)、勝福寺式は川西市の勝福寺古墳(前方後円墳)、二塚式は新庄町の二塚古墳(前方後円墳)、天王山式は桜井市の天王山古墳(ようす方墳)、石舞台式は明日香の石舞台古墳(方墳)、岩屋山式は明日香村の岩屋山古墳(八角形墳)、岩屋山亜式は桜井市の艸墓古墳(方墳)や平群町の西宮古墳(方墳)、二子塚式は太子町の二子塚古墳を標識とするものです」
(p106)。

これらの石室をまとめ直してみると・・
① 塔塚タイプは5世紀前半から中葉頃。正方形の玄室で割石づみ。壁面には赤色顔料。
② 芝山式は5世紀後半から6世紀初頭。玄室が正方形だが、積石が河原石となり、羨道が機能するようになる。壁面には赤色顔料が塗られた。
③ 勝福寺式は6世紀前半。玄室が長方形となる。石材が大型化して持ち送りが緩やかとなり、羨道も幅が広がり長くなる。石材の大型化、持ち
送りの減少と壁面の単純化、羨道の長大化は近畿地方の編年の特徴で、その後の型式につらぬかれていく。羨道の長大化は追葬を行うための変更である。
 終末期の石舞台以後になると壁面を平滑に仕上げた切石造が出てくる。

④二塚式が6世紀中葉から後半。
二塚式は3つの石室があるが、標識は後円部の長大な石室である。

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二塚古墳の石室。葛城市博物館には二塚古墳の立体模型もおかれている

⑤天王山式が6世紀末から7世紀初頭。

⑥石舞台式が7世紀前半
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⑦岩屋山式が7世紀中葉から中葉過ぎ
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岩屋山古墳

⑧岩屋山亜式が7世紀後半

⑨二子塚式は岩屋山式と岩屋山亜式と同時期。
棺を納めると周囲にはほとんど余裕のない小型化した漆喰塗の玄室のみからなります。
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大師町の二子塚古墳。こちらは見学したことがあった

二子塚式は7世紀から8世紀の横口式石槨古墳につながっていきます。
石槨と前室、羨道のある観音塚古墳(太子町)、石槨と羨道だけがあるオーコー8号墳(太子町)につながり、さらには石槨だけで羨道もない高松塚古墳(キトラやマルコ山)につながっていきます。
古墳(墓)の社会的な必要性、技術の継承と発展、こんな風に考えると古墳の歴史と姿はとてもおもしろい。

「古墳の知識1」、白石太一郎著(平成4年 東京美術)
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# by koza5555 | 2016-03-10 06:45 | 読書 | Comments(0)

平等院 雲中供養菩薩像

平等院を訪れて 浄土のことを考えてきた。
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上品下品(じょうひんげひん)の源とされる九品(くほん)のことである。
上品上生、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生・・これである。それぞれの印相もあるので、ご存知の方も多い。

昨年11月に、「大和路」(NHKカルチャー梅田)で浄瑠璃寺を訪れた際、まほろばソムリエガイドのTさんが、この九品を巧みに解説した。

「九品はお迎えの形である。生前に善業をした人と悪業をした人には、お迎えの形に差がある。その姿をあらわしたのが九品である」として、「上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までのお迎えの形とお迎えの乗り物が違う」とのことである。
「上品上生の場合は、お迎えは仏・菩薩・飛天が大勢で迎えに来る、そこからだんだんにランクが下がり、下品下生まで下がると迎えは来ない」・・「自分で行く」・・というような話だった。

この話を聞きながら、僕はお迎えのお供をしてくる「飛天」が気になったのである。
あっちゃんが「通訳ガイドの下見、準備のために京都に行きたい」という。「それでは」と宇治の平等院も立ち寄ることにしたのである。

平等院は、永承7年(1052)、時の関白藤原頼通が父道長の別荘を寺院に改めて創建された。
10円硬貨でよく知られる鳳凰堂が建立され、仏師定朝により造像された 寄せ木造りの阿弥陀如来坐像が国宝である。合わせて鳳凰堂内壁の飛天(平等院は運雲供養菩薩としている)の全52体は国宝に指定されている。

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改装なった鳳凰堂、飛天もよく見えた(画像はパンフレットからいただいた)

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九品来迎図も復元されて残されている。これは中品上生であるが、鳳凰堂の内壁全面に九品のすべての来迎図が描かれていたという


平等院では、雲中供養菩薩像として、この飛天を「本尊の阿弥陀如来に対して、雲の中で供養讃嘆する有様」としているが、これを僕は、「上品上生のお迎えの姿」と見たいのである。

頼通は生きているときから、自らの葬儀、自らの浄土への旅立ちを姿・形で示した…それはまるで生きているときに自らの陵を築かせた古代の大王のように…間違いでしょうか?

鳳翔館という立派な博物館ができており、鳳凰堂から降ろされた一部の雲中供養菩薩像も展示されている。これは身近に見られて、この博物館も興味深い。

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宇治市のマンホールは宇治川、宇治橋がテーマだった

# by koza5555 | 2016-03-07 05:51 | 大阪とか京都とか | Comments(0)

唐古・鍵遺跡から箸墓古墳へ

「邪馬台(やまと)国 唐古・鍵遺跡から箸墓古墳」、雄山閣から出ている。

水野正好、白石太一郎、西川寿勝さんの田原本町でのシンポジウムをまとめたものである。

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唐古鍵遺跡、楼閣

西川寿勝(大阪府教育委員会文化財課)さんのお話が面白い。
唐古鍵遺跡の楼閣問題、邪馬台(やまと)国には行くにはなぜ、南に向かうべきなのか・・

弥生時代中期後半の土器に考古学者を悩ませる絵画が描かれていました。それは有名な「楼閣絵画」です。・・・

この絵画をめぐっては、実際に楼閣が唐古・鍵の集落にあったから描けたという意見、楼閣の手がかりとなる遺構や部材などの遺物はまったくなく、概念的なものだったという意見に分かれています。
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紀元前後の中国に、「楼閣絵画」そっくりのものなものが多数見つかっていることが分ってきました。・・それは直径23センチの薄くて丸い銅版で、中央に留め具の穴がある飾り金具です。
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そこには二棟の建物が描かれています。…よく見ると二棟ではなく、建物はつながっており、その間が門になっています。門には「天」の表札があり、その上には白虎に似た禽獣がのり、門の入り口には神人らしき人物がいます。どうも、実物の門ではなく、天上世界の門、あるいは現世と来世の境界を示す門のようです。


この話を田原本でやったのだから、、田原本町民にとってはがっかりです。

しかし、土器にこの楼閣を描いた人、この人は「飾り金具」は見ています。(p55)
全て西川さんの想定された通りだったとしても、弥生時代、中期後半、唐古にこの飾り金具が到来した、あるいは見た人が来た、それはそれで大きなロマンではないでしょうか。


さらに西川さんの発言を追いかけると・・・

魏志倭人伝は239年に卑弥呼の遣使が魏の都に朝貢し、「親魏倭王」金印をはじめとする数々の宝物を下賜されたと記します。大国の皇帝が小国の女王を破格の待遇(同じ待遇は大月氏国だけとされる)で迎えた理由とは・・・
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 呉が成立した222年、呉は半島の公孫氏勢力と同盟を組もうと盛んに使者を出しました。結局、公孫氏は呉になびかず、同盟は成立しませんでしたが、呉と半島勢力のハサミ撃ち作戦を危惧した魏は公孫氏を滅ぼしてしまいます。呉はさらに北方の高句麗と同盟を結んで執拗に魏を挟み撃ちする作戦を強行しようとしました。
 卑弥呼が朝貢したのは公孫氏が滅んで、半島に魏の足掛かりである楽浪郡と帯方郡が設置された絶好のタイミングでした。さらに新皇帝即位の代替わりの年に朝貢したのです。・・・邪馬台(やまと)国の朝貢は偶然ではすまされないほど絶妙のタイミングでおこなわれたというのです。

 それだけではありません。邪馬台(やまと)国の道のりを「魏志」倭人伝の記事どおりにたどってみると、沖縄北方の海上にたどりつきます。それで距離が間違っている、方位が間違っていると所在地論争になっているわけです。しかし、よく考えてみると沖縄北方の海上はちょうど魏が呉を挟み撃ちにできる好位置にあるわけです。すなわち、魏は呉の南方にある邪馬台国と同盟を結んだことを大いに政治的・軍事的に利用したかったのだろうと推測できるわけです。(p64)


これなら、知っていたか、知らなかったかを問わず、帯方、倭の国あげての、いわば国あげての地理のねつ造・・・というべきものだろうか。
# by koza5555 | 2016-03-03 22:08 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

お水取り

二月堂修二会は3月1日から。いよいよである。

お松明や室に入っての聴聞など楽しみ方はさまざま。
僕も病気を患ったから、修二会祈祷の申込みをしており、名前を読み上げていただくことになっており、これは一度は詣らねば、である。

先日、奈良市内でまとまった時間ができた。「お水取り関連で、あちこちの招待券がある」とあっちゃんが言うので、題して、お水取り三館めぐりである。

東大寺ミュージアム、奈良国立博物館、奈良市写真美術館である。

今日はあまり書くことはないが、奈良の写真だけを楽しんで頂こうと思って。

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東大寺ミュージアム玄関

ミュージアムのお目当ては二月堂ご本尊の十一面観音の光背である。

十一面観音像、「十一面陀羅尼と呪」には、「白白檀を用いて観音像を作るべし。身長は一尺三寸で十一頭を作れ。正面の三面を菩薩面、左側三面は瞋面、右側三面は菩薩面にて狗牙が上に出ており、後方は大笑面である」とされている。

聖林寺や兄弟仏の京田辺の観音寺の十一面観音像は六尺はあるだろう。いずれも東大寺の造仏所で作られ、共通の見本があったのではといわれる。
この見本が二月堂ご本尊とも。もともと尺三寸で作れとあるので、こちらはそんなものだろうと誤解していましたが、実物の光背を拝見すると、台座やあれこれ考えてもご仏像は尺三寸よりは相当大きい。
こちらを見て納得しました。
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表裏から拝見できるようにプラス板で留められていた。この写真はパンフレットから



奈良国立博物館
修二会、二月堂が全て良く理解できる。

玄関にはやはりお松明。今日は鹿と目線が合った
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奈良市写真美術館
入江泰吉の東大寺修二会である。不空院さんにご用があり、お礼に立ち寄らせていただいた。
# by koza5555 | 2016-02-28 10:37 | 奈良 | Comments(0)

石の考古学

「石の考古学」(奥田尚著 学生社)を読んだ。

古墳の石室・石棺・葺石など「石」の種類や産地から何がわかるか?「石」から古代日本の謎に迫れるか・・この本のテーマはそこにあるが、とにかく具体的で詳細なところがおもしろい。

箸墓の北側の池におり、葺石だと言われる斑糲(はんれい)岩は花崗岩の観察や板状の石の観察をした。板石は石室材ではないかとのことだった。この板石は玄武岩で橄欖(かくらん)石の斑晶が肉眼でもみえる。「こんな石は芝山の玄武岩やなあ」と言ったのが、後々までひびいている。日本書紀の崇神10年に出てくる「大坂山の石」が芝山の玄武岩に相当することになった。(p13)
 その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。ときの人は歌っていった。「大坂に ツギノボレル 石群(いわむら)を 手ごしにこせば こしがてむかも」は、部分的にしろ史実に基づいている。


よく言われる榛原石も理解できた。
宇陀市「(榛原町船尾)の国道369号線の路傍に石切り場がある。見事な柱状節理が見られる。石種は流紋岩質凝灰岩で、火砕流堆積物である。この石切場から採石された石に「榛原石」の名がつけられたようである。どうも明治の中頃から昭和50年頃まで稼行していたようである。

榛原石とは室生火山岩であるが、室生にいけば室生石、名張ならば名張石という。
古代から近世・現代まで、石材として実にさまざま使用されてきているのだ。

奥田尚さんが紹介しているところを列挙すると
室生口大野駅の北側に向坊古墳  榛原石の割石が使われたた。
6世紀後半からは竜王山古墳群にも大いに使われ、7世紀に入ると桜井の舞谷古墳や花山古墳のせんかく墳の石材に使用される。
榛原町のワラ田古墳のように板石を積み上げて作った竪穴式石室の石材にも使われており、6世紀の前半には室生火山は板石として使われ始めている。
割りやすかったのであろうか。

その後
大阪河南の塚廻古墳の石槨の床
高取町の白壁古墳の前室の床
桜井市の山田寺の金堂の犬走りのセン
飛鳥寺では回廊の側溝の側石として
等々板石としての活用が続いていくことになる。

中世でも大いに使われる。
大野寺の磨崖仏もその一つだし
山部三の山部赤人の五輪塔、
大蔵寺墓地の五輪塔、
仏隆寺の十三重の塔
仏隆寺の東側の白岩神社の参道の階段右手の 延元3年(1338年)記銘の石燈籠なども榛原石である。
 こんなのを順次回ればおもしろいだろう。

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これが榛原石の採石切り出し場跡である (榛原)


さて、この本の中心は古墳の石の研究である。
奈良県の発掘されてきた主要な竪穴式古墳の石材の産地が特定されている。
たとえば黒塚古墳は橿原市芝山と羽曳野市の板材が使われ、丸石は纏向川から採られたと特定している。

石棺の岩の産地も網羅されている。いずれも産地から古墳への移動を重視して、産地と設置された古墳の地図が掲載されていて理解しやすい。

また、二上山系の石材、龍山石系の石材の使われ方から、古代豪族の勢力範囲が推定されている。

阿蘇ピンク石だけは特別に紹介。阿蘇ピンク石は石棺に使われている。なぜ阿蘇からということであるが、奈良の野神古墳、桜井の金屋の石仏下の棺、兜塚古墳、橿原市の植山古墳など十数カ所が列挙されている。

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これが阿蘇ピンク石、微妙な美しさがある。もちろん阿蘇で手に入れたものである。ソムリエの会のKさん(熊本出身)からの頂きものである


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「石の考古学」(奥田尚 学生社) とてもおすすめで、アマゾンでも強気のお値段が付いている。


# by koza5555 | 2016-02-23 21:55 | 読書 | Comments(0)

日本人と漢字

倭といわれた日本に、紀元前二世紀頃、中国(前漢?)から銅鏡や銅鐸がもたらされたが、なぜか漢字が到来しなかった。
断ったのか、持ってこなかったのか、それとも、どうしても理解できなかったのか。
その後、銅鐸などを自らの手で作りだしていく倭人は、どのように話し合い、記録を残していったのだろうか、

そんなことが僕の最大の関心事のとき、「日本人と漢字」(笹原宏之) 知のトレッキング叢書(集英社インターナショナル)を桜井図書館の新刊コーナーで見かけた。


人類最古の文字は、メソポタミア文明で生まれた楔形文字だといわれています。・・紀元前3200年頃に楔形文字を使い始めたのはシュメール人です。
それと前後してエジプトでもヒエログリフという文字が誕生します。
そして少し遅れて、紀元前14世紀頃の遺跡から、間違いなく漢字だと言える文字が出土しています。殷王朝の中期にあたります。

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これが魚の始まり。似てますね。漢字だけ魚が立っていた。なるほど魚の始まりだ


漢字は周の時代(紀元前11世紀~211年)に徐々に整備されるが、その後の秦、始皇帝の時代にはすでに焚書などと言う事件も起きるのである。
始皇帝は同文同軌(文章同じ、車輪の間隔を同じにする)で、「広軌と狭軌の鉄道の解消」のようなことも行い、国を作り上げた・・天才やなあ・・である。
焚書もそんな意味を持っていたのだろうか、焚書を認めるわけではないのだが。

そして漢字は中国に定着するのである。

字体は周の時代は篆書(てんしょ)、周の時代に隷書、漢の時代から草書が始まり書きやすくなっていく。楷書が最後とは意外で魏晋時代から唐の時代までかかったとのことである。

魏の時代に紙が発明されたのも漢字には大きな援軍である。
105年に蔡倫が発明したとされるが、笹原先生は「蔡倫は、紙を実用に耐えるように、改良した人」と言う。

日本における漢字の歴史である。
縄文人も弥生人も間違いなく日本語を話し合っていたとされる。しかし、字は間違いなくなかった。・
銅鐸や銅鏡の文化は中国から来ていたが、漢字はどうだったのだろう。
日本に残されている最古の漢字は「漢委奴国王印」で、西暦57年である
それ以上の解説がない。ここはちょっと僕には拍子抜けで、知りたいのは紀元前200年前から「漢委奴国王印」までのことだったから。
また、日本人(倭人)が、漢字をどんな形で使いこなしていったのだろうかということだからである。

とにかく、日本人は漢字を見て驚き、漢字を見て勉強した。
日本人は日本語を漢字をあてはめていったのである。それが訓読の始まりである。

邪馬台という漢字は中国人が当てたものだと考えられます。何にあてたかと言えば、日本人が言う「やまと」に、という説が古代語の発音の面からは有力です。「やまと」とは、山(やま)処(と)という意味だと考えられていて、山のすそ野、山の麓のあたりという普通名詞が地名になり、さらには小さい国の名前になっていきました。
漢字は当て字で意味はありません。中国人にとって漢字で大切なのは、「音」なのです


卑弥呼という漢字も同様に当てられました。日本に「ひ(び)みこ」のように発音されるような女性がいた、その人に対して「卑弥呼」という三字があてられたのです。

中国人は邪馬台国とはおそらく関係なく、日本のことを「倭」と呼んでいました。



あとは訓読み、音読み、かな文字の解明などもあり、日本語の発達と充実の流れが語られていて、興味深いしおもしろい。そこは読んでいただくことにしよう。

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笹原宏之 著 「知のトレッキング叢書」(集英社インターナショナル)


# by koza5555 | 2016-02-21 20:39 | 読書 | Comments(2)

銅鐸の絵を読み解く

一週間ほど入院していた。病院で読んだ本などをアップしておこう。

始めは銅鐸の本(「銅鐸の絵を読み解く」)である。
銅鐸の絵はいままで、考えもしなかった。
そんなツアーは無いし、奈良はやはり古墳時代、そして律令の時代を歩く機会が多いが、邪馬台国を手がけて、視点が変わった。弥生時代と古墳時代のハザマを考えねばならない。

銅鐸を読んでみた。奈良まほろばソムリエのメンバーで銅鐸を話す人を今まで見たことがなかった。
銅鐸は東海から近畿、中国四国までで430個ほど発掘、そのうち画が書かれているのは55個(1997年当時)だという。銅鐸とは腺ばかりひかれているというのだ。
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こんな感じ

銅鐸は紀元前二世紀に登場、紀元二世紀の終わり頃が最後の銅鐸。中国・韓国から到来する、羊の鈴みたいなものだが、日本は独自の発達を遂げた。
そして、古墳時代にはなくなるのである。


トンボの話がおもしろい。
銅鐸のトンボは常に上段に書かれるとのことである。
「多くの銅鐸で蜻蛉が上の方に書かれるのは蜻蛉はいつも高いところを飛んでいるからだ」(佐原真)と思っていたら、これには異論があった。

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トンボの絵

トンボを研究している三重県の石田さんは、「トンボは「田の神」だったから特別視するとのことである。ヤゴの時は田んぼでボウフラを食べ、成虫になるとウンカ・ヨコバイなど食べて豊作に貢献する」として、

古代、畿内は秋津洲(あきつしま)と呼ばれたことがある。神武天皇は山々の連なりを見てトンボの交尾を思い、雄略天皇はアブに刺されかかられる時、トンボに助けられることが日本書紀には記されるが、トンボは本来、「田の神」であるという共通認識が基礎にあるから成り立つとのことである。

僕もいつも思っていた。なんでトンボ、誰も教えてくれなかったが、こんなことなんだ。


弥生の絵の特徴の解明がされる。
多視点画とのことで、遠近法はない、モノの後ろの人や物も書いてしまう、唐古鍵の三階建建物の一階は吹き抜きとなっているが、これは実はレントゲン画で、一階にも壁があったのではないかとか、ビックリである。

重なり合う人々が書かれた(後ろの人が前の人に隠される)のは唐の時代が始まりで、高松塚はそれがすぐ採り入れられたものだそうだ。
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圧倒的に銅鐸には鹿が描かれるが、弥生時代の狩猟の中心は猪だったとのことである。
しかも銅鐸のシカには角が無い・・
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角のない鹿

鹿の角は春に生え始めて秋には立派な角になるが冬を越して春にポロッと落ちてしまう。
弥生人の中でこれに似たものは何か。それはコメの成長である。春の籾を撒き、秋に収穫、つまり鹿の角の成長と稲の成長を重ねて考えた。
稲作は弥生時代のシンボル、鹿もその意味ではシンボルと言う。収穫祭りに使われた銅鐸には角のない鹿が描かれた。子を産むメスを書いたという見方もあるが、角を落とした鹿を描き収穫の終わりを祝ったという見方もあるかもしれない。

こんな話が次々と続く面白い本である。

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銅鐸を読み解く。国立歴史博物館編 構成 佐原真
# by koza5555 | 2016-02-20 23:35 | 読書 | Comments(0)

弥生から古墳へ 日本の古代はこうはじまった

20年ほど前の本である。
大阪府弥生文化センターの開館三周年を記念するシンポジウムが本にまとめられた。近つ飛鳥博物館が開館する直前のことでもあり、弥生時代から古墳時代へのつながりがテーマだった。

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大阪府立弥生文化博物館は池上曽根遺跡に隣接している

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博物館の田んぼのジオラマがおもしろかった

コーディネーターは金関恕(かなせきひろし)館長で佐原真さん、田中琢さん、大庭脩さん、佐々木高明さんがパネラーである。

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同朋社出版である

「日本の古代化」がおもしろかった。
世界は食料収集時代を経て、初期農耕段階に入り、そこから国が生まれ、王様ができる。これを「古代化」という。「古代化」という言葉は初めて聞いたが食料収集時代は古代にも入らないということである。

この古代化の前段階、初期農耕段階が日本は600年間くらいだという。
これが西アジアでは五千年、ヨーロッパも五千年。中国でも3000年位だろうか。
日本は食料採集段階が長くて、一気に古代に突入している。中国からの経済、文化の激烈な流入が、この激しさをみるべきとのことである。

唐古池の楼閣、あの壺に描かれた元絵なども、そんな中国からの流入の一つだろうか。
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身近なところで言えば、唐古鍵遺跡の楼閣の絵である

唐古鍵遺跡から建物の絵を描いた土器が出てきました。この絵についてはいろいろな解釈がありますけれども、多くの人が忘れていることは、弥生時代はほとんど絵が無い時代だ、ということです。現在は絵に囲まれているし・・写真も絵の一種でして、絵にかこまれているのです。…簡単に思い出して描くとか想像して描くというようなことができる時代ではありません。

屋根飾り(渦巻きの)を持った土器は近畿地方で、この唐古・鍵遺跡とその北500mの清水風遺跡だけしでしかない。(p19)


弥生時代から古墳時代への移り変わりについても勉強になった。
突然現れた巨大な前方後円墳の謎が、①形、②被葬者という二つの点から解明されている。

①形は田中琢(みがく)さんが解説する。
日本の前方後円墳はみんな同じ形をしている。ピラミッドは十数基しか作られない。中国の殷墟の王墓も十数基に過ぎない。

前方後円墳。後円部に祀って前方部はおまつりする場。このまつりが弥生時代のまつりと共通である。力を持った人たちが、先祖の人から受け継ぐ儀式がある。先祖と一緒に食事する儀式もある。共食儀礼、これは大嘗祭にもつながる儀式である。

前方後円墳のまつりは変質がおこり、前方部に埋葬する、さらに横に造り出しを作ってまつりはそちらに移るなどの変化を遂げ、形も変わってい。(p58)

②被葬者の問題である。
誰が・・ということではなく、弥生の集団墳墓(みんなが)と古墳(特別の人が)の差が問題になる。

まずは階層の分化である。
中期の土器、たとえばつくりが巧遅(拙速でなく)、絵が巧みであったりするが、弥生時代の終わり頃になると、使えればいいと、消耗品をどんどん作ればいいということで、手を抜くように変わる。これは、実は土器だけでなく、木製品についてもまったく同じです。
ところが、一方では弥生時代の終わり頃にも、非常に手をかけた、つまり巧遅の土製品、土器があり、そして木器がある。これは明らかに身分の高い人のお墓であるとか、あるいは彼らが使うために作ったもの・・・弥生時代の終わりに、一種の技術の分化、が生まれている。

弥生時代はみんなの中の一人と言う有力な人が現れてきて、これが明確に突出して、人々のはるか上に立つ人が生まれるのが古墳時代である。(p21)

侵入や征服される事件などはなしに、大型古墳の造営の契機は弥生時代の社会の中に準備されていたのである。
なぜそれが畿内か、そして大和かと言うことであるが、それはもっとも生産力が高く、最も人口が多く、階層分化がもっとも進んだということではなかろうか。

東遷・東征ではなく、弥生時代の中からヤマトの文化、膳法後円墳が発生したのである。
# by koza5555 | 2016-02-14 10:01 | 読書 | Comments(0)

「清張通史①邪馬台国」 対 日本考古学

2月10日、17日、25日は「大和の卑弥呼」ツアーである。新大阪発だが、満員となった。

10日は僕がメインの講師、17日は鉄田さん(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事)がメイン講師、25日は僕が講師である。
このツアー、3回ともやる予定だったが、15日にちょっと急な入院が必要となってしまって、僕は2回の予定である。

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10日のガイド。トリイノ前(巻向駅)大型建物跡 出現現場で

30年ぶりに、「清張通史 Ⅰ 邪馬台国」を読んでみた。
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高松塚古墳から、7世紀末か8世紀初頭とみられる壁画が、昭和47年に姿をあらわしたのが、そのいい例である。あのようなみごとな壁画が埋もれていようとは、どんな考古学者も歴史家も夢想しなかった。文献のほうはタネが尽きているのに、考古学は地下に限りない資料を持っている。(P19)

北部九州は魏のコロニーであった」をテーマに邪馬台国九州論を展開している。
一大率は卑弥呼が置いたのではなく、楽浪郡の官吏で「一支率」とのことでる。

卑弥呼の実態は諸国王に共にささえられている貧弱な巫女にすぎない。そんな実力も権力もない卑弥呼の派遣した「一大率」の検察を、どうして諸国が忌憚しようか。一大率は一支率の誤りと考え、それを郡の太守の派遣であるとしてのみ理解できるのである。

郡使が邪馬台国に行った形跡がないことは、前に書いたように「宮室・楼観・城柵・婢千人」といった空想的表現で卑弥呼の居所を描写していることからもわかる。中には邪馬台国まで実際に行っていると推測する説もあるが、それだともっと具体的に邪馬台国の情景が記事に出ていなければならない。(p171)

では郡使はどこまで行ったのか、倭の勢力中心も後漢時代の奴国から伊都国に移っていた。すなわち伊都国は帯方郡の「郡使の往来常に駐る所なりであった。(p160)

郡から派遣された「一大率」が日常的に伊都国に置かれて「国々を忌憚させ」、郡使が来たときは「日常的に伊都国に駐まる」という。どちらも上司は郡の太守である。
双方が伊都国で立ち止まる、駐留する形である。実際はありえないと思える。

しかも、これでは邪馬台国九州論に新たな問題が投げかけられる。
私は、福岡県南部に邪馬台国があったという説に賛同したい。が、通説の築後山門郷かどうかはわからない」。
「いまとなって邪馬台国のあとは、今後よほどの物的証拠があがらないかぎり、わかりようもない。が、邪馬台国はとにかく九州北半部のどこかにあったらしい。それだけでもよいと思っている
」。

郡使、一支率とも、たかだか二日で歩いて到着できる邪馬台国(福岡県南部として・たとえば朝倉とか)に、一度も顔を出さなかったというのが清張論である。
郡使の役割は?一支率にいたっては8年間、駐まったのに…


その他で気になることは日本民族の一体性ということである。

三世紀以前から南朝鮮の住民も、北部九州の・西日本の住民もほとんど同じ民族だったのである(p71)
女王国と狗奴国の対立は、種族の違いを想像している(p216)。
北部九州は大陸系・半島系の同じ民族で、南部九州は島伝いの到来した住民、種族が中心、、この種族の間の争いというのである。
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こんな図を見てほしい。日本列島人の人種・種族は弥生時代の後期(邪馬台国の前)にはすでに一体としてできあがっていたのである。このDNAの形を見れば、弥生人との混血がすすまなかったオキナワとアイヌを除けばヤマト人のDNAは全体として一体で、朝鮮半島人とは大きな違いがあり、松本清張論は成り立たない。


東遷論・東征論も触れておきたい

馬台国九州論は東遷、東征問題が必然的について回る。
①女王国は狗奴国を屈服させたのち、畿内に移り大和政権を立てた。
②狗奴国が女王国を滅ぼして、東遷、河内王権、それから大和へ。
③女王国、狗奴国も第三の移住民俗に滅ばされ、さらに東遷が行われた。

いずれも東遷・東征は3世紀以降ということになり、その頃には大きな生産力、政治と文化によって組織されていた畿内勢力とのたたかいが必要である。壺、墓制をみても東征論というより、征西論が成り立つほどである。


九州以外の勢力の経済と文化、大陸とのつながりなどを無視したのが邪馬台国九州論である。この論は考古学が示した日本列島の姿を捻じ曲げている。
# by koza5555 | 2016-02-13 15:31 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)