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安楽寺塔婆(御所市稲宿)
「安楽寺 高野山真言宗。もと法相宗。本尊、十一面観音。
境内に大日堂といわれる三重塔の初層が残り、桁行三間、梁間三間、一重・宝形造・本瓦葺。葛城寺縁起によると、延宝年間(1673―81)に三重塔の九輪が墜落し、上の二層を失い下層のみをとどめたという。鎌倉時代の建立とみられ、中世三重塔の一例として保存され、「安楽寺塔婆」として国重要文化財に指定されている。」(奈良県史6p450)
安楽寺遠望。現在
稲宿には葛城寺と安楽寺が残っている。
安楽寺は真言宗、葛城寺は浄土宗だった。「だった」というのは葛城寺は平成27年に広陵町に移転、この場は廃寺となっている。
安楽寺塔婆。国の重要文化財
塔に向かいあった台地、「上ノ坊」に葛城寺が置かれていた。屋根に中世の瓦がのっている。地形的には、宝塔はこの寺塔だったと思われる。
安楽寺も元々はこの寺内にあったが、現在の場所に移されたと『奈良県寺院明細帳』(明治24年)に書かれていると、『御所市寺院建築調査報告書』が紹介している。
すべての元は葛城寺である。大和国条理復原図から稲宿の小字名を調べてみた。塔は宮ノ下。向いの山、上ノ坊には(元)葛城寺。他にも宮ノ前があり、安楽寺は古安寺。さらに大門もあれば、小門もある。路ノ坊とか谷の入り口は出口といい、広大な寺地が想定される。
こうした小字名が残ることから、『南葛城郡史』は、この地を聖徳太子草創の葛城寺と推定している。
寺は中世に繁栄するがその後に衰退し、三重塔も崩落するという事態に至った。
破損した二・三重と相輪を延宝8年(1680)に降ろし、初重のみで宝形造の塔に改修している。
1990年に保存修理が行われた。建立時の形式に復原し、宝形造の屋根を整備している。本来の塔の形を復原して、縁と飛檐垂木(ひえんだるき)の復活など大規模な改修を行った。
鎌倉時代の初期の建築と判断され、重要文化財に指定されている。
屋根の母屋に「三重之宝塔ハ正嘉二年午十月十日二十下シテ一重ト改」(1258年)とあるが、この改修は延宝年間であることは確実で、1200年代に修理したとは解されていない。しかしこの年号が、当初の建造の時期を示すものと考えると、建築様式からみて時代が合ったりして面白いが、その証拠はない。
参考文献
『重要文化財 安楽寺塔婆修理工事報告書』
『御所市社寺建築調査報告書』
『御所市史』「寺院」「古瓦」
安楽寺塔婆前の「掲示板」から
この建物は、もと三重塔の初重が残ったもので、江戸時代前期の延宝8年(1680)に破損が著しかった二・三重及び相輪を降ろして初重のみを残し、軒を一軒(ひとのき)に縮め宝形造の屋根に改め規模を縮小した。また内部中央の須弥壇を撤去し、その奥に厨子と両脇壇を設け、正面連子窓を半蔀戸(はんしとみど)に改造していた。それでも残存する三手先組物(みてさきくみもの)や長押・円柱(まるばしら)などの軸部材(じくぶざい)は、建立当初の部材・形態をよく残しており、また屋根内部には二・三重の部材が転用されながら保存されていた。
新宮山古墳(御所市巨勢谷稲宿)に入室する
1月から3月にかけて、「大和路再発見バスツアー」を案内する。奈良交通の企画で「古墳石室に入る旅」と称して、奈良県下の石室古墳を案内するツアーである。
1月は大淀町と下市町
1月28日(土)は、「異文化の拮抗と混合の歴史を石室で確かめる」と題して、下市町の岡峯古墳(解錠入室)、槇ケ峯古墳、石神古墳、今木権現堂の石造蔵王権現像、ジヲウ古墳、正福寺古墳、保久良古墳を案内する。
2月は御所市と五條市
2月11日(土)は巨勢谷の新宮山(しんぐうやま)古墳に解錠入室する。この古墳は学術的な調査などのみ入室ができるが、一般的には峻拒される古墳である。今回は特別に古墳の持ち主の新宮(しんぐう)家のご了解を戴くことができた。諸般の事情で「今回だけ」という可能性が高い、「夢の古墳ツアー」である。
他に鎌倉時代の三重塔を切り詰めて一層の塔に変えた重要文化財の安楽寺塔婆、五條博物館では前坂学芸員の深堀り解説、黒駒(くろま)古墳、コウモリ塚古墳、南阿田大塚古墳を案内する。
3月は桜井市と宇陀市
3月11日(土)は、「赤坂天王山古墳を究める」と題して、桜井市の東部から宇陀市の南部、大宇陀と菟田野の古墳を案内する。
行程は赤坂天王山古墳(一号墳、三号墳、七号墳)、香久山古墳、不動塚古墳、谷脇古墳を見学する。大宇陀大願寺の「薬草料理」の昼食も楽しみである。
いずれも魅力たっぷりの古墳ツアーであるが、稲宿(御所市)の新宮山古墳が超目玉である。
申し込み先、料金、行程は以下を参照してください。
治水神社と千本松原・・・薩摩義士
鹿児島に行った。「あれも見たい、ここにも行きたい」であるが、岐阜県生まれの僕は「薩摩義士」遺跡が外せない。
岐阜県(美濃・西濃)の小学生は、一度は海津町の千本松原、治水神社を訪れる。遠足で行くんだよね。岐阜市の東の端に生まれ育った僕らでも、五年生くらいの遠足で訪れた。
今はどうだかではあるが。
ぐちゃぐちゃに混じり合っていた大河の木曽川、長良川、揖斐川をそれぞれ別の川に独立させて、洪水を防ぐ工事が行われた。宝暦の時代である。
薩摩藩がこの工事を受け持たされたこと、
難工事のすえ、工事は成功すること、
予算超過で責任者の薩摩藩家老の平田さんが切腹したこと
その工事の結果は千本松原(長良川と揖斐川を仕切る堤防、松原)で見れること
こんなことを岐阜県(東農と飛騨は別かな)の小学生は学ぶのである。
鹿児島城本丸跡の北側に、義士碑は置かれていた。
「神になった薩摩義士」
薩摩義士碑
-80余名の犠牲の上に、沈黙した暴れ川―
岐阜県に木曽川治水工事の犠牲者をまつる神社があります。治水神社といい、今も1755年(宝暦5)の薩摩藩による工事に感謝する人々の参拝が絶えません。
愛知、岐阜、三重の3県にまたがる濃尾平野は、今でこそ豊かな土地に生まれ変わりましたが、昔は川床の高さが異なる木曽、長良、揖斐の3河川が合流して度々大水害をひき起こしていました。
1753年(宝暦3)幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じ、藩はさっそく家老の平田靱負(ゆきえ)を総奉行に任じ、役1000名を派遣いたし増した。
平田は大坂の商人から22万両を借りて工事にとりかかりましたが、梅雨の増水でせっかく築いた堤が切れ、工事は困難を極めました。さらに、監督する幕府役人の横暴や疫病の発生により、自刃、病死する者が続出。完成までの1年3ヵ月の間に犠牲者は84名を数え、工費も40万両に達していたのです。
平田総奉行はその責めを一身に負い自刃、藩政時代は幕府への遠慮から、彼らの偉業は公表されず、1920年(大正9)ようやく慰霊碑が建ち、義士として讃えられました。(以上は現地の掲示による)
鹿児島の義士碑の前にまつられる「木曽川の石」「長良川の石」
「木曽川・長良川・揖斐川の水」
河川改修工事で、「宝暦治水の工事跡」が発見されている。
平石峠と高貴寺(大阪府南河内郡河南町平石)
高貴寺を拝観した。
山門には「写真撮るよりまずは書け」と掲示があり、「一句出せ」とも書かれている。入山にあたっては「鐘を一つき」と書かれているので、撞いて・・・出てこられる様子が無く、入山することにした。
境内を回る、金堂、講堂らしきものを見ることができる。御影堂が置かれていると思われる「奥の院は許可が要る」と掲示があり、今回は諦める。
竹内(葛城市)の村落の一番上、竹内峠と平石峠の分岐に大きな道標がある。浄水場の入り口付近である。
竹内街道と平石峠越えの分岐点の道標
●正面(東から見て)
右 大坂さかい 上太子ミち
左 かう貴寺 もりや
●裏面 すく大峰 よしの いせ はせ つぼさか
●左面 文政十三寅(1830年)
大和川から見て右は竹内峠で、左は平石峠である。
平石峠を越えると「かう貴寺」に至るとのことである。
調べてみると、「慈雲尊者」が晩年を過ごした所とある。僕的に慈雲尊者といえば、「聖林寺の大界外相」である。
聖林寺の大界外相
司馬遼太郎が「街道をゆく」3巻の「河内みち」(1972年)で「平石峠」「香華の山」をテーマに高貴寺を紹介している。
高貴寺は慈雲尊者が再興した寺であること、慈雲尊者は梵学(サンスクリット語)に通じており「江戸末期の最大の仏教学者」であったこと、さらに「自分が掘りおこした正しい『律』を世に伝えよう」としたことなどを紹介している。「高貴寺は真言宗における律院である」ということも紹介している。
弁財天の御開帳は「毎年4月26日」とある。境内には枝垂れ桜の老木もあり、来春にも訪れたいものである。
門前に寺の由緒を示す掲示がある。以下がその全文である。
史跡 高貴寺境内
昭和一八年8月23日、大阪府古文化記念顕彰規定により史跡指定
所在地 南河内郡河南町平石
伝えるところによれば文武天皇の御代役行者が法華経二十八品に配して葛城山の峰々に開いた二十八霊場の内、当寺は二十五品の観音経普門品に配当されるものであった。
仏に供養する香花(こうげ)が四季絶えなかったので香花寺と名付けられたといわれているが、香花は神下とも書かれるから別個の意味を有しているかもわからない。
嵯峨天皇の弘仁年間には弘法大師が勅命を奉じて堂塔を建立し、そのあと当寺はその弟子の智泉大徳に譲与されたとされている。下りて元弘年間、当寺乃衆徒は南朝に属したが笠置山陥落後関東方は寺の西方なる楠木の支城に拠る平岩氏攻めるに際して当寺の伽藍も灰塵に帰し、自後数百年に亘って法灯振われなかった。安永年間に至って一世の大徳慈雲尊者が当寺に留錫し、以来約三十年に及んだ。
かくして皇室の御帰依を蒙り、また徳川幕府から正法律高貴寺一派総本山たる許可を得るところになった。尊者は伽藍を修復し、旧観復興したので尊者をもって当寺の興第一世とせられている。その学は和漢、梵に通じ梵学の造詣に至っては比肩するものはなく、梵学梁一千巻の大著述がある。また神道を究明して葛城神道を興し、十善の道を説いて十巻法語十巻を著している。桃園天皇御生母開明門院、後桃園天皇の御帰依を受け、また郡山藩主柳沢保光公法弟子となり各宗の僧侶も来て教えを仰ぐなど上下の学信が篤かった。
現在の僧堂としては、金堂、講堂、開山堂、奥の院の御影堂などがあり、それぞれ五大明王像、弁財天像、慈雲僧正若像、弘法太師像などが安置されている。御影堂側には、慈雲僧正の墓塔なる五輪塔があり、金堂の側後には、重要美術品の石造十三重塔、石造宝篋印塔などがあり、本堂前には応永二年(1395)在銘の石造燈籠が立つ。
なお同地の磐船神社はもと高貴寺の鎮守であったが、明治初年の神仏分離によって高貴寺から離れた。
丹切古墳群
奈良県立榛生昇陽高等学校(宇陀市榛原下井足)の敷地内に横穴式石室をもつ古墳が残されている。丹切古墳群34号墳という。昭和42年(1986)の榛原高校の移転に関わり敷地造成に伴う発掘調査が行われ、敷地内で18基の古墳が確認された。敷地の造成でそのうち、17基は消滅することになった。
敷地の外れではあるが、辛うじて敷地内に一基の古墳(34号墳)だけが残された。
今はこんな形で円墳の形をしているが、敷地造成の中で稜線上の古墳の前後の土を取ったら、奇しくもこんな円形古墳と姿が変わった‥ということである。
この古墳の(高校敷地)東側は井足岳につながる山地であるが、山頂に向けての稜線などに残された古墳が多数あり、失われた古墳を含めて、全体としてこれを丹切古墳群というのである。
敷地を出て、東の丘に登ると塼槨墳の33号墳である。ちなみに発掘調査が行われたのは、消滅する古墳のすべてと、34号墳と33号墳である。
図面を見ていただくとわかるが33号墳より東につながる稜線上の古墳群(12号墳~47号墳)は、「発掘調査を実施しなかった古墳」として、調査報告書に記載されている。
調査はされなかったが、これらの古墳にも14号墳(15B-0040と遺跡地図にはあるが、正しくは15B0041と思われる)、16号墳(15B-0042)などに横穴式石室が残り、見どころは多い。
塼槨古墳、33号墳
14号古墳
「石室は南に開口し、天井石・側石共に榛原石の小型転石を利用している。玄室は長さが3.7㍍、現高は1.6㍍である。昭和34年に玄門部見上げ石に朱雀の絵が描かれていると報道されたことがあるが、調べてみると「赤いカビ」だったという曰く付きの古墳である。
法清寺参道から登ると遺跡の説明板(設置者書かれず)が立てられている。ちょっと傷んでいる。
この付近は以前から古墳の多いとして注目されていたが、さいわい榛原高等学校の敷地として整備する機会に、奈良県教育委員会の手で緊急発掘調査が行われた。
その結果、十八基の古墳墓の所在が確認され、被葬者の遺骨六体をはじめとして、副葬されていた土器類(須恵器・土師器)、武器類(刀)、鉄鏃、服飾品(金環・ガラス玉)などが多数出土した。
この古墳群の墳墓の墳丘は円形の小墳丘をもつ円墳で、封土の下に遺骸を収めた木棺や石棺を直接埋葬したものと、横穴式石室を架構して中に棺を納めたものとがある。構築された時期は副葬の須恵器等からみて、六世紀から七世紀、約1400年前、前後と考えられ、したがって、被葬者も当時のこの地方を舞台に活躍した豪族であったと思われる。
特に組合せ式の石棺や塼槨式の石室はこの地域の考古学資料として大切に保存せなければならない。
見学は、事前に高校に連絡すること。営業(有料ツアーやウォーク)に関わる行事は、見学をお断りする‥とのことでるが。
普通の古墳見学であれば、前日までの申し込み、当日の手続きで誰でも楽しく見学できる。
参考文献
『奈良県遺跡地図』
『宇陀・丹切古墳群』昭和34年 奈良県教育委員会
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