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奈良・桜井の歴史と社会

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磐余池、安倍木材団地論もありか

 奈良県神社庁の神職・氏子合同研修会が3月16日に橿原神宮で行われた。今年の講師は千田稔奈良図書情報館長で、テーマは「本居宣長の『菅笠日記』にみる古代の風景考」だった。

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橿原神宮


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千田稔奈良図書情報館長

「ことし明和の九年といふとし。いかなるよき年にかあるらむ」で始まる菅笠日記。これが桜井あたりでツアーのガイドをやれば、援軍百万という力強いテキストである。
250年前の明和9年、1772年の旅日記である。

千田先生は本居宣長の山桜に対する思い入れの激しさなどを触れつつ、敬虔な神学者としての本居宣長の紹介もされて、お話しのバランスがすばらしい。

宣長が『大和国中ひとりあんない』、『和州巡覧記』(貝原益軒)を参考書として持ち、他には「ぬさ(幣)袋」を持っていたという。
当時は道中安全を祈念して、道祖神に捧げる幣を入れる袋を持ち歩いたのだろう。宣長もこれを持参するが、「うけよ猶(なお)花の錦にあく神も心くだしき春のたむけは」と歌を幣袋に記したという。歌の意は、「毎年の花の錦に飽きている神も 私の心ばかりの花の手向けを受けてくだされ」である。

吉隠、初瀬、長谷寺、脇本、忍坂を経て倉橋に上がってくる。この倉橋で、崇峻天皇陵と宮を考えた後に、
さてこの里を出て。五丁ばかり行て。土橋をわたりて。右の方におりゐといふ村あり。こだかき森の見ゆるは。用明天皇ををさめ奉りし所也と。
宮ということである。だが、宣長はこれを信じない。

「あるじのほうし。かれは御陵にあらず。用明の御は。長門村といふ所にこそあなれといふに」である。
千田先生は、ここで論理を大飛躍、本居宣長を外れて話は一気に「磐余に宮つくる。名づけて池辺双槻宮(いけべのなみきのみや)」のことに移る。その用明天皇の陵を江戸時代には「長門村にあり」と本居宣長が紹介しているのである。

「磐余池は谷」の千田論は理解していたつもりだが、若桜神社の前・・谷本町とか、あるいは薦池の下・・谷新道あたりをいわれているのかと思っていた。

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この図が今回の講演で示された。「どこで使われました?」と講演後にお聞きすると、「まあ、これは、たいした絵ではなく、長門を書き込んだものは初めて」といわれる。

この図によると、安陪木材団地の湧水のある七ツ井の北側に磐余池である。
僕に言わせると、磐余池、谷論の最大の弱点は水源が無いことだった。
木材団地まで持ってくると、米川、それから寺川の伏流水が水源となるので水は溜まる。大津皇子が刑死させられる戒重の訳語田(おさだ)と磐余池との関係も、磐余池安陪木材団地論だと、整合性が取れるのである。
「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ」 巻3(416)
イメージだけではなく、実生活を反映した歌とみるのである。

磐余は十市か磯城上かとか、上宮遺跡の評価とか、あれこれに異論は持つが、千田先生の磐余池、安倍木材団地論、良いなあ・・・

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石寸山口神社。石寸山口神社は谷と阿部の長門(旧長門村)の方々で管理している。草刈は先週の12日に行ったばかりである。

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阿部山の南側(文殊が丘)の水は長門池に。長門村の田をうるおしているため池である。今でも、長門の人たちが草刈り、いけ掘りをおこなう


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阿部山の北側の水は、薦池に。石寸山口神社の前。こちらは谷に流れる


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これが長門村(阿部の小字、住居表示には出てこない。阿部550番地辺りである)
阿部丘陵にも古墳はあるが用明天皇の時代とは時代が異なり、具体的な場所は出てきていないが・・・・千田論、輝いている。
by koza5555 | 2017-03-17 16:20 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

「国家誕生の地、桜井を語る」 〜マキムクからイワレヘ、大王の歩んだ道〜

「国家誕生の地、桜井を語る」〜マキムクからイワレヘ、大王の歩んだ道〜という講演会・シンポジウムが12月11日(日)桜井市民会館で開催された。

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大きな会場だが、良く入った、

石野博信氏(二上山博物館名誉館長)の記念講演、橋本輝彦(桜井市)さん、岸本直文(大阪市立大学教授)さん、千田稔(県図書館長)さんが基調講演、寺沢薫さんが司会だった。

石野さんは纏向王宮以後の大王宮というテーマで脇本遺跡を話された。
橋本さんは古墳時代のオオヤマト・イワレ地域の古墳と集落。
岸本さんは弥生時代の後期から邪馬台国(やまとこく)にかけての年代論。そしてオオヤマト古墳論の被葬者論を論じられた。
千田さんは、持論の「アメノヒボコが邪馬台国に影響を与えている論」だった。

今回の衝撃は岸本先生の弥生時代から古墳時代への移行時の年代論だった。

まずは、ヤマト国(邪馬台国)は一世紀に形成された畿内政権と言われる。「ビックリしましたか」と言われるが、ハッキリ言ってビックリである。
岸本論によれば、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は奴の国のことだろうが(西暦57年)、魏志倭人伝にいう倭国王 師升の107年の朝貢は、ヤマトを中心に統一された倭国に寄ったとの論である。倭国はこの段階ではヤマトを中心に統一されていたとの論である。
漢鏡の製造時期は明らかだから、それと出土の土器を合わせて行けば年代論はこれで決着といわれる。C14の示す年代でそれが補強されるとのことである。
さらに魏志倭人伝に記された「倭国乱れる」は、その後の事件で、統一政権の対する反動、揺り戻しという論だった。岸本論によれば、卑弥呼はその中で共立されるのである。

ほんまにビックリである。岸本先生の本、僕も読んだ記憶あるけど・・・・

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シンポジウムの写真はピンボケで

石野、橋本、寺沢司会からの激しい批判となるのは当然である。
ヤマト国(邪馬台国)を100年も繰り上げるためには、出土の土器が合わないとの指摘である。
また、中国製鏡との整合性を言うが、製造時期と埋没時期はタイムラグがあるのは当然という石野先生の指摘もあった。

いかが思いますか。これは、もう邪馬台国が大和だ九州だなどというレベルは論ずるまでもないということだった。


岸本さんが提起された問題を、もう一点だけ紹介したい。
オオヤマトの大王級古墳の被葬者を考えると箸墓、西殿冢、崇神、景行、茶臼山、メスリ山の六基の前方後円墳が問題になるが、これは二系統で考えるべきとの論である。

塚口先生の講演を聞いたことがある、豊岡卓之・橿考研企画部長の講演も同じ論旨であった。
塚口先生は茶臼山、メスリ山は四道将軍などの墳墓と言われる。
豊岡さんは被葬者論には及んでいないが、墳丘の解説を明確にされ、黒塚などにも論が及んでいる。

岸本さんは、箸墓は卑弥呼、西殿冢は台与、行燈山(崇神)は男王で、聖俗の聖王との解説される。
茶臼山、メスリ山、渋谷向山は聖俗と俗との断定である。墳丘が画鏡形で円と方が断続している。

聖俗、誰が王かという悩ましい問題も残るが、魏志倭人では卑弥呼を王としている。

シンポジウムは意見が分かれた。考古学に命かけてる、邪馬台国は大和や・・ぐらいしか一致点がないようなスリリングな討論で、僕も解決したり、課題ができたりであった。

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発言要旨集は500円。桜井市の埋蔵文化財センターで手に入る。

by koza5555 | 2016-12-11 21:12 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)