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奈良・桜井の歴史と社会

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石上神宮のご例祭(ふるまつり)

10月15日(土)は石上神宮のご例祭。祭は10月1日の榜示浚から始まる。

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お旅所、田町(たちょう)の榜示立

10月15日、まつりの日に石上神宮へお客様をお連れすることになった。「お祭りの日に神社」、良さそうに見えてこれがなかなかのクセモノである。
お祭りを楽しみながら、そして巻き込まれないようにである。


石上神宮のご例祭である。
平安時代、白河天皇の永保元年(1081年)に勅使が御参向(ごさんこう)となり、走馬十列(そうまじゅうれつ)を奉納された故事に始まるとされる。渡御は大和の秋祭の中でも随一という壮麗さで、「ふるまつり」とも「田村渡り」とも称された。
① 御旅所の田町(たちょう)より、稚児が騎馬にて御幣を奉持して社参(午前8時半)。
② 午前10時から昇殿、献饌、普通神饌と合わせて稚児より荷前(穂のついたままの稲株)が奉じられ、幣帛が奉じられる。
③ 祝詞奏上、氏子献幣使祭詞奏上、舞楽、玉串拝礼があり、稚児に御幣が授与されて祭典は終了する。
④御魂代を御ほうれん(神輿)に遷御する。
⑤ 午後一時からお渡り。田村町までの4キロを渡御する。

この祭りに先立って、10月1日に執り行われる榜示浚神事が神社の性格を表し興味深い。
榜示とは中世荘園の成立の折、四至榜示を明記したとされる。そこに杭を打ち、石を置いたとのことで、それが今も地名として残る例も見られる。(たとえば生駒市高山)
祭祀に当たり、境内に榜示杭を立てる場合(鳥居もその一つか)と、石上神宮のように広く氏子地域に立てる場合もその役割は変わらない。
石上神宮の場合は、北郷、南郷で八カ所。中ツ道まで領域として、南西は備前橋(神社から8キロほど離れている)に立てるのである。

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備前橋の榜示立て
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ちなみに北郷は ①石上市神社、②岩上神社、③八釼神社(田井庄町)。④三十八神社(南六条)
南郷は ①春日神社(内馬場町) ②神明神社(川原城町) ③備前町南端、④田町、厳島神社となっている。(以上は石上大神の祭祀と信仰  白井伊佐牟著参照)

こんなことを話しながら、それから石上神宮の神剣のことを話しながら、ツアーを行う。
それにしても、さすがに軍事氏族の物部が奉じた神社である。神話に出てくる主要な刀が勢ぞろいだ。
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これが僕が考えた石上神宮の神剣の数々



このパネルで・・で、どんなふうに語るか。
いずれにしても、物部おそるべし・・かな
by koza5555 | 2016-10-12 22:03 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

石上神宮。神主、忌火(いんび)

石上神宮の勉強をしている。
10月のことだが、石上、大神というツアーを引き受けた。
軽めに考えていたが、募集要項を見て、あわくった。レベルが高いのである。

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石上神宮。この入口は現代にできたもの

まずは、石上神宮の元禰宜、白井伊佐牟(いさむ)さんの『石上大神の祭祀と信仰』が面白しそうである。

この本、「忌火職」から始まる。
石上神宮は長官職を神主とも忌火とも呼ばれたとされる。神主としての斎戒の要は、「忌火飯食忌慎」とされ、浄化されるため浄火、それによってかしがれる飯を食することが求められた。
「火鑽(ひきり)によって得た神聖な火にて煮炊きする」、これが忌火である。
さらに清浄を保つために「社の境内から出ない」ことが求められた。

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この境内だけの生涯かあ・・・僕にはできんなあ


これは石上にとどまらず出雲大社、三輪社、近江国三上社(祝など)などにも忌火の職号があり、他人と同火せず、常に清浄を求める生活が続けられたという。

お聞きしたところだが、石上神宮には忌火という制度は残されていないとのことではあるが。

「火鑽(ひきり)によって得た神聖な火にて煮炊き」という枠には当たらないが、神に伝えるということでは、様々な連想が成り立つ。

當屋が一年間の潔斎、祭の前夜からの儀式で絶食で神がかりに至るという美保神社(出雲)の祭とか、
百日行という厳しい潔斎を行う出羽三山の冬の峰の松聖の神への仕えかたなど・・・
今も残る長期の潔斎を経ての祭を取りおこなう神主の姿は、どの神社でも共通して行われていたと理解することができるのである。


時代は遡るが、あとは持衰(じさい)のことである。
魏志倭人伝は、航海の安全を祈る神主、持衰を紹介している。

「其の行来・渡海、中国に詣(いた)るには、恒(つね)に一人をして頭を梳(くしけず)らず、蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚(こうお)、肉を食さず、婦人を近づけず、喪人(そうじん)の如くせしむ。之を名づけて持衰(じさい)と為す。若し行く者吉善(きちぜん)なれば、共に其の生口(せいこう)・財物を顧(こ)し、若し疾病有り、暴害に遭へば、便(すなわち)ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹(つつし)まずと謂(い)へばなり。

忌火は持衰か、あるいは持衰の末裔が忌火とみるのか。
でも、航海に持衰が必要ならば、王権の神祭りにも忌火は置かれていたとみるべきだろうか

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最後も石上神宮・本殿も拝殿も

by koza5555 | 2016-08-04 00:27 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

石上神宮の禁足地

和田萃先生の編で「大神(おおみわ)と石上(いそのかみ)」という本がある。「神体山と禁足地」がテーマである。

石上神宮を考えてみた。
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拝殿・国宝に指定されている

 ご祭神は武甕槌(たけみかづち)神が出雲遠征で帯びていた神剣である。神武天皇東征の折、武甕槌神が熊野の高倉下命に降して邪神の毒気にあった神武天皇を蘇らせた霊剣でもある。これを崇神天皇七年に宮中より現地、石上布留高庭に移し、土中深く鎮め石上大神と称え祀ったのが当宮の創めと伝えられ、以後代々、物部氏が祭祀をした。
この布留高庭が「禁足地」とされている。

明治7年、宮司の管正友がここを発掘した。
社伝の通り神剣が埋められているか。発見できれば正殿に祀ろう。
そして盗掘対策である。放置して盗掘に任せていいのか。被害は出ているのである。
発掘は成功で神剣は出たのである。


天理参考館に勤務されていた置田雅昭さんが、「禁足地の成立」でここらあたりの事情を書かれている。

発掘の状況である。
30センチ掘ると瓦が敷き詰めてあった。これを取り除いて下を掘ると石囲いがあった。
地表下90センチの所に剣、勾玉、管玉などを発見した。

側壁は「一尺或いは尺余の石を積み重ね」とあるから、二段以上積んだ石室のようなものだろう。石室の壁が板石を積んだものか、円礫であったのかはわからない。所伝はないが、発掘地の標柱が石室材の転用とすれば、花崗岩の円礫である。

石室の構造、遺物の構成などが、古墳時代の竪穴式石室、横穴式石室と共通する部分がある。花崗岩を用いた竪穴系の特異な構造を推測させる。
この古墳は出土品からみて 古墳時代中期前半である。


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布留社と示された禁足地瑞垣


境内の造成にも触れている。

境内は斜面に造成された一辺が120メートルの方形平坦地にある。北から見ると10メートルの段があり、この段を取り巻くようにいくつかのため池、空き地が残されている。ため池はもともと濠のように段をコの字に巡っていた名残の用である。すなわち段もまた人工的に造成したことがわかる。  と置田さんは言われるのである。

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境内図

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これは神社東側の周濠だったかもとされるため池

境内や東側ため池からは古墳時代中期後半の土器(土師器)が発掘されている。神宮の境内で古墳中期後半の祭りが行われたことを示唆する出土品である。

一辺120メートルの方形古墳が、石室、墳丘も合わせて、神宮に転用されていったという論であろうか。

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境内を闊歩するニワトリ


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大神と石上(筑摩書房)


7月1日に、桜井カルチャーで、「山の辺の道」を講演。これはとっておきの話題だろう。
by koza5555 | 2016-06-01 16:23 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

内山永久寺と復元模型

廃仏毀釈の事を考えている。
桜井の所在する安倍文殊院、聖林寺、大御輪寺、平等寺などを語る時、廃仏毀釈が与えた影響はどうしても語らねばない。

廃寺となった天理市の内山永久寺のことも、そのつながりで触れるべきである。
この内山永久寺の復元模型が天理市役所のホールに展示されている。
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内山永久寺の復元模型

天理市杣之内町に所在する、内山永久寺は、五町四方(500m)もの広大な寺院でした。
平安時代の永久2年(1114年)創建したと考えられ、平成26年(2114年)には創建から900年を迎えます。かっては大和の日光とよばれ、多数の建物が立ち並ぶ壮大な寺院でありましたが、明治の廃仏毀釈によって伽藍は消滅し、優れた仏像や仏画、建造物が国内外に流出しました。現在は本堂池だけが残り、その面影をとどめています。
いまは無き内山永久寺を伝え残すために、天理大学歴史研究会の学生たちが復元模型を作製しましたのでこれを公開します。  天理市教育委員会


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残された本堂池

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内山永久寺の正門だった西門跡。杣之内から登ってくると門の跡は切通し状にになっている。

「優れた仏像や仏画、建造物が国内外に流出」とある。
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石上神宮に移設された同神宮摂社出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)割拝殿(国宝)が有名である。本堂の北側に建てられていた。

東大寺が所蔵しており、奈良国立博物館に寄託(現在非展示、4月22日現在では展示の予定はないとのことである)されている持国天・多聞天立像(重要文化財)は内山永久寺由来のものである。

室生寺の本堂で5月に真言八祖像が公開される。真言八祖像は内山永久寺にも存していたとのことだったが、廃仏毀釈で流出してドイツに渡り、第二次世界大戦の末期、ベルリン民俗学博物館にて焼失したとのことである。

内山永久寺の復元模型、天理市役所ホールにて来年の(2014年)の3月まで展示されるとのことである。一見したうえに石上(いそのかみ)神宮、内山永久寺跡などの散策はいかがだろうか。
by koza5555 | 2013-04-22 21:10 | 桜井・山の辺 | Comments(4)