ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

タグ:纒向遺跡 ( 10 ) タグの人気記事

桜井市立埋蔵文化財センター

毎日新聞の奈良版、木曜日の「ディスカバー奈良」は奈良まほろばソムリエの会が執筆している。執筆者を募ったところ、20名以上の方が手を挙げた。今週の当番は僕。「桜井市立埋蔵文化財センター」をとりあげた。地元ネタである。

「奈良時代や飛鳥時代のさまざまな遺跡を見学しました。もう一つ前の時代の遺跡を見たくなりまして桜井市にまいりました」と、埋蔵文化財センター前で東京から来られた方が話してくれました。

町じゅうが歴史博物館という桜井市。市内のあちこちで発掘された遺物がここに集められ、弥生時代の銅鐸、纒向遺跡から発見されたさまざまな遺物、古墳時代の埴輪などが、歴史の順に体系的に展示されています。
中でも、纏向遺跡で発見された邪馬台国時代の建物の柱跡にもとづき復元された大型建物の模型展示からは、邪馬台国の時代、日本の王権の幕開けを身近に 感じることができます。

古墳時代の盾持人物埴輪も目を引きます。盾を持った最古の人物埴輪として注目されていますが、なによりこの微笑みには誰もが引き込まれます。
こちらの展示室で古代の風景、古代の暮らしを楽しんでみませんか。
a0237937_5562397.jpg
メインを盾持ち埴輪にした


常設展は旧石器時代から飛鳥・奈良時代までが見学できる。桜井市から出土した資料だけで、日本の歴史を理解することが出来るわけで、これは桜井市民は自慢すべきである。
纒向遺跡コーナー、三輪祭祀のコーナーもあり、埴輪のコーナーもある。

纒向遺跡コーナーでは、尾張、北陸、中国、九州に至るまでの各地から運ばれてきた土器が展示されおり、この遺跡の全国的な中枢の役割が理解できるのである。
a0237937_5573311.jpg
纒向・発掘された大型建物の柱穴から復原された模型

埴輪の展示も充実している。盾持ち人埴輪の笑顔は特別である。2011年2月26日に「茅原大墓古墳」の現地見学会が開かれた。今度の記事は、あの時の感動をそのままの気持ちで書いたものである。

速報展は10月1日(日)まで開催されている。
大藤原京関連遺跡では上ノ庄から、弥生時代前期のほぼ完形な土器が出ているし、三輪遺跡では中世の池状の遺跡などが報告されている。
これはすでにブログに書いた。50センチ下の桜井 桜井埋蔵文化財センター

町じゅうが博物館の桜井、そのまん中の博物館が桜井市立埋蔵文化財センターだ。ぜひとも、おいでください。
歴史の認識が深まるにつれ、この展示室では次々と新たな発見をすることが出来る。場所はJR万葉まほろば線(桜井線)・三輪駅から徒歩10分、大鳥居の足元である。
a0237937_60211.jpg

by koza5555 | 2017-06-15 06:09 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

邪馬台国はどこだ バトルに出演

本日、12月29日の奈良新聞に4ページにわたり「第五回おもしろ歴史フェスティバル」が報道された。

第5回おもしろ歴史フェスティバル「歴史を愉しむ」(同実行委員会主催、奈良新聞社・国営飛鳥歴史公園・国営吉野ヶ里歴史公園共催、飛鳥京観光協会・県立万葉文化館・NTT西日本奈良支店協力)が去る10月9日、明日香村の県立万葉文化館と佐賀県吉野ヶ里歴史公園で開かれ、インターネット回線で結んで実況中継された。奈良会場は約350人、佐賀会場には約200人の歴史ファンが参加した。
第1部は、昨年9月に続く2回目の歴史バトル「邪馬台国はどこだ?」を開催。邪馬台国の所在地を巡り、研究者や歴史愛好家が論争を繰り広げた。
(奈良新聞から)

この歴史バトルに出演の依頼があり、10分間ではあったが、「邪馬台国=纒向」論をお話しする機会を得た。

a0237937_80597.jpg



僕の発言も紙面で紹介されている
a0237937_814160.jpg
 
纏向遺跡は広さが約300㌶あり、箸墓古墳やホノケ山古墳が含まれています。出土した土器は地の地域からの搬入土器が多く、農工具はほとんど出土しなくて、土木用の多くの工具が出土しました。
纏向遺跡は計画的に造られた最初の都市と考えます。この地は、ヤマト王権発祥の地であり、さらには邪馬台国が存在したとしても不思議ではありません。
 纏向遺跡から出土した大型建物が注目されます。直径32㌢㍍の太い柱が5㍍間隔で5本並び、間口が20メートルもありました。当時の最大の建物です。さらにこの大型建物と合わせて、3棟のたてものが中軸線を一直線にして並んでいました。また、建てられた年代は200年代初めで、250年くらいまで建っていたと推定されています。卑弥呼が即位したのが180年ごろ、亡くなったのが247年とされていますので、卑弥呼の宮殿だったと考えることもできます。
 近くにある黒塚古墳からは、三角縁神獣鏡が33枚、画紋帯神獣鏡が一枚出土されており卑弥呼が受け取ったとされる鏡が含まれていると考えられます。また古墳の石室の北側から出土したU字型鉄製品は魏から届けられた黄幢との見方もあります。
纒向遺跡を邪馬台国としてみることができる地下からの証拠が出ており、総合的に考えると、邪馬台国は現在の纒向遺跡のちにあったと考えます。


来年も邪馬台国、そして奈良の魅力、もっともっと発信していきたいものである。
by koza5555 | 2016-12-29 08:05 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

「邪馬台国はどこだ」。歴史バトルに参加しました

10月9日、インターネット回線で、吉野ケ里と奈良の万葉文化館を結んで、歴史バトル「邪馬台国はどこだ」(奈良新聞社など)が開催されました。
今年の趣向は市民代表の参加で、その一員として10分ばかりの時間をいただきました。

8月のある日に、纒向遺跡の名付け親、石野博信先生から電話をいただきました。
「邪馬台国の取り合いをする。あなた出てもらえますか」と、突然の電話が入った。まあ、それなりに快諾である。9月から10月にかけては「おとなび」で「卑弥呼の大和」ツアーを受けていたので、合わせての準備だった。

会場風景である。
a0237937_944921.jpg


僕は、こんなような話をしたのである。
a0237937_9454131.jpg

はじめに纏向遺跡を見渡します。
箸墓古墳、ホケノ山古墳、こちらが纒向石塚古墳。
ここが遺跡の中枢部、ここに大型建物跡が出現しました。

この遺跡の特徴は
●まずは大きい、広い。300haあります。
●各地方からの多数の搬入土器。吉備、東海、北陸、出雲、さらには九州から関東まで、纏向が広範囲なつながりを持っていた。
●土木工事用の工具が多く、農耕具が少ない。クワは無くて、スコップが出る・・一般的な環濠集落とは異なっていた
●箸墓古墳をはじめ、出現期の古墳が集中。古墳が多いところ、前方後円墳の始まりの地とされていますが

地下から出てきた膨大な遺物、地下構造物のあり方から、ここは日本の都市の始まり、都・宮の始まりではないか、具体的に言えば、ここはヤマト王権発祥の地、さらには邪馬台国畿内説の候補地として注目されるようになりました。

a0237937_9464322.jpg

① 桜井市は平成21年、7年前の11月に「纏向遺跡第166次調査現地説明会」。
この時の配布資料は、ネットで「纏向166次」と打ち込むと、今日でも、当時のままでプリントアウトできる。
桜井市のベストセラー、ベストヒットです。
 
纒向遺跡の名づけ親、初めからここを掘ってきた、こちらにみえる石野先生でさえ、
「纒向からは(太い柱は)出ない。無かったか、細い柱で大きな建物を建てる技術革新があったのか」などと書かれた直後。

② 幅20メートルで奥行きが12,4メートル。250平方メートルもあった。
発掘された柱穴(ちゅうけつ)から、柱の太さは32センチと15センチとされた。
32㎝の柱、東西・南北に一直線。南北でみると柱穴列は5本、その間隔が約5メートル。
その柱列(ちゅうれつ)の真ん中に15センチの柱がたち、これも東西に一直線である。
太い柱が一直線、その間に細い柱が一直線。太いの、細いの、太いの、細いのである。
太い柱は屋根を支える、細い柱は床を支える束柱とみることができる。

a0237937_947507.jpg

① BCDが一直線。しかも建物は方形である。
●まずは建物B 一辺が5メートル。
●そして建物C。南北8メートル、東西が5、2メートル。北の壁と南の壁の外側に柱穴がある。
棟持柱穴(むなもちばしら)と判断された。
屋根の一番高いところに棟木が通る、それを支える柱である。
●Dである。一番東から出てきた。
南北が20メートル、東西は12、4メートルである。
② B、C、Dは庄内式前半、三世紀初めの土器を含む整地層を掘りこんで柱が建てられている。だから建物は 3世紀前半には建っていたのである。

さらにこの遺跡には重要な特徴があった。
● 建物の隅の柱穴を切った溝 この溝からは庄内3式 250年
● 更に複数の柱穴を破壊する溝 これは布留0式の壺が。260年以降だ
つまり、この大型建物は 西暦200年から250年の間だけ存在した宮殿なのである。始まりが判り、終わりの時期が判っている。すごい発見である。

一直線に中軸線をとおす方形の建物で時期が明確。
200年~250年の頃。誰がいましたか、何がありましたか。この国に。
180年に卑弥呼共立、247年に卑弥呼以て死す。大いに冢をつくる。

それは邪馬台国であり、卑弥呼だと言いたいのです。この宮殿こそ卑弥呼が、「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑」わした場所だったのでないでしょうか。

a0237937_9484233.jpg

① 黒塚古墳、纏向遺跡のすぐ近くです。
盗掘や開発によって、原型を留めていない古墳も多いなかで、この黒塚古墳はまるでタイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。中世・近世は砦、お城として使われた歴史もある。
130メートルほどの前方後円墳で、3世紀から4世紀にまたぐものである。

② 棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡、棺の頭の前に画文帯神獣鏡が置かれた。
● その北側に不思議な「Ù字形鉄製品」。石室の大事な場所です。こんな所である。
● これが拡大図。二本のパイプは、叩いて丸めて作られた鍛造の鉄、正確な細工が施されており、弥生時代、古墳時代のものではきわめて特殊なもの。
● パイプには布の破片も付いていた。
● このÙ字形鉄製品は、魏書に記された黄幢(こうどう)との指摘がある。
「其の六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜ひ、郡に付して仮授せしむ」です。

このÙ字形鉄製品こそ、魏書に記された黄幢。
黄幢とは、黄色い吹き流しのような軍旗。
この絵です。同時期の遼陽の壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられるものが描かれていた。

さて、このU字形鉄製品、これが黄幢となると、黒塚古墳は、難升米のお墓の可能性が高まります。どうでしょうか。


考古学という学問を信じて、掘り出されたモノを信じれば、僕たちはその時代にたつことができる。
言い換えれば、到達した科学的な知見を信じてその道をたどれば、邪馬台国は畿内、ピンポイントで纒向に行きつくだろう。           


長々と読んでいただき、ありがとうございました。

飛鳥会場は350名もの入場。会場いっぱいの皆さんから暖かく、力強い反応がいただけました。
バトルの勝敗は?僕の心の中では圧勝だが、まあ、これは当事者の自己採点ということで(笑)
邪馬台国は、これからも勉強しながら、おりおり企画も作っていきたいとと考えております。




     
by koza5555 | 2016-10-10 10:22 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

纒向遺跡の大型建物

纒向遺跡の大型建物(トリイノ前)を、「今、古代大和は」(石野博信)で考えた。

5月6日(午後7時から、駅前エルトの2階)、桜井のカルチャーで「邪馬台国」の続編をお話しする。
前篇は「邪馬台国は大和」論で楽しく語らせていただいたが、今回の後篇は①纒向遺跡、②古墳、③女帝論を丁寧に具体的に語りたい。

a0237937_15263726.jpg
トリイノ前大型建物、復元模型

「今、古代大和は」(石野博信)が生々しいエピソード満載で、こんな話のためには強い味方である。

1971年に桜井市辻にアパートが建つことになり、続いて県営団地や纏向小学校が予定されて以来、五年間、纏向遺跡の調査が続きました。その結果、纏向遺跡は以前から有名なオオヤマト古墳地帯の、2・3世紀の大規模な「都市」と墳墓であることが判り、邪馬台国所在地論と重なって注目され、ついに調査開始から38年目の2009年(平成21年)に東西に一直線に並ぶ3世紀の大型建物群が桜井市埋蔵文化財センターの調査で出現しました(あとがき)。

桜井市の橋本さんからお聞きしたことがあった。
「纏向遺跡の中枢施設として可能性がある場所は二ヶ所考えてきていた。それは珠城山古墳の北方とツジトリイ前地域だった。珠城山古墳の北側は開発の規制がかかっていて急がなかったが、巻向駅の西方のトリイ前は宅地開発の話が出てきたので、こちらが急がれた」(橋本輝彦氏談)。

a0237937_15284048.jpg
トリイノ前、大型建物の発掘図というか、パワーポイントの出だし

 2009年2月から桜井市埋蔵文化財センターは、初めて纏向遺跡の中枢地を探す学術調査を開始した。纏向遺跡は二世紀末に突然現れ、四世紀中ごろに突然消える人工的集落でその規模は4万平方メートル(原文ママ)と巨大だ。しかし、160回をこえる発掘調査によっても中枢地と思われる建物群は見つからず、古墳を造るための労働者のキャンプ説が登場するほどであった。
 3月18日、ついに小さな祭殿の周囲に大きな建物群と柵囲いの一端が現れた。時期は三世紀前半、まさに邪馬台国と女王・卑弥呼が都を定めた時である。建物群は方位と柱筋を揃えて、整然と並んでおり、まるで飛鳥時代以降の宮殿のようだ。(二上山博物館広報 2009年4月号)

11月10日、桜井市纏向遺跡で「3世紀前半の大型建物が見つかった」と発表された。3世紀前半は倭国の女王ヒミコが都とした邪馬台国の時代である。一気に邪馬台国大和説が盛り上がり、あたかも決着したかのような雰囲気になった。
 それは三世紀前半の全国最大規模の建物であるだけでなく、前回の調査で分かっていた3棟の建物の中心と一直線に並ぶという計画的建物群であることが根拠の一つである。4~6世紀ヤマト王権の時代、つまり、古墳時代の全期間でも、これほど計画的な建物配置はない。(二上山博物館広報2009年11月号)

a0237937_15294322.jpg
今、古代大和は

by koza5555 | 2016-04-24 16:02 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

纏向遺跡、トリイノ前地区の大型建物群跡は卑弥呼の居館か

なんといってもツアーの名称が「邪馬台国 畿内説」である。
「名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む」。
卑弥呼が「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑」したのはどこか、「男弟有り、佐(たす)けて国を治む」所はいずれか、そこを語るのである。
今回はそこに踏み込むつもりで、このツアーを受けたのである。

a0237937_22573475.jpg
トイリノ前の大型建物発掘あと

桜井市教育委員会は平成21年(2009年)11月に「纏向遺跡第166次調査現地説明会」を行った。
この時の資料は今でも、ネットで「纏向166次」と打ち込むと当時のままで手に入れることが出来る。

a0237937_22593654.jpg
建物C・Dの構築時期は3世紀前半の庄内式期古相段階(庄内式前半の土器を含む整地層の上から掘りこまれている)。

そしてその建物の廃絶は、柱穴を切るSD-2000(庄内3式 東北の角)やSM1001(庄内3式から布留0式  建物の東側)との切り合い関係から3世紀中葉の庄内式3式の時代とみられている。

これを西暦で換算すろと「200年から250年の間の宮殿」、そんなことになるのである。
卑弥呼共立は210年ころ、239年に難升米を魏に使いとしておくり、247年に亡くなる卑弥呼である。
歴史と場所のピンポイントである。
卑弥呼はここで寝起きし、「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑」わした場所だったと、僕は断定したい。

当時は間違いなく、一代一殿、一代一宮である。
大和王権は藤原宮に至るまで、一代一宮であることから見て、それは当然である。

こうなると台与のご殿はいずこか、それも纒向で出てくるのだろうか。

さらに南側の柱列を壊す形で、南北約4.3m、東西約2.2mの土坑が発見されている(上の図の赤丸)。
ここから桃核2769個など多量・大量の動物・植物遺存体が出土している。
桃は食用に適さない未成熟のものも含まれており、祭祀に関わる廃棄土坑とも見られている。

この近所から、百メートルほど南、メクリ地区からでてきた、木製仮面もなかなか気になる。
纒向遺跡149次調査において、庄内1式(3世紀前半)の土坑(池の中)から出土したものである。
長さは約26cm、幅約22cm。アカガシの広鍬を転用して作られたものとみられる。木製の仮面としては国内最古のものですある。

「邪馬台国 畿内説」、このツアーは呻吟したが、だんだんと楽しみになってきた。
期日は2月10日(水)、17日(水)、25日(金)であるが、僕は10日と25日を案内する。
こちらのリンクでおとなびジパング倶楽部のサイトである。 「邪馬台国畿内説」
by koza5555 | 2016-01-21 23:18 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

日本列島人の歴史

「日本列島人の歴史」 斉藤成也著  「岩波ジュニア新書」である。

日本と日本人の成り立ちをDNAや言語学で研究してみようという本である。
a0237937_20514715.jpg

①初めに日本の歴史区分は

ヤポネシア時代、
ハカタ時代
ヤマト時代
平安京時代
江戸・東京時代

どうでしょうか。納得いきますか。

②続いて日本人はどこからきたのか、これが論じられる。
「二重構造説」というのも勉強させていただいた。

旧石器時代、日本列島には南(東南アジア)から渡来してきた。これを縄文人という。
ハカタ時代に入ると北東アジアから大挙、しかも繰り返しの流入が発生する。
北部九州、日本海沿岸、近畿地方などに入ってきた新来者は先住民である縄文人と混血を繰り返してヤマト人が誕生したとされる。
この混血から外れたのがアイヌ人とオキナワ人で、その証拠にアイヌ人とオキナワ人はDNAでつながりがあるというのである。
a0237937_20493196.jpg
DNAで見るとこんな図になるそうである

始めの渡来は縄文人。
続いて弥生系新渡来人、それが縄文人と混血したというわけである。
これをさして「二重構造説」というとのことである。


③最近の研究によれば、日本列島におけるコメの栽培は紀元前1000年位までさかのぼるとのことである。
もともとは紀元前500年位からと言われていた「弥生時代」の始めが500年遡ることにもなるのである。
稲作が200年位のうちに九州から東北まで、驚異的なスピードで伝えられていったとの従来の見解は見直されるだろうとのことである。

纒向遺跡や巨大古墳が密集する三輪山周辺に西暦二世紀頃に国の中心が移ったことも間違いないとされ、ハカタ時代は3000年前から1800年前まで問うことである。1200年なれば60世代ほどを重ねるわけで、十分な成熟期間と言えるとのことである。

1200年続いたハカタ時代、縄文人との混血がすすみ、関東までを含む生産力の向上もあり、政権は2~3世紀に国の中心を求めて東に移動、進出したとみるべきで、神武東征もその古い言い伝えが生き続けた名残とされるのである。


これからはハカタ時代1200年、ヤマト時代は500年と記憶して、この言葉も使いこなせるようにしたいものである。
by koza5555 | 2015-10-28 21:03 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

邪馬台国と卑弥呼 「研究最前線 邪馬台国」 

今日は邪馬台国と纏向遺跡のことである。

平成21年11月14日に桜井市のJR巻向駅の西側で、大賀建物群の跡を発掘したとの現地説明会があった。
a0237937_20592213.jpg



平成22年に「いま、なぜ邪馬台国か」というシンポジウムを文化庁と東京江戸川博物館の共催で行われていて、これをまとめた本がある。題して「研究最前線 邪馬台国」(朝日新聞)という。
a0237937_211023.jpg


纒向遺跡で東西に基軸を持つ大型建物群が発掘され、2009年11月にこの現地説明会が開かれたが、その直後のシンポだった。

始めに文化庁の禰宜田佳男氏が邪馬台国説の論争史を紹介した。

その概要を紹介すると、、
大正13年に笠井新也が、卑弥呼の時代は崇神の時代で、崇神の姑(おば)であるヤマトトトヒモモソヒメが卑弥呼とみなし、箸塚古墳が卑弥呼の墓と考えた。

邪馬台国の研究は戦時中は途絶えるが、昭和22年に榎一雄が、伊都国を起点に放射状に行程を読み、邪馬台国は筑紫平野と考えた。

昭和36年、小林行雄が論争を総括していて、
①古墳から出土する銅鏡に摩耗しているものがあることから、弥生期から機内には道鏡があり、伝えられてきていた。
②古墳から出土する三角縁神獣鏡が「銅鏡百枚」に当たるとして邪馬台国は畿内とした。

論争は、鉄器がその後に問題となり、
「七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う」の「倭国の乱」が取り上げられる。
この乱を契機に、倭国の中心が北部九州から畿内に移動し、鉄器もその技術も畿内に移動するという論である。

その後も論争は続き、冢(ちょう)も課題となった。
「卑弥呼、以に死し、大いに冢作る。径は百余歩」、とあり、北部九州にはこれに当たるものがない。

邪馬台国東遷説も紹介されている。
北部九州の邪馬台国が畿内に移動したとの論とか、現在では、北部九州勢力が畿内に移ったことを含めて議論されているとのことだった。


パネラーは4名で、
九州派は高島忠平、
大和派は石野博信、西谷正、
それから歴史学者として吉村武彦である。

邪馬台国、九州説論者の本は最近は読む機会がなかったので、高島忠平さんの論文は興味深く読んだ。

高島さんの論拠は4点で
①鏡は後漢鏡のもので、九州から多く発掘されてといる。
②魏志倭人伝にいう楼閣などの記述が北部九州の環濠集落に一致していること。
③中国との交流を示す遺跡が北部九州に数多くあること。
④鉄の流通は九州に集中していること。

そして候補地は特定しないまま、邪馬台国が九州と論じているのである。
高島さんの結論もおもしろい。
「一系的な政治権力で日本列島の国家が成立してくるとは考えにくい。いわば東遷説、近畿説もそうですが、どこかに一元的に政治権力が発生したというわけではない。しかし、最終的にヤマト王権が各地に発生した王権との抗争を経て六世紀には統一国家の成立の覇権を握った」とし、「一系的に国が出来上がると見たくない」とのことである。
高島先生は「邪馬台国は近畿になければそれでいい、ほかにどこにあってもいい」というほどの、一系的国家、一元的政治権力論に反対されていた。

僕の名古屋時代の友達は、強烈な邪馬台国九州論者であり、「飛鳥時代以前の大和の歴史はすべて作り事」と言うのであるが、大本はこんな形だったのかとよく分った。
「統一国家の覇権を握ったのは六世紀」・・・継体天皇の時代以降のことを言っているんだろうか。

なるほど、これもおもしろい話ではあるが、奈良に住み、奈良を勉強し、奈良をガイドすると、それはそれで、ちょっと違うと思えるのである。

それ以前の奈良の歴史をどう考えるか。日本と大和の関係をどう見るかという問題である。
たとえば奈良盆地に集中している巨大古墳群、そしてそれに似せた古墳が関東から九州にまで広がる前方後円墳の訳を聞きたいものである。
やはり、邪馬台国の前後の時代に、共立とはいえ倭一国に号令できるような大和の王権が誕生していたとみるのが自然である。

箸墓とか、崇神天皇陵・景行天皇陵とされる山の辺の道の陵の前に立てば、これが国家的事業であることは明白である。
大和の政権がこれを大和に作った・・北九州にあった政権が、わざわざ古墳、奥津城を大和に作ったなどと言うことはあり得ない。

さて、話を本(ほん)の方に戻して・・・パネルディスカッションが始まり、初めに邪馬台国以前の北部九州と大和が議論となる。
九州なら伊都国・奴国で、大和は唐古・鍵遺跡である。

論点の二つ目は「倭国の乱」で、

三点目は「なぜ卑弥呼は王に立てられたのか」

「卑弥呼の墓」が四点目となっていて、それぞれ攻防がある。

それぞれの問題で、大和派、九州派のポイントや弱点もあり、僕も、これで決まりという感じがしないのである。
やはり、論争最前線というところか。

本の最後は、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏が、纏向の発掘、前年の11月に現地説明を行った大型建物などについて触れている。

a0237937_2142935.jpg
  柱の抜き跡から想定される大型建物群


読後感で言えば、「倭国の乱」を契機に、倭国の中心が北部九州から畿内に移動したという東征・東遷説が魅力的である。

文化庁の禰宜田佳男からは、「邪馬台国の候補地・・・遺跡で史跡になっていない遺跡があることも事実です。そうした遺跡を将来にわたって保存することは重要です。そうしなければ、邪馬台国所在地論争を考古学的に決着させる可能性のある芽を、完全に摘み取ってしまうことになるからです。」とあった。
その後、纏向遺跡が2013.10.17(平成25.10.17)に、「史跡名勝天然記念物」として史跡に指定されたことはご承知の通りで、種別は「弥生後期、古墳時代前期」、それから地図の指定がない(範囲の指定がないということ)ことが大きな特徴である。


「おもしろ歴史講座」を桜井市で続けている。全6回の講座であるが、来春には纒向遺跡とか大神神社を取り上げる予定である。
今日もブログでここらあたりを書いてみた。
それにしても「邪馬台国と纏向遺跡」、もう少し勉強しないと「おもしろい」話になりそうもなく、僕も悩みが深い。
by koza5555 | 2015-06-18 21:55 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(2)

邪馬台国と大和朝廷・・武光誠

突然、邪馬台国のことである。
「邪馬台国と大和朝廷」を読んだ。武光誠明治学院大学教授の著作である。少し古くて2004年の本である。

a0237937_948748.jpg
纒向遺跡、2009年11月14日の大型建物の発掘説明会

纏向こそ邪馬台国でしょう?
松本清張を愛読した僕は「邪馬台国は九州説」だったが、今は大和説、それも纒向説である。
たくさんの本を読んだし、講演もきき、現場見学会の説明を聞いているうちに、意見は変わったのである。

そこで、二つのことを考える。
①魏志倭人伝に邪馬台国が書かれている。日本書紀の編者は魏志倭人伝を含む三国史を見ていたことは確実と思われるのに、なぜ邪馬台国と卑弥呼に触れなかったか。
②大和朝廷が大和の纒向に出現したことは明らかで、その立場からみると邪馬台国と大和朝廷は直接つながっているとみるのが自然であるが、なぜ日本書記はそれを触れていないのか。

こんなことをいつも考えてきたのである。

武光さんは「邪馬台国は九州」説である。
邪馬台国連合国は、ほば福岡県の版図にまとめられるし、武光さんは「投馬国は遠賀川上流域のどこかにあったと考えている。投馬国から川舟と陸路を用いて筑後川流域のどこかにあった邪馬台国に着く」(p122)という九州説である。

a0237937_1074226.jpg

邪馬台国と大和朝廷

「邪馬台国の歴史は、・・・北九州の小国群と中国との交流にまつわるものなのである」(p294.巻末)とされる。
同時に武光さんは「現在のところ、邪馬台国論争において、まだ九州説が多少有利であろう。しかし、考古資料によって一つ一つ隙間を通じて、大和説が多くの人にうけ入れられるようになっていく可能性がある」(p268)との用心深い発言もされるのである。

結論は別として、僕はこの本で深く感じたことがあった。
それは、「日本書紀になぜ邪馬台国が書かれなかったか」という僕の疑問に答える武光さんの論である。

「聖徳太子が邪馬台国を消した?」が特別におもしろい。
邪馬台国が大和にあったという立場で考えてみて、「大和朝廷が卑弥呼を自分たちの先祖として扱わなかった点に関しては、一つの答えが可能である。王家(皇室)が、中国に朝貢した卑弥呼の行動を好ましくないものと考えたとする推測である。
日本書紀の編者は『二十四史』(魏志倭人伝を含む三国史も含まれる)を見ていたことは、明らか」(p269)として、書紀になぜ邪馬台国を書かれなかったかを検証する。

武光さんは「聖徳太子の時代に、日本の外交策の大きな転換がある」として、中国との対等の立場で国交を開こうとしており、朝貢外交をすすめた邪馬台国(卑弥呼)や倭の五王を否定したかったのではないか、それを引き継いでいるのだと推論する。
日本書紀は邪馬台国の伝承を意図的に削ったということである。

これはおもしろい論である。神からつながる大和朝廷が中国に朝貢することはあり得ないとする本居宣長論の変形のようにも思える。

武光さんは邪馬台国は九州にあり、邪馬台国連合は四世紀に大和朝廷によって征服・併合されたという論(p265)に立たれている。
この論なら、「朝貢した邪馬台国を大和朝廷が征服した」と日本書紀になぜ書かれなかったか、そういう問題は新たに生まれるが、当時の日本書記の編者の苦労と工夫が感じられる推論である。

それにしても資料を論じ、推論を重ねても、結論はさまざまである。武光さんが言うように、最後は「考古資料によって一つ一つ隙間を通じて、大和説が多くの人にうけ入れられるようになっていく可能性」(p268)に期待するということだろうか。

6世紀から7世紀、大和朝廷が中国との関係をどんなふうに見ていたかをよく考えて、古事記・日本書紀の時代に邪馬台国がどのように論じられたか、それを考えるべきと教えていただいた。

武光さんのご本を読んだのは初めてである。僕が今日論じたことは、あくまでも「邪馬台国と大和朝廷」(平凡社新書2004年5月刊)の範囲である。
by koza5555 | 2013-08-30 18:41 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

纒向学セミナー

桜井市纒向学研究センターが7月6日に桜井市図書館ホールで纒向学セミナーを開催した。
奈良大学の坂井秀弥教授の「文化遺産 纒向遺跡 の意義とその将来」が講演のテーマである。

a0237937_845211.jpg
いつも明るい桜井市の図書館ホール

「3世紀初めから4世紀初めにかけて営まれた、ほかに類を見ない大規模な遺跡・・・周辺には箸墓古墳など出現期の古墳が多数存在し、・・・大和政権との関わりのある遺跡と考えられわが国の古代国家形成を考える上で重要な遺跡」(平成25年6月21日 文化庁発表)とされた 纒向遺跡の評価から講演は始まった。

邪馬台国の所在論についてもお話がある。大和・柳本・纒向古墳群、さらに茶臼山・メスリ山古墳などをみれば、この周辺でヤマト(大和)政権が生まれたことは確実で、その先行として、あるいはそのものとして邪馬台国があったとの見解を述べられた。


今度のお話で目を見張ったのは「纒向遺跡をどうするのか」という提案であり、その運動のあり方を述べられたことである。
前段はレジュメでの講演だったが、ここからはパワーポイントである。
a0237937_88521.jpg
指定地における遺跡の内容がわかるような復元整備、公園化

a0237937_8102252.jpg
平城京、金沢、太宰府などの各地の経験を踏まえた提案。これは先行する国の特別史跡、吉野ケ里遺跡

a0237937_8112632.jpg
纒向遺跡の周辺は、「山の辺の道」や大神神社や檜原神社などがあり、これを一体として観光の名所にすることが大切と指摘。坂井教授はここら辺りは力が入ったお話しぶりである

坂井秀弥教授の「研究概要」を奈良大学のHPで拝見すると・・
「・・・もう一つの柱は文化財保護行政論です。とりわけ埋蔵文化財の保存と活用、文化財と地域づくりについての実践的な調査研究を進めたいと思っています」とあった。

纒向遺跡の先行きの可能性が垣間見えるセミナーだった。

今後の纒向学セミナーも期待したい。
by koza5555 | 2013-07-09 09:02 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

纏向遺跡が史跡指定

今日(6月22日)の朝刊で纒向遺跡(桜井市)が国の史跡指定を受ける と報道されている。

纒向遺跡など11件を史跡指定へ
 文化審議会(宮田亮平会長)は21日、邪馬台国畿内説の最有力地とされる「纒向(まきむく)遺跡」(奈良県桜井市)など11件を史跡に、旧城山国民学校校舎など4件の「長崎原爆遺跡」(長崎市)を含む13件を登録記念物にするよう下村博文文部科学相に答申した。
・・・・
近く答申通り告示され・・・る。
 纒向遺跡は3世紀初頭に出現し、4世紀初めまで営まれた大規模な集落跡。整然と配置された建物跡や、東海地方など他地域の土器が出土。周辺には卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳もあり、古代国家形成期の重要な遺跡と評価した。(産経新聞電子版)



纒向遺跡は40年も前から発掘がすすめられてきており、遺跡内の箸墓古墳や遺跡一帯から、日本各地との交流を示す大量の土器や、祭祀関連の遺物が出土してきた。
2009年には大規模な掘立柱建物跡などが発見されており、古代国家の中枢が置かれていたことは確実となった。
a0237937_1502859.jpg
2009年11月14日、大型建物遺跡の現地見学会

この建物遺跡から桜井市埋蔵文化財センターはこのような建物を想定して模型も作成している。
a0237937_1512218.jpg
桜井市埋蔵文化財センターは写真撮影可が嬉しい。触ってはダメという掲示(笑)がされているが

邪馬台国論争は江戸時代の新井白石、本居宣長の頃から現今まで延々と300年続いているわけで、その主要な論題は位置論、畿内説と九州説とに分かれて論陣が張られてきている。

纒向遺跡がこのたびの史跡指定で卑弥呼のいた邪馬台国と決まったわけではないが、指定を契機にさらに史跡の保存、史跡の発掘・調査がすすめば3~4世紀の古代王権の姿がますます明らかになることが期待できる。

それは桜井市民にとっての期待や喜びだけではなく、日本の喜びだと思うのである。
史跡指定を心から喜びたい。
a0237937_1545338.jpg
纒向遺跡の地図。桜井埋蔵文化財センター
by koza5555 | 2013-06-22 15:58 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)