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聖林寺・西内酒造・等彌神社

9月16日(水)は聖林寺、西内酒造、等彌神社のウォークだが、これは桜井が誇る「珠玉の三人」が解説するというウォークで注目してほしい。

午前10時30分桜井駅(南口ロータリ前)集合で、路線バスで聖林寺に。
国宝、十一面観音菩薩を拝観し、寺内で昼食をとる。
下(しも)の西内酒造にウォーク。酒蔵の隅々まで見学し試飲を行う。
その後、メスリ山古墳と兜塚古墳を遠望、解説して。
等彌神社にいたり、正式参拝と境内の散策、等彌の霊璽 遥拝所の見学を行う。

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聖林寺、こんな景色の見えるお座敷に

回るところは、みなさんがご存じの所ばかりだが、今度のツアーの目玉は解説者のすごさ。
聖林寺は倉本明佳ご住職
西内酒造の酒蔵見学は西内隆允店主
等彌神社は佐藤高静宮司

聖林寺・西内酒造・等彌神社を「寺川沿いの珠玉の三人衆」の解説があるわけで、これは史上最高の布陣なのである。みなさんは「三人衆」なんて、思ってないですよ、僕が勝手に命名したものですから(笑)。

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西内酒造。酒蔵を隅々まで

何が見れるか、どんなお話となるのか、僕もそれが楽しみで、今日は紹介できない。
16日(水)のことで、日程は迫まっているが、ぜひぜひお誘いしたいと、再度の紹介である。

9月16日、集合時間は午前10時30分 桜井駅南口(東側ひろば)集合で、解散は桜井駅で15時30分を予定している。

持ち物は弁当、水筒、帽子、雨具。滑りやすい道もあり、歩きやすい靴でお願いします。
歩く距離は6㎞。
拝観料・経費として1700円(聖林寺拝観料と食事会場代700円、等彌神社志納金300円、その他経費700円(大人の学校経費・保険料・資料代)をお願いします。
また、バス料金は230円、これは各自でご用意お願いします。

申し込みは、このブログの「鍵コメ」に、メールならkozaburo@cg8.so-net.ne.jpにお願いします。

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等彌神社の境内・歌碑の一つ。保田與重郎の歌を棟方志功が描いた
by koza5555 | 2015-09-10 00:25 | 桜井・多武峰 | Comments(2)

西内酒造の酒蔵

「聖林寺~西内酒造~等彌神社」というウォークを計画した。
9月9日(水)と19日(土)である。
19日(土)はNHKのカルチャだが、9日(水)は「雑賀さんの歴史ウォーク」ということで、一般の申し込みも受け付ける。

自讃だが、「このウォークはすごい」、何がすごいかというと、解説する方がすごいのである。
聖林寺は倉本明佳ご住職、西内酒造の酒蔵見学は西内隆允店主、、等彌神社は佐藤高静宮司という具合である。
今回の僕は道案内だけ、頼みに回った努力(笑)を皆さんに買ってもらう。

桜井駅に集合して、聖林寺までは路線バス、下(しも)からしばらく歩いて到着である。
ご本尊の子安地蔵尊、十一面観音菩薩像を存分に拝観したのち、持参の弁当という計画である。

午後は歩いて下(しも)の西内酒造に。談山神社のお神酒はこちらである。

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西内酒造

西内隆允さんに酒蔵を案内していただき、清酒醸造の道筋を教えていただく。

まず米を蒸す。そして麹を作らねばならない。酒母を作り、もろみを管理し、搾る…そんな醸造の工程と工夫を酒蔵でおききすることができる。

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酒蔵。阿弥陀車も残されていた。クレーンであるが、正面から見ると阿弥陀さまの光背を思わせるからの名という。

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麹室(こうじむろ)も拝見できる。むしたお米に麹を混ぜ込む作業台である。雑菌は厳しくカット

西内さんの自慢は井戸水。北山の伏流水とのことで、すべてを井戸水でまかなっている。
この井戸水も味わい、試飲もして、これは本格的な酒蔵訪問である。


等彌神社へは談山神社の町石を数えながらの下り道ウォークである。

等彌神社に到着すると・・・
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等彌神社 一の鳥居

新たにできた一の鳥居はこの春に伊勢神宮から移されたものである。一昨年の式年(しきねん)遷宮に伴い建て替えられた内宮正殿(しょうでん)の最も近くにあった中重(なかのえの)鳥居を譲り受けたとのことである。

等彌神社では拝殿に上がっての正式参拝をおこなう。そのうえ、佐藤高静宮司の本格的な講話も予定している。

お天気の具合を見ながら、神武天皇ゆかりの「鳥見の霊畤」に

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最後は棟方志功の歌碑
「鳥見山のかの面この面をまたかくし時雨はよるの雨となりけり」保田 與重郎の歌である


桜井駅南口、10時30分に集合で、桜井駅で午後4時頃に解散。お弁当は持参で1800円の参加費である。歩行距離は5キロ程度である。お誘いしたい。
by koza5555 | 2015-06-30 16:56 | 桜井・多武峰 | Comments(1)

「十一面観音巡礼」と白洲正子

先日、聖林寺の十一面観音菩薩像のことを、まほろば文化センター(桜井市)の歴史講座でお話しした。

十一面観音菩薩像のことを、聖林寺に至る経過や道、十一面観音菩薩像、そのものについての話である。

この話の中で、白洲正子の「十一面観音巡礼」のことも触れさせていただいた。
大御輪寺の縁の下に捨て置かれた十一面観音菩薩像をフェノロサが発見して、聖林寺に移したと書かれているが、「白洲正子はこんな話を誰に聞いたんだろう」というような紹介である。

話しながら、白洲正子が気になった。それで、「十一面観音巡礼」を改めて考えてみた。読み直してみた。

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再発見、満載だった。

ご承知の通り、白洲は「十一面観音巡礼」を、聖林寺から始めた。
まずは、見開きの写真が聖林寺の十一面観音、ピシッとした横顔である。
そして巻頭は「聖林寺から観音寺へ」である。
「いまこの世に生れ出たという感じに、ゆらめきながら現れた」、「世の中にこんな美しいものがあるかと、私はただ茫然とみとれていた」と初見の思いを語った。

その後に大御輪寺から移された経緯を語るのであるが、白洲正子が語りたかったのは、あくまでも「世の中にこんな美しいものがあるか・・・」である。

大きな十一面観音が、
「十一面観音には、時々このような大作が見られるが、・・それは疫病などがはやった際に町の中を車に乗せて練り歩いたからで、遠くからも拝めるように、なるべく大きく造る必要があった」というくだりがあり」、これを遊行仏というらしい。
「空也上人絵伝」には、観音様が山車の上で市中を練り歩く絵があるとのことである。
これはお練りにつながる、遊行僧という像の姿を取り入れた長谷寺の十一面観音につながるはなしで、この遊行仏は参考になる。(P159)

十一面観音が地蔵菩薩とともに祀られていることの紹介も各所にあったが、これは天照大神と習合した十一面観音は天をあらわし、地をあらわす地蔵菩薩と対になったとみられるとの論が紹介されている。儀軌に寄らない日本の風俗と見るべきだろうか。とすると、各所にみられるこんな祀り方は、中世からのものとみるべきだろうか。

「見ることによって受ける感動が、仏を感得する喜びと、そんなに違う筈はない。いや違ってはならないのだ、と信じるに至った」として、白洲正子は見仏の感動も述べている(P267)。


「十一面観音巡礼」の最後も聖林寺である。
「明日は聖林寺にお参りし、ほんとうにひと廻りして巡礼を終ることにしよう。そう心に決めたら安心して、ぐっすり眠ることが出来た」として、白洲正子は十一面観音巡礼、聖林寺から初めて聖林寺で終えている。


奈良で美仏を考えるツアーを組むなら、聖林寺の十一面観音を軸に組み立てるべきことと考えさせられた、それが「十一面観音巡礼」の読後感である。

「美仏に出会う旅なら まず聖林寺」、フェノロサも和辻哲郎も白洲正子も・・これらの人々はそう考えたのである。
by koza5555 | 2015-05-13 10:36 | 読書 | Comments(0)

聖林寺十一面観音さまは怒っていますか?

一時間ほどだが、聖林寺と十一面観音菩薩のことをお話しする。

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 写真は聖林寺からお借りしたものです

聖林寺十一面観音像は、760年頃に東大寺の造仏所で作られたとされる。この十一面観音には兄弟仏があることはよく知られている。京田辺の観音寺である。白洲正子は「十一面観音巡礼」の冒頭を「聖林寺から観音寺」で始めており、その一体性と相似に触れている。

いずれも東大寺の造仏所で作られ、共通の見本があったのではといわれている。

「十一面陀羅尼と呪」を人格化とした観音が十一面観音であり、経典に形が示されている。

井上一稔同志社大学教授がかって、帝塚山大学で聖林寺の十一面観音像について講演されている。
それによると、「十一面観音を作るには、枯れていない良質できめ細かい白檀を用い、身長は一尺三寸という小像でよいと書かれており、また正面の三面は菩薩面、左側の三面を瞋面とし、右側三面が菩薩面に似ていて牙が上に突出している。また後方の一面は大笑面で、頭上の一面は仏面であるとして、十一面観音の頭上面を規定しています」と紹介しています。

さらにこれらにはモデルがあり、大御輪寺に行く、京田辺にも出るということで、東大寺のなかにもこれらの兄弟仏が残されているという指摘があり、二月堂のご本尊などのお姿が思い起こされる。

誰が作らせたか、これも重要で、天武天皇の皇子、長皇子の皇子、文室真人知努(ふんやのまひとちぬ)が作らせたとされる。

智努は当時の仏教界の退廃を嘆いて警鐘を鳴らしたことを続日本紀が紹介している。ふざけた僧侶をやめさせよ、悔過作法を真面目につとめさせよと天皇に奏上するのである。

懺悔なしには願いを聞いてくれない十一面観音、奈良時代から悔過の本尊として知られていた。
聖林寺の十一面観音、作らせた智努の意気込み、怒りが投影されたということだろうか。

和辻は、こちらの十一面観音像を「神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさが現れている」と評しているが、井上先生は「もともと悔過を受ける仏」であり、「怒っている」と言われるのである。

いかがでしょうか。どうでしょうか。

奈良県立美術館、「奈良礼賛~岡倉天心、フェノロサが愛した近代美術と奈良の美」のレクチャールームで5月2日(土)午後3時30分からお話しする。
ぜひ、おいでください。
by koza5555 | 2015-04-28 18:47 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

聖林寺 十一面観音菩薩像

聖林寺の国宝・十一面観音像の来歴を調べて、産経新聞(7月19日)奈良版、「奈良再発見」にそのことを書いた。

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桜井市 聖林寺

和辻哲郎は、古寺巡礼で「この十一面観音像は神仏分離・廃仏毀釈の時期に、草むらに打ち捨てられていたのを、通りかかった聖林寺の住職が発見して寺に安置したという伝承」を語っている(大正8年)。

拝観してみればよく分るが、この十一面観音菩薩像が、草むらで雨露にさらされていたものでないことは明白である。
和辻は、廃仏毀釈の激しい嵐を形容するために、こんなふうに記したと・・僕はいつも解説してきたのである。
でも、「それだけだろうか」。「そんなヒントを、誰が和辻に与えたのだろうか」、これが気になっていたのである。

そんなことを考えていたころ、地元の吉田製材の社長が、「聖林寺の十一面観音は桜井の橋本にいたと言われている」と、教えてくれたのである。

「聖林寺の十一面観音は我が家におられた」という、橋本の米田さん宅を訪ねたのである。お話を聞き、資料を見せていただいた。
なにしろ国宝の来歴のことである。関係する方にもご意見をお聞きして、間違いなかろうという結論に到達することができた。

ここらあたりのことは、「再発見」に詳しく書き込んだ。

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産経新聞。7月19日付、奈良版。上段だけであるが・・・

「聖林寺の十一面観音様は、一時期だが我が家におられた」と桜井市橋本の米田昌徳さんは話す。
「大御輪寺の住職は我が家から出た郭道さんだった。廃寺にあたり還俗(げんぞく)、十一面観音様とともに橋本に帰ってきた」と米田家では言い伝えられている。

郭道和尚は聖林寺で学び、廃寺となる大御輪寺の最後の住職だった。廃寺にあたっては、他の僧侶とは異なり大神神社の神官への道を求めず、十一面観音菩薩像と共に寺を去ったのである。

「我が家で観音様に毎日、経をあげ、給仕をしていた。寝仏という姿で別座敷に祀られていた」が、米田さんのおばあちゃんの言葉である。
郭道さんは明治二年七月に亡くなり、その後、観音様は聖林寺に移されたということだ。

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桜井市橋本の米田家

「十一面観音菩薩は、大御輪寺を出られてから聖林寺に至るまでの一時期、どこにおられるか不明」だったのである。
和辻は、「廃仏毀釈の嵐」と合わせて、この話をきいて、「路端に捨て置かれた十一面観音像」のエピソードを、古寺巡礼に書いたのでなかろうか。

東大寺の造仏所で造られた十一面観音菩薩は、大和朝廷の故郷である三輪で長く祀られ、神仏分離令により三輪の大御輪寺を去ることとなったが、いまは聖林寺できらきらと光り輝いている。
観音様は人々の思いを受け止め、人々の心を救ってきたが、同時にたくさんの人々の篤い思いで守られてきた、そんな歴史を忘れてはならない。

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聖林寺、十一地面観音菩薩像


以下は、この記事の全文である。桜井では間々、お聞きする話だが、全国紙での紹介はこれが初めと自負している。

十一面観音菩薩といえば、まずは桜井市の聖林寺の像が思い起こされる。
半ば閉じた目としっかり結んだ口、そしてふくよかな面相は神々しく、そして同時に人間らしい優しさと美しさに満ちあふれている。
 造像されたのは奈良時代。以来、どれだけの人々がこのお顔を仰ぎ見てきたことだろうか。
どれだけの人々が悩みや思いのたけを語りかけたか、そして観音様はそのすべての願いを受け止め、数々の力を人々に授けてきたのである。
この十一面観音菩薩像は760年頃に、東大寺の造仏所で造られ、大神神社と一体であった大御輪寺(おおみわでら)のご本尊として祀られた。
木心乾漆の技法で作られた代表的な仏像である。大まかな形の木像を彫刻し、その上に木粉(きこな)と漆を練り合わせた木屎漆(こくそうるし)を盛り上げる木心乾漆の技法は、顔や身体の豊かな肉付き、柔らかみを表現する優れた技法であった。

明治元(慶応4)年の神仏分離令によって、この観音様は嵐の中に投げ込まれることとなった。大御輪寺が廃寺となり、ご本尊の観音居所がなくなり、やがて聖林寺に落ちつかれ、祀られるという数奇な運命をたどることになった。
「桜井を縦断して聖林寺まで、仏様を荷車で運んだ。坂道はみんなで押し上げた」と、廃仏の時勢の中でも、多くの篤志家(とくしか)が力を出し合った心温まる情景が伝えられている。
当時の聖林寺は学問寺で、聖林寺の住職と大御輪寺の住職が学僧仲間だった。そのつながりで聖林寺に移されたのは自然のなりゆきだった。

ところが、観音様が聖林寺に移されるにあたっては、もう一つ複雑な経過が桜井では語られている。
「聖林寺の十一面観音様は、一時期だが我が家におられた」と桜井市橋本の米田昌徳さんは話す。
「大御輪寺の住職は我が家から出た郭(かく)道(どう)さんだった。廃寺にあたり還俗(げんぞく)、十一面観音様とともに橋本に帰ってきた」と米田家では言い伝えられている。

郭道和尚は聖林寺で学び、廃寺となる大御輪寺の最後の住職だった。廃寺にあたっては、他の僧侶とは異なり神官への道を求めず、十一面観音菩薩像と共に寺を去ったのである。

「我が家で観音様に毎日、経をあげ、給仕をしていた。寝仏という姿で別座敷に祀られていた」が、米田さんのおばあちゃんの言葉である。郭道さんは明治二年七月に亡くなり、その後、観音様は聖林寺に移されたということだ。
米田家に明瞭に伝承されてきたこのエピソード、これは信じるべきであろう。
その後、聖林寺の仏像の調査に訪れたアメリカ人の哲学者アーネスト フェノロサが十一面観音菩薩像を激賞し、さらに和辻哲郎や白洲正子などの紹介もあって、その素晴らしさが広く知られるようになっていった。

東大寺の造仏所で造られた十一面観音菩薩は、大和朝廷の故郷である三輪で長く祀られ、神仏分離令により三輪の大御輪寺を去ることとなったが、いまは聖林寺できらきらと光り輝いている。

観音様は人々の思いを受け止め、人々の心を救ってきたが、同時にたくさんの人々の篤い思いで守られてきた、そんな歴史を忘れてはならない。


最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。
by koza5555 | 2014-07-19 05:36 | 桜井・多武峰 | Comments(2)

JTB 大和の美仏に出会う旅

JTB美仏に出会う旅、3月30日が冬シリーズの最後の催行だった。

初瀬では豪雨だったが、室生が少雨、聖林寺以降は雨は上がった。

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雨は激しいが、桜もきれいな長谷寺


奈良まほろばソムリエの会は、JTBとタイアップして「大和の美仏に出会う旅」を案内している。
ツアーは奈良駅(近鉄・JR)を出て長谷寺、室生寺、聖林寺、安倍文殊院を回るコースで、昨年の4月から始まり28回のツアーを行ってきた。


ソムリエの会の鉄田専務から「四か寺を回るコースを考えてほしい。時間の配分とか」と依頼があったのは、一昨年の12月だった。
JTBの担当者とお話しすると、「関東などの遠方の方、テーマは美仏、集客力のあるメジャーなところで」というコンセプトだった。

コースや時間配分は簡単に決まった。
同行する「まほろばソムリエ」のガイド内容がポイントだと考えた。
ツアーの時期は桜やモミジではなく、真夏だったり、真冬で、観光のトップシーズンからは外れているのである。4月がなく、10月・11月がないのである。

「真夏に長谷寺の何を見るの?」と初瀬のお土産屋さんに言われたほどのツアーである。
「何見るの?」、「美仏に出会う」である。だから、ガイドの内容をトコトン知恵を絞った。

まず、美仏論が大切である。拝観するという宗教の世界と美術の世界を溶け合わせねばならない。

菩薩は人を困難から救う絶大な力と慈悲を持っている。その菩薩は超人的な威厳と人間らしい優しさや美しさを持っていなくてはならぬと、和辻は記している。
お姿を拝観し、その美しさに手を合わせれば、それこそ菩薩の心に出会えるのだと説くである。

これがカギだと考え、そのためのチラシ、テキストや解説グッズも丁寧に作り上げた。
合わせて、ガイドの皆さんも解説の工夫をされた。

こうして、好調、好評のなかで28回のツアーを重ね、5月からはさらに15回の夏シリーズが始まる。
さらにテキストやグッズの補強も行い、みんなで勉強して、ツアーを喜んでいただけるような準備をしているところだ。

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30日のツアーである。近鉄奈良駅、行基さん前で


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長谷寺は強風・激しい雨。コースを変更して登廊を上がって下った。予定していなかった宝宗蔵が拝見できて、参加者にはとても喜んでいただいた


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室生寺。五重塔へ


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聖林寺からは奈良盆地が一望に

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安倍文殊院のパンジー干支は桜とマッチして映えるている



ガイドのみなさんには「難しい話もあるだろうけど、勉強のような話も楽しく聞けるように考えて」とお願いしている。

屋外の現地の解説では、話を3つ(ぐらい)にまとめてくださいとお願いしている。3つに話をまとめるために、話したいことをよく研究・整理して、…みたいな工夫です。ずるずるお話が続いていくというのは、やはりダメなんである。

そんな工夫をしながら、大和の美仏に出会う旅、参加された方の喜びの声をさらに求めて・・・である。
by koza5555 | 2014-04-02 21:29 | 奈良 | Comments(0)

聖林寺 十一面観音菩薩立像

聖林寺の国宝、十一面観音菩薩立像が光背を背負っていた姿を想像できますか。

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光背を背負った聖林寺十一面観音菩薩立像

聖林寺、木芯乾漆十一面観音立像は、天平神護年間(762年~769年)に、東大寺の造仏所で造像された。願主は天武天皇の孫の智努(ちぬ)王であるが、孝謙(称徳)天皇がモデルという話も取りざたされている。この十一面観音立像が古代大和王権の中心地、大神神社の神宮寺、大御輪寺(おおみわでら)のご本尊として祀られたのである。

今日は光背の話である。この十一面観音には光背があったが中世には崩れて落ちたとみられる。十一面観音が聖林寺に移されたときには、光背の残片は櫃に収められていたとのことである。一割程度という。

その残された一割ぐらいの残片から、光背を復元しようとされている方がいる。
仏像研究家の池田久美子さんという。

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池田久美子さんが作った復元模型
池田さんは、先々代の倉本弘玄(こうげん)住職の依頼により復元図を作成した。
池田さんは、「残片から復元した。あくまでも池田の絵ではなく復元です」と強調される。

この光背を西陣織で原寸大(260センチメートル。ちなみに観音立像は209センチメートルである)で再現しようという企画が進行している。

聖林寺で配布している郵便振込用紙で振込の手続きをすると、振込氏名の字体そのままで「結縁者」として裏面に記録、曼荼羅として遺すとのことである。一口千円以上でお願いしたいとのことで、僕はとりあえず、ささやかだがと結縁を持つことにした。
by koza5555 | 2013-11-25 10:16 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

談山神社ツアー

談山神社の氏子総代を務めているが、談山神社を本格的にガイドしたことがなかった。

そんなときに聖林寺さんから、「地蔵会にともない、幕間ではあるが、談山神社のツアーガイドができませんか」との依頼を受けた。
談山神社のツアーのガイド予定が来年にかけて三回ほど入っていたこともあり、その準備にもなるし、氏子総代を務める社のガイドはやりたいと考えていたので、喜んで引き受けた。
コースは順路で東殿、本殿、十三重塔、神廟拝所である。
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ツアーを終えて多武峰観光ホテルに向かう

聖林寺から談山神社に向かうバスの中で秋里離島の大和名所図会(寛政3年(1791年)刊)の多武峰本社のコピーを配っておいて、神社の成り立ち、その性格から話を始めた。

鎌足公は長男定慧(じょうえ)によって改葬されたこと。その遺骨を安置するために十三の塔婆として建てられた。
一方、弟の不比等によって塔の東に聖霊院(しょうりょういん)を建て、鎌足公のご神像を祀り、合わせて多武峰社といい、はじめから妙楽寺と聖霊院の並立だった。

多武峯の御破裂山(ごはれつやま)のことなどや、一の鳥から摩尼輪塔に至る多武峰の道のことを語り、一町ごとに52基の町石が建てられたことなどを語った後に、けまり祭りと嘉吉祭を語った。

談山神社のお祭は見て楽しいのはけまり祭で、由緒からいうと嘉吉祭というまとめ方である。

4月29日と11月3日に「けまり祭」が行われる。
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「中臣(藤原)鎌足は専横を極める蘇我氏の打倒を考え、中大兄皇子(天智天皇)と近づきになることを考えていた。そのチャンスは法興寺(飛鳥寺)の槻(つき)の樹のもとでのけまりの時におとずれる。中大兄皇子が鞠を打つ、そのとき沓)が抜け落ち、鎌足が拾う。ひざまずき差し出すと中大兄皇子もひざまずき受け取った」と日本書記が記されている。
これを大化の改新(645年)の大業成就の始まりとして、この縁を大事にして談山神社はけまり祭をおこなっている。

10月の第二日曜日の嘉吉祭についてもきちんと説明した。
多武峰足利幕府の攻撃を受け、全山炎上、その難を避けて、御神像は明日香の橘寺に遷座し、その後嘉吉元年(1441年)に帰座したが、それを祝い、二度と出坐のないことを祈念したのが、この祭典の始まりである。
 帰坐を喜んだ一山の人々が、多武峰の秋の収穫物を集めて、「百味の御食(ひゃくみのおんじき)」という神饌をととのえる。
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米粒を一周42粒、70段に張り付けた和稲(にきしね)にはとりわけ、簡単の声が。

万葉歌も二首、紹介。
皆さん、僕の思い通り、鎌足公さらに好きになっていただけただろうか。
by koza5555 | 2013-08-25 23:40 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

聖林寺の十一面観音と御厨子

「万葉集のバスツアー」に参加していた姫路の 池内力さんが、聖林寺(桜井市)で「十一面観音様の前の厨子は一段低く作られていたというのは本当ですか」と質問された。ご住職は「はい、床下に入るような形の厨子です。いざという時(火災の時など)、御厨子ごと外に出せるように厨子が台車に乗っているような形になっていました」とお答えになった。
そのことは掲示されているが、さらに「いまは御厨子の車はありませんが、レールは一部、残っています」とのことである。
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御厨子の姿。本堂の内部ですので画像のアップの許可は聖林寺さんに頂いた

聖林寺の十一面観音の御厨子のことである。
現在お立ちになっている大悲殿のことではなく、本堂向かって左側の昔の御厨子のことである。

厨子の前には
「明治19年、アメリカ人の哲学者アーネスト フェノロサが十一面観音様を一見して、素晴らしいものだと絶賛され、開扉されるようになりました。
これがフェノロサと友人のビゲローが寄進しくださった旧御厨子です。
御厨子の下にレールが敷かれ、火災などの時に、緊急避難できるように設計されています。」
と掲示されている。
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厨子の背面に回ると、こんな石のレールが残されていた

この厨子は明治19年(1886年)に作られた。130年前のことである。残された石のレールを拝見すると、十一面観音が聖林寺に移された経緯や大切にまつられてきた歴史の重さを感ずるのである。

さて、このことを質問をした池内さんのことである。
奈良まほろばソムリエの会が奈良交通とタイアップして取り組んでいる「ソムリエと行くバスツアー」(昨年は古事記、現在は万葉集)に池内さんはたびたび参加されている。

池内さんはいつも楽しくツアーに参加されているが、池内さんの質問や指摘はいつも核心を突く鋭さがある。昨年末の「古事記と宇陀」のコースの時にも、阿騎野に立てられている柿本人麻呂の馬上の像についての質問があった。
「像が中山正實画伯の阿騎野の朝の画をテーマにしたとすると、馬の立つ向きが逆」という。「えー?」と思い、その後、宇陀市の観光課を通して宇陀市教育委員会にお聞きすると、「画は題材で、像はそのものを写したものではなく、言われたことはその通りです」という返事と、「そこまで観察していただいた方は初めてです」と驚かれ、喜ばれていた。

池内さんの深い知識と鋭い観察力には、僕もおおいに学ばされている。


このブログは書き直しました。今回紹介した池内さんと、会津八一の研究家の素空さんを混同する誤りがありました。お二人には深くお詫びいたします。
by koza5555 | 2013-07-22 23:17 | 桜井・多武峰 | Comments(9)

談山神社のガイドをするということは

「談山神社を一時間で案内せよ」と聖林寺さんからお話があった。
聖林寺のご本尊は子安延命地蔵であるが、8月24日に地蔵菩薩会式を行う。

会式は午後1時半~3時半までの間である。
会式に合わせて、震災復興祈願、あゆみ観音さま、高田の松原の松を使ってひとり一刀ずつ掘っていく、あの「のみ入れ式」もおこなうとのことである。

夕方からは「地蔵会式の宵の宴」で、本堂にて「新島襄の生き様(良心教育)について」吉良浩一さん(作・出演)の一人芝居が演じられる。

その間、時間つなぎで聖林寺のもともとの本山である「多武峰 談山神社を案内せよ」との次第となった。
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夏の十三重塔

桜井市の神社、仏閣、古墳、史跡を案内してきたが、談山神社だけは最近は案内していない。
談山神社の氏子総代でもある僕にとっては、聖林寺さんからのお話は願ってもないお話である。


談山神社を案内するならば・・・

まずは摩尼輪塔を見ていただきたい。一の鳥居から摩尼輪塔までの町石を語ると、これは多武峰への道を語ることとなる。

鎌足公と鏡王女を語る。これは鏡王女祭がおこなわれたばかりだし、ご神像も祀られたばかりで話は早い。

嘉吉祭や比叡神社を語りながら、戦に負け続け、焼かれても焼かれても興福寺に対して旗を降ろさなかった多武峰の戦を語ってみたい。

そんなことを語りながら、多武峰妙楽寺と現在の談山神社をつなぐ本筋を解明してみたい、そんな思いである。

こんなガイドで何を語るのか、それは・・・
藤原鎌足公を好きになっていただく。
談山神社を好きになっていただく。

である。

亡くなった音羽の芝房治さんから聞いた最後の言葉は「雑賀君、談山神社やるんだったら、鎌足好きになれよ」だった。
このガイド、きちんとできれば、芝さんには少しの恩返しができる。


談山神社をガイドする僕のテーマは、こんなことである。
by koza5555 | 2013-06-17 23:05 | 桜井・多武峰 | Comments(0)