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奈良・桜井の歴史と社会

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吉備と大福の芝村騒動

桜井の西部、大仏供庄(現在の大福、東新堂、上ノ庄)とか吉備、戒重を考えている。5月のカルチャーのテーマである。
ここらあたりは古墳もないし、有名寺院もないけど、古代から横大路、中ツ道という超一級の幹線道路が抜けていて、ざわめく史実がある。

今日は近代である。吉備の芝村騒動をもう一度、考えた。近隣の大福とか東新堂、阿部、谷とも合わせてである。

宝暦3年(1753)、十市郡の十市郡の九ケ村で、京都町奉行所に箱訴した。
箱訴は合法手段だったが、訴えが認められるまでは刈り入れをしないという戦術で、そこが幕府の逆鱗に触れた。
十市郡、式下郡、葛下郡の村役人にも取調べが広がり、江戸に呼び出されたもの221名、厳しい取り調べの中で獄死したもの40人以上という惨状を示した。

この地域の吉備村からは8名が呼び出され、
平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死
長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還している。
吉備の森本家、吉崎家、吉本家は帰村したご子孫である。

幕府の天領となっていた十市郡、こちらを芝村藩が年貢を代収していたが、この取り立てが苛烈を極めたこと、それを訴えたことに芝村騒動は始まった。
江戸時代の年貢の取り立ては一般的にも厳しいものではあったが、十市郡はと複雑な事情をはらんでおり、特別に厳しい取り立てが行われていた。

検地のさいに実際の面積以上の年貢がかかっていたのが十市郡の村々である。実際の農地の広さ以上の年貢がかけられたという。いわゆる「畝詰り」といい、見地台帳が課題なのである。

これには経過があった。
郡山藩が柳沢忠明の時代(1619年~1639年)に、藩の格をあげるためだけで12万石を15万石に変えた(15万石以上が大藩とされた)という歴史があった。農地は増えていないのに、郡山藩のすべての農地は台帳では2割5分増しの面積に変えられた。郡山藩の時代はその事情が判っていて、割り増し分には無税だったが、郡山藩が8万石に減らされ(1679年)盆地南部の領地が天領に変わってから、これが問題を引き起こした。旗本はこの2割5分増しの年貢を要求したし、代収の芝村藩はこの2割5分からも徴収したのである。

この表を見ていただきたい。
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1620年ころ。吉備は2割5分は課税されていない。ところが天領となり、芝村藩預かりになった時に、これが頭を持ち上げた。
吉備村は651石770だったが、突然、814石713に変わった。土地が広くなったわけではなく、収穫が増えたわけではない。
大福村・新堂村と比べれば、よく分かる。江戸時代の石高、年貢というのは耕地の変化、作の変化には関係なく、村にかかる税金である。

吉備村は、五公五民なら325石の年貢。ところが2割5分増しだと407石の年貢で、村の取り分が244石。62%の年貢である。それ以外にも二毛作の麦や菜種にも税はかかるのである。村は行き詰まり、自立の農民の没落が始まるのである。

これは、大福や東新堂には見られない状態だった。この表には欠落しているが、東新堂の多賀領は140石が途中から3石に減ってしまうということさえあるのである。天領、芝村藩預かりの吉備村の苦しさに思いを寄せたい。

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吉備村(吉備区)は今でも、毎年、供養祭を行っているのである


『芝村騒動と龍門騒動』(上島秀友著)と『郷土』(広吉寿彦著)を参考にしました。
by koza5555 | 2017-04-20 22:00 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

芝村騒動と龍門騒動

芝村騒動を上島秀友さんが書かれた。
上島さんは香芝市のお住まいで、10月に行われた「邪馬台国バトル」でお話しした折、石野博信先生のご紹介でお近づきになった。
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芝村騒動は、芝村藩の預かり地となっていた大和盆地南部の天領でおきた。
宝暦3年(1753)、十市郡の九ケ村が決起。京都町奉行所に箱訴した。箱訴は合法手段だったはずなのだが、村役人らが江戸の召し出され、吟味が開始された。吟味は過酷を極め、次々と犠牲者が出た。取り調べの対象は式上郡、式下郡の村役人にも拡大、40人以上が獄死した(
p4)

ぼくもこの芝村騒動のことをお話したことがある。僕なりに調べて、磐余・吉備のあたりのお話しの中での紹介だったが、知らずに話したことがたくさんあった。この本を読んで、芝村騒動の経過と全貌、本質が良く理解できた。

十市郡は広く幕府の天領となっていたが、その税収は芝村藩が代収していた。これを預かりというが、大名領などと比べても過酷な徴収が行われていたといわれる。
租税は五公五民、代理で徴収する(預かり)芝村藩は3%の手数料が入るという仕組みである。芝村藩は一万石、預かりが9万石ほどになっていたから、普通に徴収していても、一万三千石である。
しかし、検見と呼ばれる作柄の検査があり、これで税収が決めるが、百姓に有利な検見はないという状況が続いた。
「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでるものなり」(本多利明『西域物語』)というのが施政者の考え方だから、この状況は全国共通である。
ところが、これに合わせて、芝村藩の預かり地には「別の複雑な事情が潜んでいました。」(p38)

それは、「畝詰り」にも年貢がかかったということである。
畝詰りとは「実際の面積が検地帳に記載された面積よりも少ない」状態で、検地帳を基準に課税されると、五公五民ではなく、畝詰りの具合では七公三民にも変わってしまうのである。
もともとは郡山藩が柳沢忠明の時代に、藩の格をあげるために12万石を15万石に変えたという歴史があった。農地は増えていないのに、郡山藩のすべての農地は台帳では二割五分増しの面積に変わっていた。郡山藩の時代はその事情が判っていて、割り増し分は無税だった。ところが、盆地南部の領地が天領に変わって問題が生じる。
芝村藩はこの二割五分にも課税したのである。

ここらあたりを僕は知らなかった。この仕組みで芝村藩、預かりの村々は八公二民というような重税にあえぐことになったのである。
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300人もの江戸への呼び出しや40人もの犠牲。後日談も上島さんの視点は暖かく丹念である。
お薦めしたい。

芝村騒動といえば、吉備区では、毎年9月15日、吉備薬師寺において、芝村騒動の犠牲者の慰霊祭を行っている。
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吉備村からは8名が呼び出され、
平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死
長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還できたとのことである。
帰村した5家のうち、2家が途絶えて森本家、吉崎家、吉本家で供養を行っているが、「当屋を決めて、法要を行い、慰霊碑を拝み会食」という、供養である。
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吉備区集会場、薬師堂


合わせて掲載されている上田龍司さん(故人)の『竜門騒動』、『天保ききん考』、『いのちのかて 昔の稲作の思い出』も読みごたえがある。
『芝村騒動と龍門騒動』。大和の百姓一揆  青垣双書(青垣出版)。1200円+税
by koza5555 | 2016-11-25 19:03 | 読書 | Comments(0)

芝村騒動の犠牲者慰霊祭

9月15日、桜井市の吉備薬師寺において、芝村騒動(宝暦3年~4年・1753年)の犠牲者の慰霊祭が行われた。

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桜井市吉備区集会所(薬師寺)

宝暦3年(1753年)に芝村騒動とか十市騒動とか言われる「御箱訴訟」(箱訴)がおこなれた。

十市群は広く幕府の天領となっていたが、その税収は芝村藩が代理していた。これを預かりというが、大名領などと比べても過酷な徴収が行われていた。
宝暦3年はコメも綿作も不作であり、大きな減免の声が上がっていた。これに対する芝村藩の対処は冷酷なものがあり、これの是正を求める騒動、一揆がおこされた。

芝村藩の預かりの十市郡の内膳や下八釣、常盤や桜井の吉備などの九カ村の代表が、年貢の切り下げと芝村藩からの預かりの変更を求めて、天神山(耳成山)に集まり訴状を作成、常盤村の彦市を代表に京都町町奉行所に箱訴を行った。

箱訴は享保6年(1721年)に8代将軍、徳川綱吉により「民の声を直接に聞く」ということで始められた。「将軍がカギを開ける」という御箱訴訟である。
しかし、芝村藩預かりの村民の訴えには手ごたえがなく、そこで九か村は戦術をエスカレートさせ、「稲刈りをせず、捨ておく」という強硬策に出るのである。

これを見て、「箱訴は合法的な手段だが、稲刈りを怠り、徒党強訴に及んだのはおきてに反する」と幕府は、関係者を江戸に召喚するのである。

呼び出しは三度にわたり、宝暦4年の3月までには200名以上が江戸にいくことになった。
宝暦5年8月に至りて、徒党強訴の罪で常盤村の彦市は死罪、遠島4人、追放32名という厳しい処断となった。それとは別に牢死者は38名を数えた。死罪という彦市もすでに牢死していた。

吉備村からは8名が呼び出され、平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死、長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還したとのことである。

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牢死した義民、供養の碑が吉備区集会所(薬師寺境内)に置かれている

供養は生還した5名の子孫で行われている。
前回のブログでは「牢死の3名と帰還した3名の子孫で慰霊する」と書いたが、それは間違いだった。
お詫びして訂正します。

この生還した子孫、5家全体の系図(過去帳)を一幅の掛け軸に書きつけ、阿弥陀如来像の軸と合わせて架けて、供養祭を行ってきたとのことである。

今では5家のうち、2家が途絶えて、森本家、吉崎家、吉本家で供養を行っている。

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三家による慰霊碑、参拝


それに先立って吉備区は、芝村騒動犠牲者、大東亜戦争戦没者の慰霊祭を、区内の蓮台寺、明光寺の読経で執り行った。
僕も一緒に焼香させていただいた。


最後のこの箱訴を契機に、芝村藩の預かりは減らされ、その後の収賄寺kンなども問題となり、預かりは芝村藩の手を離れた。


以上、桜井市史を参照にした。吉備の副区長の吉崎さんにはいろいろとご教示をいただいた。
by koza5555 | 2014-09-15 23:50 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

9月15日は芝村騒動の供養祭

9月15日午後二時から桜井市の吉備(大字)区集会所(薬師寺)で芝村騒動の犠牲者の追悼慰霊祭が開かれる。

奈良県(大和)では、「宝暦3年(1753年)に芝村騒動という一揆がおこった。
芝村藩の預かりの村々が、年貢の切り下げを求めて箱訴、預かり藩の変更を求めて一揆を起こした。稲の刈取り拒否という新戦術が取られた。

幕府は芝村藩に落ち度はないとして、一揆を弾圧。
常盤村(橿原市)の彦市が死罪、4人が遠島、追放33名(それまでに彦市をはじめ37名が牢死している)という重い処分が行われた。

吉備村(桜井市)の組頭の平兵衛(へいべえ)、甚治良(じんじろう)、平治良(へいじろう)など六人が江戸に送られ三名が牢死、三名が帰還したとのことである。
牢死した義民、供養の碑が吉備の薬師寺境内に置かれている。

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吉備区集会所(薬師寺)の供養の碑

江戸時代、大和は領有が複雑で不在地主ならぬ不在領主が数多くいて、この代理領主を芝村藩が務めていた。
この制度を預かりという。

一揆の前には橿原から高田、桜井などは軒並み、芝村藩預かりで、藩は10万石の規模となっていたという。
預かりは公式には年貢の3%が預かり藩の取り分、芝村藩の所得は倍で、収入は2万石の大名クラスになっていたという。

ちなみに芝村藩の用人は、当初はほとんどが尾張、美濃の出身によって占められたが、幕末頃は足軽、人足の三分の二までは大和のものに代わったとある。
芝村藩は武士100名、足軽100人、人足100人ぐらいはいたようで、一万石では用人が多すぎる(戦国時代規模)ようであるが、これが預かりという制度に支えられていた。

一揆は弾圧されたが、これを機に芝村藩への預かりは一気に廃止されたとのことであるから、幕府の目も節穴ではないというべきか。

9月15日、村(吉備区)の供養祭が行われ、その後、牢死した三軒、帰還できた三軒で供養の集まりを開くという。
250年間、続けてきた供養の集まりと聞いた。


一部、不正確な記述がありました。「慰霊祭の実施」ブログで、修正・補強してますのでご参照ください。

そのブログは  「芝村騒動の犠牲者慰霊祭」  です。
by koza5555 | 2014-09-11 23:21 | 桜井市と安倍 | Comments(0)