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奈良・桜井の歴史と社会

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林田紀音夫の句で習字する

習字を始めて一年を超えた。

記名することが多くなった。恥ずかしくない名前を書きたかった。
「万葉集をサラサラと仮名文字でかいたみたいものだ」とも思った。
そして、歌碑、「あの変体仮名を読んでみたい」との思いもあった。
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そんなことから昨年の9月、近所の子どもたちが通う書道塾を訪ねた。

熱は徐々に冷めたが、塾という強制力があり練習は続けている。
クラスのメンバー(4人ほど)と先生を案内して飛鳥寺を訪ねたり、沙羅双樹(夏椿)を見に御所の安楽寺を訪ねたりで大活躍だが、本筋とは違うような…
年賀状には「習字以外のことで貢献してください」と先生に書かれる始末である。
それでも、読めない歌碑がある時は、写真を先生に見せると読んでいただけるというメリットもある。

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北京で買った軸。観光客相手の「そういう」ものだが、「観海聴濤」が気に入って、ときどき架けている
いまどき、中国の話である。北京にツアーで行ったとき京劇を観た。
京劇は舞台の進行が中国語と英語の字幕で出る。僕らの席の斜め前に、劇の進行と字幕のスピードをパソコンでコントロールする係員がいた。
この青年がパソコンを見ながら、ときどき舞台を見ながらも、ひたすらに習字の稽古をしていた。中国は簡体字ばかりかと思っていたのに、こうして漢字を練習する青年はとても新鮮だった。

字体の美しさを競う点ではヨーロッパでも同じで、英語でもカリグラフィーという言葉があり、文字を美しく見せるための手法があり、語彙もある。
美しい字を求める心、古今を問わず、洋の東西を問わずである。

いま書いているのは実用漢字と仮名は俳句。
仮名は・・・「秋終わる少女がえがく円のなか」林田紀音夫(きねお)である。
生年は大正13年。太平洋戦争の復員後、大阪の大正区でガリ版切りで糊口をしのいだという。
困窮した生活感のある俳句を書いたが、俳号で作る俳句と、本名で暮らす実生活との間での乖離は全くなかったとのことである。
代表作は 「鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ」である。

身近な「死」を感じながらの句という。

習字もやってみるとなかなか深いものである。小学校の時の挫折の二の舞にならないようにがんばろう。
by koza5555 | 2012-11-08 00:08 | 健康 | Comments(6)

天理参考館と武人埴輪

先日見学した天理参考館の常設展示展の入り口に、盛装男子像埴輪と武人埴輪が飾られている。お聞きすると参考館には国宝は無く、この二点が重要文化財とのことで、いずれも群馬県から出土したものである。古墳時代後期のものという。
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盛装男子像埴輪。絵葉書から
「騎兵と歩兵の中世史」(吉川弘文館)という本がある。
太平記などの中世の騎兵、歩兵の武器、戦闘方法を詳述した本であるが、古代や律令時代の馬、馬具なども述べられている。
埴輪時代の武具については、天理参考館の武人埴輪(これは画像がない)を分析していて、「歩兵で刀を持ち、弓を持っていた」としている。

日本の馬利用は、4世紀末に馬、馬具がそろった形で北九州に持ち込まれたとしている。
雄略天皇の時代(即位前年十月条)に騎射の初見があるとし、さらに一言主とともに狩りをするが、そこにも騎射が書かれると解説している。
さらに天武天皇のころからは、685年(672年壬申の乱)に「文・武官も馬に乗ることを習え」とか、持統天皇時代にも同じような記述が出てくる。

律令の時代には、騎兵・歩兵に関わる記述は数限りなく出てくる。
正倉院にも鉾が32点もあること、歩兵が使ったものではなく、明らかに騎兵用もあるとして、騎兵にも騎射騎兵と槍(鉾)騎兵がいたことなどを分析する。

正倉院展では鉾、槍のたぐいも あなどるなかれである。
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この本も面白いが、天理参考館も面白いものである。
ちなみに入場料、企画展とあわせて400円、絵葉書も格安で一枚30円だった。
by koza5555 | 2012-10-31 00:01 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

桜井と本居宣長

敷島(しきしま)のやまと心を人問はば朝日ににほふ山桜花
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これは代表作。桜井駅前に歌碑がある

コレクション日本歌人選で「本居宣長」が出ている。笠間書院刊行である。
古事記伝を書いた本居宣長である。
古事記の冒頭を「天地(あめつち)初めて開けし時、高天原(たかまがはら)に成れる神の名は」と著した本居宣長、この人の歌がコンパクトにまとめられている。

古事記そのもの、そういう歌もある。
古事(ふること)の文らを読めば古(いにし)への手振り言問(ことと)ひ聞き見るごとし

「禍福は糾える縄の如し」のことわざを歌にしただけ?みたいな歌もあった。でも、これこそ僕の人生観だから、心に響いた。
善きことに禍事(まがごと)は 善き事 い継(つ)ぐ世の中の道

古事記編纂、1300年である。
古事記伝44巻、古事記をよみがえらせた本居宣長の業績はすごい。

僕は桜井のガイドでも、本居宣長さんのお力は目一杯、お借りしている。
明和9年(1772年)、宣長は吉野水分神社の参拝と「吉野の花見」で、松阪から伊勢街道を逆行して桜井に至った。
行き帰り、ともに桜井を通る。

長谷寺で巳の鐘、ほら貝を聞き、黒崎まで下って女夫饅頭(めおとまんじゅう)を食べる。忍坂を経て、音羽山を見ながら倉梯に至り、多武峰を越えて吉野に至った。

帰り道もおもしろい。「飛鳥から山田村に入り、生田(おいだ)、安倍に至る」とある。
安倍寺に寄り「文殊、名高き仏なり」とし、文殊西古墳や艸墓(くさはか)古墳まで訪れる。
いったん八木、札の辻(橿原)に寄ってから、横大路を通り(桜井の)地蔵の堂(仁王堂・にょうどう)を左折し、上ツ道から三輪の社、大御輪(おおみわ)寺によって、松阪に帰った。
今、述べたような場所はすべて現存しており、桜井の人ならみんなが知っている。

この時の紀行文、菅笠日記には明日香村、橿原市、桜井市についての詳細な観光、観察記録、満載である。

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by koza5555 | 2012-10-10 05:37 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

伊勢街道を歩く

伊勢神宮が20年ごとに社殿を造り替える「式年遷宮」は来年であるが、近鉄電車はそれに備え「しまかぜ」という新型特急を走らせることを発表している。
これはこれで大いに期待するが、今日は伊勢神宮まで歩いて行く旅のことである。

「伊勢街道を歩く」、やまとびと編集部(桜井市の共栄印刷内)の小林義典さんが書いた。
「やまとびと」の創刊号(平成10年)から30回にわたる連載をそのまま、まとめたものである。

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伊勢街道を歩く

この本は一気に読み切ることができる。「とにかく面白い」がまずは第一の感想である。
30回の道中記である。ずいぶん勉強されたと思うが、小林さんの講釈は短く端的で、リズミカルに読み進められる。

小林さんの伊勢参りは檜原神社から始まる。

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出口橋

伊勢街道の起点は玉造であるが、桜井のやまとびとである。出発は檜原神社からである。
檜原神社と言えば元伊勢、小林さんの旅は伊勢参りだが、天照大御神(あまてらすおおみのかみ)を案内(御杖代)する倭姫命(やまとひめのみこと)を意識した旅でもあるのか、と合点がいく。
僕は不信心だからあまり考えてこなかったが、伊勢表街道も伊勢本街道も倭姫命の伝承地をたどる道という意味付けがあったのだろうかと、想像できるような旅立ちである。

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御杖神社

自然に対する小林さんの敬虔な態度、
旅がすすむにつれ、時間が経つにつれ信仰は深まっていく過程、
小林さんの旅だが、読みながら、一緒に歩いているような思いに僕もなってくる。

歩いた道を連載の都合で、30回に分けられたものとお見受けする。また、一回ごとの地図はあるが、ほぼ概念図である。

小林さん、経歴的には、「入社した最初の仕事が、歩いてのお伊勢参り?」という具合だろうか。そういうように人材をつくり、本を作る共栄印刷に「いいね」を押したい。
by koza5555 | 2012-09-29 05:58 | 読書 | Comments(0)

飛鳥の木簡  中公新書

飛鳥の木簡
古代史の新たな解明 市大樹著、中公新書である。

最近の本である。先日も天文学者の海部宣男さんが書評を書いている。
こんな本は僕の手におえないが、桜井つながりでサラッと書けそうだ。

最古とみられる木簡は上之宮遺跡?
いずれも状況証拠だが、その可能性が高いという。

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上之宮遺跡(桜井市上之宮)

阿部丘陵の東端、寺川の左岸に古墳時代末期~飛鳥時代初めの遺跡が発見されている。掘立柱の大型建物14棟やその西に苑池の遺構が発掘された。
苑池の遺構では、排水溝をもつ石組みとそれを円形に巡る石溝などがあり、木簡、ベッコウ、ガラス玉の鋳型、和同開珎などが出土しており、強力で富裕な古代豪族の居館の姿が示されている。

「聖徳太子の上宮」という説に、僕はいま一つ納得できなくて近づかないようにしていた。
ここに最古の木簡があったらしいと知り、頭を下げて写真を撮ってきた。
500年代(6世紀初めから7世紀初め)の可能性があるとされ、金銀で飾る太刀のことが書かれているという。

桜井の山田寺跡からの木簡も古そうである。

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山田寺跡

さて、「飛鳥の木簡」という本だから、桜井の事だけ書いて終わりではまずかろう。

木簡のことである。
飛鳥・藤原京の木簡が大量に発見されたのは、そんなに古いことではない。
発掘が広がったことにより大量に発見されたとの意見もあるが、僕は平城京の教訓などから「こういうところに木簡があるだろう」と探す側、掘る側の認識の発展が木簡の大量発掘につながっていると思う。

本はいくつかの章がある。
「飛鳥の総合工房」と題した、飛鳥池工房のことである。
どんな工人がいたか。いつ頃からの工房かということを明らかにしている。
木簡の分析から東漢(やまとのあや)(渡来人で蘇我の支配下にあった)が特に多いと示し、時期は蘇我氏滅亡後としたうえで、飛鳥池工房は飛鳥寺・蘇我氏の支配下の工人が天皇・国家の支配下に組み入れられて作られたと論証している。
県立万葉文化館に行くたび(飛鳥池工房跡をいつでもみることができる)に疑問に思っていた。あれだけの技術、工人の集団がどこで訓練され、組織されてきたかと。それが判り、飛鳥池工房跡がとても身近なものになった。

あと、飛鳥寺の多彩な活動が木簡で証明されていた。宗教、医療、経済活動である。
この飛鳥寺を支配した蘇我氏の綜合的な力が改めて感じ取られる。
ここでは、完全な万葉歌の木簡も出ている。

朝なぎに 来寄る(きよる)白波 みまく欲(ほ)り 我はすれども 風こそ寄せね
巻7-1391 未詳

さて、木簡はゴミとして棄てられたもので、意図的な改変は無いと言い切れる。
奇想天外な事実が明らかになる訳でない。むしろ「やっぱり、そうだったのか」が多いと著者は言う。日本書紀、続日本紀が木簡で裏付けられる。別系統の資料が手に入るようなものだ。
歴史も科学であれば、資料の相対化が必要となり、大量の木簡がその役割を果たしているという事だろうか。

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「飛鳥の木簡」、市大樹先生は事実をよく積み上げて論証しており、楽しく読みすすめることができた。
by koza5555 | 2012-09-21 00:13 | 読書 | Comments(4)

あおがき古事記講座 藤井稔さん

桜井市の中央公民館が「あおがき古事記講座」と題して、「みんなで古事記について学びませんか」という講座を企画した。

9月から12月までの第2土曜日、4回の講座である。講師が不明だったが、7月に申し込んだ。

講師は天理高校2部教諭の藤井稔先生だった。
七支刀と石上神宮の禁足地について研究を重ね、このほど天理大学から博士号を得たとのことである。「石上神宮の七支刀と菅政友」(吉川弘文館)の著作があるとのことである。

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桜井市の広報紙に掲載された案内

第1回は、「古事記とは」と「天地(あめつち)の始めから神武天皇まで」ということである。
パワーポイントの講座だがレジュメ、資料がある。
その資料の始めに10問の問いかけがあった。

「今年(2012年)を古事記編纂1300年とする根拠は、何に書かれているか」。
「古事記おける天地は、神が作った?混沌としたものの中から自然にできた?」。
「古事記において、オオクニヌシの国造りに協力するのは誰か」。
「古事記において、神武東征の際に桜井市で初めに出る地名は」。
などの問いである。

これはうまくできている。
この問いに答えるという形で、お話が進行するという形である。

大学の先生はこんな丁寧なことはやってくれない。
60名くらい(参加申込72名とのこと)の参加者が一気に話に引き込まれる。
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講義する藤井稔先生

僕の関心だけをかいつまんで書いておく。

古事記偽書説への反論があった。
序の末に「臣安萬侶」とある。これが「当時の書き方と違い後で書かれたもの」として、「偽書説の一つの論拠だったが、発見された墓誌にはこのように書かれおり、攻撃の論拠が失われた」との説である。

ギリシャ神話との比較などの話があった。
とくにイザナミが火を産んで死ぬというくだり。ギリシャ神話なら神から火を盗む者としてのプロメテウスがある。
ギリシャ神話との比較論もけっこう楽しい。ここらあたりまで聞くと、阿刀田高の古事記、読み直したくなる。

「神武天皇=カムヤマトイワレヒコは戦争に弱い」と示唆するような話が繰り返し出てきた。エウカシ・オトウカシのこと、ヤソタケル、エシキ・オトシキなどとの戦である。勝つには勝つが、言外に計略がすぎるとの思いがあふれている。

神武聖蹟碑を昭和15年(皇紀2600年)に建てたこと、19個所の聖蹟碑を建てるために、25万円の国費が使われたと解説があった。そうだね、近く聖蹟碑を案内する予定もある。国費とか、金額とかこれは話題にできる。

要望は、パワーポイントのプリントアウトをいただけたらと思う。
講義資料だけで、パワーポイントは刷りだされていないから、話がすっと飛んで行ってしまう。
ま、そんなこともあるけど、次回も楽しみにしている。
by koza5555 | 2012-09-10 00:01 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

桜井市史

桜井市史を古本屋で買った。
天理のフジケイ堂である。30年前の本だが、新品同然で8000円である。
こういう本はブックオフなどには出てこない。
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「どうしても欲しい本」となると奈良の中南部なら、天理のフジケイ堂である。


桜井市史には、とにかくお世話になった。

古事記や日本書紀にもとづく幾多の天皇の宮址、陵はこれで調べてその場を見てきた。

敏達天皇の訳語田・幸玉宮址(桜井市戒重)と戒重西阿の城との関係、そして織田藩の戒重陣屋のすべてが同じ場所だということもこれで知った。

軽太子と衣通(そとおしの)王の同母兄妹の許されない恋に関わって、忍阪の玉津島明神がこの衣通王を祀っていることもこれで調べた。

織田信長による三輪山の神木切りとか、戦没者慰霊祭などのような近世、現代のこともこれに教えていただいた。

果てはそうめん踊なども、これで知りブログに書いた。

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桜井市史

よくよくお世話になったものだが、実は図書館からの借り物での勉強だった。
図書館には何セットかあるので、更新しながら常に僕も一セット借りているような状況だった。

とにかく手に入って、これは嬉しい。
広辞苑を始めて買った中学生の頃の喜びの記憶がバッーとうかんでくるくらいだ。

本を買うことに、こんなに喜びを感じるなんて。65歳にしてさらに学ぶべしである。
桜井市史、これからはアンダーラインを引くことも、書き込むことも自由自在である。
by koza5555 | 2012-09-07 00:11 | 読書 | Comments(0)

腹だけ痩せる技術

最近のあっちゃんは英語の本は買うが、日本語の本はほとんど買わない。
そんなふうに言うと少しかっこいいが、英語の本と言ってもPBだったり、英検の受験本だったりであるが・・・
そのあっちゃんが「腹だけ痩せる技術」(植森美緒・メディアファクトリー新書)をアマゾンで買った。

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一日の内に読み切って「腹をへこますだけでウエストが細くなる。ダイエットができる」と言い、疑心の僕に「信ずる者は救われる、読め。簡単だ」と激しく迫ってきた。

4年ほど前に「レコーディングダイエット」で頑張って、74㎏まで行った体重を、半年で61㎏まで落とした。
現在は相当戻って66~68㎏である。
このまま、リバウンドがすすむと痩せた時に買った服が使えなくなるから、すこし危機感が出てきており、読むことを拒否することはできない。

植森さんの本はいくつか納得はできる。
「食事制限、有酸素運動がダイエットに効果的というが、無理をしているためにリバウンドは避けられない」という指摘はなるほどである。
植森式ダイエットの中心ポイントは、「お腹をへこます運動」(ドローインという)だけで、形状記憶でお腹だけが細くなるという論理である。
カロリーのコントロールはその後のことで、本格的な肥満の人は食べないことで、身体がエネルギー保存の抵抗力を強めて、逆にダイエットの妨げになるとさえ言い切る。

論理は非常に明確であるが、植森式も継続させなければ意味がない。これがむずかしい。
ダイエットにはこれがカギという極端な処方箋は僕にはなかなか理解しがたい。
カロリーも運動も、やはりバランスよくではなかろうか。
そして、一番大切なことはいつもそのことを自覚していることが大事である。

それにしても、面白い本を読んだ。
エレベータに乗る時、信号待ちで立ち止まる時、退屈した時など、いつもドローインである。
一読の価値はある。


by koza5555 | 2012-08-09 00:06 | 読書 | Comments(2)

邪馬台国をとらえなおす

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入院である。家を出るとき見渡すとこの本があった。
病院では新書版以上のものは読めない。とにかく片手で持てなくては話にならない。
入院の時の読書は司馬遼太郎の「街道を行く」に決めていたが、今回は本を読めるのはおそらく一日だけだろう。

「邪馬台国をとらえなおす」明治大学名誉教授 大塚初重  講談社現代新書である。

僕は総じて、「邪馬台国」論争は避けて通ってきた。
僕は松本清張から始まったから、長く九州説(きちんと勉強したわけではない)だった。

「欠史8代は九州にあり」と考え、各宮址を研究している古田武彦氏の弟子のような友人もいるが、そんな意見も楽しく聞きながら暮らしてきた。

「邪馬台国論争なるものは、江戸時代の新井白石、本居宣長の頃から現今まで延々と300年続いている」「その主要な論題は位置論であり、畿内説と九州説とに分かれて論陣が張られている」と大塚先生は後書きで述べている。

新井白石を大和説、本居宣長を九州説という仕分けもあるだろうが、それぞれの意見もそんな単純なものではないと聞いている。

結局あとがきで、結論がないということを言っている。

で、この本で
「魏志倭人伝」をキチンと読み直すことができた。
邪馬台国成立前夜―東アジアの激動と倭国の大乱の関係、解明がとても判りやすい。
180年代に卑弥呼共立、247年卑弥呼死すである。邪馬台国の中心はこの世紀、年代にある。

大塚先生は、これに先駆けるかのように、合わせるかのように、二世紀後半から三世紀前半期にかけて、東国各地の日本海沿岸地域と、太平洋岸の広汎な地域内で、土器が激しく移動していることをどうとらえるべきかという問題提起をしている。

これが結論に至るまでのモチーフである。

言うならば、邪馬台国の成立前夜に東国の激しい交流、動きがある中で、九州に邪馬台国ができ、それが国の中心になるということは地政学的にありえなという論旨であろうか。

発掘に基づく諸要素の分析はていねいである。
鉄器なら九州説有利、鏡なら畿内、大和が有利。

箸墓が発掘できない限り、卑弥呼の墓との検証は困難である。
纏向遺跡は邪馬台国の宮殿跡だろうか。4つの建物の周囲をもっと広く掘り続けることなどを強調されている。
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纏向遺跡、巨大建物群の発掘現場説明会

三角縁神獣鏡は「魏志倭人伝」の鏡とは言えない。韻が踏まれない漢文が書かれていて中国で作ったものとは言えず、楽浪郡から持ち込まれたものではないかとの見解も述べられる。「魏志倭人伝の100枚の鏡は」はいずこか、ですね。


こういう地政学的な解明というのは僕は好きだ。
考古学的な発見によって、それが裏付けられる日が来ることを切に期待する。
もちろん、僕は邪馬台国、纏向説である。大和政権に直結していく政権と単純に見ている。
by koza5555 | 2012-07-21 13:50 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

芸三職 森川杜園

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御霊神社を護る狛犬。「神さまを護っとるのを忘れとるようなおかしな狛犬だが、・・顔がおもしろい」と森川杜園に絶賛させた(あくまでも大津さんを通してだが)狛犬を見てみたかった。

森川杜園の本のことを前のブログで書いた。サラッと本の感想を書いたが、いくつか気になった。
杜園の生れた町、仕事をしていた町を見たかった。
森川杜園が模造した東大寺南大門の狛犬を見直してみたかった。
所用で奈良を訪れた。いくつか思いつくまま、回った。

正倉院御物の模造とか奈良人形などは、展覧会でも無ければ、見ることができない。
でも、時間をとれば、今日でも見て、杜園を偲べるものがある。

まずは、とにかく井上町。森川杜園が生まれ育ったところである。
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植桜楓之碑は見るだけでも
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東大寺、南大門の狛犬。伊行末の仕事だが、杜園が作った模造は「頗る真に迫る。実に妙手」と博物局から感状が出る。
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古希の祝いは御陵神社で。この拝殿で森川杜園が演じたのだろうか。
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前段が長くなったが、「芸三職 森川杜園」。大津昌昭さんの著作である。

「ならら」に長く連載されたものであるが、このほど、単行本として出版された。
単行本を読み直してみると感ずることは多い。

森川杜園を通して奈良を見てみると、奈良の素晴らしさが浮かび上がる。いま、この奈良のあれこれを勉強していること、ここに僕は大きな喜びを感じることができた。


森川杜園の人生を改めて考えなおしてみた。
「達者でいればなんでもできる」という言葉に励まされて、森川少年は絵師、人形師、狂言師の三職の道を歩む。
とくに狂言師の勉強は偶然もあったようであるが、奈良まちの知識人(?)のたしなみみたいなものでもあったようである。しかし、初めてみればきわめて相乗的で、特に人形作りに大きな影響を与えて行ったことがよく理解できた。

川路聖謨は昨年勉強した。奈良奉行は川路聖謨にとって都落ちだったが、奈良にとっては素晴らしい人材だった。
はげ山になりかかったならやま丘陵をはじめ奈良の町に松を植え、桜を植えた。
あれ以来、五十二段にさしかかるとき、必ず足を停めている。

師、伴林光平の人生と無念も丹念に語る。
「雲を踏み嵐を攀じて御熊野の果無山の果てもみしかな」。森川杜園は南山踏雲録はみていない。
あわせて、北畠治房(平岡鳩平)に対する批判はきちっと行っている。伴林光平と同行していたが逮捕を免れた。北畠治房、維新後、若草伽藍の塔の芯柱礎石を持ち出した(現在は復帰している)ことでも名高い。

あとは、神仏分離についても文化財の保護の面から迫りつつ、信仰の面に踏み込んで、森川杜園に語らせている。
聖武天皇陵を守ってきた眉間寺の廃寺とか内山永久寺の廃寺などを激しく惜しむ。
そして、興福寺の荒廃を描きつつ、その復興の歴史を丁寧に描く。

これらの時代に森川杜園は、神鹿を描き、彫り、
伎楽、能を彫り、描き、そして狂言を演じ、
正倉院御物の複製などでも大きな役割を果たした。

連載は読んできたつもりだったが、感動の大きい本であった。
奈良の歴史、とくに徳川から明治時代に移る奈良の町を身近に感じさせる「芸三職 森川杜園」で、読み直す価値があった。

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by koza5555 | 2012-07-13 05:26 | 奈良 | Comments(0)