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奈良・桜井の歴史と社会

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サッカーのルーツは蹴鞠

談山神社の社報は「談(かたらい)」という。A4の4ページ。
長岡千尋宮司から、「雑賀さん、かたらいに書いて。一ページまるまる」と昨年の夏ごろに話があった。

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今回の「談(かたらい)」のトップ

最近は一年に2回の発行だが、発行部数が2万5千以上で、これはやりがいがありそうである。
第一回目は、蹴鞠を書くことにした。昨年の9月には東京での講演のおり、お茶の水の日本サッカーミュージアムも見学しており、準備はバッチリである。

こんな文章となった。

談山神社は春と秋、けまり祭を行う。境内の一角に青竹を四隅に立てた鞠(まり)庭でけまりを奉納する祭である。

鞠(まり)を順次蹴り上げ、地面に鞠が落ちると中断となる。演技の連続が面白みで、ラリーが続くと歓声や手拍子の応援も出て、静寂な談山神社はいつになく沸き立つ。一つの鞠を落とさぬように、鞠庭にいる全員が心技を一体にして蹴り続ける。背筋を伸ばした優雅な姿勢で蹴り続けて勝負を競わず、相手が受けやすい鞠を打ち続けることが上手と言われている。
演者の男女は平安時代の貴族のような装束に身を包み、「アリ」「ヤア」「オウ」の三声を掛けあいながら蹴り回す。青壮年は若さの力、老境は円熟の面白みで、年齢、性別に関係なく楽しめる。

今日は蹴鞠の鞠のことを紹介したい。鞠は白く塗り上げられた鹿革製で、中空となっていて、重さはサッカーボールの三分の一ほど、120g程度で整えられている。


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蹴鞠のマリ

この鞠作りをする人に、桜井市の藤田久沙夫さんがいる。
藤田さんは「鞠は二枚の鹿革で作ります。つなぎ合わせた革袋の中に麦を詰めて形を整え、白く塗り、穴から麦を抜きとって中空の鞠に仕上げます」と作り方を説明される。さらに「10年がかりの試行錯誤の末、やっと納得のいくものができました」と古典芸能を支える鞠が作れたこと喜びを語ってくれた。

 藤田さんの作った鞠は、談山神社により、日本サッカー協会に贈られて、東京の「日本サッカーミュージアム」(東京都文京区本郷)、「ボールゲームの歴史」コーナーの一番初めに展示されていて、「寄贈 談山神社 桜井市多武峰」と記されている。
 解説では「古代中国の周の時代(紀元前1100年頃~紀元前256年頃)には、皮を繋ぎ合わせ 毛をつめたボールを使った球技がありました。
この球技はのちに日本にも「蹴鞠」として伝えられ、主に貴族の社交上の遊びとして楽しまれました。蹴鞠とは、革製の鞠を蹴り上げ、地面に落とすことなく蹴る回数を競う遊戯です」と紹介されていて、FIFA(国際サッカー連盟)のプラッター会長が、世界のサッカーの発祥はこの蹴鞠だと宣言したことが紹介されている。

 「蹴鞠がサッカーの始まり」、サッカー協会はそんな展示をしているのである。


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展示の説明。右下に談山神社寄贈の実物のマリが展示されている


『日本書紀』は、「中臣(藤原)鎌足は専横を極める蘇我蝦夷、入鹿の親子の打倒を考え、中大兄皇子(天智天皇)に近づこうと考えた。法興寺(飛鳥寺)の槻の樹の下で皇子が鞠を打つ、そのとき沓が抜け落ち、鎌足が拾った。ひざまずいて差し出す、皇子もひざまずいて受け取った、と記している。
鞠を打つという言い方は微妙だが、「鞠を打つ、沓が抜け落ちる、拾う、差し出す」という一連の動作からは、現在の蹴鞠の姿を感じ取ることができるのではなかろうか。

談山神社の春のけまり祭は4月29日(昭和の日)、秋のけまり祭は11月3日(文化の日)、いずれも神廟拝所西の「けまりの庭」で行われる。

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年に3000円の会費で「談の会」の会員になっていただけると、こんな社報が届き、同伴2名までは入山が無料になるという、年間パスがいただける。とてもお値打ちで、入会をおすすめしたい。
お問い合わせは、談山神社、電話は0744 49 0001である。

by koza5555 | 2017-02-01 00:09 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

日本の蹴鞠 京都蹴鞠保存会

いまごろ、「なんで蹴鞠(けまり)」であるが、蹴鞠の本を読んだ、その読書感想文である。
蹴鞠をテーマに談山神社がらみで蹴鞠を「奈良再発見」(産経新聞)に書いたが、本格的(とは言っても入門書的な)な蹴鞠の本を見つけた。蹴鞠のことが網羅的に解説されている。

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談山神社、蹴鞠祭り 女性プレーヤーである

「あそびわざは、子弓、碁、さま悪(あ)しけれど鞠もおかし」などと枕草紙に清少納言が記しているが、公式の蹴鞠会に女性がプレーヤーとして参加したのは、昭和39年(1964年)(京都蹴鞠保存会)とのことである。
姿かたちは「とわずがたり」(13世紀中期)とか、「好色一代女」などでも紹介されるが、これは好奇の目、姿かたちだけのことだったといい、正式なプレーは戦後からだった。

こんなことが丹念に書かれている。

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日本の蹴鞠(光村推古書院)池 修著


蹴鞠は仏教と共に伝えられた。
644年、飛鳥京、槻木の木のもとでの鞠が乙巳の変(645年)の契機になると書記には書かれているが、これは「打鞠」とされ、蹴鞠とは違うのかも?の論であるが、池さんの論は打毬派のように思える。

蹴鞠ということでは、905年に内裏(だいり)の蹴鞠会で206回けり続け(西宮記)るが、初めの記録とのことである。

鞠を作ることを「鞠をくくる」と言い、今も昔もこれは難しい仕事で、とても高価なものである。
それを歌ったのが、「山寺の和尚さんは鞠は蹴りたし鞠はなし」の童謡とのことで・・・これは気が付かなかった。

蹴鞠の庭の四方に植えられる式木(しきぼく)、
枝鞠から鞠をはずす解き鞠のしぐさとか、
受け取る鞠、自分の鞠、渡す鞠の三拍子(一段三足)で蹴ることなども開設されている。
これを読むと、「ラリーが続くことが楽しそう」と書いたが、もらった鞠をただちに蹴り返すのは、乱れた打ち方?などということもわかるのである。

南面するご殿の前(南庭)に鞠庭を造るのが良いとされ、四方に植えられる四本の木は式木(しきぼく)といい、桜は東(東北すみ)、柳は南(東南すみ)、カエデは西(西南すみ)、松は北(北西すみ)が正しい。
談山神社のような場合は、「四方に竹を植えて式木の代わり」であるが、資料を見る限りでは、京都御所をはじめ、多くは竹を植えて鞠庭としている様子である。

鞠庭に瓶(かめ)を埋めて反響を楽しむことは古くから室町時代には行われていた様子で、室町時代には能舞台の下にも瓶が置かれたとのことで、共通性もある様子である。

「現在、蹴鞠は京都御所の春秋の一般公開や特定の神社での奉納鞠で行われているにすぎません。したがって蹴鞠という言葉はご存じでも、実際にご覧になられた方は多くはないと思います」ということで、春・秋に蹴鞠を拝見できる僕は幸せ者である。
by koza5555 | 2014-08-03 23:23 | 読書 | Comments(0)

乙巳の変と蹴鞠

留学生サポートツアーは明日香村と多武峰である。
初日は電動アシストのレンタル自転車で明日香村をまわり、橿原神宮前で一泊である。
二日目は談山神社で蹴鞠(けまり)を楽しみ、聖林寺の十一面観音を拝観して、バス・電車で今井町を訪れ、今西家を見学するという日程である。

「明日香村で外国人(中国からの)留学生に何をみてもらうか」・・・

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こんな姿を見せてあげたい

今の明日香村を歩きながら、古代のパネルを示しながら、ツアーをすすめるのである。

乙巳の変、645年6月12日(旧暦)の中大兄皇子、中臣鎌足と蘇我一族にスポットライトを当てた。
入鹿、誅殺の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)、皇子軍が集結する飛鳥寺を見学して、蘇我一族が立てこもる甘樫丘を遠望するという形である。

入鹿の祖父の馬子の墓と言われる石舞台古墳、入鹿の首塚という五倫の塔とこのエピソードに関わる史跡は事欠かない。
しかも鎌足が中大兄皇子と近づきとなる契機とされる「けまり」を二日目に訪問するという日程である。

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乙巳の変。多武峰縁起から

こんどの留学生ツアーは「見て、体験して、食べて、時々は買って、日本の文化に関わってみよう」というツアーである。

その点で、万葉文化館の企画はこちらの狙いにピッタリだった。
図書室で「押し花ではがきを作る」とか、ピロティでは「万葉衣装で変身」という企画である。

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ご機嫌である

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もう一枚。ノリました

話はいっぺんに二日目の談山神社である。
蹴鞠のことは僕も産経新聞に書いている。それを参照していただきたいが、今日は雨の心配である。
衣装がものすごい、そしてけまりの鞠、雨には全く対応できない。

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ところが祭員、京都蹴鞠保存会が境内に参進してくる時間はこんな感じである。雨が降っていた。
「テントの下で、奉納する」と放送がある。これはもう、「形だけでも見せましょう」である。

神廟拝所で神事は行われる。
ところが、そのころから雨があがる。
けまりの奉納は蹴鞠の庭で行われた。

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これは、神社も蹴鞠会も観覧者も大満足である

拝殿には嘉吉祭、百味御食(ひゃくみのおんじき)が展示されている。
嘉吉祭の当日には、神饌は奥の奥で、こんな形ではふつうは見ることができない。

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一度ご覧いただきたい。

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3日の朝、談山神社の十三重塔の姿である。紅葉は1週間くらい先から、西から東に順々に移り2~2週間は十分に楽しめる。
by koza5555 | 2013-11-04 12:35 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

談山神社の蹴鞠、「なら再発見」に掲載

産経新聞の奈良版、今日の「なら再発見」は談山神社の蹴鞠である。

春と秋の蹴鞠はここ5年、欠かさず拝見してきた。
報道されつくした談山神社の蹴鞠だが、「なら再発見」にふさわしいテーマがあると考えた。

そこで談山神社はもとより、マリをつくる藤田さんのご協力をいただき、天理参考館の蹴鞠展を拝見し、東京のサッカーミュージアムのお話も聞くなどで、取材に時間をかけた。
記事は蹴鞠のあらましの話だが、独創的な推理も付け加えた。

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以下、全文である。

 桜井市の南、多武峰の談山神社は春と秋、けまり祭を行う。境内の一角に青竹を四隅に立てた鞠庭(まりにわ)で蹴鞠(けまり)を奉納する祭である。
蹴鞠はサッカーのリフティングを思わせるような演技で、鞠を順次蹴り上げ、地面に鞠が落ちると中断である。演技の連続が面白みで、ラリーが続くと歓声や手拍子の応援も出て、静寂な談山神社はいつになく沸き立つ。

演者の男女は平安時代の貴族のような装束に身を包み、「アリ」「ヤア」「オウ」の三声を掛けあいながら蹴り回す。
一つの鞠を落とさぬように、鞠庭にいる全員が心技を一体にして蹴り続ける。背筋を伸ばした優雅な姿勢で長く蹴り続け、勝負は競わず、相手が受けやすい鞠を打ち続けることが上手と言われている。
青壮年は若さの力、老境は円熟の面白みで、年齢、性別に関係なく楽しめて、蹴鞠はスポーツとしても優れていると言われている。

ボール(鞠)に特徴があり、白色に塗り上げられた鞠は鹿革製で中空となっている。重さは120gくらい、サッカーボールの三分の一くらいの重さである。
桜井市の藤田久沙夫(ひさお)さんはこの鞠を作っている。藤田さんは「鞠は二枚の鹿の革をつなぎあわせて作ります。つなぎ合わせた革袋の中に麦を詰めて形を整え、白色に塗り、麦穴から麦を抜きとって中空の鞠に仕上げます」と作り方を説明し、「10年がかりの試行錯誤のすえやっと納得のできるものができた」と顔をほころばせている。
藤田さんの作った鞠は談山神社のけまり祭で使われたこともあり、さらに談山神社により日本サッカー協会に寄贈され、日本サッカーミュージアム(東京都)の「ボールの歴史」コーナーに展示されている。

日本書紀には、「中臣(藤原)鎌足は専横を極める蘇我蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)の親子の打倒を考え、中大兄皇子(天智天皇)と近づきになることを考えていた。そのチャンスが訪れる。法興寺(飛鳥寺)の槻(つき)の樹のもとで中大兄皇子が鞠を打つ、そのとき沓が抜け落ち、鎌足が拾う。ひざまずき差し出すと中大兄皇子もひざまずき受け取った」ことが記されている。
このことを大化の改新(645年)の大業成就の始まりとして、この縁(えにし)を大事にして談山神社はけまり祭をおこなっている。

日本書紀に記される「鞠を打つ」という競技は、今日のポロやホッケーのような競技だとも言われている。同時に「鞠を打つ、沓が抜け落ちる、拾う」という一連の行為からは、現在の蹴鞠の姿を感じ取ることもできるだろう。いまでは当時の競技の内容は定かではないが、古代のボールゲームが大化の改新という歴史のなかで役割を果たしたことは間違いのないところである。

現在、談山神社で行われているような蹴鞠の形は平安時代に完成している。清少納言が「枕草子」の中で、「蹴鞠はおもしろい」と触れるような隆盛を迎えるが、蹴鞠はその後盛衰を重ねたが、いまは京都蹴鞠保存会が、その文化、技術を継承している。

談山神社の春のけまり祭は四月二十九日(昭和の日)、秋のけまり祭は十一月三日(文化の日)、いずれも同社のけまりの庭で行われている。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 雑賀 耕三郎)



飛鳥の時代のけまりの形の資料がいまに残らない。ねずみ色の表示のところの論立てに僕の工夫がある。ご理解をいただけたら嬉しいのですが。
by koza5555 | 2013-09-07 08:07 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

飛鳥寺西方遺跡の現場見学会

明日香村が2月2日、飛鳥寺西方遺跡の発掘現場見学会を開いた。
飛鳥寺の西方、甘樫の丘の間である。いわゆる入鹿の首塚という五輪の塔の足元から西に掘られていた。
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遠方は甘樫の丘、手前が五輪塔の塔
370平方メートルの発掘だが、過去最大の広さの石敷きが見つかったとのことである。
この地域は、「飛鳥寺西槻」として日本書紀にも登場する。
「斉明天皇の時代には、飛鳥寺に西に須弥山の像をおいたと記されています。その後、壬申の乱の時には飛鳥寺西の槻の樹の下で飛鳥を守るための軍営が置かれたとあります。天武・持統天皇の時代になると、蝦夷や隼人・・辺境の人々を飛鳥寺西槻の下に大勢招いて饗宴を催した場所としても描かれています・・・これらの記事から飛鳥寺の西には槻の樹があり、大勢の人が集まる『槻樹の広場』があったと考えられています」(明日香村、報告会パンフレット)。
見逃せない発掘現場報告会である。
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明日香村パンフレット

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明日香村、教育委員会の長谷川透さん。軽いステップで報告する。今日は主人公、晴れ舞台である
小石が敷き詰められている。一部に大きめの石(約20センチ程度)を敷いた部分もあるが、そこには直径約1・5メートル、深さ約40センチの穴が掘られている。用途は不明で、その時代、もしくは後世に掘られたものとのことである。
橿原考古学研究所の発掘と合わせてみると、広場は飛鳥寺の西側、南北約200メートル、東西約120メートルの広さである。

談山神社の蹴鞠のことも考えた。
日本書紀には、「中臣(藤原)鎌足は専横を極める蘇我蝦夷、入鹿の親子の打倒を考え、中大兄皇子(天智天皇)と近づきになることを考えていた。そのチャンスは法興寺(飛鳥寺)の槻の樹のもとだった。中大兄皇子が鞠を打つ、そのとき沓が抜け落ち、鎌足が拾う。ひざまずき差し出すと中大兄皇子もひざまずき受け取った」(意訳)と記されている。
この槻の樹の広場は間違いなく存在していたのだ。
by koza5555 | 2013-02-02 23:23 | 奈良 | Comments(0)