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邪馬台国はどこだ バトルに出演

本日、12月29日の奈良新聞に4ページにわたり「第五回おもしろ歴史フェスティバル」が報道された。

第5回おもしろ歴史フェスティバル「歴史を愉しむ」(同実行委員会主催、奈良新聞社・国営飛鳥歴史公園・国営吉野ヶ里歴史公園共催、飛鳥京観光協会・県立万葉文化館・NTT西日本奈良支店協力)が去る10月9日、明日香村の県立万葉文化館と佐賀県吉野ヶ里歴史公園で開かれ、インターネット回線で結んで実況中継された。奈良会場は約350人、佐賀会場には約200人の歴史ファンが参加した。
第1部は、昨年9月に続く2回目の歴史バトル「邪馬台国はどこだ?」を開催。邪馬台国の所在地を巡り、研究者や歴史愛好家が論争を繰り広げた。
(奈良新聞から)

この歴史バトルに出演の依頼があり、10分間ではあったが、「邪馬台国=纒向」論をお話しする機会を得た。

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僕の発言も紙面で紹介されている
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纏向遺跡は広さが約300㌶あり、箸墓古墳やホノケ山古墳が含まれています。出土した土器は地の地域からの搬入土器が多く、農工具はほとんど出土しなくて、土木用の多くの工具が出土しました。
纏向遺跡は計画的に造られた最初の都市と考えます。この地は、ヤマト王権発祥の地であり、さらには邪馬台国が存在したとしても不思議ではありません。
 纏向遺跡から出土した大型建物が注目されます。直径32㌢㍍の太い柱が5㍍間隔で5本並び、間口が20メートルもありました。当時の最大の建物です。さらにこの大型建物と合わせて、3棟のたてものが中軸線を一直線にして並んでいました。また、建てられた年代は200年代初めで、250年くらいまで建っていたと推定されています。卑弥呼が即位したのが180年ごろ、亡くなったのが247年とされていますので、卑弥呼の宮殿だったと考えることもできます。
 近くにある黒塚古墳からは、三角縁神獣鏡が33枚、画紋帯神獣鏡が一枚出土されており卑弥呼が受け取ったとされる鏡が含まれていると考えられます。また古墳の石室の北側から出土したU字型鉄製品は魏から届けられた黄幢との見方もあります。
纒向遺跡を邪馬台国としてみることができる地下からの証拠が出ており、総合的に考えると、邪馬台国は現在の纒向遺跡のちにあったと考えます。


来年も邪馬台国、そして奈良の魅力、もっともっと発信していきたいものである。
by koza5555 | 2016-12-29 08:05 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

稲部(いなべ)遺跡発掘調査現地説明会

滋賀県彦根市の稲部町・彦富町の発掘調査現地説明会が実施された。

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会場は超満員。正面は荒神山。山の向うは琵琶湖で荒神山古墳(120メートル)は琵琶湖側の中腹にある。説明は彦根市教育委員会の戸塚洋輔さん。
資料は600枚用意されたそうだが、瞬くまになくなった。参加者は千名程度か。

場所はこんな感じである。稲枝駅近くの赤の四角が遺跡である。
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僕にとっては異例の遠征である。
キーワードは「邪馬台国時代の大型建物」と「6㎏も鉄製品や鉄片」である。

稲部遺跡。2世紀から5世紀にかけての遺跡である。
3世紀、邪馬台国の時代に180平米の超大型建物の柱穴を発掘、大量の鉄の残滓、鉄鏃(鉄の矢じり)などが発掘された。
竪穴住居が180以上、大型建物も時代はまたがるが5棟は発見されている。
ムラというよりクニと言える遺跡で、それが4世紀・5世紀につながる(滋賀県では有数の荒神山古墳)遺跡も残されているという具合だ。

発掘された土器から大和、伯耆、越前、美濃、尾張、伊勢、三河・遠江、駿河に至るつながりが確かめられた。韓式の壺もあり、国際的な交流も指摘されている。

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展示品の鉄鏃。鉄滓も展示されていた。

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桃のタネ…祭祀に使ったか?

邪馬台国時代、「畿内のクニグニの経済力や鉄の生産力、建物や人口がどうだったか」、そこに僕は関心があるが、期待以上の遺跡が出て、邪馬台国、畿内論の一つの軸柱となるよな遺跡である。


彦根市教育委員会のHPによれば、遺跡の現地見学会の案内は以下の通りである。

彦根市教育委員会では、市道芹橋彦富線・稲部本庄線道路改良工事に伴う発掘調査を実施しています。
平成25年度から実施された調査で発見されたのは、2世紀から4世紀(弥生時代後期中葉から古墳時代前期)の大規模な集落跡です。
稲部遺跡が最も栄えた時代は、3世紀前半、弥生時代から古墳時代へ移り変わる時代、つまり、邪馬台国と同じ時期にあたります。

中国の歴史書「魏志倭人伝」には、このころ、倭(=日本)には、魏もしくは出先の帯方群と外交している国が30ヶ国あったとあります。おそらく、稲部遺跡も、この国々の一つの中枢部だったと思われます。

稲部遺跡からは、180棟以上の竪穴建物に加え、王が居住するにふさわしい大型建物、独立棟持柱建物が発見され、当時、保持することが勢力に大きな影響を与えた鉄器の生産が行われた鍛冶工房群、青銅器の鋳造工房も発見されています。祭祀都市・政治都市であるうえ、工業都市でもあった稲部遺跡は、ヤマト政権成立期における近江の巨大勢力の存在を物語る大集落です。

現地説明会では、この「イナベのクニ」とでも呼ぶべき遺跡の内容と、近隣にそびえる国指定史跡荒神山古墳へのつながりについても、調査担当者がお話しします彦根市が誇るべき、大遺跡の調査を体感できる貴重な機会です。ぜひ、ご参加ください!。



年表なども入っていて、とても丁寧な説明会と資料だった。発掘の説明会の機会が少ないのかもしれないが、若い人の参加が目立つ現地説明会だった。
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by koza5555 | 2016-10-23 16:32 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

「邪馬台国はどこだ」。歴史バトルに参加しました

10月9日、インターネット回線で、吉野ケ里と奈良の万葉文化館を結んで、歴史バトル「邪馬台国はどこだ」(奈良新聞社など)が開催されました。
今年の趣向は市民代表の参加で、その一員として10分ばかりの時間をいただきました。

8月のある日に、纒向遺跡の名付け親、石野博信先生から電話をいただきました。
「邪馬台国の取り合いをする。あなた出てもらえますか」と、突然の電話が入った。まあ、それなりに快諾である。9月から10月にかけては「おとなび」で「卑弥呼の大和」ツアーを受けていたので、合わせての準備だった。

会場風景である。
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僕は、こんなような話をしたのである。
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はじめに纏向遺跡を見渡します。
箸墓古墳、ホケノ山古墳、こちらが纒向石塚古墳。
ここが遺跡の中枢部、ここに大型建物跡が出現しました。

この遺跡の特徴は
●まずは大きい、広い。300haあります。
●各地方からの多数の搬入土器。吉備、東海、北陸、出雲、さらには九州から関東まで、纏向が広範囲なつながりを持っていた。
●土木工事用の工具が多く、農耕具が少ない。クワは無くて、スコップが出る・・一般的な環濠集落とは異なっていた
●箸墓古墳をはじめ、出現期の古墳が集中。古墳が多いところ、前方後円墳の始まりの地とされていますが

地下から出てきた膨大な遺物、地下構造物のあり方から、ここは日本の都市の始まり、都・宮の始まりではないか、具体的に言えば、ここはヤマト王権発祥の地、さらには邪馬台国畿内説の候補地として注目されるようになりました。

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① 桜井市は平成21年、7年前の11月に「纏向遺跡第166次調査現地説明会」。
この時の配布資料は、ネットで「纏向166次」と打ち込むと、今日でも、当時のままでプリントアウトできる。
桜井市のベストセラー、ベストヒットです。
 
纒向遺跡の名づけ親、初めからここを掘ってきた、こちらにみえる石野先生でさえ、
「纒向からは(太い柱は)出ない。無かったか、細い柱で大きな建物を建てる技術革新があったのか」などと書かれた直後。

② 幅20メートルで奥行きが12,4メートル。250平方メートルもあった。
発掘された柱穴(ちゅうけつ)から、柱の太さは32センチと15センチとされた。
32㎝の柱、東西・南北に一直線。南北でみると柱穴列は5本、その間隔が約5メートル。
その柱列(ちゅうれつ)の真ん中に15センチの柱がたち、これも東西に一直線である。
太い柱が一直線、その間に細い柱が一直線。太いの、細いの、太いの、細いのである。
太い柱は屋根を支える、細い柱は床を支える束柱とみることができる。

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① BCDが一直線。しかも建物は方形である。
●まずは建物B 一辺が5メートル。
●そして建物C。南北8メートル、東西が5、2メートル。北の壁と南の壁の外側に柱穴がある。
棟持柱穴(むなもちばしら)と判断された。
屋根の一番高いところに棟木が通る、それを支える柱である。
●Dである。一番東から出てきた。
南北が20メートル、東西は12、4メートルである。
② B、C、Dは庄内式前半、三世紀初めの土器を含む整地層を掘りこんで柱が建てられている。だから建物は 3世紀前半には建っていたのである。

さらにこの遺跡には重要な特徴があった。
● 建物の隅の柱穴を切った溝 この溝からは庄内3式 250年
● 更に複数の柱穴を破壊する溝 これは布留0式の壺が。260年以降だ
つまり、この大型建物は 西暦200年から250年の間だけ存在した宮殿なのである。始まりが判り、終わりの時期が判っている。すごい発見である。

一直線に中軸線をとおす方形の建物で時期が明確。
200年~250年の頃。誰がいましたか、何がありましたか。この国に。
180年に卑弥呼共立、247年に卑弥呼以て死す。大いに冢をつくる。

それは邪馬台国であり、卑弥呼だと言いたいのです。この宮殿こそ卑弥呼が、「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑」わした場所だったのでないでしょうか。

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① 黒塚古墳、纏向遺跡のすぐ近くです。
盗掘や開発によって、原型を留めていない古墳も多いなかで、この黒塚古墳はまるでタイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。中世・近世は砦、お城として使われた歴史もある。
130メートルほどの前方後円墳で、3世紀から4世紀にまたぐものである。

② 棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡、棺の頭の前に画文帯神獣鏡が置かれた。
● その北側に不思議な「Ù字形鉄製品」。石室の大事な場所です。こんな所である。
● これが拡大図。二本のパイプは、叩いて丸めて作られた鍛造の鉄、正確な細工が施されており、弥生時代、古墳時代のものではきわめて特殊なもの。
● パイプには布の破片も付いていた。
● このÙ字形鉄製品は、魏書に記された黄幢(こうどう)との指摘がある。
「其の六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜ひ、郡に付して仮授せしむ」です。

このÙ字形鉄製品こそ、魏書に記された黄幢。
黄幢とは、黄色い吹き流しのような軍旗。
この絵です。同時期の遼陽の壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられるものが描かれていた。

さて、このU字形鉄製品、これが黄幢となると、黒塚古墳は、難升米のお墓の可能性が高まります。どうでしょうか。


考古学という学問を信じて、掘り出されたモノを信じれば、僕たちはその時代にたつことができる。
言い換えれば、到達した科学的な知見を信じてその道をたどれば、邪馬台国は畿内、ピンポイントで纒向に行きつくだろう。           


長々と読んでいただき、ありがとうございました。

飛鳥会場は350名もの入場。会場いっぱいの皆さんから暖かく、力強い反応がいただけました。
バトルの勝敗は?僕の心の中では圧勝だが、まあ、これは当事者の自己採点ということで(笑)
邪馬台国は、これからも勉強しながら、おりおり企画も作っていきたいとと考えております。




     
by koza5555 | 2016-10-10 10:22 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

邪馬台国はどこだ?公開討論会に出ます

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これに出ます。10月9日(月)に、邪馬台国をめぐる公開討論会に出場します。


「邪馬台国は大和や」というお話をするのである。「邪馬台国は奈良・纒向だ」というお話は何度もしてきたが、今回は事情は大違い。

奈良と佐賀で、それぞれ300人ほどの会場をつくり、2人の奈良代表が15分づつ、佐賀の2人も15分づつで主張、両会場はテレビ中継を通じて結ばれている。主張の後は、さらに討論をしようという企画である。奈良側に石野博信先生、九州側に高島忠平先生が後見・応援するという豪華討論会。

8月に電話がかった。「邪馬台国で公開討論会をするんです。あなた、出てください」と。
僕も「おとなび」で「邪馬台国九州論、畿内論」というツアーを受けてる。九州側の講師は高島先生で、僕は高島先生の向うを張って「大和論」を案内している。「ここは引くことはできんなあ」と引き受けたのである。

纒向遺跡や周辺のことを語ろうと考えている。

古墳が密集していて、纏向で前方後円墳が発生したと言われている。
纒向・三輪は前方後円墳の故郷だが、纒向は日本の始めて都市、宮・都ということも明らかになりつつある・・・そんなことをお話ししてみたい。

1971年(45年前)以降、 纒向の発掘は継続的にすすめられてきている。
この発掘が進むにつれて、纒向は大和政権発祥の地として、または邪馬台国畿内説候補地と知られるようになった。発掘はさらに続いており、現在では180次を越える規模、期間の長さである。

纒向遺跡は
●まずは大きい、広い。段階がありますが、最後は南北約1.5km、東西約2km。300ha
●よそからの搬入土器の出土比率が15%。吉備、東海を中心に九州から関東にいたる広範囲な地域とつながっている。
●箸墓古墳からはじまり、纒向石塚古墳(国史)など、初期の前方後円型の墳墓が集中した。

こんな時にトリイノマエにて中軸線が一直線、方形の大型建物跡が発掘された。
ここから、纒向は「日本最初の邪馬台国の都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都で宮」といわれるようになっていく。


9月30日の奈良新聞に折り込まれた「奈良観光タブロイド」・「ことなら」参照
会場はすでに満席である。

僕はがんばる。また、続報いたします。よろしくお願いいたします。
by koza5555 | 2016-09-30 22:59 | 奈良 | Comments(0)

「大和の卑弥呼」 東京の奈良まほろば館

奈良まほろば館(東京・日本橋)で「大和の卑弥呼」という講演を行う。9月17日(土)午後2時から一時間半である。まほろば館は4回目で、今回は邪馬台国をテーマに選んだ。

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パワーポイント、タイトル

奈良まほろぼ館の講座案内は
「邪馬台国はここだ!」という証拠が、桜井市の纏向遺跡で次々と発見されています。纏向の大型建物群跡や石塚古墳の前で邪馬台国の時代の風景を実感していただきます。
さらに卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳を前にして「卑弥呼の姿と人となり」を共に考えてみましょう。

こんな形で紹介されている。


1800年前の纏向と箸墓を案内する。東京、関東の皆さんに卑弥呼と共に纒向に立っていただくという語りをしたいのである。

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纏向遺跡を語る。2011年の大型建物説明会


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箸墓古墳を話します

卑弥呼は祭司者か、それとも権力を持つ施政者か・・こんな話しをしてみたいのである
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纏向遺跡をかかえた桜井に住んでいて、そして邪馬台国ツアーを案内しながら考えている。
僕の身の回りの人は邪馬台国への関心がイマイチだが、纏向を見る日本の歴史ファンの思いの熱さは格別ということを。
西日本一円からお客様を集めた「邪馬台国畿内論ツアー」(おとなび)を案内して、そのことを目の当たりにした。邪馬台国ファンは勉強している。その思いには熱さと深みがある。中途半端の勉強では広島や島根、北陸からやってくる邪馬台国ファンには太刀打ちできない。

邪馬台国と卑弥呼は古代史のハイライト。「邪馬台国がきちんと語れるガイドになってこそ、奈良や桜井のガイドだ」と痛感することしきりである。今回は、それを東京で語ってみよう。

9月17日(日)日本橋、まほろば館でお待ちしています。

「大和の卑弥呼」
1.日  時:平成28年9月17日(土)14時00分~(1時間半程度)
2.講  師:雜賀耕三郎 氏
        談山神社氏子総代。NPO法人奈良まほろばソムリエの会 理事

3.申し込みは   奈良まほろば館に




by koza5555 | 2016-08-16 09:38 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

箸墓隣接地を国史跡指定へ(申請)

「箸墓隣接地を国史跡指定へ」、桜井市の動きを各紙がいっせいに報道した

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箸墓古墳

邪馬台国の女王・卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の箸墓古墳3 件の隣接地を国史跡に指定するよう市教育委員会が文化庁に申請したことが30日、市教委関係者への取材で分かった。
 昨年、古墳前方部の隣接地3 件に商業施設が計画されていることが判明。景観を損なうなどとして市が事業者と計画撤回を求めて交渉し、史跡指定後に市が公有地として買い取ることで合意を得た。本年度中に国の文化審議会で検討され、指定される見通し
(産経WEST)。

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空から見ると。前方部の西側、国道に沿って温泉施設が・・・

箸墓古墳の前方部、西側には花卉販売の店舗跡、廃墟のような施設が残されてきていたが、この土地の所有者が今年に入って移転したと聞いた。
この新たな所有者が、こちらに入浴施設を計画したというのである。すでにボーリングも行われたとのことである。こうした事態をうけて、桜井市が動いたという報道である。

市教委関係者によると、申請は今月(7月)21日付。市は「古墳の起源やヤマト王権の成立過程を考える上で重要」とする意見を申し入れた。史跡指定を求めるのは、古墳の前方部に接する約1万5千平方メートル。これまでの発掘調査から古墳の周濠部分に当たると考えられるという。(産経WEST)


店舗跡地だけではなく、その南の植木畑なども含まれるということである。

圧倒的に県外からの参加者という「邪馬台国は畿内」というツアーを、僕はいま案内している。纏向遺跡と箸墓古墳を語り、邪馬台国や卑弥呼への思いを共有するツアーである。

西日本の各地から駆けつけてくるお客様と話していると、「纏向遺跡は日本の宝」としみじみ感じるのである。
この重要な資産である箸墓の外周部の景観が守られる。桜井市の決断を当たり前のこととして、僕は認めたい。
纏向遺跡は日本の宝、桜井市と市民はそれを守る義務があるし、守る意味もある。

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左が箸墓古墳、右が市が買いとる店舗跡地



国道側から店舗跡地越しに箸墓古墳をみると
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by koza5555 | 2016-08-03 06:48 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

纒向遺跡の大型建物

纒向遺跡の大型建物(トリイノ前)を、「今、古代大和は」(石野博信)で考えた。

5月6日(午後7時から、駅前エルトの2階)、桜井のカルチャーで「邪馬台国」の続編をお話しする。
前篇は「邪馬台国は大和」論で楽しく語らせていただいたが、今回の後篇は①纒向遺跡、②古墳、③女帝論を丁寧に具体的に語りたい。

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トリイノ前大型建物、復元模型

「今、古代大和は」(石野博信)が生々しいエピソード満載で、こんな話のためには強い味方である。

1971年に桜井市辻にアパートが建つことになり、続いて県営団地や纏向小学校が予定されて以来、五年間、纏向遺跡の調査が続きました。その結果、纏向遺跡は以前から有名なオオヤマト古墳地帯の、2・3世紀の大規模な「都市」と墳墓であることが判り、邪馬台国所在地論と重なって注目され、ついに調査開始から38年目の2009年(平成21年)に東西に一直線に並ぶ3世紀の大型建物群が桜井市埋蔵文化財センターの調査で出現しました(あとがき)。

桜井市の橋本さんからお聞きしたことがあった。
「纏向遺跡の中枢施設として可能性がある場所は二ヶ所考えてきていた。それは珠城山古墳の北方とツジトリイ前地域だった。珠城山古墳の北側は開発の規制がかかっていて急がなかったが、巻向駅の西方のトリイ前は宅地開発の話が出てきたので、こちらが急がれた」(橋本輝彦氏談)。

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トリイノ前、大型建物の発掘図というか、パワーポイントの出だし

 2009年2月から桜井市埋蔵文化財センターは、初めて纏向遺跡の中枢地を探す学術調査を開始した。纏向遺跡は二世紀末に突然現れ、四世紀中ごろに突然消える人工的集落でその規模は4万平方メートル(原文ママ)と巨大だ。しかし、160回をこえる発掘調査によっても中枢地と思われる建物群は見つからず、古墳を造るための労働者のキャンプ説が登場するほどであった。
 3月18日、ついに小さな祭殿の周囲に大きな建物群と柵囲いの一端が現れた。時期は三世紀前半、まさに邪馬台国と女王・卑弥呼が都を定めた時である。建物群は方位と柱筋を揃えて、整然と並んでおり、まるで飛鳥時代以降の宮殿のようだ。(二上山博物館広報 2009年4月号)

11月10日、桜井市纏向遺跡で「3世紀前半の大型建物が見つかった」と発表された。3世紀前半は倭国の女王ヒミコが都とした邪馬台国の時代である。一気に邪馬台国大和説が盛り上がり、あたかも決着したかのような雰囲気になった。
 それは三世紀前半の全国最大規模の建物であるだけでなく、前回の調査で分かっていた3棟の建物の中心と一直線に並ぶという計画的建物群であることが根拠の一つである。4~6世紀ヤマト王権の時代、つまり、古墳時代の全期間でも、これほど計画的な建物配置はない。(二上山博物館広報2009年11月号)

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今、古代大和は

by koza5555 | 2016-04-24 16:02 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

ヒミコの系譜と祭祀

邪馬台国のツアーで質問を受けた。「『鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす』卑弥呼の祭祀はどんなものだっただろうか。」
また、京都で古墳のガイドをしている方からは、「巫女埴輪の解説をしている。巫女埴輪は卑弥呼とのつながりはないだろうか。」

難題である。

これを考えながら、探し出したのは「ヒミコの系譜と祭祀」(川村邦光著)である。
日本のシャーマニズムの研究、祭祀の古代のあり方を研究されている。
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 「ヒミコの系譜と祭祀」  川村邦光  学生社である

今日は日本のシャーマニズムとシャーマン、これはパスして卑弥呼と箸墓古墳から考えてみよう。
まずは箸墓古墳のことである。
ヤマトトトビモモソヒメは箸でホトを突いて亡くなったとされる。まずはこれが問題である。

原始宗教、シャーマンの祭祀の中で、「女性の性器・ホトを突く」は性交を意味して、妊娠、出産につながる一連の生のプロセスを示す言葉として、常に豊穣な実りを示すシンボルとしてあつかわれている。
しかし、「ホトと突く」が逆に死につながる例が二例だけ示されていることに、川村先生は注目するのである。こんな事件は大きな歴史の転換点に現れたということでもある。

①その一例はスサノオが高天原にて乱暴狼藉を働く場面。屋根を開けて皮をはいだ馬を投げ入れる。機織り女が驚いて、「天のはた織女 見驚きて、杼(ひ)にホトを突きて 死にき」である。
アマテラスの統治する高天原、女の世界をスサノオが暴力的に侵したことをシンボリックに表したとみることができる。
怒ったアマテラスが岩屋に入り、困った神々が集い、歌舞音曲、魂振りを行い、鏡をアマテラスに差し出されて、アマテラスは岩屋を出ることになった。社会・時代は新しくここから始まったとされる。

②もう一例は箸墓古墳とヤマトトトビモモソヒメの伝説で、「箸にホトを突きて薨(かむさ)りましぬ」である。
オオモノヌシは大和の国ツ神として、国家的な神として祭祀されるようになります。オオモノヌシは、巫女の祭祀する地域の神から王権の神へと変容し、宗教的な権威および権力が巫女から、大王へと移っていった、とも言うことができます。
 そこでおこったのは、巫女による蛇の祭祀の断絶だったと考えることができます。ヤマトトトビモもソヒメの「ホトを突く」ことによる死とは、卑弥呼に象徴されるような、古代の巫女王の終えんを告げているのではないでしょうか。

これをシンボリックに記念したのが、箸墓とよばれる、巨大な古墳だったのでないかと思われます。大王の時代、古墳時代の開始を告げる、前方後円墳です。


古墳の造営を指揮し、巫女王を弔うとともに、自らの政治・宗教的な力を掲示したモニュメント、この王の名はハツクニシラススメラミコト、崇神天皇とされているのです。

卑弥呼の時代には政治と祭祀を執り行った祭司が、政治から切り離されていく境目に箸墓古墳があるとの解説である。


シャーマニズムと言えば、神功皇后も忘れられない。
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戦前の「神功皇后の一円札」なども紹介されている。これはイタリア人、エドアルド・キヨッソーネが描き、容姿からは西洋と日本女性の折衷的な印象とされている。


巫女埴輪の編年と紹介もおもしろい。(p138)
巫女埴輪は5世紀中葉に出現する。これは卑弥呼とは200年の差もない。
政治と祭祀に絶大な権限をふるった卑弥呼とは全く違うだろうけど、6世紀後葉まで150年にわたり、各地で巫女埴輪は立てられ、それが出土しており、巫女の役割は営々と続いていったことの考古学的証拠と言えるだろう。

巫女の装束としてはオスイ(袈裟状の着衣)、タスキ、帯、垂れ紐が共通とされる。
番上山古墳(藤井寺市 出現期・5世紀末)から出土の巫女埴輪。5世紀末、出現期のもので近つ飛鳥博物館に展示されている(いた?)とのことである。

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この埴輪は古墳時代のものであるが、「この服飾は弥生時代からのものでは」との論もあるようである。

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唐古鍵や清水谷などから出土の祭司の服飾との共通性も指摘されていて、服飾的には卑弥呼の制服は、この間にあると見ることは難しいだろうか。

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箸墓古墳
by koza5555 | 2016-03-18 21:17 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

「清張通史①邪馬台国」 対 日本考古学

2月10日、17日、25日は「大和の卑弥呼」ツアーである。新大阪発だが、満員となった。

10日は僕がメインの講師、17日は鉄田さん(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事)がメイン講師、25日は僕が講師である。
このツアー、3回ともやる予定だったが、15日にちょっと急な入院が必要となってしまって、僕は2回の予定である。

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10日のガイド。トリイノ前(巻向駅)大型建物跡 出現現場で

30年ぶりに、「清張通史 Ⅰ 邪馬台国」を読んでみた。
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高松塚古墳から、7世紀末か8世紀初頭とみられる壁画が、昭和47年に姿をあらわしたのが、そのいい例である。あのようなみごとな壁画が埋もれていようとは、どんな考古学者も歴史家も夢想しなかった。文献のほうはタネが尽きているのに、考古学は地下に限りない資料を持っている。(P19)

北部九州は魏のコロニーであった」をテーマに邪馬台国九州論を展開している。
一大率は卑弥呼が置いたのではなく、楽浪郡の官吏で「一支率」とのことでる。

卑弥呼の実態は諸国王に共にささえられている貧弱な巫女にすぎない。そんな実力も権力もない卑弥呼の派遣した「一大率」の検察を、どうして諸国が忌憚しようか。一大率は一支率の誤りと考え、それを郡の太守の派遣であるとしてのみ理解できるのである。

郡使が邪馬台国に行った形跡がないことは、前に書いたように「宮室・楼観・城柵・婢千人」といった空想的表現で卑弥呼の居所を描写していることからもわかる。中には邪馬台国まで実際に行っていると推測する説もあるが、それだともっと具体的に邪馬台国の情景が記事に出ていなければならない。(p171)

では郡使はどこまで行ったのか、倭の勢力中心も後漢時代の奴国から伊都国に移っていた。すなわち伊都国は帯方郡の「郡使の往来常に駐る所なりであった。(p160)

郡から派遣された「一大率」が日常的に伊都国に置かれて「国々を忌憚させ」、郡使が来たときは「日常的に伊都国に駐まる」という。どちらも上司は郡の太守である。
双方が伊都国で立ち止まる、駐留する形である。実際はありえないと思える。

しかも、これでは邪馬台国九州論に新たな問題が投げかけられる。
私は、福岡県南部に邪馬台国があったという説に賛同したい。が、通説の築後山門郷かどうかはわからない」。
「いまとなって邪馬台国のあとは、今後よほどの物的証拠があがらないかぎり、わかりようもない。が、邪馬台国はとにかく九州北半部のどこかにあったらしい。それだけでもよいと思っている
」。

郡使、一支率とも、たかだか二日で歩いて到着できる邪馬台国(福岡県南部として・たとえば朝倉とか)に、一度も顔を出さなかったというのが清張論である。
郡使の役割は?一支率にいたっては8年間、駐まったのに…


その他で気になることは日本民族の一体性ということである。

三世紀以前から南朝鮮の住民も、北部九州の・西日本の住民もほとんど同じ民族だったのである(p71)
女王国と狗奴国の対立は、種族の違いを想像している(p216)。
北部九州は大陸系・半島系の同じ民族で、南部九州は島伝いの到来した住民、種族が中心、、この種族の間の争いというのである。
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こんな図を見てほしい。日本列島人の人種・種族は弥生時代の後期(邪馬台国の前)にはすでに一体としてできあがっていたのである。このDNAの形を見れば、弥生人との混血がすすまなかったオキナワとアイヌを除けばヤマト人のDNAは全体として一体で、朝鮮半島人とは大きな違いがあり、松本清張論は成り立たない。


東遷論・東征論も触れておきたい

馬台国九州論は東遷、東征問題が必然的について回る。
①女王国は狗奴国を屈服させたのち、畿内に移り大和政権を立てた。
②狗奴国が女王国を滅ぼして、東遷、河内王権、それから大和へ。
③女王国、狗奴国も第三の移住民俗に滅ばされ、さらに東遷が行われた。

いずれも東遷・東征は3世紀以降ということになり、その頃には大きな生産力、政治と文化によって組織されていた畿内勢力とのたたかいが必要である。壺、墓制をみても東征論というより、征西論が成り立つほどである。


九州以外の勢力の経済と文化、大陸とのつながりなどを無視したのが邪馬台国九州論である。この論は考古学が示した日本列島の姿を捻じ曲げている。
by koza5555 | 2016-02-13 15:31 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

邪馬台国畿内説

「邪馬台国畿内説~古代ロマン 卑弥呼の大和」は2月10日から始まる。17日、25日と三回のツアーで残席わずかというヒットツアーとなった。

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唐古鍵楼観と吉野ヶ里の楼観

邪馬台国を勉強してみて考えた。邪馬台国は膨大な文献がある。資料が満ち溢れているのが邪馬台国、言い換えれば日本中の人々が関心を寄せている奈良のテーマ、観光資源なのである。

邪馬台国畿内説・・・・九州論者にはとても刺激的なキャッチフレーズのツアーである。
「邪馬台国は纏向(まきむく)で決まり」・・・百歩譲っても「邪馬台国は畿内」で間違いがないのであるが、九州派に大きく負けているものがある。それは「ここが邪馬台国だ」と信じる熱狂さだろう。
奈良県は邪馬台国、「倭は大和、大和の卑弥呼」をもっともっと全国に発信すべきだろう。

邪馬台国を考えるなら、この本を読んでほしいという本・・・佐原真(まこと)の「魏志倭人伝の考古学」(岩波現代文庫)である。

邪馬台国時代に倭人はどんな生活をしていたのだろうか、それがテーマである。
あれこれ読んでみると、魏志倭人伝にはいくつかの矛盾が含まれている、僕はそう感じた。描かれた風俗も、相当、南方風で変だと思うところも多かった。

ところが考古学者は魏志倭人伝の風俗に真剣に取り組んでいる、それを佐原先生(故人である)の本で教えていただいた。

たとえば黥面、いれずみのことである。「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身(ぶんしん)す」、「諸国の文身各々異り、或は左に、或は右に、或は大に、或は小に、尊卑差有り」などと入れ墨、黥面のことが記されている。

これなら誰もがいれずみをしているということになるが、しかし、考古学から見るとこれは畿外の風俗だという。畿内の土器・埴輪から黥面が出てこないのである。
記紀にはいれずみは隼人や蝦夷の風俗とし、畿内の場合は刑として行われたとされている。
こうなると黥面は邪馬台国九州説に有利かと、ところがそれが単純ではなくて、2世紀くらいになると黥面は吉備と東海地方とされる。こうなると魏使が北九州に留まっている限りは黥面は見ることもなかったということになるのである。


「兵には矛・楯・木弓を用ふ」も、これは興味深い。
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唐古・鍵遺跡の北方の清水谷遺跡(田原本教育委員会)からは、矛を持ち盾を持った兵士が描かれた土器が出土している。
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こちらは中国、当時の漢の兵士の画である。

この比較を見ると漢は刀や槍が武器、そんな具合で「倭人の武器は珍しいよ」と書かれているのだ。矛がこんな形で倭人伝に書かれていたとすると、「結構なところまでよく見ているな」と感じられて、きちんと見てるなと。

なにげに読んだ「食飲には豆(へんとう)を用ひ手食す」の解説もびっくりである。
「高坏を用いて手で食べる」との意味であるが、これは「高坏で食べてすごいよ」と持ち上げておいて、「手で食べてるから未開や」と話を落としたという。
共食していること、めいめいの食器があることが分る記述である。
火事で放棄された弥生時代の住居跡から大量の土器、高坏などが出土していることからみて、この記述が興味深いのである。


建物もおもしろい。建築の専門家に言わせれば、「室町時代の日本の建物は二階以上を使うことを考えていない」というのである。金閣寺以前は二階以上は見せかけ。朱雀門も法隆寺の五重塔も平常時に使う階段は備えられていないのである
唐古鍵で発見された(平成3年、第47次)弥生土器は、この常識を打ち破る大発見である。
どう見ても二階建、そして梯子まで備えられている。
大陸文化を取り入れた建築物と言うことで話題になったが、この二階も使うという思想はその後、千年以上、日本から無くなるのである。

二階に登る階段はないという古代建築に対する常識を覆した唐古鍵の弥生土器は、吉野ケ里史跡公園(平成13年)の楼観にも大きな影響を与えているのは確実である。
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こんな具合に、当時の風俗が28項目にわたって紹介されている。
魏志倭人伝が分る、当時の倭人の暮らしぶりが理解できる、邪馬台国の所在地論争にも参加できる、格別の一冊である。
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ちょっと中旬に入院しなければならない事情ができた。
それで、懸案の民児協だよりの編集を急いだが、その原稿を今日、印刷所に渡すことができた。来週には初めの校正刷りが出てくる。A4で8ページの冊子だが、桜井の全戸に届けるもので、それなりの緊張があった。原稿を入れた。もう後は校正、みなさんに任せても大丈夫。

さて、残りは10日の邪馬台国である。最後まで、勉強を重ねて頑張りたい、遠くから来られるみなさんにはきっちり楽しんでもらいます。

by koza5555 | 2016-02-03 23:45 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)