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奈良・桜井の歴史と社会

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音羽三山、下り尾・百市・飯盛塚の祭

談山神社の社報、「談」(かたらひ)の2ページ目は毎号、僕が書いている。
「多武峰の村の話を書いて」と長岡宮司に3年ほど前に頼まれた。神社のことより神社へのアプローチを書かせたい様子である。
神社の宣伝みたいな話はあまり書けていないが、それなりに話を探しながら、多武峰という山とか里を紹介している。
今回は音羽三山のふもとの村々・・下り尾(さがりお)・百市(もものいち)・飯盛塚(いいもりつか)の村の祭を取り上げてみた。

桜井市の中心部から南方を望むと音羽三山とよばれる山塊を望むことができる。北から音羽山、経ガ塚山、熊ガ岳である。今回は、この山々に祀られている神の姿、その祀り方を考えてみた。

下り尾(さがりお)から粟原川に流れ落ちる川の名は清滝川と聞いた。「清滝川といえば滝があるのか」と川沿いを歩いたが、滝は見当たらない。この滝へは川沿いではなく下り尾の神明神社の東側から登る道があった。登ること30分、清滝は轟々と流れ落ちていた。岩壁には不動明王が刻まれている。

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下り尾の東幸次郎区長にお聞きすると、「清滝のお祭りは七月の最後の日曜日。毎年、やっている」とのことだった。さっそく同行させていただいた。祭といいながらも参加者は鍬やカマを持参して小枝を片付けたり、石を積んだり、転がしたりしながらの「道作り」の風情である。道を補修しながら、音羽山の中腹まで上り詰めると清滝不動尊に到着する。持参したお米、塩、お酒などを供えて般若心経を読み上げる。
滝の水は、どんな日照りでも枯れることがないといわれる。清滝不動尊の祭は水源を見守る祭りであり、年ごとの豊穣の実りを祈る祭りだと思われた。
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山の上の神社と言えば、百市(もものいち)の住吉神社も紹介しておきたい。県道を多武峰に登っていくと寺川を挟んで左側に百市の集落が見えてくる。百市の住吉神社は村の奥深くの山中に鎮まり、10月の第一日曜日に例祭が斎行される。
祭の朝、神饌や祭祀道具を担って神社に向けて出発する。しっかりした登りを800mほど歩くと神社に到着する。登山とまではいわないけど、息が切れるしんどい登りである。
急な山腹に、長い柱に支えられて拝殿、本殿が建てられている。実はちょっとした祠みたいなものかと思って登ったので、この社を作り、維持してきた百市の力の入れ方に声も出ない。
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境内を掃除し、鳥居には榊と同じ感覚で青竹を立てて、祭が始まる。
秀麗な山の上に祀り敬ったという事かとも思えるが、「山の中に村があった。宇陀から針道、百市を経て倉梯へ出る街道沿いの村だった。人は山を下りたが、神様には下りて頂けないうちに百年が過ぎた」は西基之区長の言葉である。神社には「大神宮・村安全・おかげ」(天保3年・1833年)と刻まれたおかげ燈籠も残されていて、伊勢神宮にはこの地から旅立ったことも示されている。
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百市から県道をさらに上ると飯盛塚(いいもりづか)である。飯盛塚の杉山神社は村の上方の山中に祀られていたが、村の集会所の山側に二十年前に遷座されている。

この飯盛塚の秋祭に注目した。「祭は頭屋が中心となってすすめてきたが、時を経るにつれ行事の継続は難しくなってきていた。それで平成二十九年の秋祭から、頭屋の仕事は村(区)で引き継ぐことにしました」と、北浦孝文区長は話される。

祭の準備は第一に御幣を作ることである。その御幣は神前に奉幣され、一年間は村の会所に祀られる。第二は「お人形さん」作りである。太い藁縄、細い藁縄を組み合わせながらぐるぐると巻きあげる。中心は竹筒である。頭の上にはヒゲをつけるが、これは「ジャノヒゲ」で作ることが決まっている。形を整えてから、中心の竹筒に餅をいっぱい詰め込み、衣をつけて「お人形さん」は完成である。

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御幣と共に、お人形さんは区長に抱っこされてお渡りする。
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「お人形さん」を神前に飾り、奉幣を終えると、村人はトンドの周りに思い思いに座り歓談する。男も女も、老いも若きも、そして子供もたくさん集まってきて、ゴーヤの炊いたのとか、黒豆の煮たのを、おいしくいただく。

長く頭屋を務めてこられた方には感謝したい。そして頭屋の仕事を引き継いだ飯盛塚区の考え方は、村の習俗や文化を継続させていくための大切な方法だったと納得させられた。
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# by koza5555 | 2019-02-14 23:00 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

筒粥祭(登弥神社)

2月1日は登弥神社(奈良市石木町)では「筒粥占い」を行する。

大釜に米と小豆を入れ25リットルほどの水を加えて煮立てる。その窯には紐で縛った38本の竹筒を立てる。竹筒は節のない20㌢ほどの長さの女竹(女竹とは限らないとのことだが、見た目はすべてが女だった)をタコ紐ですだれ状にくくり上げ、それを大きく丸めてくくられる。


朝の
5時に点火、630分まで煮立てられる。お釜は何度も鍋ふたを吹き上げ、お米や小豆はその勢いで「上から」竹筒に入っていくようすである。

630分に菜箸で竹筒が取り出される。慎重に三宝のお皿に移されて、神饌の中央に供えられた。

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神事は7時から。神事のあと、神主と総代・世話役によって占いが行われる。竹筒の束から一本づつ竹筒が外されて、小刀で断ち割られる。


神主が丹念に小豆を数えて「ひのひかり 上」、「こしひかり 上の上」、「人参 上」などと、順々に読み上げる。

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37
種類のお米、野菜、イチゴとか果物の作柄が占われ、38本目は総合・・・である。今年の結果は「総合 上」だった。


上中下の三段階、これがまた三つに分かれており、合計で
9段階の占いである。「古都華(いちご)は下の下」、参拝者の悲鳴が上がるが、「よし、頑張って作れと言うことや」という声も出たりで、氏子の皆さんもにぎやかである。

占いの結果は逐一掲示されて、皆さん、熱心に写されている。

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氏子は奈良市の大和田町、石き町と大和郡山市の城(じょう)町である。粥占いの当番は三町の輪番制であるが、全氏子ではなく選抜である。

今年は大和田町だったが、当番でない町も無関係ではない。昨年の当番町は城町で「後番」というお手伝い。来年は石木町であるが、「見習い」というお手伝いである。

おかゆを焚き上げる火の番は2時間、ずっ~と火の守りをされていた方は当番の大和田町ではなく石木町の方で、「来年は夫が総代、3年ごとの当番だが、役目を総代で果たすのは生涯でおそらく一度の事。夫も頑張っているが、私も頑張らねば」とのことだった。

神事、粥占いを終えると、小豆粥の振る舞いがある。いつまでも熱くておいしい。

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登弥神社(とみじんじゃ)は、奈良市西部、富雄に鎮座。延喜式内社とされている。

春日造りの二社が本殿で東本殿は「高皇産霊神」「誉田別命」、が、 西本殿は「神皇産霊神」「登美饒速日命」「天児屋命」を祀っている。

境内掲示にあるように、筒粥祭は「奈良市指定文化財」に指定されている。


奈良市指定文化財

登弥神社の粥占い  昭和五十七年三月一日指定

粥占いは、粥を用いて農作物の出来を占う年中行事です。

登弥神社ではもともと小正月の行事でしたが、今は二月一日に行います。氏子が毎年交代で、早朝から、米・小豆と、青竹の筒三七本を束ねたものを、湯釜で炊きます。一時間あまりで竹筒を引き上げ、農作物の品目ごとに竹筒を小刀で割り、粥の入り具合でその年の作柄の良否を占います。

豊作を祈願する農耕儀礼のひとつとして、古風な形態をよく残していて貴重です。奈良市教育委員会

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祭祀が終わり、帰路に就こうとすると、生駒山が真っ白・・美しかった。




# by koza5555 | 2019-02-01 18:15 | 奈良 | Comments(0)

水面に上下する宇陀市の濡れ地蔵

宇陀市の室生ダム湖のノリ面の岩に地蔵菩薩が彫りくぼめられている。


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山辺三の地蔵菩薩は「建長6年」(1254年)に彫られたと刻まれている。寿命は750歳である。この地蔵菩薩は目前で参れたり、遠くからしか拝見できなかったり、時には水没してしまうのである。

これはダム湖の水位調整の結果である。

室生ダムは昭和49年(1974年)に生まれた。

お地蔵さんも、彫りくぼんだ石工も、施主も700年後のお地蔵様の姿は予想打にもしなかっただろう。

奈良県は昭和42年(1967年)から県営水道を始めた。

1970年には吉野川の下渕頭首工を完成させ、74年には室生ダムを完成させ盆地に送水を始めた。

今日は室生ダムの事だけである。宇陀川は淀川水系になるが、室生にダムを作り、貯水湖からは奈良盆地に水を供給している。県営水道では、これを宇陀川水系といい、宇陀市、桜井市、天理市、田原本町、三宅町、河合町、安堵町斑鳩町、平群町などの市町に上水を提供している。

室生ダムは水利のダムだが、洪水対策も兼ねている。したがって多雨の夏は水位を下げ、冬場は水位を上げておく必要がある。洪水対策、安定した水の供給のためには必要である。

山辺三の摩崖仏のお地蔵さんはその水位管理のちょうど上下の枠内にあるという事である。


宇陀市の掲示によると

古くは背後の山から水をひいて、この地蔵菩薩に注いでいたと言うので、俗に濡れ地蔵と呼ばれている。この像は左手に宝珠、右手に鎖杖を持った半身彫の立像で、舟型に彫りくぼめているのが光背の部分である。

背部の右側に「建長六年甲寅八月十五日健」と二行に陰刻されているので、鎌倉時代の造立であることが知られている。像の左右には各一体十王の立像と地蔵分身の小像が陰彫されている


7月から10月は確実に渡れる

梅雨、台風などの大雨に備えて放流量を増やして水位を下げる。11月から6月月は渡れない事が多い。お地蔵様が水没してしまうこともある。

現在の状態。水位は一進一退である。お地蔵さんは拝観できるが、渡り石(コンクリート製)は水面下30センチくらいである。

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9月のお地蔵さまと渡り石。川として流れているので、水位は実は2メートルも下のほうにある。

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これから水位は上がると思われる。あなたも、時々見に行ってみませんか。「裾まで水が」とか、「半身水没」とか、隠れた・・とかを、教えてほしい。

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廻りを見渡すと、濡れ地蔵の200mほど北には西方寺。5年ほど前に薬師如来が重要文化財に指定された。さらに2キロほど北の山中には戒長寺。十二神将を鋳出した梵鐘(重要文化財)と薬師如来(秘仏)が祀られている。

うーん、「山懐の戒長寺の秘仏拝観、西方寺の薬師如来と濡れ地蔵を訪ねるプレミアムツアー」できるなあ。計画したら来られますか?

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上の看板は西方寺、下の山門は戒長寺である



# by koza5555 | 2019-01-18 16:48 | 宇陀 | Comments(0)

増賀上人と談山神社

多武峰縁起絵巻によれば、増賀(そうが)上人は多武峰(現在は談山神社、江戸時代までは妙楽寺)の中興の祖である。増賀上人は参議・正四位下、橘恒平の男子で、10歳の時に比叡山に登り慈恵太師(良源・山門派・円仁門徒)の弟子となる。

 増賀は夢を見る。天暦2年(948年)82日のことで、32歳の時である。夢に維摩居士が現れ、「浄土を志すならこの地に住め」と景色が示された。応和3年(963年)に如覚(多武峰少将・藤原高光)の勧めで多武峰を訪れた増賀は、この地が15年前の夢の景色と同じと理解して、三間一面の庵を結び、41年後の長保5年(1003年)69日に死去した。


この増賀上人を考えてみたい。

明治36年に増賀堂が再建されている。これが増賀上人の庵跡と思われる。45年前の「磐余・多武峰の道」(金本朝一著)には、写真があるが現在は見当たらない。

増賀上人墳(そうがしょうにんつか)は残されている。神社の西口から山腹をめぐる林道を一キロほどたどると、念誦崛(ねずき)に到着する。「増賀上人墓」との看板が建てられている。 正面の石段をまっすぐ上がっていくと石積み塚にが見えてくる。

 


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二重に積み上げられた石の塚で、下段の直径が4メートルほど、全体の高さが2メートルである。覆い堂が建てられていたことは、残された周囲の基石から良く分かる。

周囲には大変な数の五輪塔、板碑が立てられているが増賀上人の石塚の規模はずば抜けている。


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念誦崛

多武峰に増賀上人を招いた如覚(藤原高光)の墓が念誦崛にはおかれていないことが不思議である。

念誦崛から2キロメートルも離れた、飯盛塚の山中に高光の墓は置かれている。東の飯盛塚に高光墓、談山神社(妙楽寺)、西口を経て北山への峠に差し掛かるあたりに念誦崛という配置である。

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藤原高光墓(飯盛塚)



『多武峰ひじり譚』、三木
紀人が記した。40年ほど前の本である。

平安時代は「誰かを語るとき、彼の死とその前後は最も関心を呼ぶ話題であった。」その意味では「増賀の終焉は格別に印象のつよいものだった」、そんな時代である。

その例として徒然草である。「増賀ひじりの言いけんように、名聞苦しく、仏のお教えにたがふらんとおぼゆる」として、増賀上人を絶対的境地に達した人、「まことの人」だったと兼好は紹介した。

増賀上人のエピソードを一つだけ紹介しておきたい。

増賀の師匠は良源である。毎年のように僧位を上げていき、行基以来の大僧正となり、比叡山の座主となった。

この良源が大僧正に任ぜられたときにお礼言上に参内する。おびただしい僧侶、従者を伴い行列を進めるが、そこに増賀が登場する。

疲れたあめうし(牝牛)の浅ましげなるに乗りて、鮭というものを太刀にはいて、御屋形口をうちけり。

屋形口とは牛車の乗り口で、そこに現れるのは警護の責任者を意味する。増賀は3000人いたという良源の一番目の弟子だった。

行列、見物人はどよめくが、増賀は再三にわたり、牛を乗り回したという。

「見るものあやしみおどらかぬはなかりけり」。

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それに対して「名聞こそ、くるしかりけれ」「かたいのみぞ(乞食の境遇こそ)たのしかりけれ」と増賀は謡った。

「悲しきかな わが師、悪道にはいりなむとす」。

これが増賀の道心である。

師の良源は、「名刹を求めぬ心は判った。但し威儀は正せ」というが、増賀はそれを受け入れることはなかった。

「いかでか、身をいたづらにせん」というのが増賀の考えであった。「投身、入海、身燈」という宗教的自殺をするものが多かった時代ではあるが、増賀は身体的な消滅を願ったわけではなかった。すべての衣服と財産を乞食に施して裸で歩いたり、山にこもったのである。増賀上人はいくつかの例外を除いて・・多武峰を出ることはなかった。山を出ることは増賀にとって、はなはだしい宗教的な堕落であった。

増賀上人の信念、信仰、道心は、その後多武峰にどんな形で引き継がれていったのか、関心と疑問は深まるばかりである。

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# by koza5555 | 2019-01-13 07:42 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

談山神社の春夏秋冬、すべての魅力を氏子総代が解き明かす

東京でお話しします。新春の1月19日(土)午後5時から90分間です。
日本橋、三越向いの奈良まほろぼ館の二階です。

奈良まほろば館のホームページの講座案内にアップされました。
以下が全文です。申し込みは電話やFAX、講座案内の申し込みフレームからネットでも申し込めます。
関東の方、ぜひ、おいでください。
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談山神社の春夏秋冬、すべての魅力を氏子総代が解き明かす

平成31年1月19日 17:00~18:30

 NPO法人奈良まほろばソムリエの会の講座です。奈良の魅力を色々な切り口で楽しく語っていただきます。1月は、「談山神社の春夏秋冬、すべての魅力を氏子総代が解き明かす」と題してお話いただきます。

 桜井市多武峰の談山神社の歴史と魅力のすべてを、神社の氏子総代が語ります。藤原鎌足公を祀る談山神社は、「藤」を名字に持つ多くの日本人の心の故郷です。

 世界でただ一つの木造の十三重塔は境内の四季を見守ります。春の青モミジ、また錦秋の談山神社は他に比べるものがないという美しさです。春と秋の蹴鞠(けまり)まつり、初夏の鏡女王まつり、野と山の実りで飾りあげられる特殊神饌の嘉吉祭など、談山神社だけで行われてきた四季折々の行事の魅力を解き明かします。


桜に彩られる木造の十三重の塔

1.日 時 : 平成31年1月19日(土) 17:00~(1時間半程度)

2.講 師 : 雑賀耕三郎 氏(奈良まほろばソムリエの会副理事長、談山神社氏子総代)

3.テーマ : 「 談山神社の春夏秋冬、すべての魅力を氏子総代が解き明かす 」

4.会 場 : 奈良まほろば館2階

5.資料代等: 500円(当日受付にて申し受けます)

6.定 員 : 70名(先着順)

7.申込方法

・ハガキまたはFAX
  必要事項(講演名・講演日時・住所・氏名(ふりがな)・電話番号・年齢)を明記いただき、奈良まほろば館までお送りください。
・ホームページ
  下記の「申込フォーム」からお申し込みください。

お問い合わせ先
 奈良まほろば館 【開館時間】10:30~19:00
 〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1-6-2 奈良まほろば館2F
 電話03-3516-3931 / FAX03-3516-3932


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蹴鞠祭。蹴鞠はサッカーの原初の形
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        嘉吉祭。和稲(にぎしね)神饌の調整、多武峰の村人の献身的な努力を解明する


# by koza5555 | 2018-12-19 20:55 | 奈良 | Comments(0)

戸閉祭(とだてまつり

広陵町箸尾の戸閉祭(とだてまつり)。だんじりが境内を疾走、拝殿(階段に)に激突することを競う。

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氏子の弁財天、南、的場,萱野のそれぞれの町のだんじりは終日、町内を練り歩く。一軒一軒の玄関先で青年団が伊勢音頭を唄い祝儀を受ける。町内を回り回って、夕方からは神社付近で待機、宮入に備える。

宮入は午後730分に弁財天、30分おきに南、的場,萱野と宮入である。

だんじりは青年団が引き、自警団(青年団OB)が後ろから押し、舵を持つ。

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拝殿前に一しきり青年団が伊勢音頭を唄い、お祓いを受ける。宮本の弁財天(だけ?)は自警団も唄う。

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やじうま的に見て、的場がお見事・・ガツーンと音がした。


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9時に萱野が宮入・・それからが長い・・いつまでもいつまでも・・境内での伊勢音頭は続く・・10時前に・失礼しました。残念ながら、写真は惨敗・・

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4町内の青年団が入り混じって、次々と音頭取りが輪の中心に飛び込んで伊勢音頭を唄い続ける。これは9時35分である・・


神社は式内社で櫛玉比女命神社(くしたまひめのみことのじんじゃ)北葛城郡広陵町弁財天399 で、境内は古墳を取り込んで作られている。
弁財天とはであるが、中世・近世は弁財天社とよばれてきている。天河弁財天を1284年に勧請したとされる。当社が式内の櫛玉比売神社に比定されるようになった経過は僕には不明である。

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# by koza5555 | 2018-11-03 09:26 | 奈良 | Comments(0)

第70回正倉院展

70回、正倉院展を拝見してきた。

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今年の目玉は「玳瑁螺鈿八角箱」(たいまいらでんはっかくのはこ)。誰もが認める素晴らしいものである。


新羅の琴、琴柱付き・・にひときわ引かれた。仲哀天皇が琴を弾きながらパタリと倒れたと『古事記』などに書かれているが、「ああ、こんな琴なのね」という感じである。


陶器で作られた鼓も興味深い。「三彩の鼓」というが、どんぶり茶碗の底を開いてつなぎ合わせた感じで、これに鼓皮を張る。

押し出し仏の仏像型というのを初めて見た。仏像に薄い銅板を当てて槌でたたいて押し出し仏を作成する。こんな道具も正倉院展は見せるのがおもしろい。


最後に写経生の借金証文である。宝亀3年のものであるが、役所から借金すると・・利子は・・月ごとで13%。年率換算で156%・・結構な高利貸しやなあ・・

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まあ、そんな正倉院展・・1111日(月)までである。金・土・日・祭日は夜8時まで。帰り道には興福寺中金堂を拝観した。建物の素晴らしさには感銘。もともとのご本尊はどんなだったんだろうか・・勉強してみよう
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# by koza5555 | 2018-11-02 15:53 | 奈良 | Comments(0)

磐余池の所在地は

奈良まほろばソムリエ検定は二級と一級、そしてソムリエ級である。

一年に一度の試験、一月の第二日曜日であるが、この試験で二級に合格すると一級の受験資格が得られる。

但し、もう一つ、体験学習プログラムという実地研修を受けることが条件で20余りのコースが用意されているが、そのうちの1コースを僕が案内している。

「安倍文殊院と磐余の道をゆく」というコースで、『奈良まほろばソムリエ検定公式テキスト』に掲載されている史跡、社寺を中心にウォーキングで解説する。参加者は二級を受かったばかりの新人で、こちらもフレッシュにガイドをすることに心がける。

そんなことを考えていた時、『飛鳥・藤原の宮都を語る』を見つけた。吉川弘文館で、著者は飛鳥村教育委員会の相原嘉之文化財保護課長である。

『飛鳥遊訪マガジンVol162』に連載されたものとの事である。



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吉備池廃寺(百済大寺)について、その成り立ちの解明が面白い。百済大寺と百済宮は日本書紀を見れば、セットである。640年、舒明天皇の時代である。なんでこの時期に宮が飛鳥を離れたかである。592年に豊浦宮、630年には飛鳥岡本宮である。

大豪族の蘇我との確執、一線を引くという狙いがあったとみられる。

宮は西国の民、寺は東国の民を仕丁に当てるとあり、豪族の力に頼らなかった。


磐余池問題がさらに興味深い。

「敏達天皇は百済大井宮を営み、敏達4年には譯語田(おさだ)幸玉宮(さきたまのみや)に遷りました。百済大井宮・・・桜井市吉備周辺に推定される・・・譯語田幸玉宮は、桜井市戒重であり・・・大津皇子の訳語田(おさだ)舎も近辺に推定されます。」(p66

「和田萃氏は「磐余」の範囲は・・・倉橋あたりから東光寺山、戒重の幸玉橋、耳成山、香久山を結んだ広範囲に考えられている」

「そのうえで、(池尻の)池跡は磐余池とされていますが、ここは磐余と言えるのだろうか。

池の北東700mには、「百済大寺」と考えられる吉備池廃寺があります。つまり池跡の北方は「百済」と呼ばれていた。同じ場所を磐余とか百済とか呼ぶわけはない」(p72)という論証である。

これは僕も、ずーと思っていた疑問で、磐余の話をしていると、なんか、説明しがたい違和感をかんじてきていた。

併せて若櫻神社も問題となる。

『延喜式』によれば、若櫻神社は城上郡にあるとされ、池ノ内の稚櫻神社は十市郡に

属していて、合わない。

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こんな地図が示されていた。『飛鳥遊訪マガジンVol162』より。

「磐余」の範囲は、上ツ道の東、横大路の南、寺川の西にあたる安倍山・東光寺山を中心とした地域で、その中で考える。

「安倍山(磐余山)のすぐ北西にある地域です。ここは横大路から100m程南に位置しますが、上ツ道に東接する場所(現在のヤマトー桜井南店あたり)です。ここに「西池田」「東池田」「南池田」などの地名があり、南側には「君殿」もあり」(p77)とされ、王宮の名も残るといわれる。

そうか、そうすると磐余池・・我が家の隣だなあ・・である。


ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日(けふ)のみ見てや雲隠(がく)りなむ巻三(416)揮毫 中河幹子

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うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)とわが見む

巻二(165)揮毫  小倉遊亀


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吉備池は今は金魚池・・これ・何に見えます?
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安倍文殊院、渡海文殊菩薩はよく理解していただく・・・





# by koza5555 | 2018-10-31 17:23 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

都祁水分(つげみくまり)神社の秋祭り

奈良まほろばソムリエ試験のソムリエ級の試験には「400字問題」という論述の課題がある。指定された(5カ所)施設を軸にツアーコースを作り、400字で紹介するという試験である。これを資料の持ち込みなし、漢字を正しく書く(神様の名前だけはカタカナで可)などで書きあげるのだから、けっこう四苦八苦である。



僕は、都祁水分神社を選んだのである。都祁水分神社、都祁山口神社、三陵墓古墳、小治田安麻呂墓などを書いた。ソムリエ級の試験は一発で合格、都祁には足を向けては眠れない。

ここのお祭りが拝見していなかった。西名阪の針インターを通るごとに、ちょっと後ろめたい・・思いがあった。

都祁は古くから開けた。大事な話だが、この話は最後に紹介しよう。

「都祁水分神社の秋祭は1025日と26日だったが・・4年ほど前から土・日に変わった。ウィークディでは困難となった」(西口宮司のお話し)、ということで、お祭りは10月の第4土曜日・日曜日となった。

祭は友田の都祁水分神社と小山戸のつげ山口神社の間の神輿のお渡りである。

土曜日に水分神社の神様は山口神社にお渡りする。もともと水分神社は天禄2年(971年)に山口神社の所から友田に移されたとされる(都祁山口神社由緒)。だから、この渡御は里帰りである。

日曜日は還幸である。僕は還幸だけ、拝見した。

1030分頃に出発。御幣、太鼓、榊、神輿である。神輿は12名、分担は最後まで変わらない。

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神輿は小山戸、安楽寺などで休憩をとりつつ、都祁福祉センター前で大休止。1130分頃に到着するが、それから水分神社からの迎えが来るまで2時間の休憩である。あまり早く帰るのはいけないらしい。

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ここまでは30人ほどであるが、2時頃に水分神社から200名からのお迎えが到着する。

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神輿を先導して秋の神輿道を水分神社に向かう。

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にぎやかな子供神輿の迎えもうける。



水分神社に到着

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神輿は境内を激しく駆け回る。息もあがるが最後は気力だ

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ご神体の還御・・宮司の手でご本殿に安置される。

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神楽があり、御供まきである。

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最後の都祁のことである。都祁は古くから開けた。

仁徳天皇の時代に氷室に関わって闘鶏大山主(つげのおおやまぬし)が出てくる。闘鶏(つげ)は旧都祁村にあたる。

仁徳天皇の皇子の額田が洞を見つけて、何のためにあるかを問う。大山主は氷室と答え、「土を掘ること一丈あまり、カヤを以て其の上を葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取りて其の上に置きます。夏を越しても消えません。暑いときに水酒に浸して使います」(宇治谷孟)すぎてもまり掘り、草をその上に蓋としてかぶせて、厚くちがやや荻を敷いて、氷を取りその上に置きます。」と説明する。

額田はその氷を仁徳天皇に献上した。

大山主、額田大中彦皇子・仁徳天皇は氷室神社のご祭神である。


允恭天皇の時代にも都祁は出てくる。

忍坂大中姫(おしさか の おおなかつひめ)が子供のころ、一人で遊んでいたところに、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)が馬に乗って通りかかり、大中姫をからかう。「庭が造れるか」、とか「そこの野蒜(のびる)を一本」と言う。道端から話しかけるんだから、大した話では無いのだが、のちに姫が皇后となったことから、厄介な話になるというくだりである。

都祁から磐余あたりの宮の道中に忍坂大中姫の住まいがあったという事が良く分かる。

また、この闘鶏国造は、大山主のことと想定されている。



# by koza5555 | 2018-10-30 17:41 | 奈良 | Comments(0)

宇太水分神社のご例祭

10月の第3日曜日は宇太水分神社のご例祭(お渡り)である。

お祭りの中心は惣社水分神社の女神(速秋津姫神)(はやあきつひめのかみ)が宇太水分神社の男神(速秋津比古神)(はやあきつひこもかみ)に年に1度だけ会いに来るという祭である。

女神は鳳輦神輿(ほうれんみこし・重要文化財)に乗って惣社水分神社から下る。

お渡りする鳳輦神輿はレプリカで、重要文化財の鳳輦神輿(南北朝のころ、600年前、少なくともこの頃からは、この祭りがあった)は年に一度、この祭りの日だけ、「収蔵庫」が開扉される(今日は回扉が確認できなかった)。

惣社水分神社の出発式・・太鼓台は先に前触れで出立。毛槍十一筋・・花かご・・に導かれて鳳輦神輿の出立

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宇太水分神社への中間点、東郷に午前10時頃には到着である。
太鼓台、鳳輦神輿という順番だが一緒ではなく、一時間くらいお時間差がある。
勝林寺の門前の道路で神事が行われる。

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東郷には菟田野の26社の郷社が御霊代(御幣)を持ち、迎えに上がる。宇太水分神社の三宅祢宜が同行する(引率かな‥)して.お迎えである。

祭祀にあたって、特殊神饌・・秘饌が届けられる。
全国的にも例を見ない神饌である。講演やツアーではいつもクイズになるようなお話である。

神饌、氏神さまの神饌は大根一本、白菜、鯛一匹など。あとはお米、お水、お酒とかと合わせて。これを。普通神饌というが、実は明治40年に国が決められたもので、「神社祭式行事作法」、内務省が決めている。調理しない、丸物、生ものが基準である。
話はそれるが、談山神社の百味の御食はだから、「特殊特殊」。

この水分神社にはきわめて特殊なものがある。由緒型といわれる。例祭の日に中社水分神社から芳野神社、女神ですね、東郷へ秘饌が出される。

なんですか。なんでしょう。

女神のために、粟、紅、おしろい、筆のお化粧道具である。東郷というお渡りの中間点に届けられる。

菟田野にはこれに関わる民話もある。

女神さんが使うお化粧は少しだから、それを持ち帰って妻に使わせた・・・という民話であり、これに神罰がくだったという、ちょっとの話である。(『菟田野の民話』による)


26社の郷社が全部、そろって迎えに来るのも壮観である。

こうして、菟田野の秋祭りは午後から夕方へ、舞台は惣社水分神社から宇太水分神社に舞台が移っていく・・


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それにしても、鳳輦神輿はきらびやかで、また、太鼓台は勇壮なもので、芳野、佐倉、宇賀志、松井、岩崎、宮本(古市場。神社の地だから宮本)の6基がでる。「よーいとさのせっ、よいとさのせー」の掛け声が響く。

南北朝、戦国時代なども含めて、さまざまな戦いが宇陀でも行われたが、この鳳輦神輿は守られてきた。その心に手を合わせたい(写真の鳳輦神輿はレプリカです)。





# by koza5555 | 2018-10-21 16:19 | 宇陀 | Comments(0)

お水取りの神名帳

『東大寺のなりたち』(岩波新書 東大寺元管長の森本公誠著)の後半部は、「天皇大権の確立」を求めた桓武天皇(系)と東大寺の確執である。

具体的には、修二会に示される御霊(早良親王や井上内親王)の問題や、仏教勢力の排除が紹介されている。


東大寺のお水取り・・修二会のことである。この悔過法要では「神名帳」が毎日読み上げられるが(5日と12日だけ読み上げられる過去帳とは別で)、その最後は十一柱の御霊の名が読み上げられる。御霊(ごりょう)を祀るとは、皇室や政治のトップレベルが冤罪により処罰される、それに祟られるという考えがあり、祀り、しずめるという考え方である。


東大寺が御霊として読み上げるのは、「冒頭は『八嶋の御霊(早良親王) 霊安寺の御霊(井上内親王) 西寺の御霊(淳仁天皇か?) 善光寺の御霊(善光寺は縣犬養刀自が聖武天皇のために建立、二人の間の子、井上内親王・安積親王・不破内親王がいずれも不運な生涯となった) 天満天神(菅原道真)』」
(『東大寺のなりたち』東大寺元管長の森本公誠著)となっている。

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八嶋の御陵


順番で言えば、八嶋の御霊(早良親王)。

早良親王(さわらしんのう・光仁天皇の皇子。生母は高野新笠。桓武天皇の弟)。長岡京遷都に反対して「大友・佐伯」のクーデターが計画されるという事件がある。桓武天皇を廃することを目的とし、藤原種継を暗殺した。皇太子の早良親王が関わったとされる。

早良親王は淡路に移送される中で死去する。その後、早良親王が激しく祟ったことから、崇道天皇の追称し、奈良の八嶋に祀った。早良親王は11歳の時、東大寺で出家、親王禅師と呼ばれたが、立太子で還俗したとのことである。


続いて井上内親王、聖武天皇の第一皇女であり光仁天皇の皇后である。

井上(いのえは御霊神社 いがみは東大寺)内親王は白壁王(のちの光仁天皇)の后となり他戸皇子を出産、770年に光仁天皇即位に伴い立后、その後天皇を呪詛したとされ、皇后を追われ、他戸皇子と共に宇智郡(五條市)に追われ、さらに訴追をうけ775年に皇子とともに亡くなった。庶人としての扱いをうけたが、天変地異が起き、これが井上内親王の崇りだとされ、墓が改葬されて御墓となった。

「宇智陵 皇后井上内親王 在大和国宇智郡 兆域東西十町 南北七町 守戸一烟」(延喜式)とあり、陵墓の扱いを受けている。


直接は東大寺の消長には関係ないが、森本長老は、こうした方々を神名帳の最後の読み上げていくところに、東大寺の考え方が示されるといわる。延喜式神名帳も心して聞くようにしたいものである。

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光仁天皇皇后井上内親王御陵


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一度は皇太子となった他戸親王陵。母(井上内親王と同じ日に亡くなる)

「天皇大権の確立」。桓武天皇(系)が仏教勢力を排除していく経過も奈良、長岡京、平安京遷都の歴史を考えるうえでの大きなポイントとなる。

これが、遷都の根本的な理由だと良く分かる。

「律令制に基づく権力者としての天皇位を志向する強い意思」(p177)は桓武天皇の決意。

桓武天皇は光仁太上天皇の「服喪期間をめぐって貴族たちとの軋轢が生じるなか、塩焼王の子の氷上川継の謀反が起こった」(p177)が、このたたかいで勝ち、問題で、貴族たちとのたたかいで勝利する。天武天皇系(塩焼王は天武天皇の子、新田部親王の子だから天武天皇の孫となる)の貴族はさらに敗北となった。

仏教勢力の排除と弱体化は強力に進められた。国分寺の僧侶が都にとどまっていることを厳しく摘発したり、大寺の経済活動(独自の高利貸業の禁止)に介入する。

東大寺は仲麻呂によって封5000戸を切り取られていたが、のちに2000戸の返却を受けた。しかし、用途は聖武天皇・光明皇后の供養の仏事に限られていた。この2000戸分も取り上げられて、平安京の東寺・西寺の造営費用に充てられた。そして、造営終了後は東寺、西寺の運営費になるという事で東大寺の経済基盤は沈下していった・・・ 

 

しかし、東大寺は不滅だった。大仏とか修二会とか法華堂の信仰で国の中での役割を取り戻したりしていくのである。

この新書はおすすめしたい。

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御霊神社本宮。五條市には御霊神社は20社以上も現存する

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悠々と飛ぶ、トンビを見ました



# by koza5555 | 2018-10-20 10:37 | 奈良 | Comments(0)

東大寺の法華堂と戒壇院

『東大寺のなりたち』。岩波新書、今年の6月の本である。東大寺元管長の森本公誠長老が書かれた。東大寺を考えてみたいと思っていたが、これは期待通りである。

目次をみると「東大寺前史を考える」とあり、「責めは予一人にあり」で、これは、聖武天皇の心とわかる。

ほかに気になるところは「天皇大権の確立」。桓武天皇(勢力)が仏教勢力を排除したところだった。

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東大寺山堺四至図(さんかいししず)のことである。東大寺の寺地が確定(756年)する。佐保川と能登川が最初に描かれた。この区域内が世俗世界と切り離された聖域とみえる。


この山堺四至図に「山房」と記されている。

天平8年(736年)には、「山房は聖武天皇にとっては観音信仰の場、光明皇后にとっては薬師信仰の場、さらに二人にとっては阿弥陀信仰の、それぞれ基親王を偲ぶ霊場であったことが確認できる」(p18

その後、この山房は金鐘寺となり、隣には福寿寺が建立された。この二寺が合併して丈六寺が建立される。金銅仏の丈六釈迦如来仏が安置された。(p30)併せて、羂索堂の建立もこのころには行われている。

丈六堂の場所は不明だが、「丈六伽藍の立地を探しても、残るは現在の大仏殿当たりしかない」(p31)とされる。

この地はのちに大仏造立の立地となり、金銅仏は「やがて大量の銅が必要となる盧遮那大仏像の一助にする、いわば盧遮那仏増に化身することになった」(p34)。


羂索堂(法華堂・三月堂)の諸仏に関わる解明がある。丈六堂の「天部の諸尊像については羂索堂に移安することになった。つまり現在法華堂に祀られている巨大な乾漆八天像が元は金光明寺の丈六堂の諸尊だったのではないかという見解である」(p34


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「現在法華堂内に安置されている巨大な梵天・帝釈天、四天王、金剛力士の乾漆八天像は、年代的に遅れて入ってきた」(p35


元からの諸像と重複があり、

「内陣を改変、塑像の梵天・帝釈天と四天王の六天像を他堂に移し、執金剛神は厨子に安置した」。ということで、元々の仏像が外に出されてしまうのである。

梵天・帝釈天は日光・月光と名前を変えて薬師如来の脇侍に転用され、やがて江戸期に法華堂に戻ってくる。

四天王像は、中世には中門堂に安置、江戸期に戒壇堂に移ったという。

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「諸仏諸尊像も歴史に翻弄されてきたのである」(p35

戒壇院の四天王が初めに祀られたのは法華堂である。法華堂を拝見したならば、必ず戒壇院も拝みに行こうということである。

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年代がきちんと残っているのは以下のとおりである。

神亀元年(728年)山房造営を命ずる

天平5年(733年)羂索院創建と伝えられる

天平10年(738年)阿倍内親王立太子。福寿寺の造営始まる

天平17年(745年)金光明寺(金鐘寺)で大仏造立事初め

天平勝宝4年(752年)大仏開眼供養会



# by koza5555 | 2018-10-11 23:14 | 奈良 | Comments(0)

飯盛塚(桜井市)の秋祭りの主役はお人形さん

10月に入ると多武峰の飯盛塚(桜井市)は秋祭りである。

頭屋が祭りの段取りを立てる。御幣を作ることと、「お人形さん」を毎年作るのである。御幣とお人形さんを神社に奉納した後は、村人の全員(17軒のほぼ全員)が神社の境内に集まり、トンドを囲んで歓談する。

この形が昨年から変わった。2軒しかない頭屋のうち、一軒が頭屋を続けられなくなったという。村の相談の結果、頭屋の仕事は村(区)で引き継ぐことになったのである。

第一は御幣を作ること、御幣は区長が神前で三回、振る。祭りの後は区の会所で、来年の祭りまで、一年間は祀られる。

第二はお人形さん作り。

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こんな形である。太い藁、細い藁を組み合わせながらぐるぐると巻きあげる。中心は竹筒とのこと。一番うえ、頭の上にはヒゲをつけるが・・これは「蛇のヒゲ」で作るとのこと。

形が整ったら、竹筒には餅をいっぱい詰め込む。

最後に衣をつけて、「お人形さん」は完成である。

お人形さんであり、とぐろを巻いた蛇‥みたいな感じでもある。



神社へのお渡りは、お人形さんのように抱っこして上がられる。

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村人がトンドの周りに、即席ベンチを並べて歓談である。

老いも若きも、男も女も、そして子供もたくさん集まってくる。

ゴーヤの炊いたのとか、黒豆が特に美味しかった。


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この頭屋を務めてこられた方、そしてそれを引き継いだ飯盛塚区はすごい・・


飯盛塚には、藤原高光が葬られたとされる飯盛塚が残されていて、これが村の名前にもなった。

藤原高光は939年に生誕、比叡山に出家し、のちに多武峰に入り、多武峰上人と言われたとされる。994年に飯盛塚にて死去したとされる。

高光は歌人として有名だったが、多武峰にとっての最大の功績は、多武峰再興の祖といわれる増賀上人を勧誘したということである。また、『多武峰少将物語』を残した。

春すぎて散りはてにけり梅の花 ただ香ばかりぞ枝に残れる『拾遺集』

見ても又またも見まくのほしかりし 花の盛りは過ぎやしぬらむ『新古今集』

高光の墓地は村の東方の山地(飯盛塚の旧村社 杉山神社付近)に、五輪塔、宝篋印塔、廟塔が置かれている。

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宝篋印塔は天文元年(1532年)

廟塔は元文元年(1736年)

五輪塔は無銘だが最古とみられる。

飯盛塚の杉山神社旧社地辺り(飯盛塚字オミチ)は、高光の地縁の地であることは間違いない。


ちなみに、飯盛塚の地名伝承であるが、西行が関わっている。飯盛塚の東方の独立峰(杉山神社)が「飯を盛ったようす」と語ったことが初めとのこと・・。山の全貌は談山神社の大駐車場から見ることができる。

『桜井市史』、『談山神社 大化の改新1350年』(神社シリーズ)参照



# by koza5555 | 2018-10-09 00:06 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

百市(もものいち)の住吉神社

桜井市の百市(もものいち)の住吉神社(百市字ハダ山)は10月の第一日曜日が「例祭」である。

午前8時に寺川沿いの集会場に村人が集まってくる。神饌などの準備を整えて、神社に向けて出発。神社までは800mほど、しかも登り道である。登山とまではいかないけど、しんどい。登山靴でないことを後悔するくらいの登りである。30分ほどで神社に到着した。皆さんにゆっくり歩いていただいたから助かったが、息絶え絶えである。この日は暑くて、汗でぐっしょりだった。

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神社の周辺には、そこそこの平地でが広がっている。空き地から見ると、村からは西、東は音羽連峰であるが、南北には道らしきものが残されている。

神社そのものは山にへばりつき、投げ入れ堂かという具合の景観である。本殿、拝殿、それぞれが立派である。

氏子が9軒、これで作り、維持してきた住吉神社である。その凄さに声も出ない。実は‥僕は‥ちょっとした祠‥みたいなものかと思っていたのである。

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ご祭神は住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)である。

今日の祭主は談山神社の長岡宮司である。開扉がある。祭主の「オー」という警蹕(けいひつ)にあわせて、ギイー、ギイーという扉の音が重なって、厳かに山中に住吉神が訪れる。

鳥居には榊と同じ感覚で、竹を立てる。この竹は村から持ち上げてきた竹であることがミソである。。

海のもの、野のもの、山のものの普通神饌であるが、海のものを除けば、供物は村人の心を込めた手作りである。


桜井市の百市(もものいち)。桜井市街から県道を多武峰に上がる沿道に百市の村がある。

村の標高は350mほどで・・・神社は450mほどの場所である。神社までの距離は800mほど

なんでこちらの神社は山の上なのか・・

秀麗な山の上に祀り敬ったという事かとも思われるが、百市の友人によると、「村は山の上にあった。宇陀からの街道も大峠から針道、百市につながった。百市の手前には古井戸があった」と言われる。「村が山を下りた。神様に下りて頂かないうちに100年たった」とのことである。

神社の周辺に百市の村があり、それは街道でもあったと思われる。

倉橋から大峠を越えて宇陀に抜ける街道である。この道は、史実にたびたび出てくる道だろう。神武東征の男坂はともかく、仁徳天皇に追われて、隼別皇子が雌鳥皇女と共に曽爾に落ちていく街道である。

「梯立の 倉梯山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず」(はしだての くらはしやまは さがしけど いもとのぼれば さがしくもあらず)

幕末には天誅組の楠目清馬が落ち延びてきた道である。楠目清馬は東吉野から宇陀を抜けて大峠を経て、針道に落ちのびた。針道の辰巳家で一泊、武器を捨て農民の服で出発したと記録が残るが、その後、百市、音羽を経て倉橋村の山上、スズメ塚で討ち死にしている。

山を下りた村人、山に残った神様がテーマだった。


  

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こちらは倉橋のスズメ塚の楠目清馬(土佐)の墓地。津(藤堂)藩士に打ち取られた場所とされる

地名学者の池田末則氏によれば、「百は谷間の滝のタギリ流れる所」と言い、川沿いの地名という見解も示されている。これはこれでよく考えるべきであるが、今日はこのまま、保留である。



# by koza5555 | 2018-10-08 12:08 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

写真好きのための法律&マナー

何を撮ってはいけないか。何をSNSで発信してはいけないか。あるいは他人の写真を利用する引用のルールは決まっているのだろうか。

僕が問題になったわけではないが、身の回りで生まれちゃって‥苦慮している。



「関係ないわ」とお気楽に構えていても、思わぬ多額の請求がきたり、削除が求められたり、逆に自分の写真が使われていたりで愕然とすることも発生しているようである。

いわゆる盗撮とか、あるいは他人の写真を自分のものと発表するのは問題外だが、自分で撮った写真をSNSで発信したり、講演やガイドで写真、図面などを使う時の肖像権、著作権のことを考えてみた。

『写真好きのための法律&マナー』(朝日新聞出版)はそれを多くの実例を挙げて解説している。カメラマンだけじゃなく、ブログやフェイスブック、ツイッターなどの発信者はよくよく参考すべき事例が満載されている。

何を撮っていけないか。肖像権と著作権のことである(p4)。

撮影の可否は施設管理者が決める。撮影禁止の表示がない場合も注意が必要。

公道の撮影は自由、公道は国民の共有財産だから。公道からのカフェテラス、公道の看板、個人の住宅や私有地、神社仏閣の建物や樹木などは自由に撮れる。


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これは問題ないだろう

お祭は撮られることが前提だから撮影には問題がない、その他の行事にもとられることが前提となっている場合が多くて、撮影はできるが、それでも、それぞれの特性があるので主催者の意向をよく聞きながら考え場ならない。



さて、撮りました。一人でパソコンに落として楽しんで見ている分には問題がありませんが、それを公表しようとすると・・いろんな問題が出てくる。

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長谷寺のことを考えてみた。この写真に問題がないか・・・

何の問題もないと思っていたが、ある所から・・「長谷寺の許可は取ってますか」と指摘を受けた。こんな話である(p9、p15)。

調べてみると・・

公道から撮っている。建物を写すなという明示はされていないから問題がないが、著作権に関係するようである。法律を調べてみると・・

(公開の美術の著作物等の利用)。著作権法です。

第四十六条 美術の著作物で‥‥屋外の場所に恒常的に設置されているもの又は建築の著作物は、次に掲げる場合を除き、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる。

二 建築の著作物を建築により複製し、又はその複製物の譲渡により公衆に提供する場合

以上のような法律がありました。

問題はないのだが、但し、お寺や神社のような宗教施設をどう考えるか‥という問題もあり、トラブルを避けたいと考えるならば・・このケースはどうなんだろうということである。

「コピーを作って売るのはダメ」と商用を狭く考えるか、「お寺の写真を見たからもう行く必要なし」と営業妨害だとの主張もありうるし、「こんな寺院だから‥ぜひ行ってよ」と角度を変えてのお話もあるけど、これらは遠目(法律的)に見たら差は判らない。

宗教施設をどう考えるかとか、SNSであれば二次的・三次的な影響も考えねばならない。

肖像権の問題も複雑である。お祭りでも、着替えしている所とか、行事の中で支えたり、重さに耐える苦痛の写真が発表されたら、当事者はどう思うだろう・・・、そこで、「主観は千差万別ではあるものの、一般常識として容認できるかどうか」(p11)、おのずから線引きができるだろうとされている。

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これは肖像権に問題はない。しかし、撮った人は別で、例えば、何かメールかなんかで送ってきたなら、「載せてもよい?」と別のルールが必要になる。集団写真など、問題になりそうである。
長谷寺の中という問題はどうか。長谷寺の許可はいらないか。「ここで写真を撮ってください」と現場に明記、撮影グッズを長谷寺が用意している。SNSの発信を許可していますとは書かれていなかったが、これはクレームがつかんだろう。

写真や文献の引用の6条件というのも学ばせてもらった。無断使用と言われるのを避けるためのルール。これを最後に紹介しておきます。(p45

  1. 未公表の著作物は引用できない

  2. 自分の作品と明瞭な区別

  3. 自分の作品がメイン

  4. 引用する関連性

  5. 改変は禁止。トリミング、リライトはダメ。

  6. 出典の明記

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# by koza5555 | 2018-09-14 11:24 | 読書 | Comments(0)

重陽の節供・節句

9月9日は重陽の節句。

伝統的な年中行事は中国の影響があるが、日本では稲作の区切りになる大事な日であったので、日本の生活文化に深く根付いている。

お正月、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日の節日には、神に供えるものが決まっていて、そこから「節供」(せっく、せつのそなえ)の言葉も生まれたとされる。

9月9日の重陽の節供、これは栗飯と菊酒と決まっているのである。

ちなみにお正月はたんに「お節料理」、3月3日は草餅、菱餅。5月5日はちまきや柏餅、7月7日はそうめん(索餅)で9月9日は栗と菊である。

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これが栗だが・・(汗)

節供が節句という文字に変わっていくのは、江戸時代からで・・神祭というよりは季節の区切りという面が強くなって供えから句に変わったとされる。

養老律令(奈良時代 720年)には節日は決められていて、元日、33日の上巳、55日の端午、77日の七夕、11月の大嘗の日が決められていた。

歴史は古いんだが、99日の重陽の日がない。

なぜか。この日は天武天皇の忌日だったからとのことである。律令国家の生みの親である天武天皇の忌日は、養老律令は重陽の「祭」は記さなかったとのことである。

参考までだが、皇統が天智天皇系に変わった平安時代には重陽の節供は国の行事に復活している。

天武天皇は西暦の673320日(天武天皇2227日)に即位。686101日(朱鳥元年99日)に崩御されたとされる。

天武天皇14924日(685年)に発病が記されており、翌年の朱鳥元年9月に崩御されている。

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重陽の節供でもあり、天武天皇の命日。いまの暦で計算するなら101日であるが、節供は旧暦の日をそのまま新暦に写して祝っているので・・・祝い、ともに思いを寄せることにした。

今日、桜井や明日香村辺りは午前中にハロが出現した。
太陽の周りの光の環で、うす雲の中の氷の結晶によって、太陽の光が屈折して現れる現象だそうです。
重陽の日に、天武天皇崩御にの日に、いいものをみました。
写真は桜井の我が家の屋根越に見た太陽そして、ハロ(光の環)。

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# by koza5555 | 2018-09-09 16:44 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

室生の桃。または桃源郷

近く、室生の話をいたします。今回は「室生の桃」もお話しします。「室生の桃」、萬葉集にあります。

しかし、いま、室生には桃畑は見当たらない。


歌は

「大和の室生の毛桃 本しげく 言ひてしものを 成らずは止まじ」(巻112834

「大和の室生の桃のように、桃の花が一面にというような風景、それと同じようなあふれる思いで言ったのだから、この恋は実るだろう」という歌である。

桃の実に寄せて、あの娘との恋の成就をうたった。

しかし、いま、室生には桃畑は見当たらない。

萬葉集の時代に室生の桃はとりわけ名高かったのか。それとも単に比喩的に、室生の地名が出ただけなのか。

いずれにしても、室生が万葉の時代に、桃源郷、またはある種の桃源郷だったことは間違いない。室生は雨・水をつかさどる神として龍穴神社があり、その信仰に関わって室生寺も創建されたとされる。いわば理想的な‥言い換えれば桃源郷として位置づけられていたのである。


室生寺に詣でるためには、どこから入っても峠を越えなければならない。そういう地形である。

その峠、東西南北の路には四大門というお寺が置かれていた。

北は名張の丈六寺、東は田口の長楽寺、南は赤植の仏隆寺、西は大野の大野寺だが、今日は南の仏隆寺からの室生古道を紹介したい。

仏隆寺・・千年桜、空海が持ち帰ったとされる茶臼など、話題は多い。

彼岸花も有名だったが、5年ほど前、獣害で壊滅的な被害を受けた。これが復活しつつで、今年は楽しみである。

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この仏隆寺から室生寺への道がある。室生古道と称してもいいだろう。

まずは仏隆寺から道路標識に沿って坂を登る。そこがカラト峠。大師伝説で「室生の里は唐の国のようだ」とあり、その入り口、だからこの名が付いた。宴行者像が置かれている。

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カラト峠から下っていくとカラミタという字がある(標識はないが「唐見た」)。

そこを下がると腰折れ地蔵が祀られる。腰から下が二つに折れている。「地蔵仲間のなかでも意地悪だったので倒された」とか、「子育て地蔵と子どもの取り合いをして腰を折られた」などのいわれがある(室生公民館 平成2412月)と掲示がある。

室生古道(南の大門の仏隆寺から室生寺)の道中にあることから注目度の高い石仏であったと思われる。

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この道(車で走れる林道も歩く旧道もある)には、頑丈な獣除けの柵があるが、カギの無い扉があるから、それを開けて(通過後は必ず閉めて)通過することができる。

室生の村に入る。最初は西光寺。樹齢400年という「城之山桜」の枝垂れ桜が有名である。

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ここまで来ると・・そこは室生の郷、室生寺でもある。

「室生は桃源郷」がテーマであるが、現在は桃畑は見当たらない。・・

●(古代中国)桃は仙果として、邪悪を避ける力があるとされた。桃の木で作った人形(桃人)を門に立てる、桃の枝を門に挿す、モモ板に呪文を書く。

●(日本の神話)イザナギは黄泉の国から逃げて、黄泉比良坂で桃の実を投げて窮地を脱する(神話)。

●お伽話の「桃太郎」も、実は桃が鬼を退治する話。



この道を一度は歩いていただきたい(笑)。それが無理なら、せめて車でよいから楽しんでいただきたい。

室生から仏隆寺に至る道は、ちょっと説明が難しい・・荷の出の大門集会所の前を抜けて、西光寺を経て、左へ回ると…と言われても・・・

仏隆寺からは、道路標識があるから簡単である。

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# by koza5555 | 2018-09-05 13:44 | 宇陀 | Comments(0)

中秋の十五夜

八月(はづき)十五夜の花はススキである。またハギをはじめ秋の七草を飾る土地も多い。


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十五夜は月ごとにあるのだが、特に八月十五夜の月を賞する風習は、四季の移り変わりの中での「中秋」という好季節であることと、815日が「豊年祭」を営む日…日本の風土と生活の上に定着したものであった。秋の大切な折目だったのである。

この行事は今でも、旧暦で行われていて、9月十五夜がこれに当てられる。今年は924日が中秋の十五夜である。


中国では月の陰影をヒキガエルや兎と見て永遠の命をもたらす仙薬をつくといい、日本ではハレの日の餅をつくとみる。仙薬と餅・・これも不思議である。

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まずは、仙薬問題を考えてみる。

日本の神話では、月の神は「月読命」(つきよみのみこと)で、月の満ち欠けを読む(数える)神の意味がある。


イザナギは黄泉の国からイザナミに追われて地上に逃げ帰り、みそぎをする。左の眼からは天照大神、右の眼からは月読命、鼻を洗うとスサノオ命が生まれて、これを三貴人という。

天照大御神とスサノオ命は古事記・日本書紀では大活躍だが、月読命がとんと出てこない。


ところが萬葉集で、この月読神話が語られている。

「月読神話」の精髄は、月の満ち欠けを「蘇るもの、不死なるもの」とみることが土台である。

「月読の 持てる変若水(をちみず) い取り来て」(巻13-3245)とあり、この変若水(おちみず)は若返りの霊水とされている。月は満ちては欠け、欠けてはまた満ちるので、よみがえるもの、不死なるものとみられたようである。

「わが手本ま噛むと思わむますらをは 変水(おちみず)求め 白髪おいにけり」(巻4-627)」では、「私を妻にしたいならば、オチミズがいるのでは・・白髪でしょう、あなたは」と歌われるのである。


こんな風にみてくると、「月のウサギは不老長寿の仙薬をつく」という中国の思想はよく理解できた。

さて、中国のウサギの仙薬つきが日本では餅つきに変わるのが、これまたおもしろい。

日本の米作中心の農耕文化のもとで、中秋の名月、十五夜は秋祭、豊年の祭でもあり、庶民的に見れば、薬よりも餅つきだろうか。


月の満ち欠けに古代の人は若返りの可能性と力を感じた。月の満ち欠けは古代の人の希望であった。

僕もそんな年になった。今年の中秋の十五夜、924日は特別の思いで若返りを祈りたい。

以上は「節供の古典。花と生活文化の歴史」の「十五夜の古典」(雄山閣、桜井満著)の丸写しである。

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# by koza5555 | 2018-09-02 08:55 | 読書 | Comments(0)

奈良まほろぼソムリエの会の研修旅行

奈良まほろぼソムリエの会の第4回研修バスツアーの募集をいたします。今回は12月8日(土)に東播磨の浄土寺(小野市)・石の宝殿(高砂市)を訪れ、兵庫県では最大規模の神戸市内の五色塚古墳を見学いたします。講師は奈良まほろばソムリエの会の木村三彦顧問です。

浄土寺は東大寺の復興を目指した重源が建てた播磨別所。大仏様で作られた浄土堂、堂内の中央に祀られる阿弥陀三尊像、東大寺を考えるうえでは必見ものです。

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生石(おうしこ)神社とご神体の石之宝殿。益田岩船との対比も考えながら、その真相を探ります。


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明石海峡にそびえたつ五色塚古墳は古墳の成り立ち、役割を考える上での興味が尽きません。

奈良の歴史を複合的に考えるうえでは最適の社寺と古墳をとり上げ、「バスだからこそ行ける」という行程を準備いたしました。ぜひ、ご一緒にお出かけいたしましょう。

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日時は12月8日(土)。近鉄奈良駅(春日ホテル前)午前820分。JR奈良駅(西口・ホテル日航前)午前830分発で、近鉄奈良駅に1730分頃に帰着する予定です。

また、研修ツアーの詳細は「奈良まほろぼソムリエの会」のHPの『お知らせ』で告知いたしております。

お申し込みは、後述のメールへ、送信お願いいたします。


申し込みには以下の項目をご記入してください。

氏名、当日に連絡ができる携帯電話の番号、乗車場所(近鉄奈良駅前・JR奈良駅前)


参加費は9,000(昼食付) です。

定員(40名)になり次第、受付を終了いたします。料金は当日払いですが、12月4日(火)以降はキャンセル料をいただきます。では、ご検討、ご参加、よろしくお願いいたします。



NPO
法人 奈良まほろばソムリエの会

担当 雑賀耕三郎

メール kozaburo@cg8.so-net.ne.jp

一緒に参りませんか。

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# by koza5555 | 2018-08-26 14:32 | 奈良まほろばソムリエの会 | Comments(0)

専行院と修陵餘潤之碑

毎日新聞、8月23日(木)のディスカバー奈良は「修陵餘潤之碑」(しゅうりょうよじゅんのひ)を書いた。

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全文は以下の通りである。

天理市柳本町の専行院(せんぎょういん)には、柳本織田藩の歴代の領主の墓碑と合わせて、「修陵餘潤之碑」(しゅうりょうよじゅんのひ)という自然石の大きな碑が立てられています。

専行院の東方には崇神天皇陵があり、陵をめぐる巨大な周濠を見ることができます。もともとは小さかった周濠を巨大な池に作り替えたのは幕末の織田藩の修陵の工事でした。織田藩は修陵の工事と合わせて、周濠の拡大により灌漑用水の拡大を図ったのです。

陵、周濠の改修により、多くの田に潤いの水が届けられることになりました。時を経て、水の恩を受けた農民が、田植えを終わった時期に専行院に集まり、織田藩の領主の法要を始めました。この法要は今も続いています。そして、陵を修理して水の潤いを受けたと記した「修陵餘潤之碑」を境内に立てて、感謝と喜びの気持ちを表しました。(奈良まほろぼソムリエの会副理事長 雑賀耕三郎)

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 専行院は天理市柳本町1474番地、JR桜井線柳本駅から徒歩で約10分である。 駅前から黒塚古墳、崇神天皇陵へ東に向かう道から見ると、右手、もう一筋南の路である。車で行くならば、駐車場は大きくて安心して停められる。

 

 この専行院で藩主祭という法要が、毎年7月の第二日曜日に行われている。

 柳本連合自治会の主催で、東京から織田藩の当主を招き、町内の主要団体が集まって法要を行う。

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専行院 松村順雅住職を導師として法要が行われる。

さらに「祭文(さいぶん)」を、森脇完一天理市柳本連合自治会長が読み上げた。

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祭文の要旨は以下のとおりだった。

本日、ここに旧柳本藩主織田信成公並びに織田家歴代のご尊霊を招き、専行院に祭壇を設け織田毅様、日高美智子様、天理市長並河健様をはじめ関係各位のご臨席をいただき、柳本町民、一同と共に頭を垂れて法要を営みます。

顧みすれば、初代織田尚長公の入部以来、織田家は歴代の藩政を担われました。

なかでも第12代 信成公は特に勤王の志厚く、かねてより崇神天皇陵の荒廃を憂い、嘆かれ、公儀の允許を得て 元治元年9月17日に、これの修補に着手され、

人夫57998

工費 銀598

並びに食料米等を支出し、親しく工事を督励して、翌年2月に、その竣成を遂げられました。

御陵の周囲には6町4反の土塁を巡らし、比をみない濠を作られました。古来柳本町は水利に乏しく、年々灌漑用水の枯渇に悩まされていましたが、山稜御修陵以来、貯水を利用して、耕作をすすめて、領民等しく蘇生の思いをいたし、水利の潤いを受けてきました。

今日、住民の生活様式は変革、農業経営の変貌など生活の在り方は変化しました。農業用水だけなく観光・景観など修補の益はますます大きくなっています。

慎みて霊前に向かい、住民を代表して感謝申し上げ、歴代御霊代のご冥福を祈念いたします。

平成3077   天理市柳本町自治連合会会長 森脇完一

崇神天皇陵をぜひ訪問していただきたい。その陵と周濠があなたの心を打つことは間違いない。そして、専行院を訪れて修陵餘潤之碑もぜひとも拝見していただきたいのである。

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# by koza5555 | 2018-08-23 05:07 | 桜井・山の辺 | Comments(0)