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奈良・桜井の歴史と社会

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古事記の女性たち。その愛とたたかいから学ぶこと クラブツーリズム

「奈良まほろばソムリエの会」ガイド同行の『古事記』でたどる大和の旅を案内してきた。

7月の2回も含めて、昨年から数えて16回目である。一回だけ不成立だったが、16回で15回の出発確定であるので、『古事記』ツアー、なかなかの人気ものである。

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7月は18日(水)と21日(土)はいずれも催行が確定した。

18日はほぼ満席、21日は空席が十分残されている。一応、ここで『古事記』ツアーは一区切りであるので、ぜひのお誘いである。

7月は「古事記の女性たち。その愛とたたかいから学ぶこと」がテーマである。

新大阪、天王寺発で、佐紀古墳群の磐之媛命陵、箸墓古墳、忍阪は鏡女王墓、玉津島明神、石井寺の薬師三尊の拝観も予定している。それから、角刺神社、飯豊植口丘陵。

磐之媛、「やまととももそびめ」(古事記の表記)と卑弥呼。忍阪では衣通王。忍海で飯豊天皇である。

古事記とは直接の関係はないが、卑弥呼もしっかり語ることにしている。

古代の英雄や戦いを語るとき、卑弥呼なし、神功皇后なしではもの足りない。

古代は男が王、彦は王権、女性は巫女の役割という論がふつうである。

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「卑弥呼は巫女、権力を持たない」という論である。

ところが、卑弥呼はたたかい、統治する女王だという学者もいる。僕が決めた代表は義江明子帝京大学教授である。


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魏志倭人伝に描かれた卑弥呼は

「共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者の少く、婢千人を以て自ら侍()せしむ。唯、男子一人有り、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す。」

ここから、卑弥呼は国の巫女的な役割で、佐(たす)けて国を治むとされ、男弟が政治をしているとの見方がある。

しかし、義江さんはここが違うと言われる。「卑弥呼は国の乱れを治める王、佐(たす)けてというのも、あくまでも助けてであり卑弥呼に王権あり」とされるのである。

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ワカタケル(雄略天皇)を佐(たす)けてと、稲荷山鉄剣には刻まれているが、誰もワカタケルに実権がなかったなどとは言わない。

なんで女性の王の時は佐(たす)けてと書かれただけで、実権がなかったなどと決めつけるのかと言わる。

日本書紀は卑弥呼を神功皇后に当てはめている。

神功皇后の力は

神の言葉を聞く力

武装して軍隊を率いてたたかう能力

征服により支配地域を広げ、国を富ます力

妻であり、母であること

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同じように、卑弥呼は神の言葉が聞けて、たたかい、統治するというスーパーウーマンである。記紀が書かれた600年代、卑弥呼のイメージは巫女であり、大王であるという見方もあった。

こんな話を皮切りに、古事記に描かれた古代の女性を前例にとらわれずに紹介した紹介したいというツアーである。

こんな卑弥呼のイメージが近世に変えられたと義江さんは主張される。

弥生時代から古墳時代、古墳時代から飛鳥の時代にかけての女性の王の役割が劇的に変わっていくことが証明される。

巫女とか巫女埴輪、衣通王の愛、飯豊天皇の苦悩を解明する。

古事記ツアー、最後に女性天皇、女性王の権力の歴史、役割を語り、その結末を解明する。

僕もワクワクしている。



# by koza5555 | 2018-07-04 22:08 | 万葉の旅 | Comments(2)

古代の醸造、酒造りのあれこれを

『卑弥呼は何を食べていたか』。廣野卓著。2012年。

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「卑弥呼の呪術と桃」については先日、書いたばかりだから、廣野さんが書いたテーマから、古代の醸造、酒造りのあれこれを考えてみたい。

先日、古事記をテーマに大神神社を案内した時、酒作りが話題になった。

「この神酒(みき)は、わが酒ならず、大物主の醸みし神酒」である。古代の酒造りは人が米、味飯(うまいい)を噛むところから始まったとされる。

「未婚の女性が噛んだと聞くけど、大物主が噛んだ酒だろうか。大物主は女性だろうか」という質問だった。ソムリエの会の古事記ツウ、神様ツウの田原ガイドもタジタジとなった。

これを考えてみた。

お米を炊いて、それを噛んだコメ作りはあったようである。

しかし、それを古代の人も不潔感を感じていたという証拠がある。

乙女が噛んでも同じである。

「だから、神に噛ませる、神に醸ませる。それで不潔感を払拭」と、日本書紀の崇神条は書いたんではないだろうか」と、廣野卓先生が『卑弥呼は何を食べていたのか』で書かれている。

味飯(うまいい)を水に醸みなし 我が待ちし かひはかつてなし 直にしあらねば(巻16-3810

『大隅国風土記』である。ある家が米と水を用意して村に告げまわります。村の男女が集まってコメを噛んで酒槽に噛んで入れます。酒の香りがしてくると、また集まってそれを飲みます。これが口噛みの酒。噛んでペッである。

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しかし、やはり不潔という意識はある。現代人は無論のこと、古代の人も同じである。

スサノオ命の神話を思い出してほしい。穀物神オオゲツヒメが口から食物を出して饗応したので、スサノオ命は不潔だと怒ってオオゲツヒメを剣で斬っている。

この不潔感を払拭するために、未婚の乙女が噛んだり、村人全員で噛んだ。

さらに不潔感はぬぐい切れないので、「この神酒(みき)は、わが酒ならず、大物主の醸みし神酒」として、「神様が噛んだ酒」だからと、不潔感を払拭した。

大物主は女性ではなく、男であるが・・神である‥というのが結論である。

神と酒の歴史では、大神神社の大物主が酒の関わりの大本である。

『崇神記』には、大田田根子を祭主として、高橋活日を掌酒(さかびと)に定めて、大物主神を祀らせてとしている。

「この神酒(みき)は、わが酒ならず、大物主の醸みし神酒 幾久 幾久」

これが縁起となって大神神社の祭神を酒神とする伝承が生まれる。神酒と書いてミワと訓するようになり、味酒(うまざけ)が三輪山の枕詞にもなる。

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ところがこの酒の神はスクナヒコ神が本来の神の可能性があるというのが、廣野卓先生の託宣である。

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      大阪市土修町の少彦名神社

大神神社は三輪山の奥津磐座を大物主神、中津磐座を大国主神、辺津磐座をスクナヒコナ神を祀っている。

スクナヒコナ神は大国主神に協力して、さまざまな生産技術を伝授し、豊葦原の中ッ国を築く産業神で、薬神が祀られている。

製薬業界にも崇められる。薬の町大坂の道修町では、少彦名神社の祭日(1223日)を「神農さん」と呼んで和漢の薬神が祀られる。酒より薬ということだが。

『仲哀記』によれば、少彦名神が酒の神である。

「この神酒は わが神酒ならず 酒の司(くしのかみ) 常世にいます 石立たす 小名御神の 神寿き(かみほき) 寿き狂ほし(ほきくるほし) 寿きもとほし 献り来し(まつりこし)神酒ぞ 乾さず食せ(あさずほせ) ささ 」

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竜田大社の例祭の祝詞(天武天皇(律令)の頃から行われている)に照らして考えてみよう。

神酒ならべ 和稲(にごしね)・荒稲(あらしね)に

山やまに住(す)む物ものは

毛(け)の和物(にこもの)・毛(け)の荒物(あらもの)

大野原(おほのはら)に生(お)ふる物は甘菜(あまな)・辛菜(からな)

青海原(あをみのはら)に住(す)む物ものは鰭(はた)の廣物(ひろもの)

談山神社の百味の御食で、和稲、荒稲を語っているが、

海の魚、鰭(はた)の廣物(ひろもの)を教えてもらった。鰭(ひれ)が大きいと廣物でタイとされ、鰭が小さいと鰭狭物‘(はたのさもの)で鯉という。

鰭はあまり違いがないが、体高で決めていたらしい。

神饌を考えると古代の食物にあたるらしい。日常的に、あるいは特別に食べているものが神饌として供えられていたからだ。

食べ物と酒のことでした。


# by koza5555 | 2018-07-03 21:15 | 読書 | Comments(0)

なかじまゆたか作品展  奈良まほろばかるた原画

「奈良まほろばかるた」の原画を描かれた中島豊さんの「なかじまゆたか 作品展」が開催される。

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奈良まほろばかるたは「NPO法人奈良まほろばソムリエの会」の啓発グループが中心となって作成した。

「いまどきかるた?」との声をはじめは聞いたが、このカルタは好調に販売が進み、刷りましに成功した。カルタも出版物とみれば、重版出来(じゅうはんしゅったい)である。

読み札が軽快で、読み札の裏面に書かれた解説も好評である。

奈良県がバランスよく紹介されていることかうれしい。

「神武天皇の即位」をテーマにした古事記ツアーに参加されたKomazaさんは、見学場所をカルタで紹介されていた。

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しょだい じんむてんのうまつる かしはらじんぐう

みわやまは おおみやじんじゃの ごしんたい

れいきに さらしてつくる みわそうめん

ろまんある さいこのこどう やまのべのみち

(奈良まほろばソムリエの会編「奈良まほろばかるた」より)

また、福井県の石亀さんも、「孫とまほろぼかるたでたどる奈良旅行をしてみたい」と書かれた。

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そして、このかるたの魅力の根源は絵である。

中島豊さんが描かれた。ゆったりと穏やかで、何とも言えない奥深さの気分の絵である。

「この絵を見ていただきたいということで、「なかじまゆたか 作品展」が開催される。

発刊本挿絵原画と奈良まほろばかるた原画が展示される。

奈良まほろぼかるたの原画は44枚、すべてを展示、得難い機会である。

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7月6日(金)、7日(土)、8日(日)に奈良県立橿原文化会館(橿原近鉄百貨店の東側・八木駅からはどんな雨が降っていても歩いて行ける)である。

時間は午前930分から午後430分まで。

入場料は無料。

ぜひ、おいでいただきたい。


# by koza5555 | 2018-07-02 07:18 | 奈良 | Comments(0)

纒向遺跡とモモの種

纒向遺跡でモモの種が論争の的となっている。

纒向遺跡では大型建物の柱跡付近の土坑から様々な遺物に交じり2000個以上のモモの種が発掘されている。

このモモの年代が最新の技術で、分析をされている。今までも土器などからその古さは指摘されてきていたが、発掘されたモモそのものもの試験である。

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桜井纒向学研究センターは『研究紀要第6号』(330日付け発行)をめぐって記者発表している。

名古屋大学の中村俊夫名誉教授が纒向遺跡から出土の桃(モモ)の種を放射性炭素年代測定法で調査をしたという論文や、

同所の森暢郎研究員が動物の骨の発掘(183次調査)の論文を乗せたりしており、売り切れになるという具合で、この号は好評となった。

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その、モモの種について紹介する。

まずは検査の方法。放射性炭素年代測定法のことだ。

植物遺物には「放射性炭素原子14C」が含まれるが、これが規則的に壊れていき、5730年で半減となる。だから、きちんと調べれば、何年前の植物・・、それがわかる。

基準は1950年で、実はこの時期の水爆実験により、大量の14Cが大気に放出されたことからその後のデータは使用できなくなる。だから、1950年が原点となり、そこからビフォー1800年などという形で示される。

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分析結果。12個のモモの種  Momoと書いてある

名古屋大学が加速器質量分析計で調べてみると、モモの種の12個は平均で 1820 BPとなり、基準の1950年から1820年を引き算、誤差の補正をすると、西暦130年から230年の間であることが証明された。

卑弥呼は170年に生まれて、248年まで生きたとされているで、これは卑弥呼、邪馬台国と同時代である。

吉野ヶ里の高島忠平先生は、「分析に信用できない。また、たとえ時代が当たっていても邪馬台国論争とは別の話」(産経新聞615日付けを意訳)と言われているが、反論にはなっていない。

時期も時期だが、モモも種ももう一つ考えてみたい。

『卑弥呼は何を食べていたか』。廣野卓  2012年の本だ。

「卑弥呼の呪術と桃」がテーマだ。

平成21年 当時の大型建物群の柱跡が発見、平成22年、すぐ近くの土坑から2000個余りの桃の種が出土した。

卑弥呼の宮室説がある場所から、古代中国で呪術に用いられてきたモモの種が出土。

中国ではモモは仙果として、邪悪を避ける力があると信じられてきた。

モモの木で作った人形(桃人)を門に立てたり、モモの枝を門に挿したり、モモ板に呪文を書いたりした。

モモは不老長寿を願って、儀式参加者に食べさせた(菅谷文則)

『記紀』の国生み神話にも。イザナギは黄泉の国から逃げて、黄泉比良坂でモモの実を投げて窮地を脱する。

お伽話の「桃太郎」も、モモが鬼を退治する話。

出土したモモの種は、呪術に長けた巫女の存在を感じるさせる。

2000個のモモの採取は大仕事で、その桃は纒向遺跡付近でモモの林で採取された(花粉が大量に出る)と解析されている。モモが巫女の呪術の為に栽培されていた。


時期が大切。モモの種が肝心なんだ。卑弥呼の作法は、大和王権にも秘儀継がれた。

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# by koza5555 | 2018-06-30 00:22 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

夏越の大祓 村屋坐弥富都比賣神社

村屋坐弥富都比賣(むらやにますみふつひめ)神社を「ディスカバー!奈良」(毎日新聞奈良版)で紹介した。

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神社の主祭神は三穂津姫命(みほつひめのみこと・弥富都比賣)。「三穂津姫命は大国主命の后神として高天原(たかまがはら・天上の世界)から稲穂を持って降り、稲作を中津国(なかつこく・現実の世界)国に広めたとされる神である。

祭神で考えれば、大国主命を祀る大神神社とは夫婦の関係かと思われますし、また、天上の世界と現実の世界を稲作で結ぶ役割を果たした神だった。(神社の掲示から)

この神社の夏越の大祓式を拝観、拝見して大祓の要素をいくつか感じた。奈良盆地、数ある大祓式の中から、今回はこちらを紹介することにした。



心身清める夏越の大祓  村屋坐弥富都比賣神社

630日には「夏越の祓い」が各地の神社で行われます。猛暑を前にして、人々にたまった罪けがれを払い落とす神事です。

大和川に沿い、奈良盆地の中心に位置する田原本町の村屋坐弥富都比賣(むらやにますみふつひめ)神社の「夏越大祓式」を紹介します。

祭典は午後4時から始まります。参列者は茅の輪をくぐって結界が張られた神前に上がります。紙を切った人形(ひとがた)に息を吹きかけて厄災を移したり、カヤの葉や切り紙で罪けがれを払います。祭典が終わると茅の輪を外し、子供たちが人形、供え物と一緒に大和川岸に運び、川に流すのです。「大和川で刈ったカヤで茅の輪を作り、人のけがれをうつして、川に戻します。子供たちもそのお手伝いをいたします。神社の古来からの風習です」と守屋広尚宮司は語ります。(奈良まほろぼソムリエの会 理事 雑賀耕三郎)

 

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取り外された茅の輪は子供たちの手で大和川岸に

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最後は大和川に流される

村屋坐弥富都比賣神社には近鉄俵本駅下車、東へ徒歩40分。JR桜井線巻向駅下車、西へ徒歩30分。駐車場は大和川堤防沿い(神社の東南)などに整備されています。

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# by koza5555 | 2018-06-21 05:28 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

雄略天皇 稲荷山鉄剣と脇本遺跡

雄略天皇をクラブツーリズムの「第5回古事記ツアー」のテーマにした。

        

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まずは稲荷山古墳の鉄剣である。今更であるが、勉強しなおしてみた。

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鉄剣の銘文発見はインパクトがあった。

「東国だけでなく、九州も同じ雄略のとき、ヤマト王権のもとにちゃんとおさまっている光景なのです。これは倭王武の上表文の在来の明治以来の通説と全く同じであって、その点で、私は通説が支持されたと直感しました。しかも通説は文献だから間接的だけれど、実物で証明されたというのが、私の印象です」(p19  井上光貞)

稲荷山古墳(埼玉県)から鉄剣が出土。その内容が元興寺文化財研究所で解読されたのが1978年である。昭和の時代やなあ・・・

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稲荷山古墳。埼玉県の川名さんにいただいた。丸墓山古墳から桜の時期に撮られたとのことである


表「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣」などと刻まれ、

裏「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」

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併せて、熊本県の江田山古墳の鉄剣も銘文の解明もすすんだ。

明治6年(1863年)に発見された鉄剣に刻まれていた「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇と(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と推定されていたが、稲荷山古墳から出土した鉄剣銘により、読みはワカタケル大王に確定した。

中国南朝の宋(420 -479年)の歴史は『宋書』に書かれているが、 その中の「宋書倭国伝」に倭国が記される。昇明2年(478年)の条には、倭王武が紹介されている。


 倭国の雄略天皇が宋に遣わした使節が携えた上表文に、「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)・隼人(はやと)など)を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」とされている。この内容が、「モノ」によって証明されたということである。


稲荷山古墳の鉄剣の銘文の「辛亥」(かのと しんがい)は西暦471年か531年。

宋書には478年という年号があり、ワカタケルの実在性、それも何時生きたか、活躍したかが疑いない形で明示されたのである。



ワカタケルは面白い。ワカタケルは刺激的である。

古事記や日本書紀がどう書いたか、エピソードはてんこ盛りである。

それに見合う形で宋書(中国)は雄略天皇を取り上げている。倭の五王のうち「武が雄略天皇」であるとすると、雄略天皇は絶対年代(西暦の)がわかる初めの天皇ということになる。

『日本霊異記』、『萬葉集』の冒頭は、これも雄略天皇なのである。

また、雄略天皇が生きた5世紀末、『記紀』が示している「朝倉の宮」あたりで、宮に匹敵する建物跡が発掘されている。脇本遺跡という。時期的、規模的に雄略天皇の宮跡とみることができる。

「シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本」(新潮社)。古い本だが、たくさんの勉強をすることができた。読書感想文にならないのだが、「実物で証明された」が結論である。

クラブツーリズムの「古事記でたどる大和の旅」はあと2回である。ぜひ、おいでください。
第5回は16日(土)と20日(水)「古代の英雄!略天皇」。
最終回の第6回は7月18日(水)、21日(土)で「古事記の女性たち その愛とたたかいから学ぶこと」である。




# by koza5555 | 2018-06-14 10:21 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

鏡女王忍阪墓前祭

69日、忍阪区(桜井市)生根会(忍阪区老人会 会長 東井さん)は、鏡女王墓前祭を斎行した。

談山神社の長岡宮司以下神社関係者が祭祀を執り行った。

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鏡女王忍阪墓は、談山神社が管理しており、日常的には忍坂の生根会が樹木の管理、草刈などの墓域の清掃を奉仕されている。墓前祭を実施するのも生根会である。

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こうした行事、管理とは別に忍阪の陵墓に対する区民の思い入れはすごい。

外鎌山の南麓には、西から東へ舒明天皇陵、鏡女王墓、大伴皇女墓が鎮まる。

忍阪のみなさんは、これを総称して、「三陵墓」と呼び、敬愛しながらも親し気な付き合いである。

宮内庁が管理しない鏡女王墓は、とくに「中の御陵さん」と呼び、大切にしているのである。


舒明天皇陵、大伴皇女墓は宮内庁の書陵部が管理する。畝傍監区、忍阪部といい、周辺の陵墓と合わせて、日常的に補修とか草刈が行われる。


しかし、鏡女王墓は別である。陵墓を繋ぐ野の道もだれも草刈はしないのである。


万葉の旅で、犬養孝が鏡女王墓を語っている。こんなくだりがあるのである。

戦後ま近のこと、お隣の舒明天皇陵はきれいに掃き清められているのに、このお墓は草ぼうぼうに荒れていた。見れば、談山神社保存会の所有になっている。私はしばらくお待ちください。草を抜いてみたが、とうていおいつくことではない。
(『万葉の旅上』犬養孝)

こんなことから始まったわけでないだろうが、この管理を現在は忍阪生根会が行っているのである。


最後に鏡女王のことである。
まずは興福寺。鏡女王の藤原鎌足への思いが凝縮して興福寺は始まった。

天智天皇8年(669年)、鎌足が重病の時、婦人の鏡大王は夫の病平癒を祈って仏殿建立を発願した。当初は鎌足の許しを得られなかったが、ついには婦人の願いが叶えられたという。仏殿には、鎌足が蘇我氏打倒に際して発願し、その後に造立した釈迦三尊像と四天王像が安置されたと伝えられる。これが「山階寺」と称されて、興福寺の起源 と興福寺はHPに記している。

鏡大王(鏡王女―萬葉集、鏡姫王―日本書紀)の願いが凝縮して興福寺が創設された。

鎌足、鏡の夫婦愛が興福寺の出発ということで、僕もちょっと、びっくりである。

忍阪と言えば舒明天皇陵。いわゆる段ノ塚古墳である。


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日本初の八角形墳といわれ、被葬者は舒明天皇(第34代天皇、天智・天武天皇の父)。

「鏡女王、在 大和国城上郡押坂陵(舒明天皇陵)域内東南 無 守戸」(『延喜式諸陵』)と記され、
以上から・・・

鏡王女の墓は忍阪に存在すること。

それから、舒明天皇の陵域で祀られた鏡王女は王族と見て間違いないだろう。陵墓の姿からは、鏡女王は舒明天皇の皇女か皇妹とみる説が有力と思われる。(『日本書紀』小学館)という論説も見られる。

鏡女王は天武天皇12年(683年)75日に亡くなった。
7
4日、天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊いたまう。

75日、鏡姫王薨りぬ。


この日に準じて、談山神社は6月第二日曜日に鏡女王祭、その前日に忍阪生根会は墓前祭を行うのである。


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忍阪、鏡嬢王墓前の谷川〜〜



# by koza5555 | 2018-06-09 21:46 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

花筏、嫁の涙、ウラバ、ツキノデキ

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葛城の道を歩いたら、・・ツアーの下見で高天彦神社と橋本院の間だけだが・・、珍しい花を見つけた。葉っぱの真ん中に蕾だか、実だかがわからない突起がついている

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植物なら「何でもこい」の太子町のYさんに聞いてみると、「花筏」とのこと。名前は「花の載った葉」を筏に見た形とのことである。

北海道に至るまで広く分布しているらしいが、何よりも驚いたのは、この葉っぱが食用にもなると聞いたのである。

そんなところを『大峰こぼれ話』で、元長崎大学教授の銭谷武平先生が紹介していた。ちなみに銭谷先生は、天川村洞川出身である

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「春先になると山菜取りが始まる。・・・・特に珍しいのが洞川方言ウラバである。乾燥したものは、黒い海藻のヒジキのようで、初めて見た人は、その元の姿を全く想像もつかないと思う。それを調理したものを食べていたが、その元が何であるかは全く知らなかった。」

「洞かわの食用ウラバというのは、つまりハナイカダの若葉を摘み取って、湯がいてからあくを取り、乾燥したものであることが分かった。」、とも記され、『大和本草』(貝原益軒)には、「ツキノデキ(ハナイカダのこと)は灌木なり。・・・食うべし、美味なり、冬は落つ」。

(『大峰こぼれ話 銭谷武平』)

これが花筏である。蕾かと思ったが、すでに花は終わり、実となった状態だった。

ハナイカダ(花筏、Helwingia japonica)はモチノキ目に属する落葉低木。別名、ヨメノナミダ(嫁の涙)。北海道南部以南の森林に自生する。葉の上に花が咲くのが特徴である。


花とは、本来は一つの枝の先端に生殖用の葉が集まったものであり、芽の出来る位置に作られる。従って通常は葉に花が付くことはない。この植物の場合、進化的には花序は葉腋から出たもので、その軸が葉の主脈と癒合したためにこの形になったと考えられる。(ウィキペディア)



葉から花が咲く、実がなるものなら・・お葉つきイチョウがある。これは筏の形ではなく、葉の端っこに実がつく・・

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# by koza5555 | 2018-06-08 22:23 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

押熊八幡神社

6月6日は奈良市押熊の定光寺、歓喜天の開扉日である。一年に一回の開扉日である。

お寺に向かう時、押熊神社・・これが気になった。
拝観を終えた後に、参拝してきた。
押熊八幡神社である。主祭神は八幡神、応神天皇である。

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「押熊に八幡神社か」と思いつつ、境内図をよく見ると、忍熊王 麛坂王 旧跡地と記されている
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以下、境内看板による

日本書紀』によれば、忍熊王と兄の麛坂(かごさか)王は仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の娘、大中姫(仲哀天皇の后)である。

 仲哀天皇の崩御のあと、神功皇后は新羅出兵を終え、尽くしに還り誉田別皇子(ほむたわけのみこ のちの応神天皇)をお産みになった。翌年春二月、皇后は皇子と共に大和へ凱旋の途につかれたが、このことを知った押熊、麛坂(かごさか)両王は、皇位が幼皇子に決まることを恐れ、皇后軍を迎え撃とうと、菟餓野(とがの、今の大阪市北区)に出て、その吉兆を占うと狩を催したとき、兄の麛坂王は赤猪に襲われて亡くなられた。

 弟の忍熊王とその軍は、皇后軍のため次第に押され、宇治まで退却した。一方皇后軍は三月の初めに山背へ進出し、宇治に至って河の北に布陣、戦闘を始めようとした忍熊軍は謀略に欺かれて敗退。山背を退き、近江との国境の逢坂におけるたたかいにも敗れ、忍熊王は瀬田の渡し場所付近で入水、亡くなられた。

この『日本書紀』の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い人物、王の一人であったと考えられる。そして、この地域にある日本有数の前方後円墳を含む「佐紀盾列古墳群」との関わりも考えてみる必要がある。

古来より連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域の古い歴史を偲ぶことができる。

忍熊王子神社の祭礼は418日で、当日は宮座も物が参列して古来の儀式により、お祭りをする。また、農家では、昔からこの日を「だんご休み」戸言って農作業を休み、ヨモギ餅を作り祖先にお供えするとともに近隣縁者の家に配る風習がある。

「押熊」は鎌倉時代に作成された「西大寺田園目録」の中の、添下郡京北三里に「押熊原」との地名がみえ、また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の地名があることから、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であることに疑いはない。

なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」「かご坂」は押熊の祖先、麛坂(かごさか)王にちなんでつけられた地名であろう。


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かご池? 鳥居前の池に咲くスイレン

ここは押熊八幡神社である。八幡神社なら、応神天皇・・やろ
同じ境内に、忍熊王、麛坂(かごさか)王の旧跡を持ち、祭りがある。神功皇后、応神天皇の軍の滅ばされた両王、一緒に祀られているのである。
このおおらかさ、どうでしょうか。
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境内には押熊の資料展示室、収蔵庫。どんなものがあるんだろうか。水利組合長の許可があると開くとのこと、表示されていた。


# by koza5555 | 2018-06-06 23:31 | 奈良 | Comments(2)

ワカタケル大王のツアー

クラブツーリズムの『古事記』で巡る大和の旅、第5回は「古代の英雄!雄略天皇」である。

616日(土)と20日(日)、2回の計画だが、いずれも出発が確定した。


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地元、朝倉郵便局(桜井市)の限定絵葉書、ワカタケル大王


雄略天皇、ワカタケル大王を奈良県でたどってみるのであるが、脇本遺跡(桜井市)とか、一言主神社(御所市森脇)は、誰が考えても必至、その上であれこれ工夫して一日コースを作り上げた。
面白くて、バスが入れて、ご飯を考えて、お土産が帰るところを考える。観光化されていない神社や史跡を回るから、トイレの確保も大切である。

さて、ワカタケル大王まで来ると、残る史跡が具体的になってくるから、緊張もするし、面白さも広がり深まる。

ワカタケル、どういう人か。

従弟や遠縁の皇子・王をとにかく、殺し、焼いた。きわめて残酷であるが、ちょっと考えれば、大和王権と葛城氏族の激しい戦いもその中に透けて見えていて、歴史の一つの必然である。


極楽寺ヒビキ遺跡出土の柱穴から想定された屋敷の姿

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ワカタケルは『古事記』・『日本書紀』に詳細に紹介されている。

それだけはなく、ワカタケルは中国の史書に紹介されている。宋などの史書に紹介されている倭国の5人の王のうち、武はワカタケルとされていて、それが西暦の479年ということである。絶対年代が明白な古墳時代の天皇である。

「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」と上表してきたと、明瞭である。

さらにすごいのは、稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣」(1978年)である。

「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣・・・・」(表)

「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」(裏)


稲荷山古墳

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出土した鉄剣

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江田船山古墳の鉄剣もすごい。1863年(明治6年)に発掘された鉄剣に刻まれていた「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇と(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と間推定されてきたが、稲荷山古墳から出土した鉄剣銘により、ワカタケル大王に読みが確定した。

文字通り、東に西である。


さらに宮として、脇本遺跡が推定されている。2012年の現地見学会では、5世紀末の石垣、建物跡が発掘・紹介されていて、この遺跡5世紀末から、6世紀、7世紀に至るまで使われていたことが明白となった。

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これは脇本(桜井市)の春日神社。ここ辺りを掘ると、宮の跡が出てくるのでは・・と言われている。

古事記・日本書紀、中国の史書、鉄剣に刻まれたワカタケルの名、宮跡と推定される遺跡の存在がある。

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ていねいに資料を作り、ていねいに語れば、今度のツアー、このシリーズで最高の評価が得られると確信している。616日、20日は楽しみである。




# by koza5555 | 2018-06-03 23:49 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

葛城氏に関する古墳の数々

『古代豪族葛城氏と大古墳』、小笠原好彦著、吉川弘文館を読んだ見た。昨年(2017年)の9月の本である。

馬見古墳群の250基もの古墳をだれが築造したのか、それは葛城氏だけにより、築造され得たのだろうか、それが小笠原さんの問題意識である。この疑問を検証したい、そして最近の考古学の研究成果も含めて、あえて、被葬者の名を具体的に検討する(p5)

小笠原先生の論を見てみよう。

まずは建内宿禰である。小笠原さんは「建内宿禰は実在」と明瞭である。その墓は、巣山古墳(4世紀後半)だと断定される。

「モガリを正しく行わない玉田宿禰は允恭天皇に追われる。玉田は墓に逃げ隠れるが、允恭は見逃す。その墓は巣山古墳であり、巣山古墳は特別な古墳、特別な墓域ということではないか」(意訳)との論(p91)で、大和朝廷側も建内宿禰には敬意をはらっていたとのことである。

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上方、右側、周濠に囲まれた古墳が巣山古墳


主題である。
葛城襲津彦が葛城氏のすべての秘密のカギを握っていて、しかも、その葛城襲津彦は3名はいたと論じられる。葛城襲津彦とは、葛城氏の有力首長が世襲で名乗ったと言う意味だろう。

まず、葛城襲津彦は382年に実在したとみなされる。この時期に活躍した葛城襲津彦をBとする。

それ以前に朝鮮半島から技術工人を連れ帰ってきたのは葛城襲津彦Aである。秋津遺跡や南郷遺跡で4世紀後半以前に、朝鮮半島から工人らを連れ帰った可能性が高い。

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秋津遺跡の水田跡。これは弥生時代の水田で、今回は直接は関係ないが、葛城地域の隆盛を示すために写真を出した

さらに仁徳朝に女(娘)が皇后となった(磐之姫)襲津彦がいる。Bとは別人とされて、葛城襲津彦のCである。

仁徳天皇は倭の五王の讃とされている。「倭五王の讃」が宋に使いを派遣したのは421年、425年、430年と絶対年代で明確である。すると『百済記』のソツヒコ(382年)とは年に隔たりがありすぎる。(p63)小笠原先生の結論は「別人を考えるべき」となる。

僕もあれこれ計算してみると、磐之媛がBの女とすると、仁徳天皇の活躍した430年頃には50歳をはるかに超えてしまうため、葛城襲津彦Cの存在が必要である。

葛城襲津彦はAとBとCの3人。

古墳の編年に照らし合わせて、3人の葛城襲津彦の墓を推測したのがこの本の面白いところである。

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大和高田市の築山古墳が葛城襲津彦Aが埋葬されている。磐園陵墓参考地として宮内庁が管理している。

葛城襲津彦Bが埋葬されているのは、御所市の室宮山古墳である。円筒埴輪列により墓域が囲まれ竪穴式石室、長持型石棺が置かれていた。こちらは4世紀末から5世紀初めにかけての首長墓とみられていて、小笠原論にピッタリである。

『百済記』に記された、382年に実在の葛城襲津彦が埋葬されていると推測される。

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磐之媛の父親とみる葛城襲津彦Cが埋葬されているのは馬見丘陵内の広陵町三吉の新木山(にきやま)古墳である。5世紀前半に築造されたとみられる。この新木山古墳も三吉陵墓参考地として宮内庁が管理している。

葛城地域の大型陵墓はすべてが葛城氏に関わる首長の墓域だったことは確からしい。

さらに付け加えるならば、小笠原さんは、以下の葛城氏関係者にも、この地域の古墳を定めている。

河合大塚山古墳は葦田宿禰

河合城山古墳は玉田宿禰

掖上灌子塚古墳は円大臣(つぶらのおおおみ)

屋敷山古墳は飯豊青皇女

明瞭に被葬者を特定されていて簡明だ。あれこれの考えはあるにしても、葛城地域の古墳歩きには大きな助言となるだろう。

最後に、馬見丘陵の古墳群の役割についても紹介されている。

「葛城氏と同一の墓域に、それぞれの氏族の古墳を築造することによって、葛城市との同族関係、あるいは擬制的同族関係を具現化したもの」とされる。

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馬見丘陵内の古墳。これも一つの代表的な古墳のナガレ山古墳。

葛城氏の衰退の後は、平群氏、波多氏、曽我氏、巨勢氏のそれぞれが本拠地に古墳を築造する。

4世紀、5世紀は馬見丘陵をぼいきに。葛城氏が衰退する6世紀以後は各地に・ということである(p184)。

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# by koza5555 | 2018-05-22 14:03 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

傘堂 當麻のレンゾ

當麻寺から二上山に登ろうとすると、當麻山口神社の鳥居に差し掛かるあたり、右側を見ると番傘を立てたような不思議なお堂を見ることができる。傘堂と言われる。

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「この堂は本多侯の菩提の為に恩顧の臣が立てたものである。軒の瓦の面に本と書かれれているのはその証拠。柱の上の方に扉があり開けると位牌があり、また北には添え柱、間に横木が渡されて鐘をかけ、朝晩はこれをつき、旧恩を忘れない(西国三十三カ所名所図会)

この傘堂の法要は9月の第1日曜日であるが、それとは別に5月14日にも法要が行われるとのこと、出かけてみた。


傘堂に置かれていた案内文。とても明快である
二上山の東麓、當麻山口神社の鳥居の北側に、真柱一本のみで宝形造りの瓦屋根を支える総ケヤキ作りの風変りな建物があります。小振りながら、重厚な風格を備え、他に類例のほとんどない珍しい建築遺構です。

その形容から、一般に『傘堂』と呼ばれていますが、江戸時代前期にこの地の郡奉行を務めていた吉弘統家(よしひろのりいえ)が、主君である郡山藩主の本多政勝の没後、その菩提を弔うために延宝2(1674)年に建立した「影堂」(えいどう)「位牌堂」であることが、棟札やその他の資料から判ります。もとここに吊り下げられていた梵鐘には、「恋王の私情に勝(た)えず」「一恩永伝」等の言葉が刻み込まれ、独特の君臣関係にあったことが推測されます。

『傘堂』は、統家らが開いた大池(傘堂すぐ西側の溜池)により、益を被った付近の新在家、今在家、染野の三地区の人々によって、その後も守り続けられています。特異な建立の経緯にも関わこらず、毀誉褒貶されることもなく、300年以上もひっそりと歴史の流れの中に佇んできました。

また、いつの頃からか、真柱の周囲を身体を接しながら巡り、安楽往生を願う風習が生まれ、514日の當麻連座(れんぞ)には大勢の人々が『傘堂』を訪れます。民俗、建築双方から注目されるとともに、柳沢家に至るまでの初期郡山藩にかかわる数少ない遺構としても貴重な存在です。 傘堂に置かれる説明書の本文

五色幕が張られた傘堂に参詣される女性

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真柱の上部の扉の中には阿弥陀如来が祀られている。5月14日と9月の法要の時だけお戻りになるようだった。


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お参りにおいでになられた方、真柱を背にして手を合わせられた。真柱の周囲を体を接しながら回る・・・背中をつけて回るんだね。

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これが大池。この池の恩を忘れず、三か村(新在家、今在家、染野)で、この位牌堂を祀ってきた。
さらにその上には、真の大津皇子墓とされる鳥谷口古墳が
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# by koza5555 | 2018-05-14 15:35 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

語りだす奈良 118の物語   西山厚  

いま、古事記の音読をしている。おもしろい。
なぜ、こんなことを連休に初めたか。それは西山厚さんの本を読んで啓発されたのである。


毎日新聞の連載が本になった。この本の紹介は、アウトラインではなく、いくつかを抜粋した方が良いと考えた。

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こんな人いた!

どうしょうもない悪い世界に住んでいたとして・・どう生きたらいいだろうか。方法は三つである。それは

あきらめる。

別の世界に行く。それは浄土宗の法然の考え。

この世界を変える。これが貞慶の意見である。

奈良国立博物館で、10年くらい前に貞慶展をやられたとのこと。この貞慶を巡っての話である。
貞慶は鎌倉仏教の本流で、解脱上人・・

最後に住んだのが海住山寺、浄瑠璃寺に関連し、貞慶の関係者が造ったのが伝香寺の地蔵菩薩であり、それらの寺々からご仏像がおでましになったとのこと。(p108

古事記を読む

奈良国立博物館の「古事記の歩んできた道」・・・の準備を進めるうち、久しぶりに『古事記』の原文に触れたくなり、新潮日本古典集成(西宮一民さん耕注)で、全巻を声に出して読んでみた。いい!実にいい!『古事記』がこんなに魅力的な作品だったとは、今まで十分に認識していなかった。(p117


日曜美術館

琴は特別な楽器である。琴を弾く人物埴輪がたくさん見つかっているが、それは神さまに向かって弾いている。琴は神と人をつなぐ楽器、日本人は琴を特別視していた。

琴は絃の下に柱(じ)を立てる。これを琴柱(ことじ)という。琴柱がないと美しい音が出ない.絃の下で美しい音を支える琴柱。私の母の名前である(p230

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天理参考館で拝見した琴。ブラジル移民が慰めの為に琴とかを作った。ちなみに琴は、雅楽で使われる楽器の中では最古から使われたものと言える

談山能

安時代に円仁という比叡山の僧が唐に渡り、常行三昧を伝えた。常行三昧は不眠不休で念仏を唱えながら、本尊の阿弥陀如来像の周りを歩み続ける厳しい修行でそれを行う場所が常行堂である。(談山神社の儀式殿、前は権殿)

お寺では大きな法会のあとに、僧侶によってさまざまな芸能が演じられることがあった。これを延年という。多武峰の常行堂はその代表例のひとつで、正月の修正会のあとには、「翁」をはじめとする66番の猿楽が演じられたらしい。

お堂の後ろの入り口を後戸という。後戸から入ったところの空間には、東大寺法華堂のように、執金剛神像のように、本尊を護る神や、何か特別の力を持つ神仏が祀られた。

多武峰の常行堂の後戸には摩多羅神(またらじん)が祀られていた。摩多羅神は円仁が帰国する船の中に現れた神で、常行三昧に入った僧を守護してくれる存在かと思われるが、

談山神社の常行堂、その後戸の天井の裏の小部屋には「摩多羅神」と墨書された箱が置かれており、中には大ぶりな翁の面が入っていた。

平成23年(2011年)、観世流宗家の観世清和さんが、権殿(現在の儀式殿)において、この面を用いて能「翁」を奉納した。(p345



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談山神社の常行三枚堂。現在は儀式殿に呼ばれている

くっつく

正倉院展に聖武天皇のベッドが展示された。展示されたのはひとつだけだが、正倉院には同じ大きさのベッドがもう一つある。ふたつをくっつけて聖武天皇がおひとりでのびのび寝ておられたのか、ふたつをくっつけて、聖武天皇と光明皇后が仲よく休んでおられたのか。

・・・

ところで、聖武天皇の御陵と光明皇后の御陵はくっついている。地図で見ると,二つの御陵は完全に合体しており、よくみると、合体した姿はハート形だ!(p310

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ハート形かな?

奈良が好きになる。聖武天皇・光明皇后が好きになる。仏教のことを考えたくなる。

そして、こんなわけで、古事記の音読を始めたのである。


# by koza5555 | 2018-05-02 20:46 | 読書 | Comments(0)

天皇と民の大嘗祭

来年の今日、今上天皇は退位され、翌日の51日には新たな天皇陛下が即位されることになる。

201951日は即位の儀式が行われるが、「神器」献上は先に行わることが原則であることから見ると、430日に「神器」献上が行われるとみられる。

今日は、その後の大嘗祭のことである。

『天皇と民の大嘗祭』」(展転社・高森明勅)を読んでみた。実は、いくつか読んだ見たが、これが一番・・良い。

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先帝から皇位を譲られた時の大嘗祭は、その即位が7月以前の時はその年の11月、8月以降なら翌年の11月に行われる。

この例から見ると、来年は即位があり、大嘗祭も11月に行われるが通例である。

スケジュールは以下のとおりである。

4月に悠紀(東日本)・主基(西日本)の「国」、「郡」が卜定される。大嘗祭の神事に用いる稲をどこで作るか、という決定である。田植えの時期が関係するから、その前には決まっていなければならない。

大嘗祭の行事所が任命される。行事所は悠紀・主基、それぞれに置かれる。

8月には大祓の使い、天神地祇に幣帛を奉る使いが出される。畿内に一人、七道に一人づつで8名である。

9月には由加(ゆか)物使を紀伊(和歌山)、淡路(兵庫県)、阿波(徳島県)の三国につかわす。

由加物とは、アワビ、あゆ、たにし、ウニなどの魚介類や蒜英根(ひるのはなね)漬物や橘子などである。たてまつるものが決められているとのことである。

9月には悠紀・主基で抜穂を行い、斎田の稲が到着する。

10月からみそぎが始まり大嘗祭は始まっていく。

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大嘗祭が始まると天皇は先に悠紀殿に入られる。

ここで奈良県が関係、宮内省の役員に率いられた吉野の国栖らが朝堂院に参入し、大嘗宮の南門の外の庭上にて古風(ふるぶり)を奏上する。つづいて悠紀地方の歌人が・・・

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天皇が高御座におつきになる、いわば直来ともいえる豊明節会(とよのあけのせつえ)でも、吉野の国栖が歌笛を奏することから始まり、そのあと久米舞などが奏じられるとのことである。


高森明勅さんは、悠紀・主基の国郡からの献上は「豪族たちの服属のシンボル化されたもの」とする。

由加物を献上する紀伊、淡路、阿波の三国は重要である。これらの国は悠紀・主基とはちがい、すべての大嘗祭に献上する。非耕作民(漁民)の奉仕は歴史が深いとされる。

須恵器をたてまつるのは、河内、和泉、尾張、三河、備前の五ヶ国である。

そして、国栖・隼人、悠紀・主基の民の国風(くにぶり)の奉仕も注目すべきであるとされる。「海・山の民が天皇のお側近くまで参上して奉仕を行う。それによって平素は見えにくくなっている天皇統治の全体性と根源性を浮かび上がらせる効果がある」とのことである。

悠紀・主基殿を取り片づけると豊明節会(とよのあかりのせつえ)で、天皇は高御座におつきなる。ここでも吉野の国栖の歌舞は初めに奉られる。


大嘗祭、全体は「民とのつながり」で進められる。

高森明勅さんは、大嘗祭の成立、大嘗祭の行事の中身を詳細に展開して、天皇の民との大きなつながりを丹念にたどり、日本の国の在り方を検討している。

大嘗祭を研究する文献は、あれこれ見ているが、民の戸の関わりを焦点にした高森さんの炉は共感が持てる。いま、大嘗祭が興味深く、そして、おもしろい。ここでとどまめず、さらに勉強してみたい。


# by koza5555 | 2018-04-30 23:29 | 読書 | Comments(0)

大坂山口神社(穴虫と逢坂)

履中天皇と言えば、僕の住む「桜井の成り立ち」に欠かせない大先輩・・じゃないだろうか。

磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)で即位、磐余池を作った。磐余市磯池で舟遊びをしているとき桜の花びらが飛んできたなどという話が記紀に記されている。

この履中天皇、即位前にイザホワケ(仁徳天皇皇子)と名乗っていたころ、弟の住吉仲皇子の反逆に合って大変な苦労をするのである。

難波を逃げ出し、石上神宮に向かう。河内飛鳥の山の入り口で、少女に「敵がいない当麻道を行きなさい」と助言され、竜田山方面に向かう。

山間を出たところ、「数里のところ」に「仲皇子に通じた直吾子籠(やまとあたいあごこ)が兵を備えていた」。その場所は「攪食の栗林(かきはみのくるす)」という。

この「攪食の栗林とはどこ」、「それは大坂の辺りなんだ」との論を最近、読んだ(『悲劇の皇子たち』青垣出版社)。


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大坂と言えば、大坂山口神社、崇神天王の時代(崇神9年春3月)に、「天皇の夢の中に、神人があらわれて教えた。赤の盾を8枚、赤の矛を8本で墨坂の神を祀れ、また黒の盾を8本、黒の矛を8本で、大坂の神を祀れ」で、疾病は平いだという大坂である。

さらに、箸墓古墳の築造にあたっては、「昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んだ」とされ「おほさかにつぎのぼれる いしむらを たごしにこせば こしがてんかも」という歌まで乗せられている、その大坂である。

それで、念願の大坂山口神社、拝観してきた。

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大坂山口神社(穴虫)

祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと)である。

式内社(しきだいしゃ)大坂山口神社は、古代大坂越えの大和から河内に至る入口に位置し、近世では長尾街道に面する交通の要衝に鎮座(ちんざ)されます。

本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の銅板葺()きで、文化十三年(一八一六)の再建とされますが、寛永ニ年(一六二五)以来の棟札(むねふだ)が残されています。それには、背後の山の石巌(せきがん)を掘削して神域を広げたことを記すもの、祇園宮寺(ぎおんぐうじ)とみえ、神宮寺の存在が確認できるものがあります。拝殿は間口五間、奥行ニ間の割拝殿で、棟札によると延享元年(一七四四)の再建になります。また、平成元年三月に秋の大祭には宮相撲が行われ、「馬場のお宮さんの相撲」といい、相当な賑わいであったといわれています。境内には石垣を組んだ桟敷席があり、近年まで土俵も残されていた。

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とあり、さかんに境内で相撲が行われていたことがわかる。

また、近世以降、当麻・勝根・鎌田・五位堂・良福寺など、村名を冠した相撲組があり、二上山麓の村々では相撲が大変盛んであったことがわかります。              

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式内社大坂山口神社は、実はもう一カ所残されている。

逢坂の集落におかれ、近鉄大阪線を挟んだ北側にあたる。こちらは伊勢街道に面しているという。

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本殿が奈良県の指定文化財である。三間社流造、檜皮葺で江戸時代のものであるが、細部には室町時代の建築様式があるとのことである。

御神像が十一体、平安時代から江戸時代にかけての8体の狛犬(木造含む)が残されているとのことである。

うーん、魅力的、ツアーで行きたいけど。

例えば、崇神天皇陵、大神神社、墨坂神社、大坂山口神社なんかを回ればおもしろそうである。



# by koza5555 | 2018-04-17 21:31 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

黒塚古墳・三角縁天王日月・唐草文帯四神四獣鏡

黒塚古墳。130メートルほどの前方後円墳、3世紀から4世紀のものである。

墳丘は、中世・近世に砦、お城として使われた歴史があり、改造が著しい。

竪穴石室は後円部の中心、南北にむけて設けられていた。石室に関わる施設では、前方部につながる鞍部から作業道(墓道)が発見されていて、葬送の儀式の入り口、石室を作るための作業通路として使われたらしい。


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盗掘や開発を逃れて、1997年、タイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。鎌倉時代の地震で石室の一部が崩落していたことが幸いであった。

これを復元した、展示館が設けられていている。古墳に登れて、石室模型が見れて、34面の鏡が見られる、県内では稀有の最良の勉強と楽しみの場所である。

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棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡が置かれていた。棺の中、一枚の画文帯神獣鏡が置かれていた。北枕の遺体の頭の上である。


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「邪馬台国は纒向」というツアーで何度も訪れた。

そのツアーでは、「不思議な鉄パイフ遺物」を、「難升米が受け取ったとされる黄憧の可能性がある」などとガイドしてきたが、34枚の鏡についてはあまり語れてこなかった。ちょっと反省するのである。

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昨年に橿原考古学研究所が、「黒塚古墳のすべて」という展示会を行っている。

面白い図録も出ているし、三次元計測という技術を駆使した素晴らしい写真も出ていることが分かった。一つの鏡を測るのに、400万点を計測する(撮るのではなく)という技術らしい。

データベース化もすすみ、同范、同型鏡は一発で判明である。

そんな研究によると、どうも黒塚古墳の鏡はすべてが舶載鏡らしい。

今度のツアーは三角縁神獣鏡、大いに語ってみたい。

まずは、黒塚古墳の三角縁神獣鏡のことである。

●直径が23センチ程度で大型

断面が三角形の縁

漢字を用いた銘文がある

神像と神獣が描かれる。西王母、東王父


発掘された角縁神獣鏡のことである。

まず、同范、同型鏡という言葉を紹介したい。

同范は同じ鋳型を何度も使う。同型は母型から何度も鋳型を作り、使用する。区別は鏡の傷(鋳出しの時)などからわかるようである。

日本には三角縁神獣鏡は140種類、380枚が発見された。黒塚古墳からは33枚出ているが、黒塚だけというのは3枚しかないとのことである。言い換えれば、ほとんどが流通版だという事である。

中国の鏡の始まり。中国鏡の文様は、もともとは装飾的な図柄が中心だったが、前漢時代(紀元前202年から5年まで)の終わりころに世界観、宗教観を示す図柄が現れる。図柄は四神や霊獣などであった。


後漢時代(25年~220年)には、神仙と霊獣を描かれた神獣鏡が登場する。

西王母などの人の姿の仙人が不老不死の象徴となってくる。

道教の強い影響が感じられ、鏡の所有者には福がもたらされると信じられた。

国内、とくに畿内で大量に埋蔵されたとみられる画紋帯神獣鏡、三角縁神獣鏡は、これらの鏡の紋様をそのまま引き継いでいる舶載(中国産)、もしくは仿製(国産)の鏡である。

黒塚古墳の資料館では、たっぷりとこの図柄を楽しむことができる。

24号鏡と8号鏡を僕は注目してみたい。

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号鏡。名前は「三角縁天王日月・唐草紋帯四神四獣鏡」 


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この鏡の同范・同型鏡は全国に分布している。

 奈良 佐味田宝塚古墳

 京都 椿井大塚山古墳

 兵庫 吉島古墳1号墳

        2号墳

 滋賀 雪野山古墳

 静岡 赤門上古墳

 東京国立博物館

 直径は23.7センチ

 
 西王母、東王父を感じ取ってほしい。

8号鏡も人気者。三角縁神獣鏡龍虎画像鏡


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こちらは、二人の神人と二体の龍虎。とても大柄で見栄えが良い。

同范・同型なし。ここだけ、これだけオリジナル

平壌(北朝鮮)画紋帯同向神獣鏡(後漢代の後半)には、

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西王母、

東王父、

伯牙(はくが)琴の名手。事の調べで陰陽を調和させる。

黄帝(こうてい)。中国の神話では最高の帝王。巨悪な蚩尤(しゆう)を滅ばす。しゆう・・農耕の神か。人の体で頭に角、足にはヒズメ、81体の同じ形の兄弟がいる。

が描かれている。

これは、今回見れるものではないが、鏡を見るうえでの必須の

西王母がいて、東王父がいて、伯牙、黄帝がいる。

ここらあたりが見とれるだろうか。

クラブツーリズムのツアーの「古事記でたどる大和の旅」の「ヤマトタケル編」で、こんなことをお話ししたい。18日(水)は満席、21日(土)はアキがある。


# by koza5555 | 2018-04-10 17:50 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

『奈良・大和を愛したあなたへ』

『奈良・大和を愛したあなたへ』東方出版  千田稔著

今年の1月に刊行されている。桜井図書館の新刊コーナーに並んでいたので、そそくさと借りました。何度も書店で「買おうかな」と悩んだ本でもある。
千田先生、図書館の借り読みですいません。しかし、先生は奈良県の図書館長されているんですから、許していただくということで。

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「奈良にゆかりの多彩な人たち その足跡に思いを寄せ、大和への愛惜を綴る」とある。

奈良で活躍した先人に千田稔さんが手紙を出すという設定である。
リストアップされている40名は、ほぼ明治時代の方々、そして歴史学だったり、文学者であったり。

ベルツ、ゴーランド、ブルーノ・タウト、アインシュタイン、バーナード・ショーなどの外国人も取り上げている。

いずれの手紙も唸らせられが、今の問題意識では、伊藤博文、与謝野晶子(『与謝野晶子と大和』」、直木三十五、宮本常一などが興味深かった。

「石上神宮の禁足地で太刀発見」と題した菅正友は特に面白い。

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「大宮司が禁足地を発掘するというのは大胆不敵な調査」。「前代未聞の発掘調査を敢行されたのは、水戸史学の考証的学的学風を持って歴史学に向かっておられたからであろう」と評価し、発見目録(明治7年㋇24日付け)によれば、「神剣一振や菅玉、勾玉、丸玉、鈴一個などで、神剣については実測図がつけられていました。」

「カムヤマトイワレビコの東征の折、タケミカヅチ命が高倉下に下したフツツノタマは石上神宮に鎮座している」と古事記に記されているフツツノミタマはこれと断定したのは菅正友だった。

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       6月30日、神剣渡御祭の日のお守り

「修史家(歴史家)が知っておくべきことは地理である。地形の高さ、低さ、険しいこと、なだらかなることを知っておかなければならない。土地の遠さ、近さ、東か、北かも知っておかねばならない。」(『修史家は地理を知らざる可からず』)

この言葉に歴史地理学を専攻する千田稔先生は激しく共感して、この書を結んでいる。

僕も同感である。

歴史家でなくても、なんでも関心を持つ野次馬であっても、「地理」は大切。地図から読み取れなければ、「現地に行け」である。

この本はおすすめしたい。買うなり、図書館で借りるなどして。
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鎮魂債祭の日に。夕闇が迫る。灯が入る。人はそれから集まってくる。



# by koza5555 | 2018-04-04 21:13 | 読書 | Comments(0)

長谷寺、大観音大画軸大開帳

長谷寺と十一面観世音菩薩像の原寸大の大画軸が開帳されている。1646センチメートル、横が622センチメートル。画軸であるが重さも125kgあるという。

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軸がは正面に観音菩薩像が描かれ、向かって右には難陀龍王、左には右宝童子が描かれている。

「大きな御影は、室町時代・明応4年(1495年)に罹災した本尊の復興の為に、興福寺の南都絵法眼清賢が高野髪430枚を継いで設計図として描かれたことに由来します。江戸時代に入り、長谷寺本願院65世秀海上人は寛文5年(1665年)に大阪堺の篤信者より信施を受けて、日本最大のこの大画軸を仕立てた」(長谷寺配布資料)とされている。

長谷寺の十一面観世音菩薩は729年、沙弥徳道の指揮のもと稽文会(けいもんえ)と稽主勲(けいしゅくん)によって造仏されたとし、開眼供養の導師は行基(菩薩)とされている。この、十一面観世音菩薩像は、極めてたびたび、火災に伴い焼失を重ねている。

いずれも記録が残されているが、健保7年(1219年)の安阿弥、快慶の手による再建は画期的である。御頂仏まで三丈二尺三寸、1213センチメートルの現在の姿は、この時以来と思われる。


巨大な仏像は、平安時代の末ころからの寄せ木細工という彫法、彫刻ができて作れるようになった。外からはうかがい知れないが、
2本の心棒は下の台座に挿しこまれており、その上部に2本の心棒が前後に入れられ、頭部をささえており、また、この心棒に寄せ木が取り付けられている。

その後も罹災は度重なり、明応4年(1495年)11月、堺商人の大きな喜捨により復興成就。この時に興福寺の清賢による指図が作られたとされる(この図がその後、画軸となり今回公開されているもの)。

さらに天文5年(1536年)6月に兵火にかかり焼亡。二年後の天文7年に造仏、こちらが現在の観世音菩薩像である。

画軸は1495年。菩薩像は1538年ということである。

ぜひとも、拝見していただきたい。この会期は531日までで、大講堂で展示されている。
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拝観料とは別に
500円(合計1000円)が必要だが、普段、拝見できない大講堂に入堂することができる。



今回は撮影も許可ということで、撮影用のグッズも用意されているという破格の対応で、これが楽しみである。

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◆十一面観世音菩薩の罹災(火事)、再建の歴史は、「豊山前史」(永島福太郎著、昭和37年)、「長谷寺の仏教芸術」(豊山春秋5 平成2年)などに詳しい。


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# by koza5555 | 2018-03-31 22:41 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

忍海郎女、亦の名は飯豊(いいとよ)王

『古事記』でたどる大和の旅(クラブツーリズム関西・テーマのある旅)は、今年度は2月から7月まで、各月2回で12回のシリーズである。
最終回、7月の日程とテーマを決めた。
「『古事記』の女性たち。その愛と戦いから学ぶこと」である。
磐之媛命、卑弥呼、外通王、飯豊王を取り上げた。

忍海には、
飯豊王が「臨朝秉政」(みかどのまつりごと)を行ったとされる角刺宮跡
飯豊天皇が葬られたとされる「飯豊天皇埴口丘陵」が残されている。

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清寧天皇(第22代)と忍海郎女、亦の名は飯豊(いいとよ)王のことである。

『古事記』、清寧天皇は「御子、白髪大倭根子命、いわれのミカクリ宮に坐しまして、天の下治らしめき。この天皇、皇后無く、また御子も無かりき。故、御名代として白髪部を定めたまひき。故、天皇崩りましし後、天の下治らしめすべき王無かりき。ここに日嗣知らしめす王を問うに、市辺の忍歯別王の妹、忍海郎女、亦の名は飯豊王、葛城の忍海の高木の角刺宮に坐しましき」。


飯豊王は天皇として数えられていないが、天皇の仕事をしていると、『古事記』、『日本書紀』は記している。

さらに陵は「飯豊天皇陵』と明示されている。


ここらあたりの機微を語りたいのである。


また、『日本書紀』、顕宗天皇即位前紀には、「市辺押磐御子と荑媛(はえひめ)の間に顕宗、仁賢の妹して飯豊女王が生まれ、亦の名を忍海部女王であると記している。姉ではないかとの異論も示されている。

飯豊女王は顕宗、仁賢の叔母か、姉か妹か・・・である。

 


雄略天皇の死後(5世紀末)に即位した清寧天皇が跡継ぎを残さないまま死去する。それを引き継いだのが飯豊皇女である。

「臨朝秉政」(みかどのまつりごと)を行ったとされ、これは天皇に即位したという伝承である。

「自ら忍海飯豊青尊(おしみのいいどよのあおのみこと)と名乗りたまう。ときのうたつくるひと、歌詠みしていわく

 倭辺に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮」

葛城磐之媛(仁徳天皇后)が平城山で歌詠みしたという

「倭を過ぎ わが見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり」に類似するのはなぜだろうか。

忍海角刺は彼女の宮殿の上、もしくは入り口に邪悪なものを退ける鹿角を飾っていたことによるとされる。

そういえば、多武峰のある村の入り口に鹿角が掛けられていたことを見たことがある。あれもそんな意味で掛けられていたのだろうか。

さらに、日本書紀には不思議な、かつすごいことが書かれている。

「角刺宮にてマグワイしたのだが、格別に大したことは無かったので、二度としなかった」(ここに夫あると記されているが詳らかではない)と記されている。

即位の時点では配偶者は無く、子もいない。古代女性が即位後は独身を保つ、皇位継承者を作らないということだった。卑弥呼の「夫壻(ふせい)無く」は、大和王権にも引き継がれている。シャーマンもしくは中継ぎの女帝だったとされる飯豊女王の限界性をしめしたものではないかと、「女帝と譲位の古代史」(文春新書・水谷千秋)で水谷千秋が指摘している。

4世紀頃までは、倭・大和には卑弥呼をはじめ力を持った多数の女王、女首長がいた。

しかし高群逸枝(女性史研究家・娘時代、四国八十八カ寺巡礼のすばらしい道中記 -娘巡礼記― も記した)が描いたような 古代母系社会史は存在せず、「女王・女首長は、例外ではないがあくまでも中継ぎであった」(例えば清家章)という結論が示されている。

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「遅れてきた卑弥呼」ともいうべき、飯豊皇女は葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ)に葬られている。

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# by koza5555 | 2018-03-30 22:35 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

『日本の道教遺跡を歩く』(朝日選書)

『日本の道教遺跡を歩く』(朝日選書)

福永光司、千田稔、高橋徹()である。後書きが1989年で、古い本であるが、2003年に朝日選書に集録されている。

「陰陽道・修験道のルーツもここにあった」がサブタイトルである。


陰陽道と言えば、奈良辺りなら、我が家の近所の安倍文殊院。
文殊院が「安部清明の天文観測所」という高台から、ちょっと西の空を見に行ってきた


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道教の入門書でもあり、日本の宗教施設、行事になかに道教がいかに生きているか、貫かれているかが解明されている。

一つは「道教とは何か」を中国の歴史を探ってみる・・である。

いま一つは、「日本における道教とは」である。日本に持ち込まれなかったとされるのが学会の常識らしいが、朝廷の儀式でも民間の習俗にも、道教の影響が色濃く残ることが証明されている。

まず、二つの書が繰り返し引用されるから紹介しておく。

『淮南子』(えなんじ)。前漢の武帝の頃に編纂された(紀元前150年頃か)思想書。日本へはかなり古い時代から入った。『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき」の大本もこちらである。

『抱朴子』(ほうぼくし)という本が道教の土台である。葛洪という人が、東晋の建武元年(317年)に書き上げた。

道教は仙の時代が第一番目。「神仙」をお祭りして、神仙の持っている不老不死の薬をもらう。神仙が下りてくるという山や川でお祭りをする。斉明天皇(皇極天皇の重祚)の時代は、この影響を受けている。

第二番目は「仙道」の時代。これが抱朴子の時代で医薬、丹薬を活用する道教である。

道教の薬には本草薬と石薬があるとのことである。房中術というのもあるそうである。「労損」、スタミナの消耗を図り、不老長寿を全うするという考えである。

「労損」・・なるほどである。

三番目は「洞真」。仙道から道教への時代である。56世紀には完成しる。遣隋使、遣唐使が持ち込んでくるのは、ここら辺りとみられる。

輪廻などの仏教の概念も取り入れ、仏教との習合も図られる。

こうして、あらゆる時代を通して、道教は日本にも持ち込まれてきたとのことである。


皇極天皇の、稲渕の雨乞いの四方拝、飛鳥時代の石造の文化、北極星(太一神 たいいっしん)を敬う皇室行事などもすべて道教の影響がみられるとのことである。

ちなみに鎌倉時代の神道書には「道教の最高神の太一神は天御中主命と同一」と記されているのとのことである。

『続日本後紀』(832年)には仁明天皇の即位の大嘗会が記されている。

豊楽殿で催された宴楽には悠紀と主基の標が立てられ、前者には庭の鳳凰を止まらせ、日輪と月輪の形、天老と麒麟の像がしつらえ、後者には西王母が舜に世界地図を捧げる像、西王母秘蔵の仙桃を盗む童子の像および鳳凰、麒麟などの像が配された」。

「これは道教の世界だろ」というのが、この書の結論である。

それ以外では、鎮宅霊符、宵待ち講、鬼やらいなどの民間習俗もルーツは道教からである。

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阿部文殊院の赤い札、これも道教その者だろう

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# by koza5555 | 2018-03-25 22:44 | 桜井市と安倍 | Comments(0)