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奈良・桜井の歴史と社会

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豊臣兄弟が考えた宇陀松山城。築城と割城の歴史を語る

宇陀市文化会館(大宇陀)にて、119日(日)午後130分から「宇陀松山の繁栄と未来〜豊臣秀吉、秀長の考えた松山城とその魅力〜」と題してお話しします。

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当日は「薬草フェスティバルinうだ」の企画で宇陀市大宇陀、この日、楽しい企画で終日,松山は盛り上がります。






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大宇陀宮奥のツナカケ。「オコナイ」も実施されます。


雲海に浮かぶ宇陀松山城・・


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講演会は無料です。その他はチラシを見て参考にしてください。






# by koza5555 | 2025-10-17 13:43 | 宇陀

朝日新聞に「令和に歩く菅笠日記」が紹介された

本居宣長のたどった道、自分の足で確認 奈良の雑賀さん、本まとめる

2月3日付けの「朝日新聞」奈良版で、『令和に歩く菅笠日記』を紹介していただいた。


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書かれたかたは今井邦彦記者、奈良総局で文化財などを担当されている。Xのフォロワー36,000人とかの敏腕記者です。

以下は、その記事、全文です。

国学者・本居宣長(17301801)が大和(現在の奈良県)を訪ねた旅の記録「菅笠(すががさの)日記」のコースを自分の足でたどり、宣長が見た250年前と今を見比べた本「令和に歩く菅笠日記」(京阪奈新書)を、奈良県桜井市の雑賀耕三郎さん(77)が刊行した。

 宣長が大和を訪れたのは明和91772)年。「吉野の桜が見たい」と伊勢松坂(現在の三重県松阪市)の自宅を旅立ち、長谷寺や多武峰を経て吉野へ。帰りは飛鳥や大和三山に立ち寄り、国学者の目で旧跡の歴史を検証した。その10日間の旅の見聞に、道中に詠んだ多くの和歌を交え、まとめたのが「菅笠日記」だ。

 雑賀さんは奈良の歴史や民俗に精通した「奈良まほろばソムリエ」の資格を持ち、講演やガイドの活動をしている。以前から「菅笠日記」に関心があったが、その全行程を追った本や、原文を読みやすく活字化した本は出ていなかった。

 「人任せにせず、自分でやろう」と一念発起した雑賀さんは、5年ほど前から崩し字の読み方を勉強。寛政111799)年刊行の同書を入手して読み込み、実際に宣長の足跡をたどり始めた。

 2年前、その成果を連続講座で披露したところ、京阪奈情報教育出版の住田幸一社長から「本にしましょう」と声をかけられた。まだ歩いていなかった三重県内のルートも踏破し、宣長がたどった道や、彼が見た名所旧跡の現状を、活字化した原文とともにまとめた。

 雑賀さんは「この本を手にして県中南部を歩き、楽しんでもらえればうれしい」と話している。

 新書判284ページ、1210円(税込み)。県内の書店やネット書店で販売。問い合わせは京阪奈情報教育出版(0742944567)へ。


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飛鳥びとの館(道の駅飛鳥)近鉄飛鳥駅前

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イオンモール橿原喜久屋書店
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泊瀬長者亭(長谷寺参道)
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セブンイレブン桜井阿部店(済生会中和病院前)


奈良市、大和郡山市の啓林堂・・・他はAmazonなどのネット書店で買えます。







# by koza5555 | 2025-02-11 14:55 | 菅笠日記

令和に歩く菅笠日記

過ぎし年(令和6年、2024年)の十一月に、京阪奈情報教育出版から『令和に歩く菅笠日記』を上梓した。

 ソムリエの会の書籍、各種新聞などで執筆・校閲などを行ってきたが、自らの名を冠した本は初めての出版であった。地元の桜井市をはじめ各地、各方面から暖かいお言葉を戴いており、感謝の言葉は言い尽くせない。

 我が家の近くのセブンイレブンとか、泊瀬長者亭とか、談山神社とか、奈良や大和郡山の啓林堂などでお買い求めいただけるが、全国的にはAmazonがお手ごろである。

この本のAmazonでつながるQRコードを用意したので、ご活用願います。

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公開の書評を戴いている。

FBなどの書き込みですので、一度、ブログで紹介させていただきます。

大淀の松田度様から、書評を戴いた。以下が全文である。

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【書評】雑賀耕三郎著『令和に歩く菅笠日記』を読む

桜井市在住の郷土史家・雑賀さんがとうとう単著を出された。

しかも国学者・本居宣長(1730-1801)の旅日記『菅笠日記(すがかさのにき)』の道を歩き直す、という試みでできた本である。

明和9年(1772)の春、吉野山の子守社に詣でた本居宣長もその旅日記で次のように記している。

「…吉野水分神社と申せしぞ、此(子守社の)御事ならむとはやくおもひよりたりしを、続日本紀に、水分峰神ともあるは、まことにさいふべき所にやと、地のさまも見さだめまほしく、としごろ心もとなく思ひしを、いま来て見れば、げにこのわたりの山の峰にて、いづこよりも高く見ゆる所なれば、うたかひもなく、さなりけりとおもひなりぬ…又みくまりをよこなまりて、中ごろには御みこもり子守の神と申し、今はただ子守と申して、うみのこのさかえをいのる神と成給へり。さて我父もここにはいのり給ひしなりけり…」(『菅笠日記』)。

これは「おまえは子守社の申し子だよ」と親から言い聞かされていた、宣長自身の子守社に対する愛着と、歴史家としての見解が述べられたものである。

雑賀さんは、終生商人のまち・松坂で過ごした宣長の、ほぼ唯一に近い自身のルーツを探る旅をたどって、かつての古道(廃道)を歩いた。

『令和に歩く菅笠日記』の「もくじ」は、

次のようになっている。

第1章 阿保越道(初瀬街道)にて大和の国へ

第2章 初瀬から多武峰へ

第3章 花の吉野山

第4章 飛鳥へ。飛鳥にて

第5章 大和三山と藤原宮跡

第6章 伊勢本街道を松坂へ

これは宣長が歩いたコースそのものである。

宣長は、松坂(現松阪市)を出て、青山高原を抜け、伊賀を通過して初瀬。そこから多武峯(現談山神社)を経て、吉野山へ。念願の子守社(現吉野水分神社)に拝謁して後、柳の渡しから壺阪寺、飛鳥の里巡りと大和三山を周遊。三輪明神に立ち寄り、帰路についている。雑賀さんはその道を辿りながら、宣長の時代にはなかった令和の「今」を盛り込んで私たちをガイドする。

とりわけ、第3・4章の吉野・飛鳥の記述が興味深い。誰しも興味をそそる地域であり、世界遺産あるいはそれに比する遺産の宝庫であり、宣長が解明しようとしていた「記紀万葉の世界」である。

『菅笠日記』のテキスト本としても、また宣長という学者の世界観を知るうえでもかっこうの入門書である。詳しいことは、ぜひ手に取ってみていただきたい。

心から感謝申し上げたい。

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Amazonの本の紹介文が次のとおりである。

江戸時代の国学者本居宣長は、日本の国の形を決め基礎を築いた大和の史跡を実見し、探ろうと考えて松坂を立つ。250年前、明和9年(1772年)のこと。その詳細な旅の記録が『菅笠日記』。しかし、江戸時代に書かれた「くずしじ」の文章はなかなか難解。菅笠日記の全文を現代人にも読めるよう翻字し、平易な文章にして本居宣長の足跡をたどり、万葉集などを参照しながらディ-プな歴史考証ツア-を現代に復活させた1冊。

Amazonには「環環」様のコメントが付いている。

「今なお生き続ける『菅笠日記』

この『令和に歩く 菅笠日記』を読み、国学者本居宣長の新しい一面を知ることが出来ました。

改めて『菅笠日記』を読み直す機会を得て、著者の時間をかけた各場面の考証・解説に驚きと感動を受けながら読ませて頂きました。

そして著者の膨大な資料と知識の一部しか綴られていないのではないか?と感じています。

是非続編を読んでみたい一冊です。」

ありがたいお言葉である。

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以下、紀伊国屋書店の紹介、各地(奈良県下、三重県松阪市など)の図書館(僕が献本しました)での紹介は略します。

ぜひ、お手に取って拝見していだきたい。

お願いいたします。

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# by koza5555 | 2025-01-10 11:30 | 菅笠日記

吉備池廃寺跡

吉備区(桜井市)に、吉備池廃寺跡が残る。

 このほど池堤に説明板が新設された。説明文は現代文で読みやすい。文末に「吉備区」とあるので、この顛末を吉備区長の吉田さんに聞いてみた。「文書の作成は桜井市の文化財。史跡としての説明板が必要とお願いした。製作、瀬土の経費は吉備区の負担で行った」とのことである。この池は典型的な皿池で北・東・南に堤防があるが、堤防の草刈もきちんとなされている。吉備区の努力の賜ものである。

 説明看板は以下のとおりである。

「史跡 吉備廃寺跡案内図

吉備池廃寺

 吉備池廃寺は約1400年前に創建された古代寺院です。現在地を含め、吉備池廃寺廃絶後に作られた溜池(吉備池)周辺に広大な寺域を持っていたと考えられています。

 発掘調査により、吉備池の堤防南側の突出部分が寺院の塔と金堂の基壇に由来することがわかりました。また、周辺の調査で回廊や門、僧房跡などの遺構も見つかっています。こうした調査で東の金堂、西の塔を回廊が囲む法隆寺と似た建物配置であったことが明らかとなりました。

 研究成果により吉備池廃寺の創建時期が7世紀前半と考えられること、極めて大規模な建物をもつことから、吉備池廃寺杷639年に建立のはじまった日本最初の勅願寺(天皇が建立した寺)で、日本書紀に記載される「百済大寺」であると考えられています。

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万葉歌碑

 吉備池の周辺には、天武天皇の子の大津皇子・大伯皇女の万葉歌碑が3基あります。大津皇子は桜井市内に邸宅があったと考えられ、天武天皇が崩御したのち謀反疑いで捕らえられ、死を賜りました。 

 歌はいずれも大津皇子死去前後を詠ったもので、批評家・劇作家の福田恆存(ふくだつねあり)氏、国文学者・歌人の中河幹子氏、日本画家の小倉遊亀氏の筆によるものです。

                                吉備区」

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堤防上の二つの歌碑に人気がある。

大津皇子のみうた

もゝつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見て雲かくりなむ 幹子書

書は中河幹子。戦前の歌人。歌碑は北の堤防上にある。

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二上山をのぞむ堤防の西には大伯皇女の歌碑。歌はあまりにも有名である。

うつそみの人なるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む 遊亀書

書は小倉遊亀 戦前の日本画家

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# by koza5555 | 2025-01-09 20:34 | 桜井市と安倍

大和、豊山派大本山長谷寺の「暁天開帳」

かくて御堂(みどう)にまゐりつきたるに。をりしも御帳(みてう)かゝげたるほどにて。いと大きなる本尊の。きらきらしうて見え給へる。人もをがめば。我もふしをがむ。さてこゝかしこ見めぐるに。此山の花。大かたのさかりはやゝ過にたれど。なほさかりなるも。ところどころに多(おほ)かりけり。(『菅笠日記』より)

十一面観世音菩薩のご開帳のお話をしたい。

長谷寺、十一面観世音菩薩は常に拝観することができるが、大晦日の午後四時から元旦の〇時までは、御帳が下がっていて拝観することはできない。

繰り返すが、大晦日の一六時から御帳を閉める閉帳法要、〇時に開帳の法要が行われる。

一年に一度の閉帳で、これは菩薩様のお休みだろうか。

 

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これは、何時頃からの行事かと考えてみると…実は閉帳が本来の長谷寺の姿かとも思えるのである。

 長谷寺の歴史を綴る『初瀬寺験記』という物語がある。

聖武天皇が長谷寺を参拝するお話が出てくる。かいつまんで紹介すれば以下のとおりである。

聖武天皇は天平勝宝元年(七四九年)に退位し上皇となられる。上皇の夢に僧が出て、「長谷寺において三宝を供養し、後代の皇孫を祈るが良い」と告げる。天皇は『最勝央経』と『法華経』を書写、能筆にもそれぞれ一〇部を書写させて、長谷寺に向かった。それは七五三年の事で、十一月一八日に法要を行った。

その夜に観音様が上皇に夢で告げる。「濁った世の中の猛々しい衆生の心を和らげることができるのは女人である。私はこの身の光をやわらげて、女人の姿に身を現わし、久しく末代に及ぶまで国家を護り、衆生に利絵益を与えよう。ところで、いつもこの姿を見せていると、はばかりがある。皆に飽かれるから、自分の姿は御帳をかけて隠せ」が、観音様のお言葉である。聖武天皇の命により、長谷寺は御帳を掲げて十一面観世音菩薩を秘仏としたと『長谷寺験記』は語る。

観音様は秘仏、常に御帳がかけられているというのは、『験記』からの事かと思える。秘仏ありきで、上皇の夢占いは後講釈かとも思えるが、ここは『験記』のいう事を信じてみよう。「裏観音」を拝観するというシステムも、こんなところから生まれてきたのだろうか。

しかし、「観音様を拝みたい、直にお願いしたい」という声が出てくるのも自然の習いである。戦国の世を経て長谷寺再興(真言宗豊山派の創立)には、豊臣秀長の力が大きく働いた。「拝みたいものは金一枚を添えて」という、ご開帳の基準も豊臣秀長によって決められたという。

さて、お正月には「寅の刻、御帳をそろそろと卸奉れば」との記録もあり、朝の四時に開帳の儀式が行われている。夜明けの開帳で、これを「暁天開帳」と言うとのことである。ちなみにお正月の開帳時間は、明治からは午前六時に変わり、現在は大晦日の午後四時閉帳、元旦の午後〇時に開帳と変わっている。

人力で巻き上げる頃の御開帳はゾリッ、ゾリッと帳(とばり)が上がっていったと聞いたが、現在は電動で帳(とばり)はするすると上がる。観音様の出現を見逃さないためには、祈りを込めめつつ、凝視して注目していなければならない。

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# by koza5555 | 2024-12-27 10:23 | 菅笠日記