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「すこし坂をくだりて、山本なる里をとへば、倉持となんいふなる。こゝよりは、山をはなれて、たひらなる道を、半里ばかり行て、名張にいたる。
阿保よりは三里とかや。町中(まちなか)に、此わたりしる藤堂の何がしぬしの家あり。その門(かど)の前を過て・・・」『菅笠日記』
初瀬街道を名張川に向け町を歩むと、左手に小高く名張の館(城)の跡が見えてくる。名張の藤堂のことを考えてみた。
『街道をゆく5 奥州白河・会津のみち』で司馬遼太郎が名張藤堂家の祖、藤堂高吉のことを書いている。少し長いが、書き出してみた。
「秀吉が明智光秀を討った当座に話がもどる。秀吉は酒の席で、丹羽長秀に、ぜひ仙丸(せんまる)どの(四歳・長重の弟)を、わが弟(羽柴秀長・のちの大和大納言)の養子にくださるまいか、と頼んだ。体(てい)のいい人質だった。
仙丸は、養家さきで、愛された。が、十歳のとき、秀吉はなにを思ったのか、仙丸を藤堂高虎の養子にしてしまった。養子ながらも、格下げであった。
この仙丸が、藤堂高吉(一五七九~一六七〇)である。高吉は、いい人物であった。養父高虎によく仕え、戦場ではよく戦ったが、そのうち高虎に実子(高次)ができてしまったので、またも格がさがり、家臣になった。」
徳川の時代となり、高虎は伊予に配され今治城主となった。
その後、藤堂家は伊賀、伊勢に国替えとなるが、高吉は伊予に残された。高吉は幕府から二万石を領されたが、独立した大名ではなく藤堂藩の一部として取り扱われた。高吉は藤堂家の家臣ということになる。高虎の亡きあと、伊予と伊賀・伊勢の替地が行われ、高吉は名張に移住した。
高吉は名張に館を築いた。名張川を前にした台地、南に備える古城の跡に館が築かれる。伊勢街道からはその門構え、広壮な館は際立って見える立地、規模である。現在に残る館の図面から、畳を数えると一,〇八三畳もある豪壮なものだった。
前段が長かったが、この館はいま見学できる。私的な生活がされたとみられる「中奥」が残され、ボランティアガイドの郷土愛にあふれた案内を受けることもできる。
ちなみに、名張藤堂家の家紋は「桔梗紋」、この名は名張市の桔梗が丘に引き継がれている。
宣長が「藤堂(とうだう)の何がしぬしの家(いへ)あり。その門(かど)の前(まへ)を過て」と書いたが、それはこの館の事である。
名張藤堂の始祖、高吉は戦国末期の時勢に翻弄された人生だった。それに反逆することなく、高吉は養家の藤堂家と共に生涯を生きた。心はいかようだったかとは思う。しかし、高吉は家臣には恵まれていた。これも高吉の人徳である。
さて、名張川の板橋を渡り、宣長の旅は畿内にとすすむ。
『菅笠日記』は吉野山のコウヤマキに触れている。これを紹介したい。
「京にて高野槇といふ木を、こゝの人は、ただに槇とぞいふ。これを思へば、いにしへ檜のほかに、槇といひしは、この木なるべし。これは、こゝに必いふべきことにもあらねど、此のわたりの山に、此の木のおほかるにつきて、人のたづねけるに、いらへつることばを聞きて、ふと心に思ひよれるゆゑ、筆のついでに書き付けるぞ。」『菅笠日記』
明和九年春、本居宣長は「吉野の花見にと思い立」ち、吉野山を訪れた。この旅の中で、吉野山にて「高野槙」の群落を目にして、『日記』にコウヤマキの事を書き残している。
この槇が今でも、吉野山に残る。
吉野山の「コウヤマキ」群落は、天然記念物(奈良県指定)に指定されている。
宣長は青根峯の辺りの群落のように書き付けたが、現在の群落は如意輪寺から西に登った辺りで、場所は少し離れている。コウヤマキが当時は吉野山にもっと拡がっていたのか、それとも「筆のついでに書き付け」ただけで、宣長が見た場所はもっと下の方だったのだろうか。
吉野山には約二〇〇本のコウヤマキが群落で生育している。幹周囲が三㍍を超える巨木を交るが、樹高の平均は約六㍍で、高さは低いし幹も分岐、曲がりくねっている。幼木のころから仏事用の槙花として切り刻まれてきた結果と考えられている。
コウヤマキは、直立して狭円錐形の端正な樹形をとるのが本来の姿。またコウヤマキは水耐性に優れており、その材質を利用して、古墳時代前期の竪穴式石室には割竹型木棺として使われていた。「檜に姿が似ていて紛らわしい」と植えるのを禁止したのは木曽(木曽五本は切りだし禁止。ヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキは檜に似ている)で、有用材として大量に植林育成したのは高野山(高野六木といわれヒノキ、コウヤマキ、スギ、アカマツ、モミ、ツガ)だった。
ちなみに吉野山で天然記念物の指定を受けたコウヤマキ群落は私有林である。見学されるときは、それを心得て見学したいものである。
蛇足ではあるが、松坂から初瀬街道へ向かう所に六軒という宿場があった。その近くに立派なコウヤマキがある。家人は、これを見てけと自慢の大木である。舟になり、古墳の木棺にも使えるような大木である。写真だけ紹介したい。
参考文献
『吉野町史 下』吉野町の植生 天然記念物 昭和47年(一九七二)
『日本の美林』岩波書店 井原俊一 一九九七年
『樹木ガイドブック』朝倉書店 土原啓二 二〇一二年
伊勢の人、本居宣長は大和の南部を訪れ、それを『菅笠日記』としてまとめた。
多武峰(現在の談山神社)も訪れている。東の惣門から入り境内拝観の後、西の惣門を経て吉野へ向かった。
「鳥居のたてるまへを。西ざまにゆきこして。あなたにも又惣門あり。その前を直(ただ)ざまにくだりゆけば。飛鳥の岡へ五十町の道とかや。その道のなからばかりに。細川といふ里の有りと聞くは。南淵の(萬葉)細川山とよめる所にやあらん。」『菅笠日記』より。
談山神社の鳥居を出て西にすすむと惣門にいたる。更にまっすぐ降りていけば、飛鳥の岡への道だと宣長は解説する。
右へ折れれば北山を経て桜井への道、さらに高家に下りる道もあれば、大原へ下る道もある。鎌足が誕生したという伝がある大原は多武峰とのつながりも強く、道も整えられている。現在もこの道はハイキングコースとして残り、稜線の先端は「万葉展望台」の名でハイカーに親しまれている。展望台からは明日香村はもとより、金剛、葛城、二上山も一望できる。
そして左に折れれば冬野、竜在峠を経て吉野へ至る道となる。
宣長の時代には、この西の惣門の前にはもう一筋の道があった。『西国三十三所名所図会』には、「多武峰婦人遥拝殿」という図でそれが示されている。
今でも、西惣門の跡には、「女人禁制」の碑が残されている。当時、談山神社(多武峰という。神社名は明治時代の神仏分離以降の名である)は、女性の立ち入りを許さなかった。
当時でも観音巡礼で賑わう岡寺などは、女性も立ち入りが自由である。同じ『菅笠日記』には、「観音の寺々拝み巡るものども・・・男女(おとこおんな)老いたる若き、数もしらず詣でこみて、すきまもなく(お堂に)いなみて」という岡寺本堂の有様が記されていて、観音巡礼は男女隔てがないとの姿が見られるが、あくまでも多武峰は女人禁制であった。
当時大和を描いた『西国三十三所名所図会』に「多武峰婦人遥拝殿」という絵図がある。
婦人遥拝殿は境内には立ち入らせないが、遥拝はしてもよいというシステムである。
これを翻字してみた。
「当山は女人禁制の地
かかる故に西の惣門の外に
女人道あり 坂路(ばんろ)を
登り此方(こなた)の山上にいたる
此は即ち本社の正面に対(むか)いて
二丁ばかりをへだてして地方(ところ)にて
婦人遥拝殿あり
正面に婦人遥拝殿の
額を掲ぐ
かたはらに桜の樹
数多(あまた)ありて
花の頃風景也
俗家一軒ありて
此所をまもる
多武峰の境内社頭
伽藍の壮観美麗なるは
いうも更なり 桜楓(さくらかえで)の樹
数多(あまた)ありて花によく
紅葉(もみじ)によくして春秋の
眺望又たぐひなし」と絵図は解説し、末尾に歌一首、紹介する。
「我道の障りとならむ心より 女に徳をおうせつるかな 直養」
参考文献
『菅笠日記上巻』『西国三十三所名所図会』
畑屋(大淀町)の道
『菅笠日記』に紹介される畑屋(大淀町)から壺阪寺(高取町)を歩く
吉野山を立った宣長一行は、六田で吉野川を渡ります。三月十日(旧暦、それも1772年)のことです。
吉野川沿いの土田を経て、畑屋から壺阪寺に向かいます。吉野から国中のルートは芦原峠でしょうが、このコースだと清水谷まで下り、折り返して壷阪寺へ登らなければなりません。吉野から壺阪寺に詣でるならば、畑屋を通るのが最適です。
この道が分かりません。
『大淀百年史』には、畑屋の紹介として「集落の成り立ちは古いとみられます。かつては街道沿いの村として賑わった様子がうかがえ」るとし、江戸時代には本居宣長が畑屋村を通って壺阪への山越えをしたとも紹介しています。
今は歩く人はいませんし、思わしい情報も手に入りません。
朝のトレーニングで、27日(水)に挑戦しました。
畑屋に車を停めて、畑屋川沿いに北上します。
ここはツナカケ行事を行っています。大淀町では唯一とのこと、桜の季節に撮ったことがありますが、ツナカケの場所もよく、立派なツナでした。
山越えは、二万五千分の一の地図が頼りです。
谷川沿いから、山へ入る場所は簡単に見つかりました。
しっかりした踏み分け道が残ります。現在の使途は不明です。
簡単に壺阪寺に到着かと思いきや、稜線の三差路で間違えました。直に進むべきでしたが、左に折れ、そのまま、高圧線にそう形で芦原トンネル(峠)の北口に下りることになりました。
間違えた、稜線の三叉路ですが、壺阪への道は倒木(伐採木)で入れないようにしてありました。
現場でも一瞬、乗り越えようかと思いましたが、山で「行くな」との意思表示があれば、それは行けません。
「畑屋越えは通行不可」。これが現在の状況です。
『菅笠日記』、寛政11年(1799年)版
これよりつぼ坂の観音にまうでんとす。たひらなる道をやゝゆきて、右の方に分れて山そひの道にいり、畑屋などいふ里を過て、のぼりゆく山路より、吉野の里も山々も、よくかへり見らるゝ所あり。
かへりみるよそめも今をかぎりにて 又もわかるゝみよしのゝ里
よしのゝ郡も此たむけをかぎり也とぞ。くだる方に成りては、大和の国中よく見わたさる。比叡の山、愛宕山なども見ゆる所也といへど、今は霞ふかくて、さる遠きところ迄は見えず。
さてくだりたる所、やがて壺坂寺なり。此寺は高取山の南の谷陰にて。土田より来し道は五十町とかや。
『菅笠日記』の講座、三回目は10月16日(月)
本居宣長は43歳の時、明和9年(1772年)3月5日から14日まで、吉野水分神社を訪れる旅をする。ほぼ250年前の事である。
同行者は松阪の勉強仲間、弟子である。「あひともなふ人は。覚性院の戒言法師。小泉の何がし(見庵)。いながけの棟隆。その子の茂穂。中里の常雄と。あはせて六人」
その袋に書かれた歌は
うけよ猶(なほ)花の錦にあく神も 心くだしき春のたむけは。
その時の旅行記を『菅笠日記』と題して、上下2巻で寛政7年(1795年)に出版する。
出版は20年も経てからの事であるが、宣長は旅を終えてから旅行記は早々と書き上げ、その年の6月4日には、友人(谷川士清)あての手紙で、「見せ奉りて賢評をうけ給りてん」と伝えている。
『菅笠日記』は、『記紀』(古事記・日本書紀)による宮跡、陵などの見分と合わせて、萬葉集から御詠歌に至るまで30首ほどの古歌を紹介し、自らの歌を50首ほど納めていた。
「ことし明和の九年といふとし。いかなるよき年にかあるらむ。よき人のよく見て。よしといひおきける。吉野の花見にと思ひたつ。」
250年前のことだ。1772年11月に改元され安永元年である。10代将軍徳川家治 田沼時代でもある。
「明日たゝんとての日は。まだつとめてより。麻きざみそゝくりなど。いとまもなし。その袋(幣袋)にかきつけける哥。」
この『菅笠日記』を談山神社でお話しています。今回は壺阪寺~岡寺~飛鳥寺~大原寺~艸墓古墳、大福・吉備の行程を見て、考えます。
●日時は10月16日(月)午後1時 30 分から 90 分間。
●場所 談山神社 社務所二階大広間(机・椅子)
●参加費 1,000 円(神社入山料は別途必要)
●お問い合わせ・申し込みは、談山伝統文化観光協会。電話 0744-48-0076
注・申し込みが必要です。参加費は当日、会場でお支払いください。
ぜひ、おいでください。
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