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奈良・桜井の歴史と社会

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清水谷から土佐へ(高取町)

『菅笠日記』にこだわって、高取を歩いてみた。

本居宣長の一行は、壺阪寺を出て、「谷の道を十町ばかりくだり行て。清水谷といふ里にいづ。此里は。国中よりあしはらたうげといふを超て。吉野へいる道也。一町ばかりはなれてあなたは。土佐といふ所。町屋つゞけり。高取山の麓にて。この町なかより。山のうへなる城。ちかく見あげらる。大かた此城は。たかき山の峯なれば。いづかたよりもよく見ゆる所なりけり。」『菅笠日記』

清水谷から高取の町に入る。ここは芦原峠への道の分岐点である。一町(100m)ほど行くと、町屋作りが続く土佐の町である。

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町中からは高取城がよく見えるという。当時の旅行記はお城の事は書かないという自主規制があるが、「いずかたからも良く見える」くらいの記述は問題が無かったのだろう。

移築された松ノ門(土佐小学校跡地)辺りから見えたのだろうか。

「巽(たつみ)高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」である。南東に天守閣が望まれる。

土佐の町を下り、その後は明日香の檜前(ひのくま)へ向かった。

歩くコースとして値打がある。

宣長が歩いたのは明和九年、1772年の事である。今、歩けば宣長が見た景色、見てない景色(その後建築物)が混然しているのが面白い。

湾曲する街道が味わえる。湾曲道路はもともとの道の姿で、歩くには都合が良かった。高取は城下町であるが、湾曲した道も残されており、お城へまっすぐに登る道もあったりする。城下町には、T字型やL字型に屈折する道路が作られた。整備された道路という事だろうが防衛的な意味も含まれている。高取城は堅固な山の上にあり、城下町の防衛には自信があったという事だろうか。(樋口清之『旅と日本人』p188参照)

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古い町並みが残る清水谷、この工場と塔に驚いた。

5年ほど前の産経新聞に紹介されていた。「宮本延寿堂」(延寿堂製薬)の工場という。2階建ての建物に時計台のような塔が残されている。これは大正時代のエレベータとのことである。丸薬をつくり、屋上で天日干しをするためにドイツ製のエレベーターを設置したとのことである。内部のエレベーターは撤去されたようだが、外郭を残して、近代化遺産として守られている。薬の町、歴史の町を象徴するような遺跡である。

産経新聞のこの記事はネットで見ることができる。


産経新聞 近代化遺産


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こんな門柱も忽然と現れる。「松ノ門」という。

「松ノ門は、高取城に合った建築物のひとつで図のような門であったとされています。明治4年の廃藩置県により高取城が廃城になった際、多くの建築物は取り壊されましたが、数棟は移築されていました。その中のひとつ松ノ門は明治25年土佐小学校の校門として移築されていました。しかし、昭和19年の火災により一部焼失したため解体されたままになっていました。」

これが、屋根を除いて作りなおされている。


この三叉路は土佐の町の中心で、直進すれば高取城だが、右に曲がれば「右 つぼさか よしの 道」とある。

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真っ赤な郵便ポストも興味深い。

土佐の町名の由来について、説明板があったので紹介しておきたい。

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土佐・高取町

真っ赤な郵便ポスト。ここに「土佐」の説明板がある。

六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で、古里土佐国を離れこの地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる。

故郷を離れて生きていく生活を余儀なくされた人達のたった一つの自由な意思は古里の名を今の場所につけることであった。

古代、中世を経て近世に入り植村氏が高取城に入部するに伴い土佐はその城下町として政治、経済、産業の中心となり、町筋には商家が立ち並び伊勢屋、池田屋、観音寺や、さつまや等が名を連ねた。細長く続く道路は、往時の面影を残し、せせらぎの音は訪れる人の心を癒してくれる。

望郷の想ひむなしく役夫らの せめて準(なぞら)う土佐てふその名


# by koza5555 | 2021-05-06 14:09 | 橿原・明日香 | Comments(0)

酒船石 明日香村岡

15年前、奈良に移り住んだ。「じっくり見たいな」と思っていたものの一つは酒船石だった。あまりにも怪しげでなかなか書く機会がなかったが、一度は考えてみようと、あれこれ考えてみた。

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まず、本居宣長の『菅笠日記』には長文の紹介がある。

「あやしき大石あり。長さ一丈二三尺。よこはひろき所七尺ばかりにて。硯をおきたらんやうして。いとたひらなる。中の程に。まろに長くゑりたる所あり。五六寸ばかりのふかさにて。底もたひらなり。又そのかしらといふべきかたに。同じさまにちひさくまろにゑりたる所三ッある。中なるは中に大きにて。はしなる二ッは。又ちひさし。」

「里人はむかしの長者の酒ぶねといひつたへて。このわたりの畠の名をも。やがてさかといふとかや。」

本居宣長は、「大形の硯のようである」と書き、酒などを醸したものだろうという雰囲気である。

酒船石を酒槽と書いたのは、『大和志」で並河誠所が初めらしい。享保191734)年の事である。本居宣長は並河の論に異論は唱えていない。

近世では、『西国三十三所名所絵図』が疑問を呈していることに注目される。

「案ずるに古神に奉る酒は斎にして瓶に醸し その瓶なかから奉るとそ 古は今のごとく槽にて絞りてにはあらず 酒槽に来由いぶかし」。

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稲熊兼勝氏が「酒船石」と題して、古い雑誌で詳細に書かれていた。『明日香風』第四号(1982年夏号)である。

「この地域の導水施設(酒船石・車石・出水の酒船石…その後、亀形石が発見される)は、新羅の施設と同様、宮殿にともなう施設であり、酒や油を作る場所とは考えにくく、饗宴にかかわる遺跡であろう。宮殿内部を流れる観賞用の仕掛石と考える方がよいのではないか。」

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               出水の酒船石。この写真はウィキペディアから拝借した


「車石は酒船石への注水のための導水石とした場合、酒船石は流路を変更する分水界の役を果たす」と結論づける。

石神遺跡の須弥山石、石人像に先立って「酒船石は立体的な噴水施設になる以前の平面的な仕掛け石である」として、酒槽説や松本清張のゾロアスターにかかわる薬草調合施設論を否定している。

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                こちらは酒船石の北の麓、亀形石


時は斉明天皇の時代である。斉明天皇二年に岡本宮の造営と合わせて(続いて)、香久山の西から石上山に至る溝を作り、船200艘の舟で石上山の石を積み、宮の東の山に石を積み石垣を作った。

時の人はそれを、「戯れ心の溝、無駄な人夫を三万、垣づくりの無駄七万、宮材は腐り、山頂はつぶれる」と言った。さらに「石の山を作る、作った先から崩れるだろう」と。なかなか出来上がらない時、この榜をしたのだろう。

以上を考えて、僕の想像を付け加えると、酒船石で流路調整された水は、西に落ちれば出水の酒船石、北に落ちれば亀石…これでどうだろう・・・



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国立飛鳥資料館の前庭(料金がいらないところ)には、岡の酒船石、出水の酒船石、車石、石上遺跡の須弥山石と石人像の石製のレプリカが展示されている。




# by koza5555 | 2021-05-05 18:45 | 橿原・明日香 | Comments(1)

平群の古墳と西宮古墳

平群町には71基の古墳が残されている。それ以外にも可能性がある古墳状隆起は32ヵ所、確認されている。

これ以外にも、消滅したり、削平・埋没している古墳の存在も予想され、全体で100基以上が築造されたとみられる。(奈良県全体では古墳は9100ヵ所)

古墳は、1750年前の箸墓古墳を嚆矢として飛鳥時代にかけて営々と築造された。

古墳は、土器や荘厳器により時代を読み取ることができる。併せて、墳丘・石室が時期に合わせて系統的に変化してゆくことから、古代を考えるためには絶好の遺物となっている。

古墳は数が多くて、変化が分かりやすく、見た目でわかることから初心者を拒まない。日本の国の成り立ちを考えるための強い友と言えるだろう。さらに長い歴史を生き抜いた古墳の墳丘と石室は美しい。見た目が良いのである。

平群谷の古墳は、古墳時代の中期前半(5世紀後半~)から、飛鳥時代前半(7世紀前半)まで、継続的に築造が続けられた。古墳の築造者、被葬者は、ほとんどが古代豪族、平群氏に関わるものとみられるが、一部には上宮王家の伝承や紀氏の進出に関わるものも想定されている。

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昭和58年に龍田川駅の南方500メートルほどの所で発掘された柱根は、古代の平群の力を指し示すものであった。

橿原考古学研究所の当時の研究員であった河上邦彦氏が、『考古学点描』にて、「平群の柱」として紹介している。それを、かいつまんで紹介したい。


平群の柱

竜田川駅の南側 200m付近に古代遺跡が存在する。平群椿井・西宮遺跡という。

昭和581983)年7月、宅地開発の工事中に直径42cmの柱が発見され、その後の発掘調査で、次々と柱が確認された。建物は南北4間、東西7間ほどの北向きの建物だった。

共伴する須恵器から、7世紀代の遺跡とみられる。①平群氏の居館 ②平群郡衙(ぐんが)③高安城関連施設 ④上宮王家に関する宮殿 の諸説がある。

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平群の古墳は、「平群の柱」に示される大型宮殿(?)とセットで考えるべきとの論であった。


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西宮古墳を紹介する。現地には以下の説明版が設置されている。

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県指定  史跡 西宮(にしのみや)古墳  昭和3187日指定

この古墳は、廿日山(はつかやま)丘陵に築かれた三段築成の方形墳である。墳丘は一辺約36mの正方形で墳丘高は正面で7,2m以上あり、本来の高さは約8mと思われる。墳丘正面は約35度の勾配で、墳丘全体と東側周溝底には貼石がほどかされている。

墳丘の東西と北側は台形状に大きく掘削され周溝をめぐらせている。横穴式石室は南方に開口し、玄室は墳丘中央部に位置する。石室は切石を用いた精美なもので平群町越木塚で産出する石材によって築かれ、石室床面は墳丘二段目のテラス面に合わせている。石室の全長は約14mで玄室の長さ約3.6m、幅・高さが約1.8mである。

石室内部に収められていた刳り抜き式の家形石棺は棺蓋が失われ棺身のみであるが兵庫県産の竜山石で製作されたものである。石棺の長さは224cm、幅115cm、高さ76cmである。石室前方緒の墓道より須恵器の杯蓋、高杯片が出土している。7世紀の中頃から後半の築造と考えられ、平群谷を代表する終末期の古墳として重要である。

平成1111月   奈良県教育委員会

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# by koza5555 | 2021-04-30 22:42 | 古墳・西部と南部(葛城とか) | Comments(0)

国史跡 烏土塚古墳

烏土塚古墳(うどづかこふん)は、平群町春日丘(旧大字は西之宮)の横穴式石室を有する前方後円墳で、国の史跡に指定されている。

竜田川の西岸、南北方向の独立丘陵に築造されている。墳丘は全長60m、前方部幅31m,後円部径35m、高さ約9mで平群谷最大規模の古墳である。後円部頂からは平群谷が一望できることも特徴である。

一段築成の墳丘で葺石はなく、墳頂あたりに1.5~2m間隔で円筒埴輪が置かれていた。

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野淵龍泉の大和国古墳墓取り調べ書



両袖式の横穴式石室を有し、玄室長6m,玄室幅2.9m、玄室高さ4.5m,羨道長8.8m,羨道幅は1.6mである。石室の全長は14.3メートル。玄室の高さは石舞台古墳につぐもので(20㌢低いだけ)、丸山古墳(五条野)に匹敵する。

巨石の天井石に息をのむ

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「玄室長6m程度の石室を有する古墳は桜井狐塚古墳・天王山古墳・谷首古墳・天理大塚山古墳・御所新宮山古墳・新庄二塚古墳、大和郡山割塚古墳などがあげられるが、いずれも類似の巨大石室墳であり築造時期もあまり前後しない時期のものと考えられる。これらの分布は、天理市・桜井市・御所市・新庄町に集中的に分布し、いわゆる古代豪族分布に見る物部・蘇我・平群・巨勢などの大臣・大連級豪族の分布地域との一致を見ている。」(奈良県史跡名所天然記念物調査報告第27冊 p54)

玄室中央と羨道奥寄りに二上山白色凝灰岩(ぎょうかいがん)製の組合家形石棺が納められている。玄室入口の左側壁下段の石に斜格子文の線刻がみとめられる。

金銅装馬具・銀装太刀等の武具・四獣鏡・須恵器・土師器等の副葬品が出土している。

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石室前庭部付近で須恵器子持ち器台・巫女(みこ)形埴輪・形象埴輪・須恵器(すえき)大甕(おおがめ)などがまとまって出土しており、石室閉塞部分における埴輪と須恵器を用いた墓前祭祀の様子が明らかとなった。閉塞石は川原石を重層的に積んだものである。

「須恵器は羨道部分や前庭部と呼ばれる羨道前面の空間にも置かれていたようで、この部分からは埴輪も出土しています。人物埴輪では巫女形とされるものもあり、前庭部分が埴輪祭祀の場となっていたことが分かります。

 烏土塚古墳は近畿地方の全方後円墳の最終時期のもので、埴輪祭祀の終焉に近い時期にもあたります。近畿地方の最後の埴輪祭祀の姿を示しているものと考えられます。」(『古墳とは何か、葬送儀礼から見た古墳』平成28年春季特別展・近つ飛鳥博物館)

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国の史跡指定は昭和46 730日。築造は6世紀末、国有地が376.00平方メートル、町有地は3192平方メートルである。

烏土塚古墳

烏土塚古墳の保存問題は平群町文化財保護条例の制定、「平群史跡を守る会」も作られた。烏土塚古墳の保存整備が、平群町の文化財保護行政の原点となっている。

なお、「うど」は洞穴(うつろ)の事か。「ウドの大木柱にならず」のウドは、空洞の事である。古くから開口していたとみられる。

この「ウド」を古代の平群氏にちなみ(平群木菟宿禰・へぐりのつくのすくね は武内宿禰の子で、平群の始祖)『日本書紀』、「平群史跡を守る会」は会報に「烏兎」という表題にしている。

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# by koza5555 | 2021-04-29 20:26 | 古墳・西部と南部(葛城とか) | Comments(0)

ツボリ山古墳

平群谷のツボリ山古墳(つぼりやまこふん)。生駒郡平群町富貴1086番地

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ツボリ山古墳の説明板を紹介する。


県指定 史跡

ツボリ山古墳  昭和48315日  

ツボリ山古墳は、西から延びる丘陵上に築かれた20メートル前後の円墳ないし方墳と考えられる。

埋葬施設は、全長8メートル、玄室長4.2メートル、幅2.2メートル、高2.45メートルの規模をもつ大型の両袖式横穴石室で南に開口する。

石室内には、玄室部、羨道部にそれぞれ一つづつの石棺が主軸に沿って安置されている。両者共に刳抜式の家形石棺で、凝灰岩製である。羨道部の石棺は棺蓋を欠くが、玄室部の石棺は、棺蓋・身共に残存しており、棺蓋に六箇所の縄掛突起をもつことが分かった。残りの良い玄室部の石棺は、棺身長2.45メートル、幅1.17メートル、高さ0.8で、高さ0.7メートルの蓋がのる。

当墳の築成時期は、石室構造や、石棺の形式などから7世紀初頭に位置づけられ、平群谷の古墳の変遷を考える上で、学術的に重要な位置を占めるものである。

平成8年3月           奈良県教育委員会

●県史跡指定が1973年3月、田中角栄の列島改造の嵐というか、大波の頃である。

富貴に住宅団地が作られることとなった。開発会社(日本土地開発株式会社)は古墳の土地を平群村に寄付するが、「清掃して、整備するように」との条件が付いた。国庫補助も受けて、清掃を兼ねての測量が行われて古墳の記録が残された。

『奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第27冊 烏土塚古墳 ツボリ山古墳』で、1972330日発行である。

●古墳名は、所在地名とされている。字は「坪地」であり、ツボチ山古墳がツボリ山古墳に変わったとみられる。

●墳丘裾が削られ、測量ができない。墳丘図面は以下のとおりである。どう思われますか。

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●破損している石棺の復旧図面が作られた。残っている縄掛突起は一個であるが、左右に二個、両部に各一個で合計6個とみられる。

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棺身長は245㌢あり、赤坂天王山古墳(250㌢)、小谷古墳(248㌢)、菖蒲池古墳(269㌢)、艸墓古墳(246㌢)に匹敵する規模で被葬者像を考える上での重要な基準である。

烏土塚古墳に続いて作られ、西宮古墳に先行する。

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# by koza5555 | 2021-04-28 17:09 | 古墳・西部と南部(葛城とか) | Comments(0)