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奈良・桜井の歴史と社会

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写真好きのための法律&マナー

何を撮ってはいけないか。何をSNSで発信してはいけないか。あるいは他人の写真を利用する引用のルールは決まっているのだろうか。

僕が問題になったわけではないが、身の回りで生まれちゃって‥苦慮している。



「関係ないわ」とお気楽に構えていても、思わぬ多額の請求がきたり、削除が求められたり、逆に自分の写真が使われていたりで愕然とすることも発生しているようである。

いわゆる盗撮とか、あるいは他人の写真を自分のものと発表するのは問題外だが、自分で撮った写真をSNSで発信したり、講演やガイドで写真、図面などを使う時の肖像権、著作権のことを考えてみた。

『写真好きのための法律&マナー』(朝日新聞出版)はそれを多くの実例を挙げて解説している。カメラマンだけじゃなく、ブログやフェイスブック、ツイッターなどの発信者はよくよく参考すべき事例が満載されている。

何を撮っていけないか。肖像権と著作権のことである(p4)。

撮影の可否は施設管理者が決める。撮影禁止の表示がない場合も注意が必要。

公道の撮影は自由、公道は国民の共有財産だから。公道からのカフェテラス、公道の看板、個人の住宅や私有地、神社仏閣の建物や樹木などは自由に撮れる。


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これは問題ないだろう

お祭は撮られることが前提だから撮影には問題がない、その他の行事にもとられることが前提となっている場合が多くて、撮影はできるが、それでも、それぞれの特性があるので主催者の意向をよく聞きながら考え場ならない。



さて、撮りました。一人でパソコンに落として楽しんで見ている分には問題がありませんが、それを公表しようとすると・・いろんな問題が出てくる。

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長谷寺のことを考えてみた。この写真に問題がないか・・・

何の問題もないと思っていたが、ある所から・・「長谷寺の許可は取ってますか」と指摘を受けた。こんな話である(p9、p15)。

調べてみると・・

公道から撮っている。建物を写すなという明示はされていないから問題がないが、著作権に関係するようである。法律を調べてみると・・

(公開の美術の著作物等の利用)。著作権法です。

第四十六条 美術の著作物で‥‥屋外の場所に恒常的に設置されているもの又は建築の著作物は、次に掲げる場合を除き、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる。

二 建築の著作物を建築により複製し、又はその複製物の譲渡により公衆に提供する場合

以上のような法律がありました。

問題はないのだが、但し、お寺や神社のような宗教施設をどう考えるか‥という問題もあり、トラブルを避けたいと考えるならば・・このケースはどうなんだろうということである。

「コピーを作って売るのはダメ」と商用を狭く考えるか、「お寺の写真を見たからもう行く必要なし」と営業妨害だとの主張もありうるし、「こんな寺院だから‥ぜひ行ってよ」と角度を変えてのお話もあるけど、これらは遠目(法律的)に見たら差は判らない。

宗教施設をどう考えるかとか、SNSであれば二次的・三次的な影響も考えねばならない。

肖像権の問題も複雑である。お祭りでも、着替えしている所とか、行事の中で支えたり、重さに耐える苦痛の写真が発表されたら、当事者はどう思うだろう・・・、そこで、「主観は千差万別ではあるものの、一般常識として容認できるかどうか」(p11)、おのずから線引きができるだろうとされている。

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これは肖像権に問題はない。しかし、撮った人は別で、例えば、何かメールかなんかで送ってきたなら、「載せてもよい?」と別のルールが必要になる。集団写真など、問題になりそうである。
長谷寺の中という問題はどうか。長谷寺の許可はいらないか。「ここで写真を撮ってください」と現場に明記、撮影グッズを長谷寺が用意している。SNSの発信を許可していますとは書かれていなかったが、これはクレームがつかんだろう。

写真や文献の引用の6条件というのも学ばせてもらった。無断使用と言われるのを避けるためのルール。これを最後に紹介しておきます。(p45

  1. 未公表の著作物は引用できない

  2. 自分の作品と明瞭な区別

  3. 自分の作品がメイン

  4. 引用する関連性

  5. 改変は禁止。トリミング、リライトはダメ。

  6. 出典の明記

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# by koza5555 | 2018-09-14 11:24 | 読書 | Comments(0)

重陽の節供・節句

9月9日は重陽の節句。

伝統的な年中行事は中国の影響があるが、日本では稲作の区切りになる大事な日であったので、日本の生活文化に深く根付いている。

お正月、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日の節日には、神に供えるものが決まっていて、そこから「節供」(せっく、せつのそなえ)の言葉も生まれたとされる。

9月9日の重陽の節供、これは栗飯と菊酒と決まっているのである。

ちなみにお正月はたんに「お節料理」、3月3日は草餅、菱餅。5月5日はちまきや柏餅、7月7日はそうめん(索餅)で9月9日は栗と菊である。

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これが栗だが・・(汗)

節供が節句という文字に変わっていくのは、江戸時代からで・・神祭というよりは季節の区切りという面が強くなって供えから句に変わったとされる。

養老律令(奈良時代 720年)には節日は決められていて、元日、33日の上巳、55日の端午、77日の七夕、11月の大嘗の日が決められていた。

歴史は古いんだが、99日の重陽の日がない。

なぜか。この日は天武天皇の忌日だったからとのことである。律令国家の生みの親である天武天皇の忌日は、養老律令は重陽の「祭」は記さなかったとのことである。

参考までだが、皇統が天智天皇系に変わった平安時代には重陽の節供は国の行事に復活している。

天武天皇は西暦の673320日(天武天皇2227日)に即位。686101日(朱鳥元年99日)に崩御されたとされる。

天武天皇14924日(685年)に発病が記されており、翌年の朱鳥元年9月に崩御されている。

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重陽の節供でもあり、天武天皇の命日。いまの暦で計算するなら101日であるが、節供は旧暦の日をそのまま新暦に写して祝っているので・・・祝い、ともに思いを寄せることにした。

今日、桜井や明日香村辺りは午前中にハロが出現した。
太陽の周りの光の環で、うす雲の中の氷の結晶によって、太陽の光が屈折して現れる現象だそうです。
重陽の日に、天武天皇崩御にの日に、いいものをみました。
写真は桜井の我が家の屋根越に見た太陽そして、ハロ(光の環)。

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# by koza5555 | 2018-09-09 16:44 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

室生の桃。または桃源郷

近く、室生の話をいたします。今回は「室生の桃」もお話しします。「室生の桃」、萬葉集にあります。

しかし、いま、室生には桃畑は見当たらない。


歌は

「大和の室生の毛桃 本しげく 言ひてしものを 成らずは止まじ」(巻112834

「大和の室生の桃のように、桃の花が一面にというような風景、それと同じようなあふれる思いで言ったのだから、この恋は実るだろう」という歌である。

桃の実に寄せて、あの娘との恋の成就をうたった。

しかし、いま、室生には桃畑は見当たらない。

萬葉集の時代に室生の桃はとりわけ名高かったのか。それとも単に比喩的に、室生の地名が出ただけなのか。

いずれにしても、室生が万葉の時代に、桃源郷、またはある種の桃源郷だったことは間違いない。室生は雨・水をつかさどる神として龍穴神社があり、その信仰に関わって室生寺も創建されたとされる。いわば理想的な‥言い換えれば桃源郷として位置づけられていたのである。


室生寺に詣でるためには、どこから入っても峠を越えなければならない。そういう地形である。

その峠、東西南北の路には四大門というお寺が置かれていた。

北は名張の丈六寺、東は田口の長楽寺、南は赤植の仏隆寺、西は大野の大野寺だが、今日は南の仏隆寺からの室生古道を紹介したい。

仏隆寺・・千年桜、空海が持ち帰ったとされる茶臼など、話題は多い。

彼岸花も有名だったが、5年ほど前、獣害で壊滅的な被害を受けた。これが復活しつつで、今年は楽しみである。

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この仏隆寺から室生寺への道がある。室生古道と称してもいいだろう。

まずは仏隆寺から道路標識に沿って坂を登る。そこがカラト峠。大師伝説で「室生の里は唐の国のようだ」とあり、その入り口、だからこの名が付いた。宴行者像が置かれている。

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カラト峠から下っていくとカラミタという字がある(標識はないが「唐見た」)。

そこを下がると腰折れ地蔵が祀られる。腰から下が二つに折れている。「地蔵仲間のなかでも意地悪だったので倒された」とか、「子育て地蔵と子どもの取り合いをして腰を折られた」などのいわれがある(室生公民館 平成2412月)と掲示がある。

室生古道(南の大門の仏隆寺から室生寺)の道中にあることから注目度の高い石仏であったと思われる。

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この道(車で走れる林道も歩く旧道もある)には、頑丈な獣除けの柵があるが、カギの無い扉があるから、それを開けて(通過後は必ず閉めて)通過することができる。

室生の村に入る。最初は西光寺。樹齢400年という「城之山桜」の枝垂れ桜が有名である。

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ここまで来ると・・そこは室生の郷、室生寺でもある。

「室生は桃源郷」がテーマであるが、現在は桃畑は見当たらない。・・

●(古代中国)桃は仙果として、邪悪を避ける力があるとされた。桃の木で作った人形(桃人)を門に立てる、桃の枝を門に挿す、モモ板に呪文を書く。

●(日本の神話)イザナギは黄泉の国から逃げて、黄泉比良坂で桃の実を投げて窮地を脱する(神話)。

●お伽話の「桃太郎」も、実は桃が鬼を退治する話。



この道を一度は歩いていただきたい(笑)。それが無理なら、せめて車でよいから楽しんでいただきたい。

室生から仏隆寺に至る道は、ちょっと説明が難しい・・荷の出の大門集会所の前を抜けて、西光寺を経て、左へ回ると…と言われても・・・

仏隆寺からは、道路標識があるから簡単である。

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# by koza5555 | 2018-09-05 13:44 | 宇陀 | Comments(0)

中秋の十五夜

八月(はづき)十五夜の花はススキである。またハギをはじめ秋の七草を飾る土地も多い。


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十五夜は月ごとにあるのだが、特に八月十五夜の月を賞する風習は、四季の移り変わりの中での「中秋」という好季節であることと、815日が「豊年祭」を営む日…日本の風土と生活の上に定着したものであった。秋の大切な折目だったのである。

この行事は今でも、旧暦で行われていて、9月十五夜がこれに当てられる。今年は924日が中秋の十五夜である。


中国では月の陰影をヒキガエルや兎と見て永遠の命をもたらす仙薬をつくといい、日本ではハレの日の餅をつくとみる。仙薬と餅・・これも不思議である。

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まずは、仙薬問題を考えてみる。

日本の神話では、月の神は「月読命」(つきよみのみこと)で、月の満ち欠けを読む(数える)神の意味がある。


イザナギは黄泉の国からイザナミに追われて地上に逃げ帰り、みそぎをする。左の眼からは天照大神、右の眼からは月読命、鼻を洗うとスサノオ命が生まれて、これを三貴人という。

天照大御神とスサノオ命は古事記・日本書紀では大活躍だが、月読命がとんと出てこない。


ところが萬葉集で、この月読神話が語られている。

「月読神話」の精髄は、月の満ち欠けを「蘇るもの、不死なるもの」とみることが土台である。

「月読の 持てる変若水(をちみず) い取り来て」(巻13-3245)とあり、この変若水(おちみず)は若返りの霊水とされている。月は満ちては欠け、欠けてはまた満ちるので、よみがえるもの、不死なるものとみられたようである。

「わが手本ま噛むと思わむますらをは 変水(おちみず)求め 白髪おいにけり」(巻4-627)」では、「私を妻にしたいならば、オチミズがいるのでは・・白髪でしょう、あなたは」と歌われるのである。


こんな風にみてくると、「月のウサギは不老長寿の仙薬をつく」という中国の思想はよく理解できた。

さて、中国のウサギの仙薬つきが日本では餅つきに変わるのが、これまたおもしろい。

日本の米作中心の農耕文化のもとで、中秋の名月、十五夜は秋祭、豊年の祭でもあり、庶民的に見れば、薬よりも餅つきだろうか。


月の満ち欠けに古代の人は若返りの可能性と力を感じた。月の満ち欠けは古代の人の希望であった。

僕もそんな年になった。今年の中秋の十五夜、924日は特別の思いで若返りを祈りたい。

以上は「節供の古典。花と生活文化の歴史」の「十五夜の古典」(雄山閣、桜井満著)の丸写しである。

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# by koza5555 | 2018-09-02 08:55 | 読書 | Comments(0)

奈良まほろぼソムリエの会の研修旅行

奈良まほろぼソムリエの会の第4回研修バスツアーの募集をいたします。今回は12月8日(土)に東播磨の浄土寺(小野市)・石の宝殿(高砂市)を訪れ、兵庫県では最大規模の神戸市内の五色塚古墳を見学いたします。講師は奈良まほろばソムリエの会の木村三彦顧問です。

浄土寺は東大寺の復興を目指した重源が建てた播磨別所。大仏様で作られた浄土堂、堂内の中央に祀られる阿弥陀三尊像、東大寺を考えるうえでは必見ものです。

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生石(おうしこ)神社とご神体の石之宝殿。益田岩船との対比も考えながら、その真相を探ります。


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明石海峡にそびえたつ五色塚古墳は古墳の成り立ち、役割を考える上での興味が尽きません。

奈良の歴史を複合的に考えるうえでは最適の社寺と古墳をとり上げ、「バスだからこそ行ける」という行程を準備いたしました。ぜひ、ご一緒にお出かけいたしましょう。

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日時は12月8日(土)。近鉄奈良駅(春日ホテル前)午前820分。JR奈良駅(西口・ホテル日航前)午前830分発で、近鉄奈良駅に1730分頃に帰着する予定です。

また、研修ツアーの詳細は「奈良まほろぼソムリエの会」のHPの『お知らせ』で告知いたしております。

お申し込みは、後述のメールへ、送信お願いいたします。


申し込みには以下の項目をご記入してください。

氏名、当日に連絡ができる携帯電話の番号、乗車場所(近鉄奈良駅前・JR奈良駅前)


参加費は9,000(昼食付) です。

定員(40名)になり次第、受付を終了いたします。料金は当日払いですが、12月4日(火)以降はキャンセル料をいただきます。では、ご検討、ご参加、よろしくお願いいたします。



NPO
法人 奈良まほろばソムリエの会

担当 雑賀耕三郎

メール kozaburo@cg8.so-net.ne.jp

一緒に参りませんか。

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# by koza5555 | 2018-08-26 14:32 | 奈良まほろばソムリエの会 | Comments(0)

専行院と修陵餘潤之碑

毎日新聞、8月23日(木)のディスカバー奈良は「修陵餘潤之碑」(しゅうりょうよじゅんのひ)を書いた。

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全文は以下の通りである。

天理市柳本町の専行院(せんぎょういん)には、柳本織田藩の歴代の領主の墓碑と合わせて、「修陵餘潤之碑」(しゅうりょうよじゅんのひ)という自然石の大きな碑が立てられています。

専行院の東方には崇神天皇陵があり、陵をめぐる巨大な周濠を見ることができます。もともとは小さかった周濠を巨大な池に作り替えたのは幕末の織田藩の修陵の工事でした。織田藩は修陵の工事と合わせて、周濠の拡大により灌漑用水の拡大を図ったのです。

陵、周濠の改修により、多くの田に潤いの水が届けられることになりました。時を経て、水の恩を受けた農民が、田植えを終わった時期に専行院に集まり、織田藩の領主の法要を始めました。この法要は今も続いています。そして、陵を修理して水の潤いを受けたと記した「修陵餘潤之碑」を境内に立てて、感謝と喜びの気持ちを表しました。(奈良まほろぼソムリエの会副理事長 雑賀耕三郎)

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 専行院は天理市柳本町1474番地、JR桜井線柳本駅から徒歩で約10分である。 駅前から黒塚古墳、崇神天皇陵へ東に向かう道から見ると、右手、もう一筋南の路である。車で行くならば、駐車場は大きくて安心して停められる。

 

 この専行院で藩主祭という法要が、毎年7月の第二日曜日に行われている。

 柳本連合自治会の主催で、東京から織田藩の当主を招き、町内の主要団体が集まって法要を行う。

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専行院 松村順雅住職を導師として法要が行われる。

さらに「祭文(さいぶん)」を、森脇完一天理市柳本連合自治会長が読み上げた。

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祭文の要旨は以下のとおりだった。

本日、ここに旧柳本藩主織田信成公並びに織田家歴代のご尊霊を招き、専行院に祭壇を設け織田毅様、日高美智子様、天理市長並河健様をはじめ関係各位のご臨席をいただき、柳本町民、一同と共に頭を垂れて法要を営みます。

顧みすれば、初代織田尚長公の入部以来、織田家は歴代の藩政を担われました。

なかでも第12代 信成公は特に勤王の志厚く、かねてより崇神天皇陵の荒廃を憂い、嘆かれ、公儀の允許を得て 元治元年9月17日に、これの修補に着手され、

人夫57998

工費 銀598

並びに食料米等を支出し、親しく工事を督励して、翌年2月に、その竣成を遂げられました。

御陵の周囲には6町4反の土塁を巡らし、比をみない濠を作られました。古来柳本町は水利に乏しく、年々灌漑用水の枯渇に悩まされていましたが、山稜御修陵以来、貯水を利用して、耕作をすすめて、領民等しく蘇生の思いをいたし、水利の潤いを受けてきました。

今日、住民の生活様式は変革、農業経営の変貌など生活の在り方は変化しました。農業用水だけなく観光・景観など修補の益はますます大きくなっています。

慎みて霊前に向かい、住民を代表して感謝申し上げ、歴代御霊代のご冥福を祈念いたします。

平成3077   天理市柳本町自治連合会会長 森脇完一

崇神天皇陵をぜひ訪問していただきたい。その陵と周濠があなたの心を打つことは間違いない。そして、専行院を訪れて修陵餘潤之碑もぜひとも拝見していただきたいのである。

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# by koza5555 | 2018-08-23 05:07 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

鏡女王忍阪墓と談山神社の東殿

 「談」(かたらひ・談山神社社報)90号(8月15日発行、桜井市のすべての新聞に折り込み)では、「鏡女王忍阪墓で恋と愛を考えてみた」と題して、鏡女王の人生・・忍阪鏡女王墓を守る忍阪の生根会のことを書いてみた。

 談山神社の東殿は鏡女王(かがみのおおきみ)をご祭神として祀っている。

大和三銘段という正面の石段を登り、拝殿の手前を右手に入ると鏡女王を祀る東殿に至る。この東殿には「恋神社」と書かれた真っ赤なノボリがはためき、縁結びの神様として特別に華やぎのある社殿となっている。



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談山神社東殿の鏡女王祭。6月の第二日曜日

6月の第二日曜日は、この東殿で鏡女王祭が行われる。長岡千尋宮司は「秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそ益(ま)さめ 御思ひよりは」と、鏡王女の万葉歌を祝詞に織り込んでその霊を鎮める。さらに式典後のあいさつでは、「鎌足公は本殿に、正室の鏡女王は東殿にと、境内でご一緒にお祀りしている。これは神社の誇りである」とお話しをされた。

鏡女王忍阪墓

 古代の皇族の陵墓は平安時代の延喜式という書物にまとめられている。そこには「鏡女王、大和の式上郡押坂陵(舒明天皇陵のこと)域内東南」と書かれていて、

1、鏡女王墓は舒明天皇の陵内の東南にあることがわかった
2、鏡女王と舒明天皇の墓所は同じ地域内にあり、その結びつきの強さがわかった。そこから、鏡女王は舒明天皇の皇女か皇妹との見方が生まれた。

この鏡女王墓は談山神社が所有している。そして草刈、清掃、枯れ木・枯れ枝の撤去などは忍阪の生根会(忍阪区老人会)が行っている。

生根会の東井義之会長にお話を聞いた。

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東井義之生根会長(忍阪老人会長)

「鏡女王墓の管理は生根会が行っています。5月に一年の初めの草刈を行い、折々に清掃を行います。また鏡女王祭の前日には、忍阪で墓前祭を生根会が行います」と語られる。

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今年の5月に行われた鏡女王墓の草刈と掃

祭や清掃だけではなく、忍阪のみなさんの陵墓への思い入れは熱いものがある。区から外鎌山にかけて舒明天皇陵、鏡女王墓、大伴皇女墓が点在するが、これを総称して「三陵墓」と呼ぶ方がいた。中でも鏡女王墓は、親しみを込めて、「中の御陵さん」と呼ばれているようである。

万葉学者の犬養孝は、鏡女王墓は「草ぼうぼうに荒れていた」と、『万葉の旅』に記したが、現在は忍阪の生根会がしっかり管理をされているのである。

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忍阪生根会による 鏡女王忍阪墓前祭。談山神社の東殿の鏡女王祭の前日に行われる

藤原鎌足公と鏡女王のこと

鏡女王は天智天皇の后であった。その後、臣下の鎌足公の妻とされた。

先に述べたように鏡女王は舒明天皇の皇女の可能性が指摘されている。臣下との結婚は望むものではなかったようで、「私の名を惜しむ」と恨みの歌も残している。

しかし、共に日を過ごすうちに、鏡女王の鎌足に対する思いは変わっていたとみることができる。

それを興福寺の創建の歴史にみることができる。

鏡女王は夫、鎌足の病の平癒を祈って仏殿建立を発願する。鎌足は恐れ多いとそれを許さなかった。しかし、女王の強い願いに最後は押し切られて山階寺が建立されている。鏡女王が発願した山階寺はその後の興福寺となっていく。鎌足公と鏡女王の夫婦愛は興福寺の始まりの力となった。

さて、東殿は恋神社、縁結びの神として祀られている。

鏡女王の鎌足公への思い入れが深まる歴史、そして、その女王を大きく包み込んでいく鎌足公の力強さが読み取れる歴史がある。

恋を求める若者を引き付ける力がある東殿だが、同時に鎌足公と鏡女王の熟年の夫婦愛を学ぶ、夫婦のあり方も強く考えさせられる、そんな東殿ともいうべきだろう。

 談山神社の東殿、忍阪の鏡女王墓をぜひとも訪ねてみよう。

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# by koza5555 | 2018-08-14 21:52 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

益田岩船(橿原市)と石の宝殿(兵庫県高砂市)

橿原市の白樫西集会所の奥から、200mくらい山を登ると益田岩船に到着できる。

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車であれば白樫町集会所の左の道を上がっていくと、何とか駐車場所は確保できそうである。車を降りてのぼり口に行く、そこから標高差は30mでさほどの山ではない。

念の為に申し上げておくと、今の時期(5月~11月くらいまで)は、猛烈なやぶ蚊の攻撃を受けるので虫よけスプレーが必須である。

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標高130mの場所に巨大な花崗岩の石造物で、益田岩船といわれている。

東西約11m、南北約8m、高さ約47mもあり、重さは約715トンとされる。

上部の平坦面には一辺が約1.6m、深さ約1.3mの方形の穴が彫られていることが特徴である。

益田池の碑を据えた台石、天文台、祭壇などといわれているが、今では横口式石槨の製作放棄のものと言う見解に僕は賛成である。

『大和名所図会』(秋里籬島著 寛政3年 1791年)にも、益田岩船として紹介されている。

文は「暮れ行く春のかたみには深山(みやま)の花のまた散りのこり、岩つつじ咲き乱れの眠れるをりふし、時鳥(ホトトギス)の初声におどろきけるも一興とやいわん」と、村人の遊びの場となっていることを紹介し、岩船は「益田池の碑の台座」であり、碑は高取城に取り込まれたとの言い伝えがあるとしている。(『奈良名所むかし案内』本渡章参照)

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兵庫県の高砂市の生石(おうしこ)神社を訪れるツアーを計画している。

神社のご神体は石の宝殿と呼ばれ、凝灰岩の岩山の中腹を削って作られた巨石である。水面に浮かんでいるようにも見えて、浮石ともいわれる。

2014年(平成26年)10月には、「石の宝殿及び竜山石採石遺跡(いしのほうでんおよび たつやまいしさいせきいせき)」として、国の史跡に指定されている。

6.4m、奥行き7.2m、高さ5.7mで重さは500トンを越えるとみられる。

 誰が何のために作ったのか、なんでこの形で残されているのかが不明である。

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 『播磨國風土記』(713年ころ)の印南郡大國里條にある記述には、

「原の南に作り石あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていわく、聖徳の王の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)の造れる石なり」との記述があり、「弓削の大連」(物部守屋)が造ったとされている。横穴式石槨の施主が物部守屋、守屋の没落によって、放置されたと考える論に僕は惹かれる。

 大石であり、いずれも横穴式石槨の並び墓とみたい。明日香村の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)にその実例もある。

 益田の岩船と石の宝殿はいずれも大石で見るものはその迫力に圧倒されるが、完成度は相当違う。

 稜線近くの大石を削った益田の岩船。

 岩盤から削りだされた石の宝殿。完成度に差があることは明瞭である。



# by koza5555 | 2018-08-10 15:03 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

前方後円墳は巫女の姿を表す? 『卑弥呼と天皇制』

王権の誕生と記紀神話。奈良女子大学の小路田泰直(こじたやすなお)教授の本である。小路田さんは近代政治学、いわば古代は門外漢だが、チャレンジしようという本という理解である。

まずは箸墓古墳

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小路田康直さんは、卑弥呼をヤマトトトヒモモソヒメに比定する。(p59)

ヤマトトトヒモモソヒメ(卑弥呼)は大物主と結びつき、絶大な影響力を発揮する。

ヤマトトトヒモモソヒメ(卑弥呼)が共立され、人々の崇拝、崇敬を集める。

しかし、ヤマトトトヒモモソヒメ(卑弥呼)は、祀るべき祖先神がないことに気づき、自らが祖先神になるために死を選んだ…姫は規模、内容が画期的な箸墓古墳に祀られた。

これが小路田さんの結論である。


こんな論理なら、「大物主を祖先神にしたらよいのでは」など、納得できないところはいくつもあるが、面白い論でもあった。


箸墓古墳の前方がバチ状なのは、巫女の姿を模したもの・・という論も初めて読んだ。

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所在地論争で啓示をうけたことがあるので紹介しておく(p62あたり)。

小路田康直さんは、「邪馬台国の所在地論争が1910年(明治43年)に始まったことに注目」された。日韓併合があり、大逆事件が起きた年である。日露戦争後の日本の針路が大きく変わった年でもある。「脱亜入欧」、「アジアの日本でなく、アジアの中でも特別の日本」を作ろうとしている年だった。

邪馬台国の所在地論争はその時に発生する。

東京大学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)は魏志倭人伝の里程の不思議さに注目して、それを扇子状に解釈して、「邪馬台国は九州に収まる」と唱え、それに対して京都大学の内藤湖南が常識的な大和論を展開した。

この論争は「徳島県の中学校教師、笠井新也の「邪馬台国は大和である」(1922年(大正11年))で決着が着いた」というのが、小路田さんの結論だ。

笠井は魏の使いは瀬戸内海ではなく日本海を経たとした。行程の最後に出てくる「投馬国」は出雲である。投馬を「つまこく」と読み、これは出雲に近いとする。

日本海ルートの笠井案は、今でも魅力的であるが、学会からは無視される。

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そもそも白鳥庫吉が「邪馬台国論争」に加わったのは、

「女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳らかにすべからず」の文を、『魏志倭人伝』に見たからである。

南は東にという原則で見れば、以北は以西である。

白鳥庫吉にとって、邪馬台国が大和であれば、九州に至るまで魏使の目に留まって(略載 ほぼのせる)いたことを意味し、いわば日本全土は中国の文化の影響下にあったということを意味した。しかし、これでは当時の日本が必要としていたイデオロギーに応えられないものだった。

邪馬台国を九州とするならば、「中国の影響は九州にとどまり、詳らかにできず」と書かれ、より文化の高い大和は中国の影響下ではなく、歴史もはるかに古いという論である。これは、本居宣長の邪馬台国=九州女酋論の焼き直してもある。

このイデオロギーには笠井論はひとたまりもなかった。

本居宣長から明治時代の白鳥庫吉に至る「邪馬台国九州論」は日本の歴史の古代への肥大化の中で考え出されたものである。

問題は「現代はどうなつているか」であろう。

高島先生の有名な主張を紹介して、現代の論争も付け加えておきたい。

「邪馬台国九州論」の高島忠平(佐賀県)さんは、「邪馬台国は大和でなければどこでも良い」と言い切る。3世紀段階で大和に邪馬台国があれば、それは大和朝廷に直結する政権となる。高島さんは古代の日本はもっとバラバラで、もっと政治的には遅れた状態でなければならないと考えられているようだ。大和に邪馬台国、大和に大和朝廷は嫌なようで、もっと多発的だろうとう論拠だろうか。

少し整理して

明治時代の邪馬台国九州論。進んだ大和、中国の影響下の九州邪馬台国

現在の邪馬台国九州論。遅れた大和、中国の影響下の九州邪馬台国。


ところが、現代の考古学は、 3世紀半ばの大和は九州よりすすんだ大和の姿を示してきており、考古学の進歩の前には「すすんだ九州論は風前の灯」である。

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僕も若いときは松本清張です。それから邪馬台国と大和王権を切り離して考えたいようなイデオロギーにも縛られていました。その後の考古学が示すさまざまな証拠、事実は、邪馬台国は大和を示しています。


# by koza5555 | 2018-07-26 13:30 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

古事記の女性たち。その愛とたたかいから学ぶこと クラブツーリズム

「奈良まほろばソムリエの会」ガイド同行の『古事記』でたどる大和の旅を案内してきた。

7月の2回も含めて、昨年から数えて16回目である。一回だけ不成立だったが、16回で15回の出発確定であるので、『古事記』ツアー、なかなかの人気ものである。

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7月は18日(水)と21日(土)はいずれも催行が確定した。

18日はほぼ満席、21日は空席が十分残されている。一応、ここで『古事記』ツアーは一区切りであるので、ぜひのお誘いである。

7月は「古事記の女性たち。その愛とたたかいから学ぶこと」がテーマである。

新大阪、天王寺発で、佐紀古墳群の磐之媛命陵、箸墓古墳、忍阪は鏡女王墓、玉津島明神、石井寺の薬師三尊の拝観も予定している。それから、角刺神社、飯豊植口丘陵。

磐之媛、「やまととももそびめ」(古事記の表記)と卑弥呼。忍阪では衣通王。忍海で飯豊天皇である。

古事記とは直接の関係はないが、卑弥呼もしっかり語ることにしている。

古代の英雄や戦いを語るとき、卑弥呼なし、神功皇后なしではもの足りない。

古代は男が王、彦は王権、女性は巫女の役割という論がふつうである。

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「卑弥呼は巫女、権力を持たない」という論である。

ところが、卑弥呼はたたかい、統治する女王だという学者もいる。僕が決めた代表は義江明子帝京大学教授である。


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魏志倭人伝に描かれた卑弥呼は

「共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者の少く、婢千人を以て自ら侍()せしむ。唯、男子一人有り、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す。」

ここから、卑弥呼は国の巫女的な役割で、佐(たす)けて国を治むとされ、男弟が政治をしているとの見方がある。

しかし、義江さんはここが違うと言われる。「卑弥呼は国の乱れを治める王、佐(たす)けてというのも、あくまでも助けてであり卑弥呼に王権あり」とされるのである。

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ワカタケル(雄略天皇)を佐(たす)けてと、稲荷山鉄剣には刻まれているが、誰もワカタケルに実権がなかったなどとは言わない。

なんで女性の王の時は佐(たす)けてと書かれただけで、実権がなかったなどと決めつけるのかと言わる。

日本書紀は卑弥呼を神功皇后に当てはめている。

神功皇后の力は

神の言葉を聞く力

武装して軍隊を率いてたたかう能力

征服により支配地域を広げ、国を富ます力

妻であり、母であること

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同じように、卑弥呼は神の言葉が聞けて、たたかい、統治するというスーパーウーマンである。記紀が書かれた600年代、卑弥呼のイメージは巫女であり、大王であるという見方もあった。

こんな話を皮切りに、古事記に描かれた古代の女性を前例にとらわれずに紹介した紹介したいというツアーである。

こんな卑弥呼のイメージが近世に変えられたと義江さんは主張される。

弥生時代から古墳時代、古墳時代から飛鳥の時代にかけての女性の王の役割が劇的に変わっていくことが証明される。

巫女とか巫女埴輪、衣通王の愛、飯豊天皇の苦悩を解明する。

古事記ツアー、最後に女性天皇、女性王の権力の歴史、役割を語り、その結末を解明する。

僕もワクワクしている。



# by koza5555 | 2018-07-04 22:08 | 万葉の旅 | Comments(2)

古代の醸造、酒造りのあれこれを

『卑弥呼は何を食べていたか』。廣野卓著。2012年。

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「卑弥呼の呪術と桃」については先日、書いたばかりだから、廣野さんが書いたテーマから、古代の醸造、酒造りのあれこれを考えてみたい。

先日、古事記をテーマに大神神社を案内した時、酒作りが話題になった。

「この神酒(みき)は、わが酒ならず、大物主の醸みし神酒」である。古代の酒造りは人が米、味飯(うまいい)を噛むところから始まったとされる。

「未婚の女性が噛んだと聞くけど、大物主が噛んだ酒だろうか。大物主は女性だろうか」という質問だった。ソムリエの会の古事記ツウ、神様ツウの田原ガイドもタジタジとなった。

これを考えてみた。

お米を炊いて、それを噛んだコメ作りはあったようである。

しかし、それを古代の人も不潔感を感じていたという証拠がある。

乙女が噛んでも同じである。

「だから、神に噛ませる、神に醸ませる。それで不潔感を払拭」と、日本書紀の崇神条は書いたんではないだろうか」と、廣野卓先生が『卑弥呼は何を食べていたのか』で書かれている。

味飯(うまいい)を水に醸みなし 我が待ちし かひはかつてなし 直にしあらねば(巻16-3810

『大隅国風土記』である。ある家が米と水を用意して村に告げまわります。村の男女が集まってコメを噛んで酒槽に噛んで入れます。酒の香りがしてくると、また集まってそれを飲みます。これが口噛みの酒。噛んでペッである。

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しかし、やはり不潔という意識はある。現代人は無論のこと、古代の人も同じである。

スサノオ命の神話を思い出してほしい。穀物神オオゲツヒメが口から食物を出して饗応したので、スサノオ命は不潔だと怒ってオオゲツヒメを剣で斬っている。

この不潔感を払拭するために、未婚の乙女が噛んだり、村人全員で噛んだ。

さらに不潔感はぬぐい切れないので、「この神酒(みき)は、わが酒ならず、大物主の醸みし神酒」として、「神様が噛んだ酒」だからと、不潔感を払拭した。

大物主は女性ではなく、男であるが・・神である‥というのが結論である。

神と酒の歴史では、大神神社の大物主が酒の関わりの大本である。

『崇神記』には、大田田根子を祭主として、高橋活日を掌酒(さかびと)に定めて、大物主神を祀らせてとしている。

「この神酒(みき)は、わが酒ならず、大物主の醸みし神酒 幾久 幾久」

これが縁起となって大神神社の祭神を酒神とする伝承が生まれる。神酒と書いてミワと訓するようになり、味酒(うまざけ)が三輪山の枕詞にもなる。

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ところがこの酒の神はスクナヒコ神が本来の神の可能性があるというのが、廣野卓先生の託宣である。

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      大阪市土修町の少彦名神社

大神神社は三輪山の奥津磐座を大物主神、中津磐座を大国主神、辺津磐座をスクナヒコナ神を祀っている。

スクナヒコナ神は大国主神に協力して、さまざまな生産技術を伝授し、豊葦原の中ッ国を築く産業神で、薬神が祀られている。

製薬業界にも崇められる。薬の町大坂の道修町では、少彦名神社の祭日(1223日)を「神農さん」と呼んで和漢の薬神が祀られる。酒より薬ということだが。

『仲哀記』によれば、少彦名神が酒の神である。

「この神酒は わが神酒ならず 酒の司(くしのかみ) 常世にいます 石立たす 小名御神の 神寿き(かみほき) 寿き狂ほし(ほきくるほし) 寿きもとほし 献り来し(まつりこし)神酒ぞ 乾さず食せ(あさずほせ) ささ 」

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竜田大社の例祭の祝詞(天武天皇(律令)の頃から行われている)に照らして考えてみよう。

神酒ならべ 和稲(にごしね)・荒稲(あらしね)に

山やまに住(す)む物ものは

毛(け)の和物(にこもの)・毛(け)の荒物(あらもの)

大野原(おほのはら)に生(お)ふる物は甘菜(あまな)・辛菜(からな)

青海原(あをみのはら)に住(す)む物ものは鰭(はた)の廣物(ひろもの)

談山神社の百味の御食で、和稲、荒稲を語っているが、

海の魚、鰭(はた)の廣物(ひろもの)を教えてもらった。鰭(ひれ)が大きいと廣物でタイとされ、鰭が小さいと鰭狭物‘(はたのさもの)で鯉という。

鰭はあまり違いがないが、体高で決めていたらしい。

神饌を考えると古代の食物にあたるらしい。日常的に、あるいは特別に食べているものが神饌として供えられていたからだ。

食べ物と酒のことでした。


# by koza5555 | 2018-07-03 21:15 | 読書 | Comments(0)

なかじまゆたか作品展  奈良まほろばかるた原画

「奈良まほろばかるた」の原画を描かれた中島豊さんの「なかじまゆたか 作品展」が開催される。

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奈良まほろばかるたは「NPO法人奈良まほろばソムリエの会」の啓発グループが中心となって作成した。

「いまどきかるた?」との声をはじめは聞いたが、このカルタは好調に販売が進み、刷りましに成功した。カルタも出版物とみれば、重版出来(じゅうはんしゅったい)である。

読み札が軽快で、読み札の裏面に書かれた解説も好評である。

奈良県がバランスよく紹介されていることかうれしい。

「神武天皇の即位」をテーマにした古事記ツアーに参加されたKomazaさんは、見学場所をカルタで紹介されていた。

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しょだい じんむてんのうまつる かしはらじんぐう

みわやまは おおみやじんじゃの ごしんたい

れいきに さらしてつくる みわそうめん

ろまんある さいこのこどう やまのべのみち

(奈良まほろばソムリエの会編「奈良まほろばかるた」より)

また、福井県の石亀さんも、「孫とまほろぼかるたでたどる奈良旅行をしてみたい」と書かれた。

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そして、このかるたの魅力の根源は絵である。

中島豊さんが描かれた。ゆったりと穏やかで、何とも言えない奥深さの気分の絵である。

「この絵を見ていただきたいということで、「なかじまゆたか 作品展」が開催される。

発刊本挿絵原画と奈良まほろばかるた原画が展示される。

奈良まほろぼかるたの原画は44枚、すべてを展示、得難い機会である。

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7月6日(金)、7日(土)、8日(日)に奈良県立橿原文化会館(橿原近鉄百貨店の東側・八木駅からはどんな雨が降っていても歩いて行ける)である。

時間は午前930分から午後430分まで。

入場料は無料。

ぜひ、おいでいただきたい。


# by koza5555 | 2018-07-02 07:18 | 奈良 | Comments(0)

纒向遺跡とモモの種

纒向遺跡でモモの種が論争の的となっている。

纒向遺跡では大型建物の柱跡付近の土坑から様々な遺物に交じり2000個以上のモモの種が発掘されている。

このモモの年代が最新の技術で、分析をされている。今までも土器などからその古さは指摘されてきていたが、発掘されたモモそのものもの試験である。

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桜井纒向学研究センターは『研究紀要第6号』(330日付け発行)をめぐって記者発表している。

名古屋大学の中村俊夫名誉教授が纒向遺跡から出土の桃(モモ)の種を放射性炭素年代測定法で調査をしたという論文や、

同所の森暢郎研究員が動物の骨の発掘(183次調査)の論文を乗せたりしており、売り切れになるという具合で、この号は好評となった。

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その、モモの種について紹介する。

まずは検査の方法。放射性炭素年代測定法のことだ。

植物遺物には「放射性炭素原子14C」が含まれるが、これが規則的に壊れていき、5730年で半減となる。だから、きちんと調べれば、何年前の植物・・、それがわかる。

基準は1950年で、実はこの時期の水爆実験により、大量の14Cが大気に放出されたことからその後のデータは使用できなくなる。だから、1950年が原点となり、そこからビフォー1800年などという形で示される。

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分析結果。12個のモモの種  Momoと書いてある

名古屋大学が加速器質量分析計で調べてみると、モモの種の12個は平均で 1820 BPとなり、基準の1950年から1820年を引き算、誤差の補正をすると、西暦130年から230年の間であることが証明された。

卑弥呼は170年に生まれて、248年まで生きたとされているで、これは卑弥呼、邪馬台国と同時代である。

吉野ヶ里の高島忠平先生は、「分析に信用できない。また、たとえ時代が当たっていても邪馬台国論争とは別の話」(産経新聞615日付けを意訳)と言われているが、反論にはなっていない。

時期も時期だが、モモも種ももう一つ考えてみたい。

『卑弥呼は何を食べていたか』。廣野卓  2012年の本だ。

「卑弥呼の呪術と桃」がテーマだ。

平成21年 当時の大型建物群の柱跡が発見、平成22年、すぐ近くの土坑から2000個余りの桃の種が出土した。

卑弥呼の宮室説がある場所から、古代中国で呪術に用いられてきたモモの種が出土。

中国ではモモは仙果として、邪悪を避ける力があると信じられてきた。

モモの木で作った人形(桃人)を門に立てたり、モモの枝を門に挿したり、モモ板に呪文を書いたりした。

モモは不老長寿を願って、儀式参加者に食べさせた(菅谷文則)

『記紀』の国生み神話にも。イザナギは黄泉の国から逃げて、黄泉比良坂でモモの実を投げて窮地を脱する。

お伽話の「桃太郎」も、モモが鬼を退治する話。

出土したモモの種は、呪術に長けた巫女の存在を感じるさせる。

2000個のモモの採取は大仕事で、その桃は纒向遺跡付近でモモの林で採取された(花粉が大量に出る)と解析されている。モモが巫女の呪術の為に栽培されていた。


時期が大切。モモの種が肝心なんだ。卑弥呼の作法は、大和王権にも秘儀継がれた。

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# by koza5555 | 2018-06-30 00:22 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

夏越の大祓 村屋坐弥富都比賣神社

村屋坐弥富都比賣(むらやにますみふつひめ)神社を「ディスカバー!奈良」(毎日新聞奈良版)で紹介した。

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神社の主祭神は三穂津姫命(みほつひめのみこと・弥富都比賣)。「三穂津姫命は大国主命の后神として高天原(たかまがはら・天上の世界)から稲穂を持って降り、稲作を中津国(なかつこく・現実の世界)国に広めたとされる神である。

祭神で考えれば、大国主命を祀る大神神社とは夫婦の関係かと思われますし、また、天上の世界と現実の世界を稲作で結ぶ役割を果たした神だった。(神社の掲示から)

この神社の夏越の大祓式を拝観、拝見して大祓の要素をいくつか感じた。奈良盆地、数ある大祓式の中から、今回はこちらを紹介することにした。



心身清める夏越の大祓  村屋坐弥富都比賣神社

630日には「夏越の祓い」が各地の神社で行われます。猛暑を前にして、人々にたまった罪けがれを払い落とす神事です。

大和川に沿い、奈良盆地の中心に位置する田原本町の村屋坐弥富都比賣(むらやにますみふつひめ)神社の「夏越大祓式」を紹介します。

祭典は午後4時から始まります。参列者は茅の輪をくぐって結界が張られた神前に上がります。紙を切った人形(ひとがた)に息を吹きかけて厄災を移したり、カヤの葉や切り紙で罪けがれを払います。祭典が終わると茅の輪を外し、子供たちが人形、供え物と一緒に大和川岸に運び、川に流すのです。「大和川で刈ったカヤで茅の輪を作り、人のけがれをうつして、川に戻します。子供たちもそのお手伝いをいたします。神社の古来からの風習です」と守屋広尚宮司は語ります。(奈良まほろぼソムリエの会 理事 雑賀耕三郎)

 

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取り外された茅の輪は子供たちの手で大和川岸に

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最後は大和川に流される

村屋坐弥富都比賣神社には近鉄俵本駅下車、東へ徒歩40分。JR桜井線巻向駅下車、西へ徒歩30分。駐車場は大和川堤防沿い(神社の東南)などに整備されています。

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# by koza5555 | 2018-06-21 05:28 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

雄略天皇 稲荷山鉄剣と脇本遺跡

雄略天皇をクラブツーリズムの「第5回古事記ツアー」のテーマにした。

        

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まずは稲荷山古墳の鉄剣である。今更であるが、勉強しなおしてみた。

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鉄剣の銘文発見はインパクトがあった。

「東国だけでなく、九州も同じ雄略のとき、ヤマト王権のもとにちゃんとおさまっている光景なのです。これは倭王武の上表文の在来の明治以来の通説と全く同じであって、その点で、私は通説が支持されたと直感しました。しかも通説は文献だから間接的だけれど、実物で証明されたというのが、私の印象です」(p19  井上光貞)

稲荷山古墳(埼玉県)から鉄剣が出土。その内容が元興寺文化財研究所で解読されたのが1978年である。昭和の時代やなあ・・・

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稲荷山古墳。埼玉県の川名さんにいただいた。丸墓山古墳から桜の時期に撮られたとのことである


表「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣」などと刻まれ、

裏「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」

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併せて、熊本県の江田山古墳の鉄剣も銘文の解明もすすんだ。

明治6年(1863年)に発見された鉄剣に刻まれていた「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇と(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と推定されていたが、稲荷山古墳から出土した鉄剣銘により、読みはワカタケル大王に確定した。

中国南朝の宋(420 -479年)の歴史は『宋書』に書かれているが、 その中の「宋書倭国伝」に倭国が記される。昇明2年(478年)の条には、倭王武が紹介されている。


 倭国の雄略天皇が宋に遣わした使節が携えた上表文に、「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)・隼人(はやと)など)を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」とされている。この内容が、「モノ」によって証明されたということである。


稲荷山古墳の鉄剣の銘文の「辛亥」(かのと しんがい)は西暦471年か531年。

宋書には478年という年号があり、ワカタケルの実在性、それも何時生きたか、活躍したかが疑いない形で明示されたのである。



ワカタケルは面白い。ワカタケルは刺激的である。

古事記や日本書紀がどう書いたか、エピソードはてんこ盛りである。

それに見合う形で宋書(中国)は雄略天皇を取り上げている。倭の五王のうち「武が雄略天皇」であるとすると、雄略天皇は絶対年代(西暦の)がわかる初めの天皇ということになる。

『日本霊異記』、『萬葉集』の冒頭は、これも雄略天皇なのである。

また、雄略天皇が生きた5世紀末、『記紀』が示している「朝倉の宮」あたりで、宮に匹敵する建物跡が発掘されている。脇本遺跡という。時期的、規模的に雄略天皇の宮跡とみることができる。

「シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本」(新潮社)。古い本だが、たくさんの勉強をすることができた。読書感想文にならないのだが、「実物で証明された」が結論である。

クラブツーリズムの「古事記でたどる大和の旅」はあと2回である。ぜひ、おいでください。
第5回は16日(土)と20日(水)「古代の英雄!略天皇」。
最終回の第6回は7月18日(水)、21日(土)で「古事記の女性たち その愛とたたかいから学ぶこと」である。




# by koza5555 | 2018-06-14 10:21 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

鏡女王忍阪墓前祭

69日、忍阪区(桜井市)生根会(忍阪区老人会 会長 東井さん)は、鏡女王墓前祭を斎行した。

談山神社の長岡宮司以下神社関係者が祭祀を執り行った。

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鏡女王忍阪墓は、談山神社が管理しており、日常的には忍坂の生根会が樹木の管理、草刈などの墓域の清掃を奉仕されている。墓前祭を実施するのも生根会である。

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こうした行事、管理とは別に忍阪の陵墓に対する区民の思い入れはすごい。

外鎌山の南麓には、西から東へ舒明天皇陵、鏡女王墓、大伴皇女墓が鎮まる。

忍阪のみなさんは、これを総称して、「三陵墓」と呼び、敬愛しながらも親し気な付き合いである。

宮内庁が管理しない鏡女王墓は、とくに「中の御陵さん」と呼び、大切にしているのである。


舒明天皇陵、大伴皇女墓は宮内庁の書陵部が管理する。畝傍監区、忍阪部といい、周辺の陵墓と合わせて、日常的に補修とか草刈が行われる。


しかし、鏡女王墓は別である。陵墓を繋ぐ野の道もだれも草刈はしないのである。


万葉の旅で、犬養孝が鏡女王墓を語っている。こんなくだりがあるのである。

戦後ま近のこと、お隣の舒明天皇陵はきれいに掃き清められているのに、このお墓は草ぼうぼうに荒れていた。見れば、談山神社保存会の所有になっている。私はしばらくお待ちください。草を抜いてみたが、とうていおいつくことではない。
(『万葉の旅上』犬養孝)

こんなことから始まったわけでないだろうが、この管理を現在は忍阪生根会が行っているのである。


最後に鏡女王のことである。
まずは興福寺。鏡女王の藤原鎌足への思いが凝縮して興福寺は始まった。

天智天皇8年(669年)、鎌足が重病の時、婦人の鏡大王は夫の病平癒を祈って仏殿建立を発願した。当初は鎌足の許しを得られなかったが、ついには婦人の願いが叶えられたという。仏殿には、鎌足が蘇我氏打倒に際して発願し、その後に造立した釈迦三尊像と四天王像が安置されたと伝えられる。これが「山階寺」と称されて、興福寺の起源 と興福寺はHPに記している。

鏡大王(鏡王女―萬葉集、鏡姫王―日本書紀)の願いが凝縮して興福寺が創設された。

鎌足、鏡の夫婦愛が興福寺の出発ということで、僕もちょっと、びっくりである。

忍阪と言えば舒明天皇陵。いわゆる段ノ塚古墳である。


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日本初の八角形墳といわれ、被葬者は舒明天皇(第34代天皇、天智・天武天皇の父)。

「鏡女王、在 大和国城上郡押坂陵(舒明天皇陵)域内東南 無 守戸」(『延喜式諸陵』)と記され、
以上から・・・

鏡王女の墓は忍阪に存在すること。

それから、舒明天皇の陵域で祀られた鏡王女は王族と見て間違いないだろう。陵墓の姿からは、鏡女王は舒明天皇の皇女か皇妹とみる説が有力と思われる。(『日本書紀』小学館)という論説も見られる。

鏡女王は天武天皇12年(683年)75日に亡くなった。
7
4日、天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊いたまう。

75日、鏡姫王薨りぬ。


この日に準じて、談山神社は6月第二日曜日に鏡女王祭、その前日に忍阪生根会は墓前祭を行うのである。


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忍阪、鏡嬢王墓前の谷川〜〜



# by koza5555 | 2018-06-09 21:46 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

花筏、嫁の涙、ウラバ、ツキノデキ

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葛城の道を歩いたら、・・ツアーの下見で高天彦神社と橋本院の間だけだが・・、珍しい花を見つけた。葉っぱの真ん中に蕾だか、実だかがわからない突起がついている

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植物なら「何でもこい」の太子町のYさんに聞いてみると、「花筏」とのこと。名前は「花の載った葉」を筏に見た形とのことである。

北海道に至るまで広く分布しているらしいが、何よりも驚いたのは、この葉っぱが食用にもなると聞いたのである。

そんなところを『大峰こぼれ話』で、元長崎大学教授の銭谷武平先生が紹介していた。ちなみに銭谷先生は、天川村洞川出身である

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「春先になると山菜取りが始まる。・・・・特に珍しいのが洞川方言ウラバである。乾燥したものは、黒い海藻のヒジキのようで、初めて見た人は、その元の姿を全く想像もつかないと思う。それを調理したものを食べていたが、その元が何であるかは全く知らなかった。」

「洞かわの食用ウラバというのは、つまりハナイカダの若葉を摘み取って、湯がいてからあくを取り、乾燥したものであることが分かった。」、とも記され、『大和本草』(貝原益軒)には、「ツキノデキ(ハナイカダのこと)は灌木なり。・・・食うべし、美味なり、冬は落つ」。

(『大峰こぼれ話 銭谷武平』)

これが花筏である。蕾かと思ったが、すでに花は終わり、実となった状態だった。

ハナイカダ(花筏、Helwingia japonica)はモチノキ目に属する落葉低木。別名、ヨメノナミダ(嫁の涙)。北海道南部以南の森林に自生する。葉の上に花が咲くのが特徴である。


花とは、本来は一つの枝の先端に生殖用の葉が集まったものであり、芽の出来る位置に作られる。従って通常は葉に花が付くことはない。この植物の場合、進化的には花序は葉腋から出たもので、その軸が葉の主脈と癒合したためにこの形になったと考えられる。(ウィキペディア)



葉から花が咲く、実がなるものなら・・お葉つきイチョウがある。これは筏の形ではなく、葉の端っこに実がつく・・

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# by koza5555 | 2018-06-08 22:23 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

押熊八幡神社

6月6日は奈良市押熊の定光寺、歓喜天の開扉日である。一年に一回の開扉日である。

お寺に向かう時、押熊神社・・これが気になった。
拝観を終えた後に、参拝してきた。
押熊八幡神社である。主祭神は八幡神、応神天皇である。

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「押熊に八幡神社か」と思いつつ、境内図をよく見ると、忍熊王 麛坂王 旧跡地と記されている
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以下、境内看板による

日本書紀』によれば、忍熊王と兄の麛坂(かごさか)王は仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の娘、大中姫(仲哀天皇の后)である。

 仲哀天皇の崩御のあと、神功皇后は新羅出兵を終え、尽くしに還り誉田別皇子(ほむたわけのみこ のちの応神天皇)をお産みになった。翌年春二月、皇后は皇子と共に大和へ凱旋の途につかれたが、このことを知った押熊、麛坂(かごさか)両王は、皇位が幼皇子に決まることを恐れ、皇后軍を迎え撃とうと、菟餓野(とがの、今の大阪市北区)に出て、その吉兆を占うと狩を催したとき、兄の麛坂王は赤猪に襲われて亡くなられた。

 弟の忍熊王とその軍は、皇后軍のため次第に押され、宇治まで退却した。一方皇后軍は三月の初めに山背へ進出し、宇治に至って河の北に布陣、戦闘を始めようとした忍熊軍は謀略に欺かれて敗退。山背を退き、近江との国境の逢坂におけるたたかいにも敗れ、忍熊王は瀬田の渡し場所付近で入水、亡くなられた。

この『日本書紀』の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い人物、王の一人であったと考えられる。そして、この地域にある日本有数の前方後円墳を含む「佐紀盾列古墳群」との関わりも考えてみる必要がある。

古来より連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域の古い歴史を偲ぶことができる。

忍熊王子神社の祭礼は418日で、当日は宮座も物が参列して古来の儀式により、お祭りをする。また、農家では、昔からこの日を「だんご休み」戸言って農作業を休み、ヨモギ餅を作り祖先にお供えするとともに近隣縁者の家に配る風習がある。

「押熊」は鎌倉時代に作成された「西大寺田園目録」の中の、添下郡京北三里に「押熊原」との地名がみえ、また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の地名があることから、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であることに疑いはない。

なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」「かご坂」は押熊の祖先、麛坂(かごさか)王にちなんでつけられた地名であろう。


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かご池? 鳥居前の池に咲くスイレン

ここは押熊八幡神社である。八幡神社なら、応神天皇・・やろ
同じ境内に、忍熊王、麛坂(かごさか)王の旧跡を持ち、祭りがある。神功皇后、応神天皇の軍の滅ばされた両王、一緒に祀られているのである。
このおおらかさ、どうでしょうか。
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境内には押熊の資料展示室、収蔵庫。どんなものがあるんだろうか。水利組合長の許可があると開くとのこと、表示されていた。


# by koza5555 | 2018-06-06 23:31 | 奈良 | Comments(2)

ワカタケル大王のツアー

クラブツーリズムの『古事記』で巡る大和の旅、第5回は「古代の英雄!雄略天皇」である。

616日(土)と20日(日)、2回の計画だが、いずれも出発が確定した。


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地元、朝倉郵便局(桜井市)の限定絵葉書、ワカタケル大王


雄略天皇、ワカタケル大王を奈良県でたどってみるのであるが、脇本遺跡(桜井市)とか、一言主神社(御所市森脇)は、誰が考えても必至、その上であれこれ工夫して一日コースを作り上げた。
面白くて、バスが入れて、ご飯を考えて、お土産が帰るところを考える。観光化されていない神社や史跡を回るから、トイレの確保も大切である。

さて、ワカタケル大王まで来ると、残る史跡が具体的になってくるから、緊張もするし、面白さも広がり深まる。

ワカタケル、どういう人か。

従弟や遠縁の皇子・王をとにかく、殺し、焼いた。きわめて残酷であるが、ちょっと考えれば、大和王権と葛城氏族の激しい戦いもその中に透けて見えていて、歴史の一つの必然である。


極楽寺ヒビキ遺跡出土の柱穴から想定された屋敷の姿

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ワカタケルは『古事記』・『日本書紀』に詳細に紹介されている。

それだけはなく、ワカタケルは中国の史書に紹介されている。宋などの史書に紹介されている倭国の5人の王のうち、武はワカタケルとされていて、それが西暦の479年ということである。絶対年代が明白な古墳時代の天皇である。

「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」と上表してきたと、明瞭である。

さらにすごいのは、稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣」(1978年)である。

「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣・・・・」(表)

「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」(裏)


稲荷山古墳

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出土した鉄剣

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江田船山古墳の鉄剣もすごい。1863年(明治6年)に発掘された鉄剣に刻まれていた「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇と(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と間推定されてきたが、稲荷山古墳から出土した鉄剣銘により、ワカタケル大王に読みが確定した。

文字通り、東に西である。


さらに宮として、脇本遺跡が推定されている。2012年の現地見学会では、5世紀末の石垣、建物跡が発掘・紹介されていて、この遺跡5世紀末から、6世紀、7世紀に至るまで使われていたことが明白となった。

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これは脇本(桜井市)の春日神社。ここ辺りを掘ると、宮の跡が出てくるのでは・・と言われている。

古事記・日本書紀、中国の史書、鉄剣に刻まれたワカタケルの名、宮跡と推定される遺跡の存在がある。

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ていねいに資料を作り、ていねいに語れば、今度のツアー、このシリーズで最高の評価が得られると確信している。616日、20日は楽しみである。




# by koza5555 | 2018-06-03 23:49 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

葛城氏に関する古墳の数々

『古代豪族葛城氏と大古墳』、小笠原好彦著、吉川弘文館を読んだ見た。昨年(2017年)の9月の本である。

馬見古墳群の250基もの古墳をだれが築造したのか、それは葛城氏だけにより、築造され得たのだろうか、それが小笠原さんの問題意識である。この疑問を検証したい、そして最近の考古学の研究成果も含めて、あえて、被葬者の名を具体的に検討する(p5)

小笠原先生の論を見てみよう。

まずは建内宿禰である。小笠原さんは「建内宿禰は実在」と明瞭である。その墓は、巣山古墳(4世紀後半)だと断定される。

「モガリを正しく行わない玉田宿禰は允恭天皇に追われる。玉田は墓に逃げ隠れるが、允恭は見逃す。その墓は巣山古墳であり、巣山古墳は特別な古墳、特別な墓域ということではないか」(意訳)との論(p91)で、大和朝廷側も建内宿禰には敬意をはらっていたとのことである。

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上方、右側、周濠に囲まれた古墳が巣山古墳


主題である。
葛城襲津彦が葛城氏のすべての秘密のカギを握っていて、しかも、その葛城襲津彦は3名はいたと論じられる。葛城襲津彦とは、葛城氏の有力首長が世襲で名乗ったと言う意味だろう。

まず、葛城襲津彦は382年に実在したとみなされる。この時期に活躍した葛城襲津彦をBとする。

それ以前に朝鮮半島から技術工人を連れ帰ってきたのは葛城襲津彦Aである。秋津遺跡や南郷遺跡で4世紀後半以前に、朝鮮半島から工人らを連れ帰った可能性が高い。

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秋津遺跡の水田跡。これは弥生時代の水田で、今回は直接は関係ないが、葛城地域の隆盛を示すために写真を出した

さらに仁徳朝に女(娘)が皇后となった(磐之姫)襲津彦がいる。Bとは別人とされて、葛城襲津彦のCである。

仁徳天皇は倭の五王の讃とされている。「倭五王の讃」が宋に使いを派遣したのは421年、425年、430年と絶対年代で明確である。すると『百済記』のソツヒコ(382年)とは年に隔たりがありすぎる。(p63)小笠原先生の結論は「別人を考えるべき」となる。

僕もあれこれ計算してみると、磐之媛がBの女とすると、仁徳天皇の活躍した430年頃には50歳をはるかに超えてしまうため、葛城襲津彦Cの存在が必要である。

葛城襲津彦はAとBとCの3人。

古墳の編年に照らし合わせて、3人の葛城襲津彦の墓を推測したのがこの本の面白いところである。

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大和高田市の築山古墳が葛城襲津彦Aが埋葬されている。磐園陵墓参考地として宮内庁が管理している。

葛城襲津彦Bが埋葬されているのは、御所市の室宮山古墳である。円筒埴輪列により墓域が囲まれ竪穴式石室、長持型石棺が置かれていた。こちらは4世紀末から5世紀初めにかけての首長墓とみられていて、小笠原論にピッタリである。

『百済記』に記された、382年に実在の葛城襲津彦が埋葬されていると推測される。

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磐之媛の父親とみる葛城襲津彦Cが埋葬されているのは馬見丘陵内の広陵町三吉の新木山(にきやま)古墳である。5世紀前半に築造されたとみられる。この新木山古墳も三吉陵墓参考地として宮内庁が管理している。

葛城地域の大型陵墓はすべてが葛城氏に関わる首長の墓域だったことは確からしい。

さらに付け加えるならば、小笠原さんは、以下の葛城氏関係者にも、この地域の古墳を定めている。

河合大塚山古墳は葦田宿禰

河合城山古墳は玉田宿禰

掖上灌子塚古墳は円大臣(つぶらのおおおみ)

屋敷山古墳は飯豊青皇女

明瞭に被葬者を特定されていて簡明だ。あれこれの考えはあるにしても、葛城地域の古墳歩きには大きな助言となるだろう。

最後に、馬見丘陵の古墳群の役割についても紹介されている。

「葛城氏と同一の墓域に、それぞれの氏族の古墳を築造することによって、葛城市との同族関係、あるいは擬制的同族関係を具現化したもの」とされる。

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馬見丘陵内の古墳。これも一つの代表的な古墳のナガレ山古墳。

葛城氏の衰退の後は、平群氏、波多氏、曽我氏、巨勢氏のそれぞれが本拠地に古墳を築造する。

4世紀、5世紀は馬見丘陵をぼいきに。葛城氏が衰退する6世紀以後は各地に・ということである(p184)。

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# by koza5555 | 2018-05-22 14:03 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)