人気ブログランキング |
ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

藤原京から阿騎野への道

6月に「桜井市をテーマに万葉集」のお話をする。

「桜井の事なら何でもよいよ」と鷹揚なリクエストだが、「ただし、みんなが知らないような話を」と言われるのである。そこで初瀬をテーマに話すことにした。

持統天皇6年(692年)、阿騎野をうたった柿本人麻呂の歌がある。

超有名歌である・・。

東(ひんがし)の野にかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月 西渡(かたぶ)きぬ  巻1-48 

 

「阿騎野だから桜井じゃない」という声も出そうだが、先立つ長歌があり、それにつづく短歌なのである。

ここに初瀬が出てくる。

「京(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を」とあり、初瀬を通過している。

a0237937_13061295.jpg

藤原京から大宇陀に向かうならば、忍阪から女寄(みより)峠の国道166号線が現代の道だが、古代では初瀬街道を経て出雲から狛、笠間に抜ける峠道が使われていたようである。しかもこの道はつい最近まで実用的な道だった。後でも触れる野淵龍潜の『大和国古墳墓取り調べ書』に狛の村が出てくるが、いかにもこの村の絵は街道風だし、戦後になっても榛原町の笠間の中学生は朝倉中学(当時は現在の朝倉小学校にあった)に通ったとのことで、通る道はこの道である。

それで僕も、長谷寺駅から笠間まで歩いてみることにした。

初めは出雲の野見宿禰墓、その前身の古墳

次は狛の大石古墳

峠を越えて笠間の新陽明門院墓

最後に花山西塚・東塚古墳である

柿本人麻呂が確実に見たのは野見宿禰墓(古墳)と大石古墳である。

a0237937_13062373.jpg

野見宿禰墓。もともと古墳だったことは間違いない。狛・岩坂の谷の入り口にあり、この古墳群の盟主的古墳だった可能性を感じる。

鎌倉時代には長谷寺の支院が置かれ、その頃に五輪塔が建てられた。五輪塔は古墳が解体される明治の初めに出雲の十二柱神社に移された。

宿禰塚の周囲の田植えは直前である。あぜ道には石室に使われていたとみられる大小の岩が使われている。

a0237937_13060573.png

近鉄のガードを越える狛の村である。この道を上っていくと、左側に大石古墳が残されている。山口家の石垣の下に横穴石室の玄室の一部だけが保存されている。明治18年のころの状態は『大和国古墳墓取り調べ書』に記されていた。

狛村の中央に位置していた小字「弓場辻の古墳」と書かれており、宅地に古墳が取り込まれるときに石室が保存された。「地元の思い、自力で守られた古墳」である。

a0237937_13055688.jpg

狛の村を登りきると、「ひだりは嶽(だけ)」、「右は笠間」の道しるべがある。

盆地から見ると嶽山は外鎌山の後方に見え、大きな存在感である。長谷寺の舞台から見ると正面に見える大きな山である。

a0237937_13061676.jpg

さて・・・「真木立つ 荒山道」である。

振り返ると三輪山が見える

道は

a0237937_13062050.jpg

笠間に出た。「真木立つ荒山道」はこれだけだが・・歩かねばわからない話もあった。

a0237937_13101952.jpg

笠間の陵を拝見する。新陽明門院墓である。

南朝、後醍醐天皇を継いだ後村上天皇(97代)の中宮顕子の陵である。顕子は北畠親房の娘で、若くして天皇の

a0237937_13054981.jpg
もとを去り長谷寺で出家、その後、この地で亡くなったとのことである。

笠間に来るならば花山塚西古墳は必須かも。

石槨の左側には扉の軸穴があり、扉石は前に倒れている。この扉が持ち出されて小学校(朝倉村笠間小学校・現在は宇陀市で廃校)の沓脱石になっていたとことである。大正時代(1925年)には戻されている。

小学校の沓脱石に古墳の石を持ち出せるのだから、当時は笠間村の領地だったと思い浮かべることができる。

榛原の安田(ここも元磯城郡朝倉村)まで下がると嶽山古墳というすごい横穴古墳があり、石室の入室は不能だが、これもすごい古墳である。


やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷しかす 京を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根の 楚樹(しもと)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かきる 夕さりくれば み雪ふる

阿騎の大野に はたすすき 小竹(しの)を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしえ思ひて 巻1-45

阿騎の野に 宿る旅人 打ちなびき 眠()も寝らめやも 古(いにしえ)思ふに巻1-46

東(ひんがし)の野にかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月 西渡(かたぶ)きぬ  巻1-48

         以上 『新訓万葉集』(佐々木信綱)による


# by koza5555 | 2019-05-22 13:11 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

丹生川上神社と磐余彦命・・そして厳瓮

待っていた切手が届いた。

a0237937_23240743.jpg

大日本帝国郵便とあり、「紀元2600年」。「八紘一宇」、10銭である。5匹の魚がいて、壺の図柄がメインである。

紀元2600年は昭和15年、今から80年前の切手である。

紀元2600年は神武天皇が橿原で即位したと『日本書紀』に記される。

5匹の魚がいて壺という図である。

東吉野村の丹生川上神社中社を訪ねてみよう。境内の奥深くであるが、神武天皇に関わる聖蹟碑が建てられている。

表は

「神武天皇聖蹟 丹生川上顕彰碑」

裏面は

「神武天皇戊午年(つちのえうまのとし)九月天下平定の為平瓮(ひらか)及び厳瓮(いつべ)を造り給い丹生川上に陟(のぼ)りて天神地祇を祭られ又丹生之川に厳瓮を沈めて祈り給えり聖蹟は此の地付近なり」。

a0237937_23240156.jpg

宇陀の高倉山にて磐余彦命(神武天皇)はヤソタケル、磯城兄を望見する。天神は磐余彦の夢に現れる。「天香久山の土にて平瓮(ひらか)と厳瓮(いつべ)を作り、祀れ」との託宣である。そこで椎津根彦(しいねつひこ)と弟猾(おとうかし)を老人、老婆に化けさせて天香具山へ派遣、埴土を持ちかえらせた。

「厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが槇の葉が浮き流れれれば、吾はこの國を平定できるだろう」と酒を入れて厳瓮を丹生川に沈めて占った。

椎根津彦が下流の魚見岩で望見して、流れる魚をみる。

イツベを沈めた丹生川は丹生川上神社の夢淵で、高見・四郷・日裏の三川が合流するところである。

a0237937_23235252.jpg

厳瓮と5匹の鮎、これは天皇の即位を祝って、近衛が万歳三唱をするとき振り上げる「万歳幡」に描かれる絵柄である。この絵柄は神武天皇の由来だったのである。

万歳幡を見たことはないが、・・・こんなものではないだろうか・・

a0237937_23282848.jpg

この切手、あちこちで自慢し與・・こんな風にセロファンでまいて、持ち手を付けて(笑)

a0237937_23235528.jpg

八紘一宇が気になる方も多いだろう。

神武天皇が橿原で即位する前に、「未開の民は残っているが道理が通る世界となった。国を授けていただいた天照大神、高皇産霊神の恩,ニニギノミコトの正しき心を広めたい」として、「六合を兼ねて都を開き、八紘をおおいて一宇とする。いいではないか」と語る。

「国中の心を一つにして都を開き、天の下を掩(おお)いて、一つの家とすることは、また良いことではないか」(宇治谷)が八紘一宇の意味だろう。

ただし、「1940年(昭和15年)8月に、第二次近衛内閣が基本国策要綱で大東亜新秩序を掲げた際、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく。建国)の大精神に基」づくと述べ」(ウィキペディア)、戦争目的、政治スローガンとして使われたことから、僕にはちょっと使いにくい言葉ではある。

最後に‥東吉野村の西善(お菓子屋さん・東吉野村の中心地にお店が)は、このイツベの最中を製造・販売している。僕はたくさん、売りました…

a0237937_23235800.jpg


# by koza5555 | 2019-05-14 23:48 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

添御縣坐神社

62日(日)に「平群の古墳」を訪ねるウォーキングを募集している。大和人ツアーズだが、こちらに長屋王墓・吉備内親王墓が置かれている。

長屋王とか万葉集をボヤ~と考えていたら、「添御縣坐神社(そうみあがたにいますじんじゃ)には藤棚があるよ」という声が聞こえてきた。

a0237937_17323050.jpg
a0237937_17322336.jpg
a0237937_17323481.jpg
こちらには長屋王の歌碑がある。

a0237937_17322738.jpg

長屋王(ながやのおおきみ)、馬を寧楽(なら)山に駐めて作る歌二首

佐保(さほ)過ぎて寧楽の手向(たむけ)に置く幣(ぬさ)は 妹(いも)を目離(めか)れず相見(あひみ)しめとそ (巻3-300)

添御縣坐神社は平城山を越える歌姫街道、しばらく行けば京都府というところに置かれている。

こちらは平城宮からはあまりにも近く、ここでいいかなとも思うが、検証の上での歌碑建立だろう。

峠を越えるにあたり、幣を奉って安全を祈る。道中の安全を「妻にまた会えるように」という言葉に込める・・

長屋王の憤死は万葉集にも残されている

「神龜六年己巳(729年)、左大臣長屋王(ながやのおほきみ)死を賜ひし後、倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)が作った歌」

大君の命畏み(いのちかしこみ)大殯(おおあらき)の 時にはあらねど雲隠ります (巻3-441)

刑死にむかう有間皇子とか大津皇子の万葉歌は名高いが、長屋王についても万葉集には残されている。

a0237937_17321449.jpg

添御縣坐神社の藤棚と神社の本殿

御縣神社とは、奈良盆地に置かれていた宮廷直轄領である六御縣(むつのみあがた)に置かれた神社の事で、高市(たけち)、葛木(葛城・かつらぎ)、十市(とおち)、志貴(磯城・しき)、山辺(やまのべ)、曾布(添・そふ)の六社である。

もともと御縣は古代の大王家(天皇家)の領地であり(4世紀ころから)、象徴的に大王家の食材が用意されていたとみられる。

『延喜式』の祈年祭の祝詞によれば、御縣の神は代々天皇の御膳に野菜を献上したと記されている。

添御縣神社は農の神であり、また大和平野の中央を走る下ツ道の北端にあり国境の手向けの神として崇敬されてきた。


6月2日の「平群のウォーキング」を紹介したい。下に行程も紹介している。申込先は0744-43-8205  やまとびとツアーズである。

a0237937_17323756.jpg
「平群のロマン ―鎮まる古墳から大和の歴史を考えてみるー」

平群谷は、古代には巨大な勢力を誇った平群臣の本拠地と目されています。「命の全(また)けむ人は 畳薦(たたみごも) 平群の熊かしが葉を 髺頭(うず)に指せその子」と倭建命も平群は固有名詞を挙げて讃えます。

また、この地には反逆の汚名を着せられた長屋王が葬られたという歴史も残されています。

穏やかに鎮まる古墳から、日本の歴史を考えてみます。

行程

◆平群駅前(集合1000

◆三里古墳           1030

  県指定史跡 6世紀後半、玄室に石棚。組合家形石棺

◆長屋王墓・吉備内親王墓    1100

  宮内庁が明治34年に指定。

  長屋王墓は梨本二号墳を再利用している。

  吉備内親王墓は5世紀後半の古墳を再利用。大きな石が鍵の手に組まれている

◆つぼり山古墳

  県指定史跡。7世紀初頭。方墳。くりぬき式家形石棺 


◆西宮古墳          

県指定史跡、地区座波7世紀中ごろ。一辺36mの方墳。精緻な切石石室に注目。          

◆石床神社・消渇神社      14

石床神社旧社地        

◆柿塚古墳           

 径30mの円墳。6世紀前半とみられ、今回の行程では一番古い(形あるものでは)。

◆烏土塚古墳          1500

 国指定史跡。平群谷最大の全方後円墳。組合家形石棺




# by koza5555 | 2019-05-04 18:03 | 奈良 | Comments(0)

戒長寺

929日(日)に戒長寺(宇陀市榛原)や西方寺、濡れ地蔵と椋下神社やあぶらやを訪ねるウォーキングを計画して、今日がその下見の日である。

その詳細は、また旅行社(やまとびとツアーズ)からご案内するが、「戒場山の山腹にたたずむ戒長寺の秘仏に会おう」である。

a0237937_18230216.jpg
 戒場山の中腹に静かにたたずむ、4月23日の戒長寺。


それはそれとして、奈良まほろばソムリエの会が執筆した
『お参りが楽しくなる百寺巡礼』(京阪奈情報教育出版)で、戒長寺を書かせていただいた。

この本では僕は、桜井とか宇陀市方面を紹介したが、今回は大寺とか有名寺院は皆さんに譲って、廃寺とか寺跡、山深くにたたずむ寺院などを分担した。

なかでも榛原(宇陀市)の戒長寺は、米野住職とよく話し合い、ひときわ力を入れて書いた。

紹介はこんな感じである。本とは少し違うかもしれないけど・・

戒長寺 (宇陀市榛原戒場386) 梵鐘の十二神将に戒長寺の歴史をみる

宇陀市の北部にそびえる額井岳、それに連なる戒場山の深い森の中に戒長寺は佇んでいます。「真言宗御室派に属し、薬師如来を御本尊として祀り、戒場薬師ともいわれています。用明天皇の勅願により聖徳太子が建立し、その後は空海が伽藍を整えたとの長い歴史がございます」と、住職の隆光和尚は語ります。

戒場の集落から長い石段を登り詰めると山門に迎えられます。門には梵鐘が吊られていて、門と鐘楼を兼ねる楼鐘門となっています。

ここに吊られている銅製の梵鐘が戒長寺の歴史を語る鍵となります。鐘の表面には十二神将が鋳出されていて、注意深く見上げれば、誰もが拝見することができます。この梵鐘には刻印があり、「正応四年」(一二九一年)に作られたと刻まれています。さらに「大和国宇陀郡山辺内 戒長寺之薬師仏鐘也」とも刻まれ、所在地や薬師仏の鐘であると明記されています。

薬師如来を守護するのが12神将の役割で、それを眷属(けんぞく)と言います。生活に追われ病気に苦しめられている山里の民の声に耳を傾け、手を差し伸べた薬師如来。12神将はその眷属として梵鐘に入って、鐘の音とともに山間の民に薬師の思いを共に送り続けたように思われます。この十二神将の健気さに心が打たれます。

境内のイチョウの大樹は、葉の縁に銀杏が実るお葉つきいちょうです。晩秋にはいちょうの落ち葉で黄金色に境内は染まります。

a0237937_18230670.jpg

電車で行かれるなら、近鉄榛原駅からタクシーがベストです。3000円以内で行けます。

a0237937_18231795.jpg

本は奈良県では啓林堂にて。アマゾンで求めることもできる。



# by koza5555 | 2019-04-23 18:33 | 宇陀 | Comments(0)

大和の春がすみ

大和の春がすみ、どこでも見られるが、多武峰の万葉展望台から眺めてみた。これは春霞かなとは思いつつも、ごらんください。
正面は畝傍山…阿倍野ハルカスも見える高さだが、霞の中、雲のかなたである。


a0237937_07564503.jpg

三輪の檜原神社の境内に前川佐美雄の歌碑が置かれている。


a0237937_07564163.jpg


春がすみ いよよ濃くなる まひる間の 何も見えねば大和と思へ

この歌は大和の風景を歌った歌である。前川佐美雄は葛城に生まれて、この檜原神社と大和盆地を挟んだ反対側から大和の盆地を見ていた。

「何も見えねば」と言いつつ、それが大和だという。春霞に覆われた大和を見て、何も見ない情景だが、その中には大いなる歴史を感じるという歌だろうか。

大和の春の情景と併せて考えると、その味わいが僕でもなんとか感じられる。



『大和の南北』という池田源太さんの本を読んだ。50年ほど前の本である。「春の景物として煙霞」という短文である。(p169)


煙霞と書いて「えんか」と読む。僕の考えていたカスミとはちがう霞が論じられていた。

これをかいつまんで紹介しよう。

『拾遺集』の冒頭の四句には「霞」が出てくるという。柿本人麻呂の「昨日こそ 年は果てしか 春霞 春日の山に はや立ちにけり」(巻10-1843 柿本人麻呂歌集にあり) も取りこまれている。

「年が改まったばかりなのに、春日の山には春霞が立っている」という事であるが、池田源太さんは「霞というものがどうしてこんなに読まれているのかが問題」と言うのである。

嵯峨天皇の詩に(浚雲集)は、山は屏風のようなものだ。これを見て、「煙霞春興足る」と記されている。ほかにも、詩や文を書く力が衰えることを「風月を捨て、煙霞捨てたるがごとし」という言葉もあり、平安時代には 霞(カスミ)は歌を詠むそのものの心という考えがあったと、論証される。

さらに池田さんは、煙霞の位置づけは、中国からの影響があるという。

仁明天皇(833年~850年)の大嘗祭の時、近江が悠基、備中主基の国に卜定されて大嘗祭が行われた。それぞれから「造り物」が献上されるが、その最上段に霞がおかれ、霞の中には「主基備中」の札があり、その上には西大母の像があったという。(『続日本後記』)


西王母は中国の神仙世界の女王である。霞の中、そのかなたに西王母が置かれたという事は霞は理想世界の象徴として見られていたと、解かれた。

霞を食べる仙人のたとえもあるし、カスミはなかなか奥が深い。


春の霞も、気象的な物理的に考えで、柿本人麻呂も、近代の前川佐美雄も歌っただけではないようである。

a0237937_07565409.jpg

a0237937_07565759.jpg


# by koza5555 | 2019-03-31 07:59 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

メスリ山古墳

6月に「谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳の案内をせよ」との依頼がある。

a0237937_10333122.jpg
メスリ山古墳のはとても面白いが、現地でどう語るかは簡単ではない。橿原考古学研究所の博物館(現在は閉館中)に、しっかりした展示・・巨大な円筒埴輪、膨大な矢じりが並べられていたが・・現地にあるのは小山である。

メスリ山古墳の主要部分は桜井市高田にあり、後円部の一部は上の宮である。メスリ山に接する上の宮の垣内(かいと・小字ではない)の名前が・・これが「てんのう」という垣内名である。周りの人々が陵とみていた歴史もあるというのも一つの前提である。

昭和34年に奈良県によって発掘された。所在地は高田のメスリ、上の宮の東出という事で当時は、東出塚古墳(古墳・桜井市文化叢書)とか、鉢巻山古墳(葺石の並ぶさま)とも呼ばれていたようであるが、橿原考古学研究所の報告書は「メスリ山」で出されて、名称が確定する。


御破裂山の尾根の先端に築かれている。東西の軸線の前方後円墳で北方から見ると存在感が明瞭である。

全長250㍍、後円部径128㍍、前方部幅80㍍。後円部が三段で、全面に葺石が残るのが特徴である。四世紀半ばの古墳で、全国的に見ても14位の巨大古墳である。

a0237937_10333524.jpg

墳頂で、石室の天井石をみることができる。私有地で本来は許可が要るだろうけど、しっかりしたのぼり道ができていた。

さて、メスリ山古墳
●その大きさもさることながら巨大ハニワ

●古墳の斜面の全面に敷かれた葺石

●発見された埋蔵物

之らの状況から被葬者は大王級であることは間違いないとされている。

a0237937_10331821.jpg

まずはハニワの事。

後円部は三段で作られており、各段には円筒埴輪列が巡っている。さらに後円部、方形部とも最上段に密集していた。

円筒型の器台型の埴輪は高さ2.4㍍、径が1.3㍍で日本では最大である。

竪穴式石室を巨大埴輪が二重で取り囲む形で配置されたていた。

発見されたときから大きなものだと考えられていたが、奈良教育大学の学生だったの赤塚次郎(現在は愛知県埋蔵文化財センター調査課長)さんが、破片を整理して高さが2㍍を超えるものと判明した。さらに、欠けた部分を継ぎ足して復元に成功した。

桜井の陶芸教室で複製にチャレンジ、奈良芸術短期大学の学生も焼き上げている。

a0237937_10332387.jpg
a0237937_10330736.jpg

これらの複製品は、橿原考古学研究所博物館(閉館中)と桜井市民会館ホールに展示されている。

葺石もすごい。ゴロゴロの川原石で、今でもたくさん残っている。三段の築造で葺石が巻いていたことから、鉢巻山とよばれていた・・・とか、「漬物石を拾いにいった」という話も聞いた。


a0237937_10332882.jpg

発掘された埋蔵物がすごい。未盗掘の副室があった。

後円部墳頂には竪穴式石室(主室)がほぼ南北方向に位置し、その東には副室がある。

石室は板石が積んで作られている。石室材は亀ノ瀬の安山岩とされ、その上に8枚の天井石が載せられている。この天井石は露出しており、現地で見ることができる。

すぐ東側、石室を取り囲む高坏型の埴輪の下の石室(副室)があり、大量の副葬品が埋められていた。副室は持ち送りの竪穴式石室で、こちらの天井石は小さい。この石室が未盗掘で、大量の遺物が出土した。玉杖、鉄製の弓、200本以上の槍先、236本の銅矢じりが納められていて、武器庫のようだといわれた。



平成17年(2005年)に「メスリ山古墳出土品 一括」として重要文化財に指定された。

古墳本体としては昭和55年(1980年)に、国の史跡に指定されている。

メスリ山古墳の歴史の中での位置づけ

桜井茶臼山 → メスリ山 → 渋谷向山は同一系統(工人が同じか)という豊岡卓之(橿原考古学研究所)さんの編年をお聞きしたことがある。とても興味深い論で、その詳細は当時、20161月のブログで紹介している。興味があれば、「桜井茶臼山・メスリ山古墳と柄鏡型古墳」を見ていただきたい。

このツアーは東京方面のお客様対応の案内であるが、11月3日(先のことだなあ)に一般参加のウォークを計画しているので、また、その詳細は紹介いたします。



# by koza5555 | 2019-03-19 10:59 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

春日祭 三勅祭

313日は春日大社の例祭、「春日祭」が斎行される。

例祭や臨時祭に天皇陛下が「勅使」を参向させる祭は「勅祭」という。そのなかでも春日大社の「春日祭」は、加茂社の「加茂祭」、石清水八幡宮の「石清水祭」が合わせて、「三勅祭」である。


a0237937_17525187.jpg

参進する勅使

春日祭は嘉祥3年(850年)に始められる。明治維新後に一般の祭祀となり、特徴のない祭となったが、明治19(1886)に加茂祭、石清水祭に続いて古式に照らして再興され、これを「三勅祭」という。


祭は310日、「立榊式」から始まる。榊は春日山で伐採された竹柏(なぎ)の木である。榊(竹柏)はお祓いを受けたあと、一の鳥居に立てられる。

ちなみに一の鳥居の榊は、御祭と春日祭の時に立て替えられる。

a0237937_17535017.jpg

13日は初めに御戸開(みとびらき)が行われ、のちに神職は二の鳥居内側の祓戸神社に移動する。

黒袍(ほう)の束帯姿の勅使が参進する。

続いて緋色袍の束帯姿の辨代(べんだい)が参進する。辨代は副勅使である。


a0237937_17525489.jpg
a0237937_17525773.jpg


御幣物を納めた白木の唐櫃が二さお、神馬が二頭などが勅使のあとに続く。


a0237937_17530269.jpg
a0237937_17561350.jpg

本殿への勅使の参進は、今年は「南門から」と聞いた。

祓戸神社から斜めに分かれる道は剣先道といわれる。分かれ道の敷石が剣形になっている。

春日祭の勅使が「藤原姓」の人はこの道を通って、藤鳥居をくぐって本殿へ進むとされるが、今年は(も)南門だった。

この日は、二の鳥居より上には午後一時まで入れない。ご注意されたい。


a0237937_17524861.jpg


春日祭の詳細は、『皇室』69号(平成28年冬号)に詳しい。8pもの大特集である。公立図書館には置かれているだろうから、参考にしてください。



# by koza5555 | 2019-03-13 17:57 | 奈良 | Comments(0)

ワカタケル大王と稲荷山古墳

トリップアドバイザーが、「日本の人気の古墳トップ10」を発表している。2010年~2015年にかけて、旅行者の口コミ投稿を集計して算出したという。ベストファイブは

  1. 石舞台古墳(奈良県)

  2. 西都原古墳群(宮崎県)

  3. 五色塚古墳(兵庫県)

  4. さきたま古墳(埼玉県)

  5. 仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)(大阪府)

である。いろいろな異論もあると思うが投稿数などで決められるだろうから、おもしろさ、展示の整備方法、公共交通機関や駐車場などの行きやすさなどが総合的に関係して、こんな順位なんだろうか。

このうち、「西都原」と「さきたま古墳群」に僕は訪れていなかった。

いま、ワカタケル(雄略天皇)を考えている僕は、とりあえず、さきたま(埼玉)古墳というか、なかでも稲荷山古墳を訪れなくてはならない。しかも展示施設には稲荷山鉄剣が常時展示されているとのことである。一月に東京の奈良まほろば館の講演当番となったので、そのあとに訪れてみた。

a0237937_13520029.jpg
    さきたま古墳群稲荷山古墳

上野から高崎線。一時間ほどで行田である。一日、4本のコミュニティバスが出ているが、時間が合わなかった。それで往きがタクシー、帰りはバスということとなった。参考までにタクシーは2200円程度、バスは150円である。ちなみに古墳群には大きな駐車場があり、特別なイベントでなければ駐車は問題がない。

a0237937_13341606.jpg

「さきたま古墳公園」には、9つの大きな古墳が残されている。


墳丘に登れる古墳は稲荷山古墳と丸墓古墳、墳丘には登れないが石室が復元されて当時の埋葬状態が見学できるのは将軍山古墳である。

まずは、稲荷山古墳から発見された鉄剣が展示されている博物館に入る。古墳群から出土した遺物が展示されている。稲荷山古墳から出土の遺物の金錯銘鉄剣は、この博物館で常に展示されている。ボランティアガイドは「どこにも貸し出さない、出陳はない」と断定される。大事にされているのだ。

1968
年に出土、金錯銘鉄剣のほか、画文帯神獣鏡や勾玉(まがたま)など一括して国宝に指定されている。


a0237937_13340685.jpg


「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣・・・・」(表)

「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」(裏)

この稲荷山鉄剣の解読からを経て、江田船山古墳の鉄剣も併せて解明された。1863年(明治6年)に発掘された鉄剣の「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)、または水歯別命(古事記)と推定されてきたが、稲荷山古墳の鉄剣銘により、読みが、ワカタケル大王と確定した。


ワカタケルの時代に大和王権の支配(影響力)が関東平野まで、西は熊本に至るまで広がっていたことが確実となった。

ワカタケルは宋書で記される「武」(大泊瀬幼武尊)とみられる。この雄略天皇が宋に送った上表文には、「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)・隼人(はやと))を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」と、宋の昇明2年(478年)の条に記されていて、西暦年代で確定された古代の英雄である。

a0237937_13355219.jpg

ワカタケルの宮は桜井市の初瀬朝倉宮。奈良盆地から東への出口であり、いまはコンビニとなっている駐車場の下に、ワカタケル大王の時代(5世紀)の柱穴、石垣が残されている(第18次調査。2012年)。山側、東北に春日神社の社叢が見えるが、そこらあたりにたたずむと、ワカタケルの歩いた道、ワカタケルの見た景色である。
a0237937_13334454.jpg
a0237937_13340346.jpg
ワカタケルの時代には梅はなかったか。
脇本・黒崎辺りの長谷川沿いには美しい梅の花があちこちに。





# by koza5555 | 2019-03-11 14:12 | 桜井・初瀬 | Comments(2)

コロコロ山古墳


a0237937_20285941.jpg

巨大埴輪で著名なメスリ山古墳の西北にコロコロ山古墳の横穴式石室が開口している。石室を覗くと天井石と側石の上部が欠けていることがわかる。掲示板があるが日焼けで消えてしまい読み取ることができないが、移築されたものと掲示されていたとのことである。

a0237937_20285600.jpg


30
年程前(平成元年)に阿部丘陵は、大規模な宅地開発(桜井市南部特定土地区画整理事業)によって風景が一変した。阿部丘陵とメスリ山古墳との間の丘、森林、田畑の土が動かされ宅地化が行われた。それに伴って桜井市により、埋蔵文化財の調査が行われた。

谷首古墳の周囲、上之宮遺跡(保存された)、中山古墳群(今はない)、中山大型建物跡(今はない),コロコロ山古墳(移築)などが調査された。
メスリ山古墳の北西にコロコロ山という小山があった。始めはメスリ山古墳の倍塚という見方で発掘がすすめられたが、横穴式石室が現れて時代が違うこと(メスリ山古墳は4世紀中ごろ・コロコロ山古墳は6世紀末)が判明した。



a0237937_20284864.jpg


奥壁は一石が残るが、本来は二段だったとみられる。玄室側壁は二段の横穴式石室である。築造は6世紀後半とされる。

もともとの墳形は一辺30㍍、高さ5㍍の方墳で南南東に開口する横穴式石室をもつ。石室は基底部分を残すのみだが、全長11㍍、玄室長5.4㍍、幅2.3㍍。


古墳築造後に追葬が行われた。初め玄室床に扁平な石が敷かれ、追葬は礫が敷かれ木棺が置かれた。数多くの釘が出ており、木棺が置かれていたとみられる。

東の端に小規模の横穴式石室も存在していた(現在は見ることができない)。


a0237937_20292240.jpg

一般的には蘇我系が方墳、物部系が円墳との仮説もあり、この地は古代豪族・阿倍氏の本貫地であり、当時の政治勢力の姿を示している。

奥壁近くからは頭骨が出土。金銅製蛇行刀子の発見が注目された。

桜井市教育委員会は現地保存を強く要求したが、組合側の強い要望で墳丘は土取りとなり、石室はその東側に移築、再建された。工事は飛鳥建設(佐野勝司社長)によって行われた。

a0237937_20285203.jpg


石室にはクサビ穴をあけられ、割られたり、割られる直前の石材が残されていた。玄室上部の側石、天井石は石材として抜き取られた。江戸時代の石工の仕事とみられる。抜き取られた石は、付近の谷首古墳の墳頂上の阿部八幡神社の石垣に使われた(石が同じ)。

a0237937_20290564.jpg


            阿部八幡神社の石垣


以上は「阿部丘陵遺跡群」(1989年 桜井市教育委員会)を参照した。

ちなみにこの本は「上之宮遺跡・谷首古墳周辺・メスリ山古墳周辺・中山古墳」などの発掘の報告がわかる得難い本だが・・・桜井市図書館や奈良県立情報館の蔵書にはないレア本である。桜井埋蔵文化財センターとか安倍殊院にはあることが分かったが・・図書館ではないし。

調べてみると県内の図書館では斑鳩町立図書館だけに、しかも二冊残されていた。禁帯出だがコピーはできる。

a0237937_20291354.jpg






# by koza5555 | 2019-03-07 20:36 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

立子塚古墳

『桜井の横穴式石室を訪ねて』という本がある。桜井市埋蔵文化財センターの発行である。

34基の横穴式石室古墳()が紹介されているが、その第一番目が立子塚古墳。景行天皇陵(渋谷向山古墳)の東の丘の上、渋谷村(天理市)の共同墓地に隣接していて、天理市との市境である。もっとも北側に位置しているから一番目に記されたと思うが・・

この古墳は探すのが難解、さらに超難解は石室に入ることである。


a0237937_21030250.jpg
     正面のミカン畑の上に円墳が残されている

「やまとびとツアーズ」で「古代史の聖地・桜井の古墳に入ろう」のツアーを案内しているが、ここに入れたら素晴らしいなあ・・でも、無理だよなあ・・という話である。

コースは柳本駅から黒塚古墳、崇神天皇陵とか・・長岳寺。そのあとにここ、立子塚古墳(見るだけ・・覗くだけ?)、穴師兵主神社に寄り、珠城山古墳、纒向駅なんだけど、「石室に入ろう」が「ウリ」なんだよね。

立子塚古墳。景行天皇陵の東側から柿畑を上がっていく。そのまま上って右手の林に入る。三叉路を超えて共同墓地の六地蔵が見えたら、立ち止まって、左を見る。そこらあたりの雑木にテープがつけられている。

a0237937_21031559.jpg

雑木林・・・竹林に入る。無茶苦茶な倒れ方である。わからなかったら頂上まで上がると、上から土の切込みがはっきり見える。これが羨道であるが、羨道の側石、天井石は抜き取られているのだ。


a0237937_21031804.jpg
こんな竹藪。これが羨道。

かき分け、踏み分けて入ると・・入り口は小さい。

しかも、邪魔するかの如く竹が一本・・


a0237937_21030572.jpg
これは無理だわ。ライトとカメラを下ろして・・・転げ落ちたら拾えないから・・・紐付きでしっかり下ろしたら・・こんな写真が撮れた・・。僕は見ていない(泣)


a0237937_21031125.jpg

入るのは、ずるずると行けそうだが、さて・・出てこれるだろうか・・(笑)

古墳から降りると素晴らしい三輪山が正面に。今は竹やぶで見えないが、古墳を作ったときはくっきりだっただろう。

a0237937_21025901.jpg

「築造時期については出土遺物も不明であるが、二段積みを指向していることや、切石技法を用いていないことなどの石室構造の様子から見て、7世紀前半頃と考えられる。」(桜井の横穴式石室を訪ねて)

a0237937_21034683.jpg


# by koza5555 | 2019-02-26 21:08 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

安倍文殊院の文殊お会式

奈良まほろぼソムリエの会のHP、3月の歳時記は安倍文殊の文殊会式とした。

325日~26日、文殊お会式(えしき)で安倍文殊院(桜井市)の境内は賑わいます。本堂前には「智恵のお授け所」が設けられ、参拝者の頭に智恵袋を当てる加持祈祷が行われます。子供たちも智恵がたくさん授かれるように、この時ばかりは神妙に頭を下げます。

a0237937_20243087.jpg
a0237937_20242574.jpg

文殊菩薩の法要と貧者や病者のための施しを行うのが「文殊会」、もともとはお寺の行事だったが、平安時代には朝廷が財政を負担したという記録も残されている。

会式の日にちもさまざまである。興福寺の文殊会は425日に行っているが、歴史をさかのぼると325日、425日であったり、7月に行うところもあるという具合で、それぞれの解釈によるものと思える。

安倍文殊院は325日、一山僧侶により大般若の転読大法要が厳修される。

a0237937_20242377.jpg

智恵のお餅まきは25日と26日、1630分から行われる。けっこうな大人の奪い合いで、ちょっと子供は怖いかもである。

a0237937_20271097.jpg

祈祷した餅米で作った「智恵の餅」が舞台からまかれるが、「貧者に施給するは、文殊菩薩を供養すること」との教えによれば、智恵の餅というより、貧者への施し(大げさ)ともいえるのでは。平安仏教でいえば、「会式」で貧者へ施しをするはもともとの行事。御供まき、御供ひろいを貧者への施しなどと言ったら、いまでは笑われるんだろうけど・・・

a0237937_20241757.jpg

「三人よれば文殊の智恵」。安倍文殊院の文殊菩薩像は、快慶作で獅子にまたがり、総高7メートルと文殊として日本最大。一度は拝観、お勧めする。干菓子付きの抹茶をセットにした拝観で700円。ツアー客は大満足される。



# by koza5555 | 2019-02-25 20:29 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

嶽の立石

榛原駅(近鉄)から南へ8キロメートルほど、高井を超えた内牧というところに面白い意志がある。
a0237937_20101384.jpg
嶽太郎

a0237937_20101048.jpg

嶽次郎

a0237937_20101709.jpg

嶽三郎

これらの石は「嶽の立石」とよばれる。

さらに谷に点在する岩石の数々を「カラトの寝石」。

a0237937_20101949.jpg

a0237937_20102216.jpg

立石は釣鐘のような形である。谷に転げ落ちた「寝石」も、同じように円形の石も多い。

風雨にさらされて、こんな形になったかと思ったが、「酸性岩類は噴出時の粘性度が一般に高く、鐘状を呈することが普通」とのことである。

内牧の山頂付近には鐘状の岩石がたくさんできて(1300万年前か)、その後の長い歴史の中でもみくちゃになってきたと思われる。


室生火山群が作り出した大量の岩石を考えてみた。もともとは隆起した溶岩が固まってできたと考えられてきたが、実は多数の噴出口から大量の火山灰が噴出、堆積、凝固した溶結凝灰岩とみられる。この室生火山群の岩石は顕微鏡で調べると軽石を含んで凝結したことが明確で、火山灰からできたとみるのが順当である。冷却・凝結の過程で柱状の節理も作られたとみられる。

同時に噴火とは別に溶岩の噴出によって作られた岩石もあるわけで、内牧の「嶽石」は深成岩(火成岩の一種)で、岩質が非常に堅いために侵蝕に耐えて釣鐘状で今に生き延びてきたとみるのが妥当である。


山添村の神野山(こうのやま)のなべくら渓には、角閃斑糲岩(かくせんはんれいがん)という固い深成岩(火成岩の一種)が侵蝕にたえて山をかたちづくり、割れた固い岩は谷底に転げ落ち、滑り落ちて集まり「岩の川」になったが・・よく似たケースだろうか。


山の稜線部には「嶽の立石」、谷には転げ落ちてきたと思える「カラトの寝石」である。

室生の「九穴八海」、曽爾の鎧岳や屏風岩、あちこちで見られる柱状節理、その石を切り出した石切場跡(榛原檜牧)、塼槨式の横口式石槨を持つ花山西塚古墳など見たり、考えたりするだけで、わくわくしてしまう。


嶽の「三兄弟」は内牧の山の中、地図に示しておく。「内牧区民の森」というのが整備されていて、桜はすごそうである。


車で安全に行くことができるが、単独行動は無理かも。

a0237937_20102499.jpg

この項は「榛原町史」地質を参考にしました。引用はここからしました。


# by koza5555 | 2019-02-21 20:13 | 宇陀 | Comments(0)

音羽三山、下り尾・百市・飯盛塚の祭

談山神社の社報、「談」(かたらひ)の2ページ目は毎号、僕が書いている。
「多武峰の村の話を書いて」と長岡宮司に3年ほど前に頼まれた。神社のことより神社へのアプローチを書かせたい様子である。
神社の宣伝みたいな話はあまり書けていないが、それなりに話を探しながら、多武峰という山とか里を紹介している。
今回は音羽三山のふもとの村々・・下り尾(さがりお)・百市(もものいち)・飯盛塚(いいもりつか)の村の祭を取り上げてみた。

桜井市の中心部から南方を望むと音羽三山とよばれる山塊を望むことができる。北から音羽山、経ガ塚山、熊ガ岳である。今回は、この山々に祀られている神の姿、その祀り方を考えてみた。

下り尾(さがりお)から粟原川に流れ落ちる川の名は清滝川と聞いた。「清滝川といえば滝があるのか」と川沿いを歩いたが、滝は見当たらない。この滝へは川沿いではなく下り尾の神明神社の東側から登る道があった。登ること30分、清滝は轟々と流れ落ちていた。岩壁には不動明王が刻まれている。

a0237937_22560984.jpg
下り尾の東幸次郎区長にお聞きすると、「清滝のお祭りは七月の最後の日曜日。毎年、やっている」とのことだった。さっそく同行させていただいた。祭といいながらも参加者は鍬やカマを持参して小枝を片付けたり、石を積んだり、転がしたりしながらの「道作り」の風情である。道を補修しながら、音羽山の中腹まで上り詰めると清滝不動尊に到着する。持参したお米、塩、お酒などを供えて般若心経を読み上げる。
滝の水は、どんな日照りでも枯れることがないといわれる。清滝不動尊の祭は水源を見守る祭りであり、年ごとの豊穣の実りを祈る祭りだと思われた。
a0237937_22561201.jpg

 

山の上の神社と言えば、百市(もものいち)の住吉神社も紹介しておきたい。県道を多武峰に登っていくと寺川を挟んで左側に百市の集落が見えてくる。百市の住吉神社は村の奥深くの山中に鎮まり、10月の第一日曜日に例祭が斎行される。
祭の朝、神饌や祭祀道具を担って神社に向けて出発する。しっかりした登りを800mほど歩くと神社に到着する。登山とまではいわないけど、息が切れるしんどい登りである。
急な山腹に、長い柱に支えられて拝殿、本殿が建てられている。実はちょっとした祠みたいなものかと思って登ったので、この社を作り、維持してきた百市の力の入れ方に声も出ない。
a0237937_22563279.jpg
境内を掃除し、鳥居には榊と同じ感覚で青竹を立てて、祭が始まる。
秀麗な山の上に祀り敬ったという事かとも思えるが、「山の中に村があった。宇陀から針道、百市を経て倉梯へ出る街道沿いの村だった。人は山を下りたが、神様には下りて頂けないうちに百年が過ぎた」は西基之区長の言葉である。神社には「大神宮・村安全・おかげ」(天保3年・1833年)と刻まれたおかげ燈籠も残されていて、伊勢神宮にはこの地から旅立ったことも示されている。
a0237937_22562844.jpg

百市から県道をさらに上ると飯盛塚(いいもりづか)である。飯盛塚の杉山神社は村の上方の山中に祀られていたが、村の集会所の山側に二十年前に遷座されている。

この飯盛塚の秋祭に注目した。「祭は頭屋が中心となってすすめてきたが、時を経るにつれ行事の継続は難しくなってきていた。それで平成二十九年の秋祭から、頭屋の仕事は村(区)で引き継ぐことにしました」と、北浦孝文区長は話される。

祭の準備は第一に御幣を作ることである。その御幣は神前に奉幣され、一年間は村の会所に祀られる。第二は「お人形さん」作りである。太い藁縄、細い藁縄を組み合わせながらぐるぐると巻きあげる。中心は竹筒である。頭の上にはヒゲをつけるが、これは「ジャノヒゲ」で作ることが決まっている。形を整えてから、中心の竹筒に餅をいっぱい詰め込み、衣をつけて「お人形さん」は完成である。

a0237937_22562552.jpg
御幣と共に、お人形さんは区長に抱っこされてお渡りする。
a0237937_22562051.jpg
「お人形さん」を神前に飾り、奉幣を終えると、村人はトンドの周りに思い思いに座り歓談する。男も女も、老いも若きも、そして子供もたくさん集まってきて、ゴーヤの炊いたのとか、黒豆の煮たのを、おいしくいただく。

長く頭屋を務めてこられた方には感謝したい。そして頭屋の仕事を引き継いだ飯盛塚区の考え方は、村の習俗や文化を継続させていくための大切な方法だったと納得させられた。
a0237937_22561649.jpg


# by koza5555 | 2019-02-14 23:00 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

筒粥祭(登弥神社)

2月1日は登弥神社(奈良市石木町)では「筒粥占い」を行する。

大釜に米と小豆を入れ25リットルほどの水を加えて煮立てる。その窯には紐で縛った38本の竹筒を立てる。竹筒は節のない20㌢ほどの長さの女竹(女竹とは限らないとのことだが、見た目はすべてが女だった)をタコ紐ですだれ状にくくり上げ、それを大きく丸めてくくられる。


朝の
5時に点火、630分まで煮立てられる。お釜は何度も鍋ふたを吹き上げ、お米や小豆はその勢いで「上から」竹筒に入っていくようすである。

630分に菜箸で竹筒が取り出される。慎重に三宝のお皿に移されて、神饌の中央に供えられた。

a0237937_17580103.jpg
a0237937_17581863.jpg
神事は7時から。神事のあと、神主と総代・世話役によって占いが行われる。竹筒の束から一本づつ竹筒が外されて、小刀で断ち割られる。


神主が丹念に小豆を数えて「ひのひかり 上」、「こしひかり 上の上」、「人参 上」などと、順々に読み上げる。

a0237937_18141822.jpg

a0237937_17580803.jpg


a0237937_17581522.jpg

37
種類のお米、野菜、イチゴとか果物の作柄が占われ、38本目は総合・・・である。今年の結果は「総合 上」だった。


上中下の三段階、これがまた三つに分かれており、合計で
9段階の占いである。「古都華(いちご)は下の下」、参拝者の悲鳴が上がるが、「よし、頑張って作れと言うことや」という声も出たりで、氏子の皆さんもにぎやかである。

占いの結果は逐一掲示されて、皆さん、熱心に写されている。

a0237937_17575374.jpg

氏子は奈良市の大和田町、石き町と大和郡山市の城(じょう)町である。粥占いの当番は三町の輪番制であるが、全氏子ではなく選抜である。

今年は大和田町だったが、当番でない町も無関係ではない。昨年の当番町は城町で「後番」というお手伝い。来年は石木町であるが、「見習い」というお手伝いである。

おかゆを焚き上げる火の番は2時間、ずっ~と火の守りをされていた方は当番の大和田町ではなく石木町の方で、「来年は夫が総代、3年ごとの当番だが、役目を総代で果たすのは生涯でおそらく一度の事。夫も頑張っているが、私も頑張らねば」とのことだった。

神事、粥占いを終えると、小豆粥の振る舞いがある。いつまでも熱くておいしい。

a0237937_18095958.jpg

登弥神社(とみじんじゃ)は、奈良市西部、富雄に鎮座。延喜式内社とされている。

春日造りの二社が本殿で東本殿は「高皇産霊神」「誉田別命」、が、 西本殿は「神皇産霊神」「登美饒速日命」「天児屋命」を祀っている。

境内掲示にあるように、筒粥祭は「奈良市指定文化財」に指定されている。


奈良市指定文化財

登弥神社の粥占い  昭和五十七年三月一日指定

粥占いは、粥を用いて農作物の出来を占う年中行事です。

登弥神社ではもともと小正月の行事でしたが、今は二月一日に行います。氏子が毎年交代で、早朝から、米・小豆と、青竹の筒三七本を束ねたものを、湯釜で炊きます。一時間あまりで竹筒を引き上げ、農作物の品目ごとに竹筒を小刀で割り、粥の入り具合でその年の作柄の良否を占います。

豊作を祈願する農耕儀礼のひとつとして、古風な形態をよく残していて貴重です。奈良市教育委員会

a0237937_17581106.jpg
祭祀が終わり、帰路に就こうとすると、生駒山が真っ白・・美しかった。




# by koza5555 | 2019-02-01 18:15 | 奈良 | Comments(0)

水面に上下する宇陀市の濡れ地蔵

宇陀市の室生ダム湖のノリ面の岩に地蔵菩薩が彫りくぼめられている。


a0237937_16391982.jpg
山辺三の地蔵菩薩は「建長6年」(1254年)に彫られたと刻まれている。寿命は750歳である。この地蔵菩薩は目前で参れたり、遠くからしか拝見できなかったり、時には水没してしまうのである。

これはダム湖の水位調整の結果である。

室生ダムは昭和49年(1974年)に生まれた。

お地蔵さんも、彫りくぼんだ石工も、施主も700年後のお地蔵様の姿は予想打にもしなかっただろう。

奈良県は昭和42年(1967年)から県営水道を始めた。

1970年には吉野川の下渕頭首工を完成させ、74年には室生ダムを完成させ盆地に送水を始めた。

今日は室生ダムの事だけである。宇陀川は淀川水系になるが、室生にダムを作り、貯水湖からは奈良盆地に水を供給している。県営水道では、これを宇陀川水系といい、宇陀市、桜井市、天理市、田原本町、三宅町、河合町、安堵町斑鳩町、平群町などの市町に上水を提供している。

室生ダムは水利のダムだが、洪水対策も兼ねている。したがって多雨の夏は水位を下げ、冬場は水位を上げておく必要がある。洪水対策、安定した水の供給のためには必要である。

山辺三の摩崖仏のお地蔵さんはその水位管理のちょうど上下の枠内にあるという事である。


宇陀市の掲示によると

古くは背後の山から水をひいて、この地蔵菩薩に注いでいたと言うので、俗に濡れ地蔵と呼ばれている。この像は左手に宝珠、右手に鎖杖を持った半身彫の立像で、舟型に彫りくぼめているのが光背の部分である。

背部の右側に「建長六年甲寅八月十五日健」と二行に陰刻されているので、鎌倉時代の造立であることが知られている。像の左右には各一体十王の立像と地蔵分身の小像が陰彫されている


7月から10月は確実に渡れる

梅雨、台風などの大雨に備えて放流量を増やして水位を下げる。11月から6月月は渡れない事が多い。お地蔵様が水没してしまうこともある。

現在の状態。水位は一進一退である。お地蔵さんは拝観できるが、渡り石(コンクリート製)は水面下30センチくらいである。

a0237937_16285568.jpg

9月のお地蔵さまと渡り石。川として流れているので、水位は実は2メートルも下のほうにある。

a0237937_16280120.jpg


これから水位は上がると思われる。あなたも、時々見に行ってみませんか。「裾まで水が」とか、「半身水没」とか、隠れた・・とかを、教えてほしい。

a0237937_16391217.jpg
a0237937_16290365.png

廻りを見渡すと、濡れ地蔵の200mほど北には西方寺。5年ほど前に薬師如来が重要文化財に指定された。さらに2キロほど北の山中には戒長寺。十二神将を鋳出した梵鐘(重要文化財)と薬師如来(秘仏)が祀られている。

うーん、「山懐の戒長寺の秘仏拝観、西方寺の薬師如来と濡れ地蔵を訪ねるプレミアムツアー」できるなあ。計画したら来られますか?

a0237937_16284233.jpg
a0237937_16283515.jpg
上の看板は西方寺、下の山門は戒長寺である



# by koza5555 | 2019-01-18 16:48 | 宇陀 | Comments(0)

増賀上人と談山神社

多武峰縁起絵巻によれば、増賀(そうが)上人は多武峰(現在は談山神社、江戸時代までは妙楽寺)の中興の祖である。増賀上人は参議・正四位下、橘恒平の男子で、10歳の時に比叡山に登り慈恵太師(良源・山門派・円仁門徒)の弟子となる。

 増賀は夢を見る。天暦2年(948年)82日のことで、32歳の時である。夢に維摩居士が現れ、「浄土を志すならこの地に住め」と景色が示された。応和3年(963年)に如覚(多武峰少将・藤原高光)の勧めで多武峰を訪れた増賀は、この地が15年前の夢の景色と同じと理解して、三間一面の庵を結び、41年後の長保5年(1003年)69日に死去した。


この増賀上人を考えてみたい。

明治36年に増賀堂が再建されている。これが増賀上人の庵跡と思われる。45年前の「磐余・多武峰の道」(金本朝一著)には、写真があるが現在は見当たらない。

増賀上人墳(そうがしょうにんつか)は残されている。神社の西口から山腹をめぐる林道を一キロほどたどると、念誦崛(ねずき)に到着する。「増賀上人墓」との看板が建てられている。 正面の石段をまっすぐ上がっていくと石積み塚にが見えてくる。

 


a0237937_07283172.jpg

a0237937_07283484.jpg
二重に積み上げられた石の塚で、下段の直径が4メートルほど、全体の高さが2メートルである。覆い堂が建てられていたことは、残された周囲の基石から良く分かる。

周囲には大変な数の五輪塔、板碑が立てられているが増賀上人の石塚の規模はずば抜けている。


a0237937_07282199.jpg

念誦崛

多武峰に増賀上人を招いた如覚(藤原高光)の墓が念誦崛にはおかれていないことが不思議である。

念誦崛から2キロメートルも離れた、飯盛塚の山中に高光の墓は置かれている。東の飯盛塚に高光墓、談山神社(妙楽寺)、西口を経て北山への峠に差し掛かるあたりに念誦崛という配置である。

a0237937_07283846.jpg
a0237937_07282839.jpg
藤原高光墓(飯盛塚)



『多武峰ひじり譚』、三木
紀人が記した。40年ほど前の本である。

平安時代は「誰かを語るとき、彼の死とその前後は最も関心を呼ぶ話題であった。」その意味では「増賀の終焉は格別に印象のつよいものだった」、そんな時代である。

その例として徒然草である。「増賀ひじりの言いけんように、名聞苦しく、仏のお教えにたがふらんとおぼゆる」として、増賀上人を絶対的境地に達した人、「まことの人」だったと兼好は紹介した。

増賀上人のエピソードを一つだけ紹介しておきたい。

増賀の師匠は良源である。毎年のように僧位を上げていき、行基以来の大僧正となり、比叡山の座主となった。

この良源が大僧正に任ぜられたときにお礼言上に参内する。おびただしい僧侶、従者を伴い行列を進めるが、そこに増賀が登場する。

疲れたあめうし(牝牛)の浅ましげなるに乗りて、鮭というものを太刀にはいて、御屋形口をうちけり。

屋形口とは牛車の乗り口で、そこに現れるのは警護の責任者を意味する。増賀は3000人いたという良源の一番目の弟子だった。

行列、見物人はどよめくが、増賀は再三にわたり、牛を乗り回したという。

「見るものあやしみおどらかぬはなかりけり」。

a0237937_08035881.jpg

それに対して「名聞こそ、くるしかりけれ」「かたいのみぞ(乞食の境遇こそ)たのしかりけれ」と増賀は謡った。

「悲しきかな わが師、悪道にはいりなむとす」。

これが増賀の道心である。

師の良源は、「名刹を求めぬ心は判った。但し威儀は正せ」というが、増賀はそれを受け入れることはなかった。

「いかでか、身をいたづらにせん」というのが増賀の考えであった。「投身、入海、身燈」という宗教的自殺をするものが多かった時代ではあるが、増賀は身体的な消滅を願ったわけではなかった。すべての衣服と財産を乞食に施して裸で歩いたり、山にこもったのである。増賀上人はいくつかの例外を除いて・・多武峰を出ることはなかった。山を出ることは増賀にとって、はなはだしい宗教的な堕落であった。

増賀上人の信念、信仰、道心は、その後多武峰にどんな形で引き継がれていったのか、関心と疑問は深まるばかりである。

a0237937_08040404.jpg



# by koza5555 | 2019-01-13 07:42 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

談山神社の春夏秋冬、すべての魅力を氏子総代が解き明かす

東京でお話しします。新春の1月19日(土)午後5時から90分間です。
日本橋、三越向いの奈良まほろぼ館の二階です。

奈良まほろば館のホームページの講座案内にアップされました。
以下が全文です。申し込みは電話やFAX、講座案内の申し込みフレームからネットでも申し込めます。
関東の方、ぜひ、おいでください。
a0237937_20522365.jpg

談山神社の春夏秋冬、すべての魅力を氏子総代が解き明かす

平成31年1月19日 17:00~18:30

 NPO法人奈良まほろばソムリエの会の講座です。奈良の魅力を色々な切り口で楽しく語っていただきます。1月は、「談山神社の春夏秋冬、すべての魅力を氏子総代が解き明かす」と題してお話いただきます。

 桜井市多武峰の談山神社の歴史と魅力のすべてを、神社の氏子総代が語ります。藤原鎌足公を祀る談山神社は、「藤」を名字に持つ多くの日本人の心の故郷です。

 世界でただ一つの木造の十三重塔は境内の四季を見守ります。春の青モミジ、また錦秋の談山神社は他に比べるものがないという美しさです。春と秋の蹴鞠(けまり)まつり、初夏の鏡女王まつり、野と山の実りで飾りあげられる特殊神饌の嘉吉祭など、談山神社だけで行われてきた四季折々の行事の魅力を解き明かします。


桜に彩られる木造の十三重の塔

1.日 時 : 平成31年1月19日(土) 17:00~(1時間半程度)

2.講 師 : 雑賀耕三郎 氏(奈良まほろばソムリエの会副理事長、談山神社氏子総代)

3.テーマ : 「 談山神社の春夏秋冬、すべての魅力を氏子総代が解き明かす 」

4.会 場 : 奈良まほろば館2階

5.資料代等: 500円(当日受付にて申し受けます)

6.定 員 : 70名(先着順)

7.申込方法

・ハガキまたはFAX
  必要事項(講演名・講演日時・住所・氏名(ふりがな)・電話番号・年齢)を明記いただき、奈良まほろば館までお送りください。
・ホームページ
  下記の「申込フォーム」からお申し込みください。

お問い合わせ先
 奈良まほろば館 【開館時間】10:30~19:00
 〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1-6-2 奈良まほろば館2F
 電話03-3516-3931 / FAX03-3516-3932


a0237937_20522686.jpg


蹴鞠祭。蹴鞠はサッカーの原初の形
a0237937_20521657.jpg
        嘉吉祭。和稲(にぎしね)神饌の調整、多武峰の村人の献身的な努力を解明する


# by koza5555 | 2018-12-19 20:55 | 奈良 | Comments(0)

戸閉祭(とだてまつり

広陵町箸尾の戸閉祭(とだてまつり)。だんじりが境内を疾走、拝殿(階段に)に激突することを競う。

a0237937_09100218.jpg


氏子の弁財天、南、的場,萱野のそれぞれの町のだんじりは終日、町内を練り歩く。一軒一軒の玄関先で青年団が伊勢音頭を唄い祝儀を受ける。町内を回り回って、夕方からは神社付近で待機、宮入に備える。

宮入は午後730分に弁財天、30分おきに南、的場,萱野と宮入である。

だんじりは青年団が引き、自警団(青年団OB)が後ろから押し、舵を持つ。

a0237937_09101105.jpg

拝殿前に一しきり青年団が伊勢音頭を唄い、お祓いを受ける。宮本の弁財天(だけ?)は自警団も唄う。

a0237937_09103547.jpg

やじうま的に見て、的場がお見事・・ガツーンと音がした。


a0237937_09101507.jpg
9時に萱野が宮入・・それからが長い・・いつまでもいつまでも・・境内での伊勢音頭は続く・・10時前に・失礼しました。残念ながら、写真は惨敗・・

a0237937_09231921.jpg
4町内の青年団が入り混じって、次々と音頭取りが輪の中心に飛び込んで伊勢音頭を唄い続ける。これは9時35分である・・


神社は式内社で櫛玉比女命神社(くしたまひめのみことのじんじゃ)北葛城郡広陵町弁財天399 で、境内は古墳を取り込んで作られている。
弁財天とはであるが、中世・近世は弁財天社とよばれてきている。天河弁財天を1284年に勧請したとされる。当社が式内の櫛玉比売神社に比定されるようになった経過は僕には不明である。

a0237937_09103071.jpg



# by koza5555 | 2018-11-03 09:26 | 奈良 | Comments(0)

第70回正倉院展

70回、正倉院展を拝見してきた。

a0237937_15513228.jpg

a0237937_15503084.jpg
今年の目玉は「玳瑁螺鈿八角箱」(たいまいらでんはっかくのはこ)。誰もが認める素晴らしいものである。


新羅の琴、琴柱付き・・にひときわ引かれた。仲哀天皇が琴を弾きながらパタリと倒れたと『古事記』などに書かれているが、「ああ、こんな琴なのね」という感じである。


陶器で作られた鼓も興味深い。「三彩の鼓」というが、どんぶり茶碗の底を開いてつなぎ合わせた感じで、これに鼓皮を張る。

押し出し仏の仏像型というのを初めて見た。仏像に薄い銅板を当てて槌でたたいて押し出し仏を作成する。こんな道具も正倉院展は見せるのがおもしろい。


最後に写経生の借金証文である。宝亀3年のものであるが、役所から借金すると・・利子は・・月ごとで13%。年率換算で156%・・結構な高利貸しやなあ・・

a0237937_15503517.jpg

まあ、そんな正倉院展・・1111日(月)までである。金・土・日・祭日は夜8時まで。帰り道には興福寺中金堂を拝観した。建物の素晴らしさには感銘。もともとのご本尊はどんなだったんだろうか・・勉強してみよう
a0237937_15513735.jpg




# by koza5555 | 2018-11-02 15:53 | 奈良 | Comments(0)

磐余池の所在地は

奈良まほろばソムリエ検定は二級と一級、そしてソムリエ級である。

一年に一度の試験、一月の第二日曜日であるが、この試験で二級に合格すると一級の受験資格が得られる。

但し、もう一つ、体験学習プログラムという実地研修を受けることが条件で20余りのコースが用意されているが、そのうちの1コースを僕が案内している。

「安倍文殊院と磐余の道をゆく」というコースで、『奈良まほろばソムリエ検定公式テキスト』に掲載されている史跡、社寺を中心にウォーキングで解説する。参加者は二級を受かったばかりの新人で、こちらもフレッシュにガイドをすることに心がける。

そんなことを考えていた時、『飛鳥・藤原の宮都を語る』を見つけた。吉川弘文館で、著者は飛鳥村教育委員会の相原嘉之文化財保護課長である。

『飛鳥遊訪マガジンVol162』に連載されたものとの事である。



a0237937_17174738.jpg
a0237937_17173218.jpg

吉備池廃寺(百済大寺)について、その成り立ちの解明が面白い。百済大寺と百済宮は日本書紀を見れば、セットである。640年、舒明天皇の時代である。なんでこの時期に宮が飛鳥を離れたかである。592年に豊浦宮、630年には飛鳥岡本宮である。

大豪族の蘇我との確執、一線を引くという狙いがあったとみられる。

宮は西国の民、寺は東国の民を仕丁に当てるとあり、豪族の力に頼らなかった。


磐余池問題がさらに興味深い。

「敏達天皇は百済大井宮を営み、敏達4年には譯語田(おさだ)幸玉宮(さきたまのみや)に遷りました。百済大井宮・・・桜井市吉備周辺に推定される・・・譯語田幸玉宮は、桜井市戒重であり・・・大津皇子の訳語田(おさだ)舎も近辺に推定されます。」(p66

「和田萃氏は「磐余」の範囲は・・・倉橋あたりから東光寺山、戒重の幸玉橋、耳成山、香久山を結んだ広範囲に考えられている」

「そのうえで、(池尻の)池跡は磐余池とされていますが、ここは磐余と言えるのだろうか。

池の北東700mには、「百済大寺」と考えられる吉備池廃寺があります。つまり池跡の北方は「百済」と呼ばれていた。同じ場所を磐余とか百済とか呼ぶわけはない」(p72)という論証である。

これは僕も、ずーと思っていた疑問で、磐余の話をしていると、なんか、説明しがたい違和感をかんじてきていた。

併せて若櫻神社も問題となる。

『延喜式』によれば、若櫻神社は城上郡にあるとされ、池ノ内の稚櫻神社は十市郡に

属していて、合わない。

a0237937_17173801.jpg

こんな地図が示されていた。『飛鳥遊訪マガジンVol162』より。

「磐余」の範囲は、上ツ道の東、横大路の南、寺川の西にあたる安倍山・東光寺山を中心とした地域で、その中で考える。

「安倍山(磐余山)のすぐ北西にある地域です。ここは横大路から100m程南に位置しますが、上ツ道に東接する場所(現在のヤマトー桜井南店あたり)です。ここに「西池田」「東池田」「南池田」などの地名があり、南側には「君殿」もあり」(p77)とされ、王宮の名も残るといわれる。

そうか、そうすると磐余池・・我が家の隣だなあ・・である。


ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日(けふ)のみ見てや雲隠(がく)りなむ巻三(416)揮毫 中河幹子

a0237937_17170677.jpg

うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)とわが見む

巻二(165)揮毫  小倉遊亀


a0237937_17170973.jpg
a0237937_17171500.jpg
吉備池は今は金魚池・・これ・何に見えます?
a0237937_17174403.jpg
安倍文殊院、渡海文殊菩薩はよく理解していただく・・・





# by koza5555 | 2018-10-31 17:23 | 桜井市と安倍 | Comments(0)