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奈良・桜井の歴史と社会

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聖武天皇が対峙した天然痘

3月に平城宮跡と周辺の陵・古墳を案内することになった。321日と22日の二日である。好評で、申し込みは定員までまであとわずかである。

猛烈な今の病が終息することを、ひたすら祈るばかりである。

先日も平城宮跡を下見した。青空に生える復元大極殿を前に、大和と寧楽の都を襲った1300年前の疾病に思いをめぐらした。

上も下も人民はバタバタと亡くなっていく。もっとも守らていると思える藤原四氏さえ亡くなる。情報のない中、治療方法のない中、当時の人々の思いはどんなであったであろうか。


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続日本紀を書き抜いてみた。

奈良時代の天然痘の大流行によって、日本人の4分の1も亡くなったと言われている。

天然痘は大宰府(九州)から始まり、天平7年(735年)から天平9年(737年)にかけて、日本中を席巻した。


それが、続日本紀に残されている。


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天平7年(735年)812日 

この頃大宰府管内で、疾病により死亡するものが多いという~長門国よりこちらの山陰道諸国の国守(くにのかみ)もしくは介は、ひたすら斎戒し道饗(みちあえ 悪鬼の侵入するのを防ぐため街道で行う祭祀)をして防げ。

823日 

大宰府が「管内の諸国で瘡のできる疾病が大流行し、人民は悉く病臥しております」~と言上。

天平8年(736年)417日 

遣新羅使の阿部朝臣継麻呂らが出発に臨んでの拝謁をした。

1222日 

去年の冬には瘡のともなう疾病(天然痘)が流行し、男女のすべてが苦しんだ。農作業も充分でなく五穀の実りも豊かでない。今年の田租を免除し、人民の命をつながせるように。

天平9年(737年)正月27日 

遣新羅使の大判官従六位上・小判官正七位上らが、新羅から帰って入京した。大使・阿部朝臣継麻呂は対馬に停泊中に卒し、副使で従六位下の大伴宿禰三中は病気に感染して入京することができなかった。

417日 

正三位の藤原朝臣房前が薨じた。不比等の第二子。(57歳)

429

大宰府管内の諸国では瘡ができる疾病がよくはやって、人民が多く死んだ。

519日 詔りした

4月以来、疾病と干ばつが並び起こって、田の苗は枯れしぼんでしまった」

61

朝廷での執務を取りやめた。諸官司の官人が疾病にかかっているからである。

611

大宰代弐・従四位下の小野朝臣老が卒じた。(あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり)

75

大倭・伊豆・若狭の三国の飢餓と疾病に苦しむ人民に物を恵み与えた。

710

伊賀・駿河・長門の三国の飢餓と疾病に苦しむ人民に物を恵み与えた。

713

従三位の藤原朝臣麻呂が薨じた。不比等の第四子。(43歳)

723日 天下に大赦を行ない、天皇は次のように詔した。

疾病の気が多発するので、神祇に祈祭するけれどもまだ許される様子がない。

725日 右大臣(藤原武智麻呂)の屋敷へ。

左大臣に任ずる。その日のうちに薨じた。不比等の長男(58歳)

85日 

参議・正三位の藤原朝臣宇合が薨じた。

1227

この年の春、天下の人民の相ついで死亡するものが、数えきれないほどであった。このようなことは近来このかたいまだかってなかったことである。

以上は続日本紀。宇治谷孟の現代訳である。12月27日の記録は、疾病は「過去形」になっており、最悪期は脱したと見られる。



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# by koza5555 | 2020-02-17 21:22 | 奈良市 | Comments(0)

龍王山古墳群

龍王山古墳群に入ろう・「奈良県随一の古墳密集地帯を行く」というウォーキングを31日に案内する。やまとびとツアーズの企画だが、ありがたいことに定員はオーバーとなった。

龍王山、山頂近くにはタクシーで上がる。安易だが、時間と参加者の体力からみて妥当な設定である。

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龍王山古墳群。山すそ、西門さいもん)川の両岸を中心にした山中の古墳群。古墳(横穴石室含む)数は600基以上、発掘がすすめば総数は1000基を超え、日本最大の群集墳である。古墳の内訳は横穴式石室墳が300基。岩盤を穿って造られた横穴が300基とみられる。

標識がない。ここが新沢千塚古墳群(橿原市)、一須賀古墳群(太子町)、岩橋千塚古墳群(和歌山市)などと大きく違う。

『奈良県遺跡地図』第二分冊と、『龍王山古墳群』(橿原考古学研究所)をじっくり、眺めて案内の方向を考えた。

ポイントを絞って楽しんでいただくウォーキングである。頂上から下るのだから、遺跡地図96は初めに訪れる。だんだんと下がって、あれこれ見るのだが、「六地蔵周辺」を集中的に探索することとした。

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『遺跡地図』でいえば、310から347あたりである。


期待していた342番と340番に入ってみた。奥壁の石が無い。側壁の石も抜けている。これは作った時とは違う形であるから危険と感じた。
 そこで探してみると、素晴らしい石室があった。336番である。入り口が狭い。右片袖式の古墳である。持ち送りがきつく、それを上からシッカリ押さえつける形で大型の天井石小ぶりだが、むちゃくちゃ美人古墳だ。

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20基ほどの古墳に入ったり、覗いてみた。今日は感動する石室をたくさん拝見できた。


更に下って、横穴(おうけつ)墓を拝見する。龍王山古墳群には300以上の横穴墓が残されている。こちらは墳丘はなく、岩を穿って形を整える石室で、山中・山上の崖に掘られている。こんな感じかな。


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龍王山古墳群の築造時期は、6世紀中頃から7世紀末まで。横穴式石室墳径10㍍前後の円墳が多い。墳丘を持たない横穴墓(おうけつぼ)は横穴式石室墳より遅れて造られ、7世紀のものが多い。

古墳群の出土物とかである。権現堂古墳(巨勢谷)と同じ形式の石室がみられる。三里(平群)古墳と同時期の馬具。牧野古墳(広陵町)や二塚古墳(新庄)と同時期の須恵器が出土。環頭大刀、玉類、耳環、馬具、農工具などの副葬品、数多くの土器が出土している。

石室に使用される石は榛原石、地元の石などが複雑に混じる。尾根ごとに石工が違うか。

やはり、被葬者像は気になる。盆地東部に本拠地があった物部、保積、大倭、和邇、柿本などの諸豪族を被葬者とみる。

大和王権の中枢にかかわる巨大古墳が置かれる地域でもあり、その影響下の数多くの豪族の墓とみるとの論もある。古墳の数が莫大。盆地各地の古墳との類似、出土品の共通性から。

龍王山古墳群は松本清張が『火の路』で「死者の谷」と紹介した。

「踏査により確認できた古墳総数(その分布範囲は東西1キロ半、南北1キロ)は、横穴式石室墳及びその可能性あるもの279基、完存もしくは破壊されていてもそれとわかる横穴は292基、総数571基である。その他見落としのものを入れると600基前後と考えられる。その古墳群は数といい、立地条件といい『死者の谷』と呼ぶにふさわしい。」(「竜王山古墳群の問題」清水真一『古代学研究62』)を松本清張が『火の路』に転載して、広く世に知られた。

31日が楽しみである。



# by koza5555 | 2020-02-14 22:46 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

平城宮と佐紀古墳群を案内します

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「平城宮跡×古墳ウォーキング」と題して、朱雀門辺りから初めて、大極殿、佐紀古墳群と松林苑を訪れるツアーを雑賀がご案内します。320日(金・祝)と321日(土)の2回実施。平城宮跡にぎわいづくり実行委員会、奈良県、奈良市の主催ですが、やまとびとツアーズがツアー実施(受付など)をします。

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10時開始で、天平うまし館(古墳ミニ講座)・朱雀門ひろば・いざない館・昼食(tokijiku kitchenのビュッフェランチ)・第一次大極殿・平城天皇陵(市庭古墳)・磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)・平城宮松林苑築地塀跡・瓢箪山古墳・日葉酢媛命陵(佐紀陵山古墳)・成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)・称徳(孝謙)天皇陵(佐紀高塚古墳)で、午後4時ころに西大寺で解散です。

奈良の都の時代の前の平城山辺り(古墳)を語り、平城宮の造営を語り、栄える平城宮を語り、奈良の都の終わりも語るツアーです。

昼食はランチビュッフェ、昼食を入れてツアーの参加料は破格の2000円。ぜひおいでください。

申し込みはWebで「やまとびとツアーズ」まで・・電話なら0744438205です。

お待ちしています。

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# by koza5555 | 2020-01-30 20:47 | 奈良市 | Comments(0)

笠荒神大祭

笠(桜井市上之郷)の「笠山三宝荒神」は、毎月28日が月次祭、1月と4月と9月の28日が大祭で、とくに一月は初荒神の特別大祭が行われる。


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笠荒神は興津彦神、興津姫神、土祖神を祀る。興津彦神・興津姫神は同一の岩座に並ぶ木像極彩色玉眼入りのご神像で、光背には「竹林寺(笠のお堂で神社から500㍍ほど下ったところ)現住」とあり、竹林寺から遷されたものであることがわかり、時期は明治の神仏分離である。

笠は笠荒神と併せて、竹林寺に「板面荒神」が置かれている。


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厨子に納められた「板面荒神」が大祭で開扉、一年に3回だけの開扉である。鮮やかな色彩が残っている。「板面荒神」の裏板に、天文3年(1535年)と書かれた「由来」が記されている。

「良弁僧正が荒神の姿を板に描いたもので、さらに弘法大師がそれを写したもの」で、さらに、厨子の中には、「板面荒神」が二枚(二体)納められているとのことで、模写は何度かされてきたとも思える。

ちなみに開扉される荒神さまは優しいお顔だが、もう一枚は荒々しいお顔をされている。

大祭では、この荒神板絵の御霊が神輿で笠荒神にお渡りとなる。

お渡りは区長、荒神講の会長を先頭に神主、頭人が担う神輿、天満神社(笠の氏神)の一老12名がつき従う。


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ちなみに笠は笠荒神を祀る「荒神講」(垣内から選ばれた役員10名)がくまれている。全国からの信心を受けている。1日と15日、28日は、社務所は毎月開かれていて、役員はとても忙しい。

さらに笠は、荒神講とは別に、宮座が残っており「一老12名」によって氏神が祀られている。

竹林寺があり、村のそば畑で収穫された蕎麦で打たれ「笠そば処」の運営もあり、山村の笠は日々、忙しい。

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# by koza5555 | 2020-01-28 22:07 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

三社権現の祭礼

長谷寺の今年の「三社権現」は21日の午後2時からである。旧暦の211日と決められていたが、数年前から211日を前にした日曜日に日程が変えられた。

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長谷寺の『豊山玉石集』によれば、正月朔日より14日まで修正会が行われると書かれている。この修正会は14日の結願の「だだおし」が有名だが、

6日目は柳原(初瀬)と白河(しらが)村が隔年でビンズルさんの(本長谷寺の置かれている)紙衣を取り換える「一箱ベタリ」の行事と(これは途絶えた)、


11日目には、「滝蔵権現拝殿にて化主六坊法事」が行われていた。これが俗に「三社権現(長谷寺境内)の綱掛の三社権現まつり」である。『豊山伝通記』(1723年)に正月11日の滝蔵権現の法会が書かれている。

現代文で示せば、「滝蔵権現は初瀬の村の鎮守。これは正月の祭。下ノ郷は柳原(初瀬)と出雲、中ノ郷は角柄と柳(宇陀市)吉隠(桜井市)、上ノ郷は中谷・白木・萱森で三郷はそれぞれ祭祀の頭屋を決めて、(一年間)斎戒精進する。正月11日に氏人が集まり、盛饌し厳重な儀式で修正会を行う」という事である。

それぞれの郷で当番を決めて、御供つきと注連縄を編み、「化主六坊法事」が始まる前に、餅を供え,注連縄を張り替える。


上之郷(萱森、中谷)が第一殿、中之郷(吉隠、榛原の柳、角柄)が第二殿、下之郷(柳原、出雲)が第三殿に奉仕して、綱かけを行う。(上ノ郷ノ白木は今は参加していない)

刀の形のお餅とか五重塔という五段重ねのお餅が供えられる。

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法事のあと、下ノ郷は祭祀のトウヤワタシ(頭屋の村の引継ぎ)を行う。今年は柳原から出雲への引継ぎとなる。カワラケにお酒を注ぎ、黒豆、豆腐、ごぼうと決められものが出されて、酒を酌み交わす。

当屋(上・中・下)を務める間は補任状が出る。これは道中手形として使えるものだった。

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下之郷の今年は出雲が頭屋を受ける番でお供えつき、注連縄を綯う。
ヤドは中谷家、午前8時に集まり作業、午後1時くらいには長谷寺に上がるという日程と聞いた。

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参考文献『初瀬・多武峰山麓の民俗』(奈良県立民俗博物館 平成10年に発行)



# by koza5555 | 2020-01-27 20:44 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

菩提もと清酒祭

111日は正暦寺(奈良市菩提山町)にて「菩提もと清酒祭」が行われた。

「奈良県菩提酛による清酒製造研究会」(菩提研)が、室町時代(1400年代)、正暦寺で行われていたという「菩提もと(酒母)」の製造を復活・再現して、それを各酒蔵に持ち帰って清酒を作るという。

「菩提研」には今西酒造(桜井市・三諸杉)、上田酒造(生駒市・嬉長)、葛城酒造(御所市・百楽門)、菊司醸造(生駒市・菊司)、北岡本店(吉野町・やたがらす)、倉本酒造(都祁吐山町・つげのひむろ)、八木酒造(高畑・升平)、油長酒造(御所市・鷹長)の8社が参加されている。


室町時代の酒造記、『御酒之日記』(ごしゅのにっき)にそって、清酒の酒母(しゅぼ)が作られる。

ちなみに正暦寺は「酒母」の製造免許を受けており、この免許を得ているお寺は奈良県では他にはないとのことである。


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11日に行われたのは、この「酒母」を作るための仕込みだった。


蒸米と麹とそやし水をタンクに投入する。


蒸米・・これは、地元のヒノヒカリとのことである。今日は盛大に蒸し上げる。300キログラムほどである。

麹は「菩提研」参加している酒蔵が、順番に準備するとのことである。今年は生駒市の上田酒造が用意したと聞ききました。

「そやし水」といわれる水が加えられる。この水が菩提もとのカナメらしい。

そやし水は3日ほど前(7日)に仕込みがある。生米(今日、蒸したお米)と水、少しのごはんに、「正暦寺乳酸菌」を混ぜ合わせるのである。そやし水作りに生米を使う事が特徴である。この工程を初度仕込みという

蒸米を4割、麹を2割、そやし水を4割の調合で発酵タンクに入れる。

蒸したお米を境内に広げて、手早く冷やして発酵のタンクに入れていく。

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仕込みを終えて境内、作業場の片付け、清掃をしてから、菩提酛の順調な発酵、育成を祈る正暦寺住職のお勤めがある。

御幣が立てられ、般若心経が唱えられる。ご真言は「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」で、正暦寺ご本尊(重要文化財)の薬師如来であるが、お酒の精に向かってとみると、‥いかにもお酒・・薬で、良い具合だろうか。

御幣が8本、各蔵元はこれを持ち帰る。


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順調にいけば、タンクで菩提酛(酒母)が育ち、「元分け」(持ち帰って清酒をつくる)は10日先(21日の朝9時ころから)の事という。

菩提酛は水、麹、蒸米が三度に亘って加えられて清酒となる。

水が異なり、米も異なることから、菩提酛と言っても、お酒の味はそれぞれである。

お酒の出来は、三月に大阪国税局鑑定官室、奈良県産業振興総合センター、菩提研のメンバーで評価、講評したのちに商品として売り出されるとのことである。

僧侶、各酒蔵などの菩提酛研究会のメンバーなど、そろっての記念写真の撮影である。

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正暦寺、冬はやはり、ナンテンだろう
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# by koza5555 | 2020-01-11 20:39 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

長谷寺の十一面観世音菩薩の閉帳と開帳の法要

奈良の長谷寺、十一面観世音菩薩様は常に拝観することができるが、大晦日の午後4時から元旦の0時までは、帳が降りていて拝観することができない。

大晦日の16時から帳を閉める閉帳法要、0時に開帳法要が行われる。一年に一度の閉帳、観音様のお休みである。


いつ頃からの行事かと考えてみると…実は閉帳が本来の長谷寺の姿かとも思えるのである。

長谷寺の歴史を綴る『初瀬寺験記』という物語がある。


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                『長谷寺験記』


この験記の初めに、聖武天皇が長谷寺に参拝したというお話が出てくる。


かいつまんで紹介すれば以下のとおりである。


聖武天皇は天平勝宝元年(749年)に退位し上皇となる。天武上皇の夢に僧が出て、「長谷寺において三宝を供養し、後代の皇孫を祈るが良い」と告げた。『最勝央経』と『法華経』を書写、能筆にもそれぞれ10部書写させて、長谷寺に向かった。それは753年の事で、1118日に法要を行い、その夜に観音様が上皇の夢に出てくる。


「濁った世の中の猛々しい衆生の心を和らげることができるのは女人である。私はこの身の光をやわらげて、女人の姿に身を現わし、久しく末代に及ぶまで国家を護り、衆生に利絵益を与えよう。


ところで、いつもこの姿を見せていると、はばかりがある。皆に飽かれるから、自分の姿はみ帳をかけて、隠して、この中には女人の姿をした立派な観音様がおられる」と、観音さん様のお告げが聖武上皇のされた。それ以来、長谷寺はみ帳を掲げて、十一面観音菩薩を秘仏とした。」とある。『長谷寺験記』より


十一面観音は女性の姿をしていること、秘仏にする理由が記されている。


 

「観音様は秘仏、常にみ帳がかけられていた」というのは、『験記』からの事かと思える。

秘仏ありきで、聖武上皇の夢占いは後講釈かとも思えるが、ここは『験記』を信じてみよう。

こんなところから、「いわゆる裏観音」を拝観させるシステムもできてきたのだろうか。


ところがやはり、観音様を拝みたい、拝観したいという声が出てくるのも自然の習いである。

長谷寺再興(真言宗豊山派)には、豊臣秀長の力が大きく働く。観音様を「拝みたいものは金一両を添えて」という、ご開帳の基準が豊臣秀長によって決められたという。


江戸時代に入ると、開帳の状態は通常で、例えば本居宣長は普通に拝観しているし、お正月は「寅の刻、御帳をそろそろと卸奉れば」で、朝の4時に開帳、それが「暁天開帳」と言われる時代になっている。

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                 閉帳されている観音様


ちなみにこの開帳は、明治からは午前6時に変わり、現在は大晦日の午後4時閉帳、元旦の午後0時に開帳と変わっている。



人力のころはゾリッ、ゾリッと帳が上がっていったようであるが、現在は電動でするすると下がり、するすると上がるので、注意してみていなければならない(笑)。


# by koza5555 | 2019-12-23 23:12 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

さる祭り(天理市福住別所)

福住町別所(天理市)の「さる祭り」、今年は12月22日に行われた。


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婆羅門杉の下の坊


従来は12月23日の天皇誕生日の行事だったが、23日は今年からは祭日ではないことから、「今後はそのあたりの日曜日に実施」と変わったそうである。

福住町別所の「さる祭り」は、地区の男子が旧暦の11月の申の日(12月下旬)に集まり、山の神を山の祭祀場へ送る行事である。

もともとは中学生、小学生の男子の行事だった。大将・副将を決め、祭の準備、行事後の炊き込み御飯をつくる段取りまで、すべてを子供たちで差配して祭は行われていたとのことである。

今では少子化の下で、行事は自治会が中心となり、更に女子児童の参加も求めて行事は行われている。注目すべきところは、子どもの祭であるとの趣旨が通されていて、祭の大将、副将は今でも子どもで、大将は勝田君、副将は舛田君だった。

祭は下の坊(バラモン杉のあるお寺 ご本尊の十一面観音像は奈良県の指定文化財である)で準備する。午前8時くらいから、次々と軽トラックが集まってくる。子どもも一緒に集まる。

参加者、役割の分担をするが、主としてはほぼ全員でひたすら縄をなう。縄の長さがポイントのようである。2時間ほど綯い続けて、出来上がった縄が巻かれ、笹竹にかける。


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 小学校4年生の勝田君もどんどん綯っていく

御幣、縄を持ち、山の祭祀場に出発する。掛け声は「せんざい、まんざい、ごくよう、あさめしくった、はらへった」で、意味は不明である。


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山の祭祀場では、祭壇を造り、周りを何重にも縄をかけまわす。


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最後に、付近の木の肌に、「2019.12.23  12回  勝田 舛田」と彫りこんで祭は終わりである。

「里山における水田農耕の守り神信仰であり貴重」として、天理市無形民俗文化財に指定されている。
村の集会場にはおいしい、炊き込みご飯が用意されており、そのおいしさに、図々しくもお替わりまでいただいた。

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# by koza5555 | 2019-12-22 17:31 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

維摩経と談山神社(藤原鎌足)

今頃になってしまったが、11月17日、談山神社は「例大祭」を斎行した。
鎌足公は天智8年10月16日に亡くなったと記されている。これを新暦に置き換えて11月16日に鎌足公を祀り、しのぶ神社では第一の大祭である。

今年は1350年遠忌とのことで力が入り、宮司の祝詞のあと、舞楽(蘭陵王は南都楽所)、長谷寺の学僧による「法楽」(ほうらく 経を読み、楽を奏して神仏を楽しませる)で、神仏習合の祭祀が執り行われた。


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また、ご神前には維摩居士像の額も飾られた。


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で、今日は『万葉集』を紹介したい。
巻8-1594に「仏の前の唱歌一首」がある。この仏・・・が藤原鎌足である。

時雨の雨 間無くな降りそ 紅に にほへる山の 散らまく惜しも」『萬葉集』 巻81594


左注に丁寧なお断りがある。

「右、冬十月(かみなつき)、皇后宮(おおききさきのみや)の維摩講(ゆいまこう)終日(ひねもす)大唐(おおもろこし)・高麗(こま)等の種種(くさぐさ)の音楽(うたまひ)を供養し、しこうしてすなはち此の歌詞を唄ふ。琴弾きは市原王、忍坂王(後、大原真人赤麻呂ヲ賜姓フ)。歌子(うたひと)は田口朝臣家守(やかもり)、河邊朝臣東人、置始連長谷(おきそめのむらじはつせ)等、十数人(とたりまりのひとなり)」

維摩講は藤原鎌足がはじめたといわれ、天平5年以後は毎年1010日から16日まで、興福寺で行われた。ここは鎌足の孫にあたる光明皇后が皇后宮で行ったもの。(萬葉集・小学館から)

歌は天平11年冬10月の歌である。左注にあるように、中国や朝鮮の歌を「終日」演奏し、唄って供養したという。どういう風に演奏されたか、また歌われたかの興味が尽きない。

この天平11年(739年)というのは藤原鎌足の70回忌で、孫の光明皇后が維摩講をあげ供養した。鎌足が亡くなったのは天智8年(669年)ですから。

題詞は「仏前の唱歌(しょうが)一首」でして、音楽に合わせて、みんなが歌った。

歌は「モミジが散るのは惜しい、雨よそんなに降るな」という歌である。1016日という事だが、新暦に直したら1116日、モミジが散る季節ではあったのだろう。談山神社のモミジもこんなところから始まっているのだろうか。

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# by koza5555 | 2019-12-11 23:08 | 万葉の旅 | Comments(0)

万葉集一番歌 春日神社境内(桜井市脇本)にて

1116日(日)、南都銀行の「〈ナント〉萬葉チャリティウォーク」に参加した。奈良女子大学名誉教授、高岡市万葉歴史館館長の坂本信幸先生が案内された。

ちょっと時間が経っているが、来年にお話しする準備で、備忘録みたいにものとしてアップしますので、よろしければお読みください。

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大和朝倉駅前にて、坂本先生のはじめのごあいさつ

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ウォークは、かって雄略天皇の初瀬朝倉宮とされた白山比咩(しらやまひめ)神社(初瀬の黒崎・萬葉集一番歌の歌碑あり)から始まり、続いて脇本の春日神社(現在はこの地を歴史学者も考古学者も朝倉宮とみる見方が多い)を訪れた。脇本の白山神社で坂本先生の講話が行われた。

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脇本の春日神社。現在は朝倉宮はこの神社の周辺だったと言われている

万葉集巻11番についてのみ先生のお話を紹介します。

天皇の御製歌(おほみうた)

原文は

篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑 名告紗根

虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座

我許背齒 告目 家呼毛名雄母

訳文は

篭もよ み篭持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな な告らさね

そらみつ大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ

我れこそば 告らめ 家をも名をも

先生は「万葉集は声を出して読め」と言われる。

「こもよ」は3文字、「みこもち」は4文字、「ふくしもよ」は5文字、「みぶくしもち」は6文字、文字数が一つづつ増えていく、勢いがあるとのことである。

そのあと、「このおかに」は5文字、「なつますこ」は5文字、「いえきかな」は5文字、「なのらさね」は5文字で、ごん、ごん、ごんと調子よく押し出していく・・

突然、「そらみつ」で変調して・・

力強く、

「押しなべて我こそおれ」、「しきなべて我こそおれ」

わたしこそ言おう。私の家も名前もである。

最後の「我こそは」5文字、「のらめ」は3文字、「家をも名をも」は7文字で、これは古い歌の特徴とのことでした。

大和史には、「雄略天皇の宮は岩坂谷にあり」とされたが、その後、黒崎となり、現在は脇本遺跡、ここ、脇本である。

「広場の跡があった。池があったり、5世紀の柱穴が出てきた」という事で。

雄略天皇は高御座で即位した初めての天皇とされる。高御座とは平城京跡の復元大極殿にあるもの・・今年は大嘗祭で令和天皇がお座りになり即位されたもの・・

また、『万葉集』はこの雄略天皇の歌から始まる。『万葉集』ができた8世紀の人は、雄略天皇が大和王権の版図を広げたと考えていた。現代の歴史学と考古学は、それをさらに裏付けている。

雄略天皇の果たした歴史の役割についてはまた触れるとして、『万葉集』の巻頭で、雄略天皇が「我こそは告らめ」とまずは「告る」のである。

雄略天皇は葛城の一言主大神と名乗りあう時も、「告られている」(のられている)。

『万葉集』の2番は舒明天皇の国見の歌である。こちらは天智・天武天皇の父親であるから、ここで出ても、当然のことがが、舒明天皇は「見る」である。

「支配地が豊かになるように」と願う国見の歌である。

3番」は狩りの歌である。

告る歌、見る歌、狩る歌と続いて、「告る、見る、狩るは古代の天皇がすべき大切な行事」、それは中国の故事によると坂本先生はお話しされた。

『萬葉集』は歌集だが、このように学ぶと、これは日本の国の歴史を記した礫書でもあるなと、僕は実感することができた。

坂本先生のお話は、いつもクリアで簡略、そして奥深い・・・ありがとうございました。

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黒崎(脇本遺跡の東方、300㍍くらい)の白山比咩神社境内の萬葉集発燿讃仰碑と一番歌歌碑。保田 與重郎揮毫

急用があり、このウォークは入り口の入り口だけしか参加できなかったが、実りの多いウォークだった。


# by koza5555 | 2019-12-05 08:18 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

宝山寺 歓喜天

宝山寺(生駒市)歓喜天の縁日は1日と16日で、今月は1日に「厄除大根焚き」、16日は大注連縄の吊り替えが行われて忙しい。

歓喜天は大根が大好物で、縁日には大量にお供えが行われるが、121日は参詣者に大根炊きのお接待がおこなわれる。お接待は1130日の午後11時から日が変わる1日の正午頃までで、午後2時ころまで行われる年もある。「大根がなくなり次第終了」という事で、終了時間が毎年異なるのである。とにかく1000本の大根である。およそ、一本を7個に切り、一人に二個づつを提供するので3500人ほどが大根炊きがいただける。

宝山寺(ほうざんじ)のご本尊は不動明王だが、鎮守神として歓喜天が聖天堂(天堂)にあ祀られている。この歓喜天の大好物の大根がお接待されるとのことである。



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歓喜天像はビナーヤカ(古代インドの神)が十一面観音(女性の姿のビナーヤカ)を抱き締める姿とされる。ビナーヤカは仏教に帰依する事を約束して十一面観音と抱き合い、善神に変わったという。

この抱き合う姿がなまめかしい。神像には思えない恍惚の表情である。抱き合う姿は「六処の愛」といい、

鼻で相手の背中を愛撫、

胸を合わせる、

手で相手の腰を抱く、

腹を合わせる、

足を踏む、

赤い裳裾をつけるとされる。


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歓喜天が商売の神であり、健康を守る神とされるが、この姿からはまずは恋愛の神というのも理があるだろう

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宝山寺のポイントを箇条書きしてみると…

宝山寺は、生駒市にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天とも呼ばれる。江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。

湛海は、伊勢に生まれ、入滅するまでの四十年間、一度も山を出ることなく、ひたすら難行苦行の不動信仰を貫いたと言われている。

湛海作の本尊、不動明王は重要文化財に指定されている。1882年に新潟県の大工、吉村松太郎が設計した獅子閣も併せて重要文化財に指定された。

聖天堂に祀られる双身歓喜天が生駒の聖天さんとして信仰を集めている。宝山寺は商売の神として大阪庶民の信仰を集めた。

1918年には日本最初のケーブルカー、生駒鋼索鉄道(現、近鉄生駒鋼索線)が敷設された。

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# by koza5555 | 2019-12-01 13:19 | 生駒谷 | Comments(0)

龍王山古墳群

龍王山古墳群(奈良県天理市)に来年(31日)、チャレンジします。


高い所まで(龍王山)、楽に上がり(タクシー)、それなりの険しき道を下って魅惑の龍王山古墳群を探索して、とびきりの美味しきランチをいただくという、夢のウォークを用意しました。やまとびとツアーズ、「古墳に入ろう」シリーズです。

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ウォーキングの紹介は以下の通りです。

3/1() 名物ガイドと天理龍王山古墳群に入ろう!~奈良県随一の古墳密集地帯をゆく~

古墳ファンの心をくすぐる、知る人ぞ知る群集墳

天理駅を午前9時。解散は柳本駅午後345分を予定しています。

今回の古墳に入ろう!シリーズの舞台は天理市。龍王山古墳群は600基とも1000基とも伝わる、古墳時代後期から終末期にかけて造営された県内最大規模の後期群集墳です。

本ツアーでは、天理駅からタクシーで龍王山山頂付近へ向かいます。そこから、龍王山古墳群を雑賀耕三郎氏のガイドで巡ります。山麓では崇神天皇陵や黒塚古墳などの大型古墳にも足を運びます。昼食は、大阪心斎橋の人気店が2017年に移転オープンされた、洋食katsuiにて黒毛和牛ロースの網焼きとエビフライのセットをお召し上がりいただきます。

※解説を聞きながらのウォークのため、比較的ゆっくりとしたペースですが、龍王山山頂付近から下りの道が続きます。どちらかと言えば健脚向けです。


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# by koza5555 | 2019-11-30 16:30 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

いきもので読む、日本の神話

『いきもので読む、日本の神話』平藤喜久子著 國學院大學の教授である

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神話で語られる動物の活躍、人との関わりを『古事記』、『日本書紀』、『風土記』(出雲・播磨・豊後・肥前の五か国と山城国逸文・丹後国逸文)などから紹介する。

原典を紹介しながら、どのように今、祀られているかの解明・解説もあり・・目からウロコがうようよである。

たとえばウサギ。因幡のシロウサギは有名である。オオナムチ(後の大国主)が、兄神たちによって皮をはがされたウサギを助ける話である。助けられた兎が予言する「兎神」となる。この兎が神になるために、「瀬死の重傷から復活するという特別な体験」が力となる。

この兎は、鳥取市で「白兎神社」として祀られている。この神社は海岸の国道楚位にあり、2年ほど前の町の研修旅行の時、写真を撮ることができた。


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お正月には、大神神社の拝殿の前になで兎が置かれる。復活した「兎神」、ヤガミ姫との結婚を予言した「兎神」、きれいな美肌を取り戻す「兎神」として、初もうでの皆さんに激しくなでられる。

使者を務める鹿、古代も働いた犬、墓を守り抜いた忠犬の紹介もある。

また、蛇は伝承が多く、神話にも様々に紹介される。「神の姿は蛇」、「蛇をまたいで死に至る」(日本書紀 ヤマトタケル)、「生まれた子供は蛇だった」、「ヤマタノオロチ」「初恋の人は蛇だった」(ヒナガ媛)、「夜谷(谷戸の神)」(常陸の国風土記)、「蛇頭(じゃとう)人身」(肥前国風土記)などなどである。

「犬や鹿、猪、蛇など神話のなかに頻繁に登場するいきものがいます。おそらく古代の人にとって、良くも悪くもとても身近だったり、気をつけなければいけない存在だったりした」(p114)のである。

「平安時代に日本に持ち込まれた猫がいない」とか、「ちょうちょが出てこないのは不思議」とも紹介される。「蝶は神話のみならず歌にも歌われません。その理由は蝶は死者の魂と考えられ、縁起が良くないと思われていたと考えます」(p115)。

鳥の登場も多い。

鳥はどこからか来て、どこかに去っていく。

飛び来たり、飛び去る姿の不思議さから、鳥は霊魂を運び、時には穀物の魂も運ぶと信じられた。

まずは鶏。太陽神アマテラスは弟スサノオの乱暴に耐えかねて、岩屋に引きこもる。

神々が集まって、岩屋の前で祭を行い、アマテラスは岩屋の戸を開いた。この祭りの合図が「常世の長鳴鳥」、鶏の鳴き声だった。

20年に一度の伊勢神宮の遷宮では、新しい社殿に神をお移しするとき、鶏鳴三声といって、この神話に由来する鶏の鳴き声を模す儀式がおこなわれています。」(p127)」

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烏(八咫烏)、トビ(金鵄)、ハクチョウ、キジもそれぞれ説話がある。

キジを殺したアメワカヒコの葬儀では雁、サギ、カワセミ、スズメが活躍する。

セキレイは思わぬところで大活躍。イザナギ飛びましたいざナミがどのように性交するかがわからない、そんな二人にそれを教えてくれたのがセキレイだった。尾を上下に揺り動かすのが特徴で、それを見たイザナギとイザナミはそれを真似して性交の術を知る。

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日本書紀を見てみよう。

イザナギとイザナミは「ついに合交せむとす。しかもその術を知らず。時にセキレイありて、飛び来りてその首尾を揺らす。二の神、見して学びて、すなわち交の道を得つ」。『日本書紀』神代上第四段、一書第五

この本、おもしろい。おすすめである。


# by koza5555 | 2019-11-28 17:13 | 読書 | Comments(0)

万葉歌 遣唐使の歌

奈良県立万葉文化館(明日香村)が、「万葉集をよむ」という講座を毎月、開いている。文化館の研究員が、『万葉集』を数首だけ取り上げて、丁寧に読み解く。今年度は『万葉集』巻5である。1年かけて、巻5だけを解説するのだから豪華なものである。そして、講座は一回ごとに完結するから、いつからでも参加できる。

で、11月は27日(水)に開催、テーマは「遣唐使におくる歌(894896番歌)」で、講師は吉原啓研究員であった。


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紹介された歌は894番歌の長歌と895番・896番の反歌である。

以下、紹介する。

「好去好来の歌一首 反歌二首」

「天平531日、良(憶良)の家に対面し、献ることは三日なり。山上憶良慎みて上がる 大唐大使卿記室」

歌が詠まれたのは天平5年(733年)3月で、天平543日に遣唐使として出発した多治比広成に送られた歌である。

憶良は大宝元年(701年)に栗田朝臣真人の遣唐使で渡唐しており、経験者として出発間際の広成と面談したか。

長歌(894歌)と短歌をすべて読むのが吉原啓流である。長歌の表題にある「帰去来」(陶淵明の漢詩によるか)、それから歌の中の「神づまり」(『祝詞全講釈』によると神として鎮まる)などが順次、解説された。

反歌は二首。

5-895 「大伴の 御津の松原かき掃きて 我れ立ち待たむ早帰りませ」

大伴の御津の松原(難波のこと)を掃いて、私は立ってお待ちします。早くお帰りください。

5-896 「御船泊てぬと 聞こえ来()ば 紐解き放けて立ち走りせむ」

難波津に船が到着すると聞こえたら、紐を結ぶのももどかしく、走り出て迎えに参ります。

この二つの歌の解釈で上野誠と菊池義裕がガップリ四つという話である。ここらは、ちょっとレベルは高い。

上野論は「憶良が港の清掃をするなどはありえない。これは女性の立場で歌った歌」で、「立ち待つ」「はや帰りませ」は女性の表現である。待つ妹の立場で待ち焦がれる女性の気持ちを表現している」とする。

896番歌の「紐解き投けて」は「旅の安全を祈願して解かなかった「斎き」の紐を解き、「共寝」の紐解きであるとする。

菊池先生の論もみてみよう。「かき掃きて」は、実際に行われる、港ではなく「御津の松林」で、遣唐使を待つ地を清浄に保つ行為で、「斎き」の象徴的行為でもある。

「紐解き放けて」は無事を祈ってきた「斎き」の紐を解き、くつろいで相手に会おうとすることであるが、これは多治比家の婦徳という論である。広成の父の妻である音那は貞節を理由に元明天皇から称賛されている(続日本紀)。この伝統を踏まえ、「迎える妻を広成をささえる存在として焦点をあてる反歌である」との論である。

「上野論は笑いの歌」、「菊池論は婦徳の歌」という論で、いずれも捨てがたい。

遣唐使を送る歌では柿本人麻呂の巻133253歌と3254歌も有名である。

磯城島(しきしま)の 日本の国は 言霊(ことだま)の たすくる国ぞ ま幸くありこそ(3254番) 

この歌に関しては「言霊」問題が、解説された。折口信夫によれば、「完成された意味ある言葉」だけが、言霊となる。

またこれらの歌は、遣唐使に係る歌ではなく、九州に赴任する役人を送る歌という論もある。

他には・・・天平5年の遣唐使の歌では

旅人の宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ天の鶴群(たづむら)(巻91791

これも同じく、天平5年の遣唐使の船出の歌で

沖つ波 辺波(へなみ)な越しそ 君が船漕ぎ 帰り来て 津に泊つるまで(巻194246

さらに憶良の遣唐使の時代の歌は

いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴の三津の浜松待ち恋ひぬらむ(巻1-63

最後ですが、長歌に出てくる「値嘉」(ちが)の岬の事である。これは五島列島の値嘉島のことで、日本の西端と言うとである。

追儺の祭文(延喜式より)をみると、

東方は陸奥、西方は値嘉、南方は土佐、北方は佐渡とされており、それに照応する。

なんか、途中から箇条書きになってしまって、申し訳ない。遣唐使に係る歌だけは紹介した。一度、機会があれば確かめていただきたい。

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この講座は申し込みの必要がなく、無料である。駐車場も無料だが、この日は混みあう。

ちなみに12月は1218日(水)午後2時から「山上憶良の生死論(沈痾自哀の文)」となっている。

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# by koza5555 | 2019-11-27 22:29 | 万葉の旅 | Comments(0)

泊瀬の風

明日香風とは違い、初瀬谷に吹く風は冷たい。それは今も万葉の時代も変わりがないのである。

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万葉集を二首、紹介したい。

我妹子は 衣にあらなむ 秋風の 寒きこのころ 下の着ましを(巻10-2260

泊瀬風(はつせかぜ) かく吹く夕(よい)は 何時までか衣 片敷(かたし)き 我がひとり寝む(巻10-2261

阿蘇瑞枝先生の「万葉集全歌講義」によれば、「いとしいわたしの妻は、着物であってほしい。着物であったら、秋風が吹くこの頃、衣服の下に着るのだが」(2260

「泊瀬風がこのように吹く夜を、いつまでも、衣を片敷いて、わたしは一人寝をしなければならないだろうか」(2261)と、訳されている。

「愛する妻が衣だったら、下着代わりにしたい」とか、「泊瀬の風が冷たいのに、私は一人寝」、当時は夫婦二人の服を布団代わりにしたらしい。それが半分しかないことを嘆く」。

女性の歌とも、男性の歌とも両論がある。

いずれにしても、「いつまで一人で寝なければならないのか。冷たい泊瀬の風に震えて」という気持ちを歌いきっている。

風といえば、志貴皇子の明日香風は有名である。

采女の袖吹きかえす明日香風 都を遠みいたづらに吹く(巻151

まあ、季節は違うだろうけど、泊瀬風と明日香風の差は歴然だ。


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初瀬まで来ると、桜井とはちょっと冬の寒さ、夏の涼しさが一味違う

初瀬小国というくらいだから、この谷の国を吹き下ろす風は、今も昔も冷たいのである。

何時の年だったか、だだおしの日、猛烈な雪に長谷が覆われたが、桜井の町には雪が降らなかったということもあった。

ところで、この初瀬谷の入り口辺りを歩くウォーキングがある。1116日(土)、今週である。「第66回〈ナント〉萬葉チャリティウォーク」と言い、講師は坂本信幸先生である。申し込み用紙は南都銀行の支店に置かれている。その場で申し込めるが、締め切りは14日である。近鉄大和朝倉駅を午前9時集合、黒崎、脇本、金屋を経て大神神社で午後1時解散。

代金は無料だが、「チャリティウォークというから、募金がある」のかな。

僕は、行くと決めて、申し込んだ。

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# by koza5555 | 2019-11-11 20:37 | 万葉の旅 | Comments(0)

長岳寺奥の院道と竜王山古墳群

「柳本の遺跡群、長く深い歴史の長岳寺、更に600基もの古墳が連なる竜王山群衆墳を回るコースを作ってみよう」と・・その下見をしてきた。

普通ならばJR柳本駅を出て、オカタ古墳(竜王山古墳群辺りは最大の前方後円墳・ホタテ貝式という論もある)を経て、龍王山古墳群を上る。

JR柳本駅、崇神天皇陵、オカタ古墳、竜王山古墳群を登りつめる。石仏を眺めながら、長岳寺、黒塚古墳展示館というコースである。

「きつそう。食事もどこで」が決まらず、工夫が必要である。


竜王山の群衆墳、これがすごい。

長岳寺から登って、石仏を撮ることができた。善教作風のお地蔵さまも見落とさない。

地蔵座像が浮き彫りにされている。「定和5(1349)218日 仏子行真」と刻銘されている。中山念仏寺にも、同じ年月、同じ大きさ、同じ作風の石仏があるとのことである。

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江戸時代に藤井庄(天理市だが東山中)の人が作ったという不動石仏もある。

目的の長岳寺奥の院に到着する。奥の院には建物はなく、谷川沿いに不動明王が屹立する。高さ2m、火炎光背をもつ。右手に剣を構え、左手は索を持つ。勧進碑があり、元徳2年(1330年)の年号と施主名が刻まれている。


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長岳寺、奥の院道(長岳寺登山道)にめぐる石仏はこれまでにして、めあての竜王山古墳群である。はじめに奥の院北側の横穴式石室である。奈良県遺跡地図の12c―96だろうか。

横穴式石室。使われた石は小さいが、ここに、ここまでかという感じ、胸が熱くなる古墳である。海抜460㍍、ふもとからの高低差は350㍍もある。


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南側の登山道を下る。横穴式石室は次々と現れる。入室できる古墳も数多い。

左手(南側)の杉林にいかにも古墳という土饅頭がある。登山道を外れて杉林に入って、南側からの覗き込んでみると、いずれも石室が残されている。

誰が、何を考えて、これだけの古墳を作り続けたのか‥圧倒される。

石槨と思われる後期も後期の古墳もある。

石室は古い時代の方が大きく、時代が下がるにつれて小型かする。石槨墳とみられる石室も見られた。

この古墳群は横穴式石室墳と横穴が混じって作られたことが特徴で、遺物からみると石室が作らなくなる7世紀にも横穴では追葬が行われていたとみられる。

今回も堰堤の南側辺りにあるはずの3号墳は発見できず。

オカタ塚古墳を経て、渋谷に下りた。

オカタ塚古墳は、全長55㍍の帆立貝式古墳(方形の張り出しは北東)との論もあるが、航空地図からは南西に方形の張り出しを持つ長さが120㍍の前方後円墳とみるのが妥当と思われる。古墳時代後期の、最終段階の前方後円墳である。

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# by koza5555 | 2019-11-10 21:37 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

多武峰の鳴動と御神像の御破裂


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これは昨年(2018年11月20日)の写真です

多武峰(談山神社と江戸時代までの妙楽寺)の歴史にとって、室町時代を中心に連発した御破裂山の鳴動と御神像の御破裂は一つの根幹である。

天下国家の不条理に対して、藤原鎌足公の御神像が怒りの破裂を起こすという現象である。御破裂は多武峰から摂関家へ報告され、告文使(こうぶんし)が派遣された。それなりの対応があり、御破裂は治るとされた。

中世の「怪異」をテーマにした本があり、講演会も行われるとのことである。


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高谷知佳氏が書かれた『「怪異」の政治社会学』(講談社選書メチエ)と、奈良県立情報館で行われる令和2年113日の講演である。

御神像は木像であるので、「これは割れるわなあ」などと僕も不埒なことを考えていたら、500年も前にも、同じことを考えた告文使がいた。

66日に鳴動が起き、それによって、さらに大織冠像の破裂が横方向に広がった。横方向の破裂は通常の縦方向のものよりはさらに深刻である。名前は覚えていないが、かっての告文使で、破裂について「木像が乾いて破れることは珍しくない」などという「荒言」を吐いたものがおり、その者は多武峰川で死んだ。(『後慈眼院殿御記』永正792日 1510年のこと)(p211

なるほどである。


御破裂は、醍醐天皇の昌泰元年(898年)が最も古く、爾来慶長12年(1607年)に至るまで710年間に御破裂の事は35度、告文使が多武峰に登ること33回に及んでいる。・・・


最後のお破裂を記録した『多武峰破裂記』によると・・・「御陵山大に鳴動し、神光四海に輝き、光物国々に飛行す」といわれる異変があり、人心恐々たる有様であった。冬野八幡で御湯を立てられたところ、御破裂だとの神託があり、更に大原の宮でも同様な神託があった。けれども旧伝に従って三輪市で辻占をさせたところ御破裂ではないというので、廔々そのままになっていたが、方々に破裂の風聞もあるし、旧例もあることで重ねて神拝せられた結果・・御破裂のあったことがわかり、京に伝えられた。(桜井町史p42


この破裂については『神道大系』も紹介している。

『御破裂之覚』  慶長13年(1608年)多武峰学侶方編

これは最終の慶長1242日の破裂に係る顛末の詳細な記録である。

 古来、神像破裂は天下の変事を告誡するものとしておそれたが、その実は強訴手段で、破裂の都度、藤原氏の氏長者に注進、氏長者は怪異吉凶を占い、告文使を派遣して平癒を記念した。慶長の場合、当路との駆け引きの詳細はもちろん、郡山から帰山後も、新峯であった支院のみで配分している坊領の再配分を要求する訴えであったこと・・が興味深い

『神道大系 神社編5 大和』

ここで、多武峰大織冠像の最後の破裂をとおして、「収拾される怪異」が息の根を止められる瞬間を見ておきたい。江戸時代初期、慶長12(1607)の事例(神道大系の紹介)がそれであるが、じつはこの破裂は、多武峰が自ら訴えたものでなかった。

 豊臣秀吉は、大和支配の拠点を、興福寺の支配する奈良から少し離れた大和郡山に据え、弟の秀長を城主とした。そして大和郡山へ多武峰の大織冠像を遷座させようとしたが、秀長の死などの混乱もあり、最終的に大織冠像は多武峰に帰ってきた。そうした状況の中、近隣の冬野八幡宮が、湯立神事により、「大織冠像が破裂を起こしている」という神託を受けたという。多武峰は自らは何もしていないのに、神託を確かめなければならないことになる。

家康の御威光で、これは最終的に解決した。

もう、これらの経過を見ると、怪異はなくなっていて、中世、室町時代の神を畏れる、神託の時代が終わったことが示されている。(p244

さらに、高谷知佳氏の『「怪異」の政治社会学』にそって、多武峰の御破裂を見てみよう。

永正7年(1509年)の御破裂をめぐる経過もすさまじい。34日に御破裂があり、1018日に告文(こうぶん)使が派遣され、平癒となる。が、1125日にまた、破裂となる。

この破裂に係って注目されるのは興福寺と多武峰の衝突である。

興福寺は藤原氏の氏寺、多武峰は藤原氏の始祖の鎌足を祀る。

多武峰から摂関家に御破裂の報告がされる。それに対して、興福寺からは「興福寺に入るべき年貢を多武峰が横領している。だから、告文使が出されるならば、捕える」との摂関家に連絡がなされた。九条尚経の日記に記されている。

興福寺は当時、「多武峰が祀る大織冠鎌足を『放氏』する」とさえ、訴えていたという。

「放氏」とは、興福寺に従わない藤原氏が生まれたとき、そのものの藤原姓を取り上げるという措置である。これがあるから、興福寺の権力が維持されている。

ところが、興福寺は始祖の鎌足の藤原姓を取り上げるという。始祖を放氏したら、興福寺は成り立つだろうかという事だ・・・・・これくらい、多武峰と興福寺の間は険悪となっていた。(p208・・一部省略)

御破裂山の鳴動と御神像の破裂について書きたかったが、それは次の機会である。

ページ数だけ入っているのは、『「怪異」の政治社会学』による。


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著者の高谷知佳氏の講演会が奈良県立図書情報館で令和2113日(祝)午後2時から、「怪異と中世社会―破裂する藤原鎌足像は何を訴えたか」が行われる。


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# by koza5555 | 2019-11-08 09:57 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

桜井市の戒重と仁王堂

地元の阿部と戒重(桜井市)の話である。

安倍文殊院のすぐ北に八町という小字があった。何かの折、阿部生まれ、阿部育ちの森井さんという方に、その名前のいわれを聞いたことがある。

「仁王堂(にょうどう)から八町ということだ」と言われる。ちなみにこの森井さんのお家の住所は「大字阿部、小字は長門」である。

仁王堂は安倍文殊院をまっすぐ北に行くと横大路に突き当たった辺りで、造り酒屋だったお家をはじめ、往時の姿を色濃く残す町である。


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小さなお堂があり仁王堂という。扉はいつも閉まっており、「ここに仁王様がおられるの」と聞いたことがあったが、皆さんの反応はいま一つはっきりしない。

先日から、この仁王堂のお堂の修理が行われていた。

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お堂は完成に近づいていた。今日、通りかかると、人だかりがあり「これから開眼会(かいげんえ)を行う」とのことである。

仁王堂を守っているのは、戒重区の西町、中の町、西横町とのこと。谷の岡本僧侶が導師で、僕もお断りして、参列させていただきました。

いつもは閉まっている仁王堂、今日は開扉されていて写真も撮ることができた。



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仁王堂だが仁王様はいなかった。祀られているのはお地蔵とのこと。堂内には、観音菩薩の石仏、、手前には10体ほどの、いかにも道端のいましお地蔵さんが、こちらで祀られていた。

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「地蔵和讃」がうたわれ、ご真言は「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」で、お地蔵さんを称えるご真言である。

和尚さんにお聞きした。

「安倍文殊院(当時は崇敬寺)の仁王門がここらに置かれていたのではないか。横大路の安倍文殊院への入り口である。八町(800㍍ほど)とか、言っていたのではないか」とのことである。

「現在はお地蔵様です。歌いましたのは地蔵和讃です」と教えていただいた。

戒重の歴史は長くて深い。

34代舒明天皇の宮は「訳語田幸玉宮」とされるが、この宮が戒重だったとされる。現在の白山神社の辺りである。

さらに南北朝の闘いが、戒重城をめぐって激しく戦われたことも記録に残されている。

南朝軍の西阿、子息の良円などは戒重と河合に城を築いている。

1337年に三輪西阿は櫟本(天理)にて北朝軍とたたかう。

1340年には北朝軍は開住(かいじゅう)西阿を討つために出兵。西阿は大仏供庄(大福)の年貢を横領。

13412月、幕府は西阿追討軍。釜口を奪い、阿部山に陣をしく。

4月に河合城陥落、72日戒重城陥落、西阿らは外鎌山城に移り抵抗したが3日に陥落。

この地が江戸時代になって、またまた脚光を浴びる。

大和の織田家、芝村藩は初めの陣屋を戒重に置いたのだ。中世の砦、戒重城を整備して陣屋とした。その後、陣屋は手狭となり、のちに芝村(桜井市三輪)に移転する。

現在の仁王堂(西大路と山田路の十字路)のすぐ西に、陣屋の大門が置かれた。北に向かって陣屋の中央道路が通ったため、門の辺りの横大路は「城下町」となった。

酒屋や魚屋、桶屋などができた。酒は尾張や清州から連れてきた、酒職人の手で「鬼殺し」という酒が醸造された。
その酒は、庶民的でおいしくて、「池田いたみのもろはくよりも 戒重酒屋の鬼ころし」と歌われたという。


付け加えると、織田藩の用人は、ほとんどが尾張、美濃の出身によって占められたが、徐々に足軽、人足は大和の人に替わっていったとのことである。


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# by koza5555 | 2019-11-07 19:39 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

法起寺の三重塔

法起寺の三重塔を拝見してきた。

法起寺の創建は文書資料が残されている。

仏塔の相輪の盤を露盤というが、法起寺は創建時の路盤の現物は残されていないが、そのコピーが残されている。


現在から800
年も前に法隆寺僧顕真が、聖徳太子に関わることを集めて『聖徳太子伝私記』(1208年)を書き記した。
この私記に法起寺三重塔の露盤の全文が収録されていて、聖徳太子が亡くなるときに山背大兄王に「岡本宮は寺にせよ」と遺言したと記されていた。

舒明天皇10年(638)に弥勒像と金堂が造立され、慶雲3年(706)に塔の露盤がつくられたという。

 岡本の宮は、日本書紀に次のように記されている。

 皇太子(聖徳太子)は推古天皇13年に「冬10月に斑鳩の宮に移られた」。

 この年皇太子は法華経を岡本宮で講じられた。天皇(推古天皇)は大いに喜んで、播磨の国の水田100町を皇太子に送ら、太子はそれを斑鳩寺(法隆寺)に納めた。

 慶雲3年(706年)の建立ということで、これは日本の現存最古の三重塔だという事になる。

境内の発掘によって、金堂が西、塔が東に建つ、法隆寺とは逆の伽藍配置であることも分かり、この形は法起寺式伽藍配置と呼ばれることになった。

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法起寺は平成5年(1993年)に「法隆寺地域の仏教建造物」として、法隆寺とともに日本で最初の世界遺産に登録されている。

コスモスが有名である。
藤原宮、般若寺と併せて、奈良のコスモス三名所・・・誰かが言っているかもしれないが、僕もそう思う‥
この写真が欲しかった。10月26日の午後、の写真である。今年は遅いとのことだった。

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農家が自分の意思でコスモスの種をまく。コスモスの種は農家が収穫して、斑鳩町役場で保管するとのこと。
コスモスを目当てに来る人が、農地に入ったりするので「監視人」がいるが、それは斑鳩町が配置しているとのことだった。
今年一番の咲き頭のコスモス畑は塔の東側の田んぼ。家の事情で3年くらい、作付なし、コスモスも植えられていなかった田んぼだったが、今年は播種したところ、でき映え一番。土地の地力、栄養の関係だろうか。

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コスモス見に行ったら、法起寺は入山して・・300円です。
夕焼けは・・ほぼなし・・

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# by koza5555 | 2019-10-26 21:16 | 奈良県 | Comments(0)

歌集 大和まほろば

歌集を読んだ。

三輪山に友らと登り祈ることそれぞれなれど皆同じ年
この歌に息をのんだ。きっと同窓生との登拝だろう。


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『歌集 大和まほろぼ』(京阪奈情報教育出版)という本を松森重博さんが書かれた。

松森さんは10年前に「毎日新聞やまと歌壇」に初入選。2013年には「新あららぎ」には入選された。その後投稿を続けられ、合計すると500首も採用されたとのことで、それをまとめられた。

松森さんは、奈良もちいどのセンター街理事長、ならまほろばソムリエの会の理事でもある。

この歌集を入手して、すべてを投げうって一気読みだった。

社寺のたたずまい、奈良の行事の姿、風景や人の暮らしを丹念に写生するかのような歌が続くが、奈良愛、さらに具体的にもちいどのへの愛がものすごい。


「奈良っておもしろいやん」と言う若者増えてたのもしもっとつながれ

ハルカスより亀の瀬越しに遥か霞める山は吉野か宇陀か  大阪あべのハルカス展望台より


奈良の地に生まれ育ちて住み継ぐは恵まれしこととつくづく思う


もちいどの商店街ともちいどの夢CUBEを見つづける歌も数多い。

町の名が「餅飯殿」ゆえ皆出て歌に合わせて餅を回しぬ PRビデオ

秋の連休人出多き商店街我も汗かき店番する


高校時代の恩師が師匠とのことで、

わが歌を評し下さる小谷先生「他人の歌読め」「字は丁寧に」


「短歌は報告ではいけない。もっと写生を。もっと具体的に」との恩師(小谷先生)の教えはいきていそう。


最後に、この歌・・・桜井の友は僕かも

桜井より若草山の火の見えしと友より望遠写真の届く  若草山焼き



松森さんは10年くらい前に友達になった。ちょこちょこお世話になったから、足を向けては寝れない関係である。松森さんと知り合いになってから、10年間、ぼっと僕は生きて来たけど、松森さんはこんな歌を詠み、本までだして。すごいわ・・・

奈良市の啓林堂で販売されている。1500円である。奈良がもっと好きになる・・買って・・読んで



# by koza5555 | 2019-10-12 16:53 | 読書 | Comments(1)