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奈良・桜井の歴史と社会

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日本書紀の山辺道 鶴井忠義

元奈良新聞文化記者の靏井忠義(つるいただよし)さんが書いた。
「山の辺の道沿いの地域に絞りこんで、日本書紀の舞台を訪ねた。
そこは、三輪であり、磯城であり、纏向であり、布留である。・・・大和の中のヤマトである」と「はじめ」に書かれる。
ちょっと問題意識があって、あれこれ考えていた問題もあったので、ムサボリ読んだ。

この地域には数多くの古墳があるが箸墓、行燈山、渋谷向山、西殿塚、桜井茶臼山、メスリ山と6大古墳が含まれている。

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箸墓古墳、遠望は三輪山
堺の仁徳天皇陵の造営は2千人が8時間働いたとして、15年かかるという。
ヤマトの古墳はそれよりは小さいが、3~4世紀に「巨大な富と権力を持つ集団が一定期間存在したという、動かしがたい事実」があると指摘する。
こうした権力が突然、成立したとみることは無理があり、ヤマトの特別な位置、力をもっと評価すべきであろう。


和邇坂(わにさか)(天理市、名阪国道が針に向け上りはじめるところ)についての納得できる説明があった。
書紀の崇神天皇のところで、北陸派遣軍に命じられた大彦命が和邇坂で世の不穏なことを少女に教えられ、復命して対策をとり、タケハニヤスヒコとアタヒメの反乱とたかったことが記されている。
靏井さんは、「なぜ和邇坂」なのだという疑問を持つ。靏井さんは「和邇坂は北陸に行くための分岐点だったことを示している」と解釈する。
僕等も北陸なら奈良坂経由と普通考えたが、当時の交通網は現在の名阪国道に沿っていたと考えるとのことである。そういわれると「いまでもそうだ。桜井から北陸へは、名阪、壬生野インター、甲賀、ブレーメンの岡、八日市、名神、北陸道という道が速い。古代と現代の道は一緒だと妙に感激している。

纆向都市論の論争の経過、野見宿禰と土師(はじ)、大和神社の変遷、石上神宮のタマフリなど教示を受けたことが多い。

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楽しい読書だった。図書館の本である
靏井 忠義さん。
「唐古・鍵遺跡、纒向遺跡、飛鳥京跡、平城宮跡、藤ノ木古墳などの発掘調査を取材・報道。取締役編集局長を経て、現在、青垣出版代表取締役、倭の国書房代表。奈良の古代文化研究会主宰」と奥付にある。
by koza5555 | 2012-10-25 00:02 | 読書 | Comments(0)
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