先日の古事記の学習会で「桜井市に天皇陵はいくつあるか」という設問があった。
桜井市は天皇の宮は13カ所もあることから陵墓も多いだろうと思うが、実は2カ所しかない。舒明天皇 押坂内陵(おしさかのうちのみささぎ)と崇峻天皇 倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)である。
今日は崇峻天皇陵のことである。
崇峻天皇は蘇我馬子に推されて、32代の天皇に即位するが、最後は蘇我馬子により暗殺された。
崇峻天皇陵 梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)前「馬子宿禰・・・東漢直駒(やまとあたいこま)に命じて、天皇を弑せ祀らしむ。この日に、天皇を倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬りまつる。」(日本書紀)
暗殺されたことが正確に記されており、臣下により暗殺(592年)された唯一の天皇と言われる。
この陵墓は明治22年治定されており、決定が最後までもつれた天皇であった。
お寺をつぶして作った陵で、古墳としての実態がない。そのこともあり、僕は「崇峻天皇は赤坂天王山古墳である」と論評してきた経過がある。
こんど勉強して良くわかったが、どうも宮内庁も「ここにはご遺体はなし」と判断したうえでの治定ということである。
しかも始めからここではなく、現在の崇峻天皇陵から500mくらい離れた岡の上とのことで、雀塚が陵墓だったという。そして現在も陵墓参考地として宮内庁が管理しているとのことである。明治9年に決められており13年ほどは「ここが崇峻陵」とのことである。
天誅組に参加した楠目清馬(くすめせいま)の墓地の下になる。
楠目清馬、土佐藩から天誅組に参加。鷲家口から敗残し、大峠(女坂)を越えて針道を越えて、倉梯に出るところで発見され自刃した。
楠目清馬墓なお、崇神天皇陵の石標は「倉梯岡上陵」であり、拝所燈籠は「倉梯岡陵前」となっている。石標は雀塚当時の名前になっていることから、石標は雀塚か現在の陵に移されたとみられている。
こんな雀塚の話、今まで誰も教えてくれなかった。
雀塚から降りたところから見る奈良盆地なお、雀塚を探すのはけっこうホネ。なんの標識も今はないから、楠目清馬の墓を探し、その下の南北一帯、黒ロープに囲まれた場所ががそれである。