長谷寺に行ってきた。
本堂舞台から五重塔。新緑
長谷寺戦国武将の供養塔がある。長谷寺には多くの供養塔が建てられているが、時の施政者、戦国武将の供養塔はこれ一基しか僕は知らない。
それは豊臣秀長の供養塔である。

奥の院、歴代能化(住職)墓所の五輪塔の中に紛れて立つ。
「この浄域には、真言宗豊山派の派祖と仰がれる専誉僧正を初代として、長谷寺歴代の能化(住職)の墓が奉安されています。
専誉僧正は、もと根来寺(和歌山県)の能化として真言宗の多くの僧侶を指導しておりましたが、根来寺が豊臣秀吉の焼き討ちによって焼失したのち、大和の国の領主、豊臣秀長公の招きで、天正16年(1588年)に長谷寺に入山されたのです。
その時から長谷寺は、根来寺の法灯を受け継ぐ真言宗の寺となりました
専誉僧正は、長谷寺を奈良時代以来の観音霊場として復興するとともに、全国から登嶺する僧侶達の指導に尽力され、真言宗の一大修学道場としました。
僧正に続く歴代の能化もまた、その伝統を受け継いで今日に至っております。・・略・・
平成15年4月吉日 総本山長谷寺」
奥の院から能化墓地をのぞむ
ツアーでは「長谷寺の歴史を彩るビッグネーム」という形で、僕は長谷寺の歴史を語る。
一人目は長谷寺を創建したという僧、道明である。法華説相図の解明から天武朝のころ686年に本長谷寺と呼ばれている西の丘に三重塔を建立したという。
二人目は十一面観音を作った徳道上人。727年に徳道上人が東の丘に十一面観音像を祀って開山したそう。
三人目は今の長谷寺の形を作り上げた専誉僧正である。秀吉に滅ばされた根来寺の頭職だったが、豊臣秀長が初瀬に招いて300石の寺領を与えた。1587年のことである。長谷寺はその時に興福寺から離脱し、真言宗豊山派を唱えることなった。
徳川幕府もこれを庇護し、三代家光が観音堂、4代家綱が大講堂、5代綱吉は500石に加増したという。
江戸時代を通して隆盛を重ねる。
このことを評して、初瀬に育って地元でよく知られているFさんは、「雑賀さん、豊臣も徳川も長谷寺を庇護したのはなぜだがわかりますか。それは東国経営なんですよ。東国に真言宗の僧侶を送ることが目的だった。だから長谷寺末寺3000といってもそのほとんどはいまも東国です」と言い切られている。それを証する手立ては僕にはないが、僕の知る豊山派の僧侶はすべて東国で出身である(法起院さんを除く)。

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月29日、本坊前から本堂をのぞむ