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奈良・桜井の歴史と社会

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蘇我氏の盛衰と乙巳の変

まほろばソムリエの会(有志)の勉強会が西大寺で開かれた。
日本書記を読むことをテーマにした、観光ボランティアガイド連絡会の木村三彦会長の講演である。
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西大寺駅前

4回シリーズだが、今回は第一回目、「蘇我氏の興隆と滅亡」だった。


お話の内容をかいつまんで紹介すると・・


蘇我氏の出自、本拠地などの解説があり、その隆盛と「おごり」が触れられる。
日本書紀によれば葛城の出自、あるいは曽我町と説明される。渡来系ということはさておいてと注釈がある。
大軽町、飛鳥の豊浦、島の庄というような進出をしたのではないかという論である。

日本書記を沿って蘇我氏の興隆が語られた。最近も発掘がすすんだ甘樫の丘の家のことである。
蘇我は「大臣(蝦夷)の家を呼びて、上の宮門(みかど)という。入鹿が家をば、谷の宮門という」とあるように、宮を見下ろして「城柵」、「兵庫」を作り戦いに備えた(644年)。
そして、その翌年、645年が乙巳の変である。
6月12日、三韓(新羅、百済、高句麗)からの進貢の儀式を機に中大兄皇子、中臣鎌足は入鹿の殺害を実行する。入鹿から巧みに剣を取り上げて、中大兄皇子が先頭に立ち切り付け入鹿を「誅殺」する。

蝦夷は戦いを決意し漢直(あやのあたい)等を集めるが、高向臣国押(たかむくのおみくにおし)が「吾ら、君太郎(入鹿)に由り手、殺されぬべし・・・」と一大演説を行い、退去、漢直等も退いたという。

木村会長の論点は

①律令制度を大化の改新というならば、むしろ蘇我氏はその推進者であったことが紹介された。
乙巳の変は権力争いとみるとのお話である。
②木村さんは、さすがに橿原の方、蘇我氏への愛情はとても深いと思わされた。これは端々にでてくる。「蘇我本家は乙巳の変で滅亡するが、倉山田石川麻呂を通じて子孫が残された」とも強調された。
③記紀は原典(読みくだし文)を読むと、雰囲気がわかると、その学習方法の強調もあった。
楽しく聞いた一時間半である。


ここからは僕の論(談山神社側・・?)である。故 芝房治さんもここらあたりは「小説 談峰の契」でるる述べている。

そこら辺りを取り混ぜて書くと・・
①藤原鎌足を主語で読むか、蘇我入鹿を主語で読むか。
同じ日本書紀を読んでいても、文章が変わるわけではないが、木村さんのお話を聞きながら、おもしろい再発見だった。
橿原町の曽我の方は「蘇我の恨み」として、談山神社の拝観はしなかったという。戦前は小学生の談山神社への遠足があったということだが、曽我町の子は神社の東口の屋形橋からは入らず、みんなが戻るまでそこら辺りで遊んでいたという。
あれこれの立場から見ると、歴史も悲喜こもごもである。

②入鹿の剣を取り上げる俳優(わざびと)の話がある。
三韓の使者を迎える儀式に、舞があったという。その舞人が畏れ多いと、剣を持たずに入り、言葉巧み入鹿から借りたという。そのまま返さずに幕間に消える・・・という形である。剣を入鹿から取り上げるにはうまい筋立てである。

③高向臣国押(たかむくのおみくにおし)が、戦を防ぐ役割を果たすが、これは蘇我の支配に飽き飽きしていたという前提、鎌足の手が入っていたということも可能性があったと見たい。
国押は山背大兄皇子を攻めた時、入鹿の「山背大兄皇子を捜索せよ」という命令を拒否するくだりがあるが、翻意の伏線は張られているのである。

④持統の時代に「戸籍を作らせた、一人一人の民を押さえた」と説明があったが、あとで木村さんにお聞きしたところ、「これは戸として抑えたもので個人を押さえたものではない」と説明していただいた。

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木村三彦会長、ありがとうございました。
by koza5555 | 2013-07-18 11:18 | 橿原・明日香・吉野
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