13日(金)は「磐余の途を歩く」、ウォーキングである。
谷から阿部、橿原市の池尻にかけて歩く。
磐余はヤマト王権にとって特別な地であることを再確認するウォーキングで、
磐余池とその地形、自分の目で和田萃説、千田稔説を確認するウォーキングであるが、大津皇子も主題に付け加えたい。
「磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや」の大津皇子、辞世の歌をどこで歌うかである。
御厨子観音妙法寺参道前から、想定磐余池跡地を見る
大津皇子の被死(みまからしめら)えし時、磐余の池の般(つつみ)にして流涕(かなし)みて作りませる御歌一首
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(巻3-416)
吉備池の堤
こちらには大津皇子、大来皇女の二首の歌碑がある。
吉備池廃寺(百済大寺)跡の金堂、塔の基壇を堤に利用した農業用ため池である。江戸時代からのものであるが、東は音羽山、南は多武峰、西に二上山と眺望が見事である。
養魚池用の噴水の先に吉備池廃寺の金堂跡がみえる
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りし時、大来皇女哀傷みて作りませる御歌二首
うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む
巻2―165番
大津皇子の被死(みまからしめら)えし時、磐余の池の堤にして流涕(かなし)みて作りませる御歌一首
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(巻4-416)
そして春日神社である
金烏臨西舎 きんう せいしゃに のぞみ
鼓声催短命 こせい たんめいをうながす
泉路無賓主 せいろ ひんしゅなく
此夕誰家向 このゆう いえをさかりてむかう
懐風藻、大津皇子の詩とされている。しかし、この時代にはほとんど辞世の作が残っていないこと、また『懐風藻』の詩については中国の詩に類似の歌があることなどから、後の人の詩との説もある。
大津皇子薨りましし後、大来皇女、伊勢の斎宮より京に上りましし時、作りませる御歌二首
神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに(巻2-163)
の歌も詩と合わせて彫られている。
春日神社(桜井市吉備)
ちなみに御厨子観音堂には大津皇子のご神像が祀られ、吉備の春日神社には大津皇子を祀っているのである。
御厨子観音では磐余池を、吉備の春日神社では百済の大寺を丹念に紹介しよう。