津田左右吉の本って、みなさんは読んでますよね。
現代の古事記・日本書紀の研究は津田左右吉が大きな起点になっていることは誰しも認めるところである。
古事記・日本書紀の解説本には津田左右吉、必ず出てくる。
いわば古事記・日本書紀を科学的に論証された方、そんな方なのである。
紀元(皇紀)2600年という昭和15年2月11日の紀元節の前日に「古事記及び日本書記の研究」などが発禁となり、「皇室を冒とく」したと津田左右吉は起訴されている。
この本、新しい本が出ているのである。「毎日ワンズ」、少し読みやすくされており、しかもとても安くて(1500円)、軽い本である
「建国の事情と万世一系の思想」。これは昭和21年に「世界」に掲載されたものであり、「古事記及び日本書記の研究」。これが昭和15年に発売禁止になった文献である。この二つの論文が収録されている。
僕の力では津田左右吉をたどることはとてもできないので、僕が思うこと、4点だけを紹介しておきたい。
① まずは感動である。
この本には戦前・戦後の文献が紹介されている。
津田左右吉のすごさは、発売禁止になった戦前のものと、自由な論評ができる戦後のものの論旨がまったく変わらないということである。
これが学者の「こころ」なんだなと思う。
僕らはそんな緊張した時代に生きていない。
ガイドなどをしていると社寺の由緒、いわれ、これがなかなか難物で、ふつうに考えて「どうですか?」というようなお話がいっぱいある。
だから僕がガイド案を考えるときは、「ここの由緒(伝承)は〇〇、歴史は〇〇、僕はこう思う」と、必ず三点セットで考えるようにしている。
時々、「これ三枚舌?」なんて思いながら・・・そこは学者ではなく、ガイドですから(笑)。。。
②津田左右吉は、古事記・日本書記は天皇家の歴史という。
皇祖神の代であるという神代の物語を頭に載いて、それから人代の話に移っている記紀の記載は、もっぱら皇室に関することであって、わらわらの民族のことを語っているわけではない、ということである。(p291)
あの時代に書かれたものである。天皇家の歴史の論証は詳細でしかも丁寧である。
神武天皇の東遷が、神代から人代にスムースに移行するための大切なエピソードだとの論証である。
神武天皇東遷の物語の意義は・・・天皇が日の神の御子であられるという思想から形作られた説話なのである(p256)とされる。
紀元2600年で沸き立っている。神武天皇東征の聖蹟の顕彰碑が建てられる、こんな時代なのだから・・ここが、問題になった、当然と言えば当然だが。
③津田左右吉が天皇家の万世一系を認めていることと、日本民族の単一性についての確信を語っていることもよくわかった。
そして、天皇家(大和王権)は大和を発祥とするという論である。
皇室の起源を説いた記紀の物語において、国家の内部に民族的な競争があったような形跡が少しも見えないということが、注意せらねばならない。これは、一方からいうと、最初に「帝紀」「旧辞」の編述せられたときにおいて、国家が昔から一つの民族によって成り立っていたと考えられていた一つの明証である(p292)。
遅くとも二世紀の頃には、その地方における強固な勢力として存在していたはずである。(p289)とも述べる。
大和朝廷は大和にあった。
それから津田左右吉は邪馬台国はツクシ論であり、ここらあたりが読みにくいところだったが、大和朝廷はツクシ(邪馬台国・卑弥呼)は知らなかった(同一民族、同一言語を使っていたとも言いながら)とも述べている。
④各氏族が記紀、そしてその土台となる「帝紀」「旧辞」の改変に働きかけたことがよく勉強できた。
記紀の上代の部分の根拠になっている最初の「帝紀」「旧辞」は、6世紀の中頃のわが国の政治形態に基づき、当時の朝廷の思想をもって、皇室の由来とその権威の発展の状態とを語ろうとしたものである。そして、それは、少なくとも一世紀以上の長い間に、幾様の考えをもって幾度も潤色され、あるいは改変せられて、記紀の記載になったのである。(p296)
記紀は天皇家の歴史である。各氏族はその歴史に関わってきたかを証明することが、いかに大事だったかが示されている。
僕の勉強は遅すぎたが、時間はまだまだある。勉強の時間をガーンと増やしたいと痛感した「古事記及び日本書記の研究」だった。