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奈良・桜井の歴史と社会

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空也上人と朝日観音

天理市佐保の庄に朝日廃寺と聖観音の石仏が残されている。

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これが朝日聖観音。「天文23年(1554年)12月各夜覚円」の銘があり、覚円という隔夜僧が千日の行を成し遂げ満願を記念して建立したもので、朝日寺の本尊として祀られたといわれる(てくちゃんと訪ねるふるさと歴史散歩・天理市)

上街道(初瀬街道)は佐保の庄の北側で大きく西に曲る。その曲りの内側に朝日山円通寺という大寺があったとのことである。明治8年に廃寺となり、朝日廃寺というべきものである。

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いまは、小さな観音堂が再建されており、木彫りの聖観音菩薩立像が安置されている


朝日廃寺(朝日堂)は南無阿弥陀仏と唱えるだけで、いかなる凡夫愚人も、いや悪人さえも往生できると説いた空也上人にかかわる寺院だった。

空也は往生の道を尋ねた高僧には、「捨ててこそ」と言い切り、罪人が囚われている東市(平安京)に庵をもち、「ひとたびも南無阿弥陀仏という人の 蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」と、極楽往生は一声の称名で間違いなしと説いたのである。

空也のこの教えは庶民に向かっての教えで、さらに鎌倉仏教の大きな源流になった教えであり、その人だったと言えるのである。

この空也が長谷寺を訪れている。
観音の霊地として名が知られていた大和の長谷寺に空也は958年に訪れた。55歳の時である。
さらに空也は長谷寺の帰りに添上(そうのかみ)郡の勝部寺に泊まったという。この勝部寺が奈良市であることは確実だが、その場所は特定されていない。高畑町の隔夜堂に関わりがあると見るのが一般的な見方であるけど。

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そのころ、空也上人はこんな姿で歩いていたのである。この像は六波羅蜜寺の安置されているものだが、阿弥陀聖 空也(石井義長著)の書の表紙をから想像してほしい

この空也上人の徳を慕って、いつしか初瀬と奈良を往還する隔夜行という行が生まれる。奈良で泊まった次の日は初瀬にと言う具合である。

白い着物に黒い衣を着て、ハスの花笠をかむり、胸の前に鉦を立てて、それを叩きながら念仏を唱えて歩き続ける。1000日とか1500日が満願だったという。
その姿とその思いは空也の遊行の姿であった。

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奈良では新薬師寺の奥、隔夜堂に泊まる

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初瀬では法起院に、のちに興喜天満宮境内の興喜寺に泊まるのである

この隔夜僧が朝日を迎える場が、大和神社、佐保庄の朝日円通寺だったのである。

最後に少し考えてみた・・・
空也は藤原師氏(もろうじ)の死に当たり、閻魔大王に手紙を書いたりするのである。「中納言 藤原師氏は先に冥途に向かうが、この方は空也の壇越(だんおつ)であり、魔王はこの事情を知り、優しく恵みを与えよ」と。長谷寺のダダ押しで徳道承認と閻魔大王の会話が出てくるが、中世の閻魔大王は今よりも人間社会に身近な存在だったのだろうか?

桜井市史、阿弥陀聖空也(講談社新書 石井議長)、捨聖・一遍上人(講談社現代新書 梅谷繁樹)を参照しました。
by koza5555 | 2014-05-01 22:44 | 桜井・山の辺 | Comments(0)
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