5月10日、萬葉学会主催の「萬葉一日旅行」に出かけてきた。
町内の行事が密集していた頃だったが、坂本信幸先生、上野誠先生が講師とあり、「これは見逃せない」。
天理駅前集合、石上市神社、在原神社、人麻呂歌塚・和爾下神社、東大寺山古墳を経て櫟本高塚公園で昼食、帯解黄金山古墳(舎人親王墓伝承地)や崇道天皇陵を拝見して奈良に至るというコースだった。
山の辺の道がテーマだったが、歩いてみたら、そこは僕には未知の道だった。
今度のコースはほとんど行ったことがあり、ブログにも書いたりしていたが、今回、解説を聞いてみれば僕の知らない物語だった。
和邇下神社にて、長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の「さすなべに湯わかせて子ども いちい津の 檜橋より来む(コン) 狐(きつ)にあむさせむ」を楽しく解説する坂本信幸先生
天理といえば石上神宮、石上神宮といえば布留川というような僕の図式だったが、今回はこれとは違って、もう一つ北の谷、「高瀬川と和邇」がテーマだった。
高瀬川は五ヶ谷に発して佐保川に合流してやがて大和川である。この川に沿って北の横大路という道があり、西名阪国道はこの道に並行しているのである。
この写真は切り貼りです(すみません)
櫟本に立てられている石標。
北の横大路と上街道(上ツ道)の十字路の石標。左たつた、右ならみちと刻まれている
この扇状地が縄文時代から生活空間として確立され、弥生時代の歴史(この谷から銅鐸が相当数出土している)もあり、古代の和邇氏の本貫地であるとみられている。
その歴史は中世・近世にもつながる。
在原業平とその父の阿保親王(平城天皇の皇子)を祀る業平寺が、この地にあったり、この地域の中心市街地が櫟本であったりするのも偶然ではないのである。
大和川、佐保川をさかのぼるとしっかりした扇状地があり、上ツ道、山辺道のチマタでもあるということで、盆地北東部を背景に巨大な力をもち、佐紀盾列古墳群にも関係した和邇氏の本拠地であるという見方だった。
いろんなことがつながった思いのする、良い勉強ができた。
上街道を歩いていて、由緒ありげな建物に出会った。大阪府警奈良警察櫟本分署跡・・・
奈良県が明治時代の初期、大阪府に組み込まれ(その後堺県、分離の運動があり奈良県に)ていたことは知っていたが、こんな遺産は知らなかった。
この分署で天理教教祖、中山みきが尋問されたとのことで、史跡として保存する運動があるようである。
大阪附警察奈良櫟本分署跡
あとは、東大寺山古墳であろうか。
天理教城法-しきのり-大教会の敷地内にあり、4世紀後半頃に築造された前方後円墳で、全長140m。葺き石、埴輪を持つ。粘土槨に覆われた、9.4メートルの木棺があった。
盗掘を受けていたが、粘土槨の東西に、武器や武具が副葬されており、東側から金象がんで「中平」(184年)の号を持つ刀が出土したことで著名である。
「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」とのことである。
解説は古墳の下で行われたが、僕らは古墳の上まで。
この古墳を探しに3回ほど来たことがある。教会の敷地内とは思わず、シャープの駐車場や寮のあたりをさがした。古墳の上で友人の田原さん(右)、左が田波さんである
今日は、どうしてもの所用がありお昼にリタイアである。
上野先生のお話を他の意味にしていたが、聞くことができなかった。次の楽しみとなった。