ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

おかげ参り 八木接待場跡

ちょっと、八木(橿原)のことにこだわっている。
八木と言っても、「札の辻」である。

a0237937_21124677.jpg
西国三十三カ所名所図会。「八木札街」、暁鐘成。これは部分図である


a0237937_21133496.jpg
現在の札の辻。東の平田屋(旧旅籠)を改修して「八木札の辻交流館」として活用されている

札の辻から西へ30メートルほどのところに「おかげ参り 八木接待場跡」が残されている。

「江戸時代、伊勢神宮への参拝は、『おかげ参り』と呼ばれ、多くの人々が仕事や家庭を放り出してまで、何日もかけて伊勢神宮を目ざしました。そして八木の町を通る横大路も伊勢へ向かう旅人、伊勢からもどる旅人で賑わいました。八木の人びとは、こうした旅人に対して、無料で食事や湯茶の接待を行いました。ここがその接待を行った場所で、「八木接待場」と呼ばれ長く大切にされてきました。」八木 接待場跡 掲示から

a0237937_21153418.jpg
 「大神宮」の燈籠が立ち、「接待場跡」の解説が掲示されている


接待を受けたのはおかげ参りの参詣人だが、接待をしたのは誰?と、気になるのである。

「接待場」という名からして、接待側が奉行所などではないだろうし、これは、八木の町が負担したんだろうか。

おかげ参りの通路となった桜井では高瀬家などが接待したと伝えられているが、町が成立していた八木では、半ば公的な接待場が運営されたのでは、そんなように思うのである。
あくまでも、思うだけだが。
今は、橿原市史も手元になく、調べようがないのである。

そこで、ちょっと調べてみたら、長野県に「接待」という村があるということが分かった。
「日本地図の謎」(廣済堂文庫)に書かれている。
それは木曽路の山の中である。中山道ですよね。幕府は二里(8キロくらい)毎に宿場を置いたが、和田峠あたりに5里(20キロくらい)以上の間に宿がなかったとのことで、「江戸で商売(呉服商)に成功し大金をもつようになった(加藤屋与兵衛)ので、1000両を貸すから、その毎年の利子100両で施行所を運営してほしい」、「施行所とは、馬に餌をやり、人足や貧しいものに食事を与え、道中を行く人には休憩を取らせる施設で、交付金で運営して、もうけを目的にしない」とあり、その場が「接待」という名前で今に残っているという。

a0237937_21162954.jpg
 「日本地図の謎」、183ページから


こんな話を読むと、「おかげ参り 八木接待場」、どんなふうな管理や資金で運営されたか、これは調べがいがあるなと思うのである。「接待場?誰がお金を出したの?」こういう質問を引き出して、それにズバリ答えれれば嬉しいものである。
by koza5555 | 2014-08-12 21:24 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)
<< 見仏記 みうらじゅん いとうせいこう 正蓮寺大日堂 >>