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奈良・桜井の歴史と社会

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円成寺(えんじょうじ)と仏師、運慶

奈良に出る用があり、大回りだが、東山中経由で向かうことにした。

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目当ては忍辱山(にんにくせん)円成寺。これは円成寺楼門

桜井から円成寺にいくならば、般若坂から入るのが早いのだが、山間・林間ドライブを楽しもうと思い、都祁(針)を経由して県道47号(天理、加茂線とあった)を抜けた。
田原(たわら)を経て、峠を越したら柳生の夜支布(やぎう)山口神社、そこから円成寺に向かった。

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光仁天皇陵(田原東陵)は順路だった


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はじめに運慶作・国宝・大日如来である。写真は円成寺パンフレットから

ガラス越の拝観であるので、パンフレットのような横顔は見ることはできないが、頬の肉づけや智拳印の結び方などに、平安時代(定朝様式)とは異なる独創性があるとされている。

大正10年の修理の時に、蓮肉板裏の銘文が発見された。
「康慶の実弟子運慶」として花押が残されていた。
作仏に十一ケ月かけたということ、謝礼は上品の絹 拾三疋であることが書かれている。1175年(安元元年)の作であることも示されている。


運慶の生涯と仕事のことを考えた。(日本史探訪7、運慶の項を参照した。松本清張が語っている)
運慶は1150年頃に生まれたとみられ、円成寺の大日如来は20歳代半ばである。
平家の南都焼き討ち(1180年・治承4年)が30歳。
1192年に鎌倉幕府が成立して、それから東大寺や興福寺の復興が始まる。
焼き討ち、鎌倉幕府の成立までの12年間、運慶など慶派の仏師は、このころは各地で造仏していたとされている。伝、運慶作が各地に存在するゆえんである(伝運慶作150体以上、確実なものは20体ほど)。 

1203年(48歳くらい?)、南大門の仁王像を完成させている。
その後、興福寺北円堂の無著(むじゃく)と世親(せしん)像を造り上げているが、これが60才くらい、ルネッサンスを東洋で先取りしたような芸術品で、「肖像彫刻の運慶」といわれる境地に到達した。

松本清張は 南都炎上が運慶の力を引きだし、磨き、芸術家の域に彼をしていたらしめたとしている。運慶にとって、南都炎上は衝撃だったが、嘆いていただけではないという論である。

さらに、快慶との激しいライバル意識にも触れている。「憎くも何ともないライバルというのは、こりゃライバルではない。芸術家というのは憎まれなくちゃ」というくだりもおもしろい。切磋琢磨と言うが、協力があり、競争があって現実世界は成り立っている。

以上は、日本史探訪7、運慶からの意訳である。

話が少し違う方に行ったような感じだが、運慶の経歴を見れば、円成寺の大日如来の頬のリアリティは、南大門の仁王像につながり、無著(むじゃく)と世親(せしん)像につながっているということである。

こんなことを、広々とした本堂の外陣で多宝塔や楼門を眺めながら、話すようなツアーもおもしろそうである。

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忍辱山(にんにくせん)円成寺、本尊は阿弥陀如来である。桔梗がきれいに咲いていた
by koza5555 | 2014-08-22 07:43 | 奈良 | Comments(0)
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