人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

奈良盆地の水土史 宮本誠

農山漁村文化協会(のうぶんきょう)の本で「奈良盆地の水土史」(宮本誠著)を読んだ。これは7000円の本である。図書館で借りた。

奈良盆地を並行して北流する飛鳥川、寺川、大和川は自然の流れとは思えない。土地は王寺(おうじ)に向かって扇の軸に集まるように傾斜しているのだから、この流れは明らかに人為的なものである。
この河川改修を古代の条里制と結びつけた論を読んだことがあり、納得したことがあったが、それは大間違いであることを知ることができた。

まず、「先人の知恵と経験によってつくられた風土=土地に刻まれた文化遺産を謙虚に見直し、それがつくられた意味と機能を評価する」とある。
法隆寺も藤原旧跡も貴重な文化遺産であるが、土地や川に刻まれた先人の仕事も、やはり重要な文化遺産だということである。

奈良盆地の水土史 宮本誠_a0237937_11543784.jpg
桜井、車谷の三分石。水利権を存在で示している。左側は穴師、右側は箸中。この比率は持ち山の面積に応じて決められているという。これは遺産ではなく、今も生きて活用されている


奈良盆地の土地利用と河川の歴史である。
奈良盆地は古代から肥沃な水田地帯と思われているが実態は違う。水田は3割、残りは荒れ地であり、畑として利用されていた。川が管理できない、水が確保できないということだろうか。

そして、平安時代には各地で扇状地が拡大して、河川は埋没、伏流化がすすみ、耕地はさらに不安定となっていく。

平安時代の中期(1000年頃から200年ほどかけて)に河川の付け替えが行われる。盆地南部では、扇状に流れていた大和川、寺川、飛鳥川などがきっちり北流に変えられた。
河川の伏流化を防ぎ、取水地域と潅水地域を区別して、東から水を取り、潅水して西の川に水を落とすという仕掛けである。
このシステムは今でも生きており、水は灌漑、集水、灌漑という反復利用されている。

奈良盆地の水土史 宮本誠_a0237937_11564351.jpg
条里制以降に付け替えら垂れた大和の河川。水土史、47ページ図

このころに集村化がすすみ、これが環濠集落に発展することになる。
この営みにより、奈良盆地の水田の利用率は3割から9割まで上昇することとなった。

江戸時代に二毛作が始まった。
当時の水田は年中、水漬けだったが、二毛作のためには田を干さねばならない。代掻き時に、新たに田に水を張る必要が生まれ、ため池が急激に必要となるのである。
「奈良には雨が少ないのでため池(皿池)が必要、多い」と一言でいうけれど、ため池の増加は水田の利用方法と密接に関係していることがわかるのである。
なお、明治の初期にもため池が急増するが、この理由は不明とされる。

農地は生きており、川は生きている。それに働きかけた人の苦労のすごさが感じさせられる。


遊水地問題も勉強になる。
1950年には、桜井の豪雨は6時間後に王子に到達していたが、30年後の1980年には2時間で到達してしまうという激変である。

河川改修や遊水地の減少がその原因であるが、奈良盆地の水は亀の瀬を越えねばならない宿命があるわけで、盆地内を早く流しても、海にそのまま流れるわけではないのである。
遊水地を無秩序に埋め立てたり、直線に変えるなどの河川の改修により、新たな被害が心配という、こんな指摘もあれこれ思い当たる節もあるのである。

奈良盆地の水土史 宮本誠_a0237937_121175.jpg

宮本誠さん、奈良県農業試験場を経て、兵庫県の中央農業技術センターなどに勤務された。農山漁村文化協会から出ている。
by koza5555 | 2014-08-24 12:47 | 読書
<< 三本松 子安地蔵菩薩 じゃらんの調査、奈良の魅力とは >>