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奈良・桜井の歴史と社会

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9月15日は芝村騒動の供養祭

9月15日午後二時から桜井市の吉備(大字)区集会所(薬師寺)で芝村騒動の犠牲者の追悼慰霊祭が開かれる。

奈良県(大和)では、「宝暦3年(1753年)に芝村騒動という一揆がおこった。
芝村藩の預かりの村々が、年貢の切り下げを求めて箱訴、預かり藩の変更を求めて一揆を起こした。稲の刈取り拒否という新戦術が取られた。

幕府は芝村藩に落ち度はないとして、一揆を弾圧。
常盤村(橿原市)の彦市が死罪、4人が遠島、追放33名(それまでに彦市をはじめ37名が牢死している)という重い処分が行われた。

吉備村(桜井市)の組頭の平兵衛(へいべえ)、甚治良(じんじろう)、平治良(へいじろう)など六人が江戸に送られ三名が牢死、三名が帰還したとのことである。
牢死した義民、供養の碑が吉備の薬師寺境内に置かれている。

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吉備区集会所(薬師寺)の供養の碑

江戸時代、大和は領有が複雑で不在地主ならぬ不在領主が数多くいて、この代理領主を芝村藩が務めていた。
この制度を預かりという。

一揆の前には橿原から高田、桜井などは軒並み、芝村藩預かりで、藩は10万石の規模となっていたという。
預かりは公式には年貢の3%が預かり藩の取り分、芝村藩の所得は倍で、収入は2万石の大名クラスになっていたという。

ちなみに芝村藩の用人は、当初はほとんどが尾張、美濃の出身によって占められたが、幕末頃は足軽、人足の三分の二までは大和のものに代わったとある。
芝村藩は武士100名、足軽100人、人足100人ぐらいはいたようで、一万石では用人が多すぎる(戦国時代規模)ようであるが、これが預かりという制度に支えられていた。

一揆は弾圧されたが、これを機に芝村藩への預かりは一気に廃止されたとのことであるから、幕府の目も節穴ではないというべきか。

9月15日、村(吉備区)の供養祭が行われ、その後、牢死した三軒、帰還できた三軒で供養の集まりを開くという。
250年間、続けてきた供養の集まりと聞いた。


一部、不正確な記述がありました。「慰霊祭の実施」ブログで、修正・補強してますのでご参照ください。

そのブログは  「芝村騒動の犠牲者慰霊祭」  です。
by koza5555 | 2014-09-11 23:21 | 桜井市と安倍 | Comments(0)
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