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奈良・桜井の歴史と社会

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磐余と安倍

魅力ある桜井の町づくりをすすめる「うるわしの桜井をつくる会」から、講演依頼のお話があった。
うるわしの会は、「住んでよし訪れてよしのまちづくり」へ 、市民一人ひとりが能動的にかかわろうという桜井市民を中心の有志の運動である。
そんな運動をする会の「歴史部会」から、「安部の話をしてくれないか」という依頼である。
テーマは山の辺の道ではなく、波瀬でもなく、多武峰でもなく、「安倍に限って」とのことである。

「町づくりや観光の一助になるような話を」とあったが、僕にはそれは手におえないが、古代と中世と近世の安倍みたいな話、桜井や安倍が好きになるような話なら、これをしてみたいと思うのである。
「住んでよし、訪れてよし」の安倍を縦横に語ってみようと意気込んでいる。

安倍といえば、まずは磐余である。

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磐余から西を見れば耳成山

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磐余から東を見れば三輪山


日本書記には「虜(あた)を破るに逮(いた)りて、大軍集(いくさびとどもつど)ひて其の地に満(いわ)めり。因りてを改めて磐余とす」とある。
神武東征のおり、大和の盆地に入ったのが磐余の地とされていおり、八十タケルがイワミイたので、イワレ塔いう名がついたとされたのである。これを史実として、神武聖蹟碑がこの地にも立てられている(吉備)。

まずは磐余と意味と磐余の範囲である。

千田稔先生は「いわれは岩根。磐は岩。余は、その訓の「われ」で、「いわ」・「れ」となったとされ、石寸(いわれ)も石村(いわれ)のことで、石が群がる」である。
池田末則先生の「奈良の地名由来辞典」によれば、「磐余は石村(いわむら)、「余」は「村」(あれ)の義、石寸(いわれ)は省画文字である」ときわめて簡明である。
万葉集にある、「角障(つのさわ)ふ」は、石にかかる語で、石の所在が考えられる。
岩田とか岩坂などが付近にあり、岩村は問題がないとされた。

問題は磐余の区域である。
「池之内から橿原の池尻にかけてとするのが江戸時代からの通説でした」とし、「大津皇子の刑死は訳語田で、その近くに磐余池があったとすると、自宅は安倍山あたり」(古事記の奈良大和路)が、千田稔先生の論であることはよく知られている。

池田先生も「磐余山東光寺は岩山を切り開いて作ったと聞く。ここらあたりが磐余と見て良いのでは」との論で、千田先生以上に磐余の中心は東の方に行くのである。

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磐余山 東光寺 拝観できていないが、本堂には大日如来、不動明王などが祀られているとのことである

一方、郷土史家の栢木喜一さんは少し見方が違う。
「多武峰から北に下る寺川が野に出るあたり(ここら辺に磐余山東光寺があるが)の川西や谷も磐余地方というが、同じ多武峰でも高家(たいえ)から西北に下る米川の流域が磐余ではないか」と、地形を熟知したものとしての論を展開されている。(栢木喜一著 桜井風土記)


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流域論から見た磐余の場所。左(西)が米川、右が寺川。ただし古代の寺川の流路は全く違うと言われているが(参考・下(南)の方のブルーの斜線)


磐余の中心をどこに見るか、これが、神功皇后や履忠天皇の稚櫻宮の「想定地」や磐余池の場所を論ずるカギとなるので、おろそかにはできない。


「磐余と安倍」の話、僕はこんなところからは入らないが、ここら辺りは、質疑応答でも、問題になるだろう。
10月にかけて、ツアーは目白押しだが、ここらあたりをやりくりして、面白い勉強ができそうである。
by koza5555 | 2014-09-12 22:42 | 桜井市と安倍 | Comments(0)
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