桜井の安倍木材団地に「七ッ井戸」なるものがある。
桜井市の教育委員会が建てた案内板には、「・・・・・根拠にとぼしい。・・・・」とあり、いつでもこれはパスしてきた。
桜井なら何でもわかる「桜井風土記」(柏木喜一著)でも、これは取りあげられていない。
ちょぅと考えてみた。なんで七ツ井戸?とか、なによりも本居宣長もわざわざ見てるし、ということで。
阿部を語るには、ここは「おもしろいかも」である。
桜井市安倍木材団地の七ツ井戸
旧橋本地区(現在は安倍木材団地一丁目)にある湧水の湧き出し口。阿部・吉備地区の灌漑用水になっている。地元では、吉備大臣(吉備真備)が作ったと伝えているが、根拠にとぼしい。
地形的にみて、旧寺川が下地区から高田・生田・阿部地区を流れていた頃の伏流水かと考えられる。周辺の区画整理の際、都市公園として保存された。
七ッ井戸掲示板(湧水が七カ所…数多くあるというだろう)
聖徳太子が七ツ井戸を通られた。あたりの者はひれ伏すが、ひたすら芹を摘んでいた乙女があり、だれか、なぜかと問うと、母の病の養生のためにひたすら摘むなり、である。
太子は行幸の帰りに、家へたちより、この孝女を宮に連れ帰るという伝承である。
この芹摘孝女は「膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)」のことで、太子に深く愛され、聖徳太子の磯長陵(しながりょう)に太子と共に葬られている。
中国の故事の焼き直しで、これが史実でないことは明白だろう。
本居宣長も、
「又せりつみの后の七ッ井とて。いさゝかなるたまり水の。ところどころにあるは。芹つみし昔の人といふ事のあるにつけていふにや。こゝろえぬ事ども也。」 と愛想なしである。
さらに膳臣(膳菩岐岐美郎女)は斑鳩を本拠地にしていたとの説が一般的で、この立場からは「七ッ井戸伝承」は、成り立たない。
しかし、隣接の橿原市の膳夫(かしわで)の保寿院(ほじゅいん)は、膳夫姫(かしわてひめ)がその養母を弔うために建立した「膳夫(かしわて)寺跡」と伝えられており、他にも関連伝承が多くて悩ましい。
ちなみにこの寺から、7世紀後半の瓦や柱穴のある礎石が出土している(保寿院の項は橿原市観光協会、橿原探訪ナビ参照)。
今朝(10月8日)も七ツ井戸、湧水で満ちていた