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奈良・桜井の歴史と社会

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大和長谷寺 十一面観世音菩薩像の再建の歴史

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長谷寺、十一面観世音菩薩の屹立する大悲閣

長谷寺、十一面観世音菩薩は729年、沙弥徳道の指揮のもと稽文会(けいもんえ)と稽主勲(けいしゅくん)
によって造仏されたとされている。
この十一面観世音菩薩が、よく焼けているのである。

創建された後の罹災(火事)状況は、豊山前史(永島福太郎著、昭和37年)によれば、以下の通りである。

①天慶7年(944年)正月で、再建は東大寺僧 貞救である。
②正歴2年(991年)2月で、本尊は被害なしとされる。
③万寿2年(1024年)正月は、本尊は被害なし。この再建の際、中臣信清の登廊寄進された。興福寺大乗院が再建を管理した(東大寺から興福寺への支配の移行は990年)。
④永承7年(1052年)8月。   
⑤嘉保元年(1094年)11月。
⑥健保7年(1219年)閏2月。新像は5月30日に成就。安阿弥、快慶の手に寄る。
二丈六尺の立像、天冠から御頂仏まで6尺3寸、三丈二尺三寸、12メートル13センチの現在の姿は、この時以来である。三輪杉が使われた。
⑦弘安2年(1280年)3月に焼失。11月に開眼供養したが、堂は80年間作れず、その間、仮堂に置かれた。御面は吉野川上のヒノキ、御頂仏は石清水八幡宮のクスノキの霹靂木(へきろくぼく・かみなりに打たれた木)、御身用は式上、宇陀両郡の杉・檜が使われた。
雷に打たれた霊木で作られたことに注目したい。本尊は33観音にちなみ、33日で彫刻する。
⑧明応4年(1495年)11月 堺商人の大きな喜捨があり復興成就された。快慶の指図が使われている。
⑨天文5年(1536年)6月。現在の観世音である。快慶の指図とされる。


長谷寺の罹災は幾度にも及んだが、そのつど、いくばくもなく復興している。ひとえに長谷信仰の旺盛さによるもので、しかも公卿武家の援助もさほどのものではなく、また官営工事は皆無だったことが注目される。
罹災の復興のための勧進がなされたが、罹災の多さから、勧進所は常置のものになっていった。

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秋の特別公開は12月7日まで。拝観チラシから

整理してみて、驚いたことが二点。
一つは健保7年(1219年)の造仏は快慶の手によるもので、その後の再建は、この時の快慶の指図が使われたということである。現在の十一面観世音菩薩の設計図は快慶によるものだった。

いま、一つは弘安2年(1280年)の造仏のおり、御頂仏は霹靂木(へきろくぼく・雷にに打たれた木)で作られたということである。
興福寺の支配ののちは、菅原道真公を祭る興喜天満宮は長谷寺と一体である。
菅原道真は死して天神(雷の神)になったと伝えられる。天神は民間伝承では、「雷さま」と呼ばれることもあるそうである。

延長8年(930年)に、内裏の清涼殿に落雷した事件は菅原道真公の怒り、たたりとされており、観音造仏に当たっては、落雷木(霹靂木・へきろくぼく  という)が意識的に使われたとのことである。


長谷寺十一面観世音菩薩の縁起と再建の歴史、不死鳥の長谷寺の歴史を見る思いである。
この勉強で、長谷寺、そして、十一面観世音菩薩、もう一つ深く好きになれた。
本当に好きになれないものは・・・ガイドはできない。
by koza5555 | 2014-12-05 06:19 | 桜井・初瀬
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