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奈良・桜井の歴史と社会

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海石榴市は金屋か戒重か

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桜井市戒重付近の寺川と横大路。小西橋から西を見た。ここらあたりに裴世清(はいせいせい)が上陸した海石榴市?の論も

現在の金屋、大和川北岸が古代の海石榴市とされている。
万葉集の「紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十の衢(ちまた)に逢へる子や誰」(巻12- 3101)の歌碑も、何の異論もなく金屋の村に立てられている。

海石榴市は仏教公伝の地とされる。
欽明天皇13年(552年)に百済の聖明王から金銅仏、幡蓋(はたきぬがさ)、経論千巻を伝えられた(日本書紀)とされる。
公伝が538年説というものもの(「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」による)もあるが、欽明天皇の時代であることは間違いないとされる。

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仏教伝来地の碑。ニッコリ笑う友達のOさん

欽明天皇の宮は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)とされることから、最寄りの海石榴市が、その窓口だったという論と思われる。

海石榴市は推古天皇16年(608年)に脚光を浴びている。
この年の10月に小野妹子が裴世清(はいせいせい)とともに帰国した。
「秋8月3日、唐の客は都に入った。この日飾馬75匹を遣わして、海石榴市の路上に迎えた。額田部連比羅夫が挨拶の言葉を述べた」(宇治谷孟訳)と記されている。
裴世清は小墾田宮で帝に接見し、親書を届けたとされているのである。

「裴世清が上陸した海石榴市って、ほんとにそこ?」と、実は思ってきたのである。

都は飛鳥地域の小墾田である。山田道の先の先。金屋に上陸して、「飾馬75匹」の歓迎を受けた・・その後大和川を渡って小墾田に向かう・・ということだろうか。
初瀬川の扇状地であるから古代の大和川の流路は不明だが、いかにも不自然である。

「飛鳥藤原京への道」という本があった。平成25年の奈文研の飛鳥資料館の特別展の展示資料である。
こちらの地図を見ると、「海石榴市は金屋か?仁王堂(横大路に面した)か?」とある。

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奈良文化財研究所。「飛鳥藤原京への道」

 「海石榴市は飛鳥の外港であったが、小墾田に向かう裴世清一行が北岸に上陸するとは考えにくく(飛鳥京への難波からの船便はすべて同じことであるが)、海石榴市を川の左岸に推定する説は地の利に適っています(和田1983)検証の余地は残るものの、大和川から寺川をさかのぼり、後の上ツ道と横大路の交差点(桜井市戒重)で川の南側に上陸したとする理解も、一考の価値があるように思います」 (19ページ)


平安時代、延長4年(926年)に豪雨、洪水で長谷寺の山が崩れ、被害が椿市に及び、人が悉く流れたという記述があり、初瀬谷の土石流が戒重に及ぶということも、これも考えられず、流路が変わっているとか、海石榴市は実は何カ所もあったかとか、そんなふうに考えると、ここらあたりも果てしがないのである。
by koza5555 | 2014-12-06 22:10 | 桜井・山の辺 | Comments(0)
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