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奈良・桜井の歴史と社会

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穴師と巻野内のねんりき行事

山の辺の道を歩いてきた。
梅田カルチャーセンターの「大和路を行く」の12月の講座である。
12月20日(土)だったが、予報は朝から雨、である。幸いにして午前は晴れ、喜んだが、予報は正確で午後からは豪雨である。
濡れそぼって、コースも短縮したが、参加者には喜んでいただいた。

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穴師坐兵主神社鳥居下から、纒向遺跡方面をみて

珠城山古墳が最後の見学地だった。雨も降り、寒くて、触れられなかったお話もあった。
それは「穴師・巻野内ねんりき行事」のことである。

なにせ120年も前に中絶した行事で、これは皆さん、ご存じないだろう。

穴師と巻野内の両大字が半夏生十日目に、壮大な「石合戦をした」という行事である。
それは子どもらから始まり、やがて村全体の戦いとなり、最後は近隣の車谷、太田、大豆越(まめごし)まで巻き込んでの大合戦で、「不思議とこれがために死んだ者は一名もないといふ」、が「明治30年頃に双方に大けが人が出たために中絶」したとある。

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これがねんりき行事の合戦図

なんでこんな行事ができたのだろうか。時期が半夏生十日目というのも気になっていた。

穴師の一番の上(車谷に上って)に、巻向川(穴師川)の三分の一分水堰というのがある。
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三分の一の分水堰

ここらあたりの扇状地は古今、稲作の水利の苦労が絶えなかった。水源は三輪山、巻向山の間を流れてくる巻向川である。
この水利権は、三輪山に入会権のある箸中が三分一、巻向山に入会権のある六か郷(穴師、巻野内)が三分二と、上流の山の面積に応じて水利権が分けられている。

これに至るまでの争いは絶えなかったという。
興福寺大乗院の記録文書によると、越智氏の調停により、現在の「三分一の分水」が決められ、堰を作ってその争いにピリオドが打たれたという。

箸中はそれ以降、ため池(井寺池のことか)を掘り、自領の雨を巻向川に流れぬような仕掛けを作り、稲作の維持をおこなったというエピソードもある。

この時の三分の一の分水堰が今も残されている(補修されたかは不明)。

穴師、巻野内にとって箸中とは三分の一の分水堰で決めつけられたが、内部的には幾多の争いが続いたと見える。

ねんりき行事、半夏生十日目である。上流・下流の関係もあり、日ごろの水争いの恨みを石合戦で果たし、気持ちを切り替える行事と見るのは僕のかって読みか。
ねんりき石合戦では、常に上流側の穴師に負傷者が多かったというのも、下流側の怒りの強さも感じられるところである。
水を巡っての悲喜こもごも、命をかけた争いは奈良盆地(いや、日本中?)の歴史に渦巻いている。


行事は120年前に中絶、穴師坐兵主神社、珠城山古墳あたりに行かれた時は、古戦場を楽しんでください。


ねんりき行事は「和州祭礼記」(昭和19年辻本好孝著)参照
by koza5555 | 2014-12-21 11:15 | 桜井・山の辺 | Comments(0)
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