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奈良・桜井の歴史と社会

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又吉直樹 火花

「どこの本屋も売り切れ」という話題の新刊本でも、わが家の近くの本屋は大体残っているのであるが、ところが・・「火花」は、売り切れ、無かったのである。

あれこれあって、昨日、手に入って、読んでみた。

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徳永には神谷という師匠がいる。
芸能界のしきたりはよくわからないが、この場合の師匠は漫才の師匠ではなく、人生の師匠でもなく、これは芸能人として刺激を受ける師匠みたいなものだろうか。

徳永の師匠、神谷との会話を通して、物語がつながっていく。

いつもの如くではあるが、話の本筋とは関係のないところで、僕は立ち止まったり感心したりである。

漫才の形の作り方がよくわかった。
話を作り上げ練習することは「ネタ合わせ」。「ネタを考えながら口で合わせるときは新宿の喫茶店。じっさい立って合わせるときはこの公園が多かった」とか、「暇さえあればネタ合わせをやりたい僕」とかと、練習の様子も語られていく。
 
話芸だけでお客をつかむ、そして漫才は二人でやるんだから、話を作り上げていく過程も、練習もすごいんだろうなと思う。

「表現の幅に大きな差があった。神谷さんは面白いことのためなら暴力的な発言も性的な発言も辞さない覚悟を持っていた。一方、僕は自分の発言が誤解を招き誰かを傷つけてしまうことを恐れていた」、と漫才で何を目標とするか、何を語るかという苦労は、万国共通である。
巻末まで読むと、ここら辺りが小説としては、重要なテーマとなっていると思う。

「面白いことのためなら暴力的な発言も性的な発言も辞さない覚悟」というのは、僕もあこがれるが、現実にはとても無理でもある。

ライバルたちの芸を見ることを激しく嫌うくだりもあったりして、これもよく納得できた。

さて、徳永も神谷も実は又吉直樹の実像かもしれない。

小説は面白かったが、又吉の漫才を見たいとは思わなかった。


「好きなことやって、面白かったら飯食えて、面白くなかったら淘汰される」には、考え込んだ。
僕はいま、ガイドや講演で相当忙しい日を送っているけど、体力や年齢もあり引き際も考えたりするのである。
それを反省した。自分に激しく引き寄せて考えてしまったが、「淘汰されるまで」は頑張ってみようか・・である。
by koza5555 | 2015-08-06 14:45 | 読書 | Comments(0)
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