「古墳の知識1」、白石太一郎著(平成4年 東京美術)を読んだ。
「ときどき円墳を土饅頭形に復元した例を見かけますが、これは誤りで、日本の円墳は前方後円墳の後円部などと同様に、墳長部に平坦面をもつ截頭(せつとう)円錐台形を基本とします」。
良く理解できました。黒塚古墳であれ、ナガレヤマ古墳であれ、墳墳が平らであることが本来の姿なんだ。説明する場所のために平らっていうことではなかった(笑)。
「横穴式石室の展開」という所に目を見張りました。あれこれ、古墳を見に行っていても、論理的には古墳を見ていないなあと反省。これは近畿地方を中心に考えた「横穴式石室の編年と標識古墳」の紹介である。
岩屋山古墳の石室内部から。側面が平滑に仕上げられた切石造が美しい
「奈良県、大阪府地方の近畿中央部の横穴式石室の流れは、基本的には塔塚式→芝山式→勝福寺式→二塚式→天王山式→石舞台式→岩屋山式→岩屋山亜式→二子塚式の九形式に編年できます。
このうち塔塚式は大阪府の塔塚古墳(堺市 方墳)、芝山式は東大阪市芝山古墳(前方後円墳)、勝福寺式は川西市の勝福寺古墳(前方後円墳)、二塚式は新庄町の二塚古墳(前方後円墳)、天王山式は桜井市の天王山古墳(ようす方墳)、石舞台式は明日香の石舞台古墳(方墳)、岩屋山式は明日香村の岩屋山古墳(八角形墳)、岩屋山亜式は桜井市の艸墓古墳(方墳)や平群町の西宮古墳(方墳)、二子塚式は太子町の二子塚古墳を標識とするものです」(p106)。
これらの石室をまとめ直してみると・・
① 塔塚タイプは5世紀前半から中葉頃。正方形の玄室で割石づみ。壁面には赤色顔料。
② 芝山式は5世紀後半から6世紀初頭。玄室が正方形だが、積石が河原石となり、羨道が機能するようになる。壁面には赤色顔料が塗られた。
③ 勝福寺式は6世紀前半。玄室が長方形となる。石材が大型化して持ち送りが緩やかとなり、羨道も幅が広がり長くなる。石材の大型化、持ち
送りの減少と壁面の単純化、羨道の長大化は近畿地方の編年の特徴で、その後の型式につらぬかれていく。羨道の長大化は追葬を行うための変更である。
終末期の石舞台以後になると壁面を平滑に仕上げた切石造が出てくる。
④二塚式が6世紀中葉から後半。
二塚式は3つの石室があるが、標識は後円部の長大な石室である。
二塚古墳の石室。葛城市博物館には二塚古墳の立体模型もおかれている
⑤天王山式が6世紀末から7世紀初頭。
⑥石舞台式が7世紀前半
⑦岩屋山式が7世紀中葉から中葉過ぎ
岩屋山古墳
⑧岩屋山亜式が7世紀後半
⑨二子塚式は岩屋山式と岩屋山亜式と同時期。
棺を納めると周囲にはほとんど余裕のない小型化した漆喰塗の玄室のみからなります。
大師町の二子塚古墳。こちらは見学したことがあった
二子塚式は7世紀から8世紀の横口式石槨古墳につながっていきます。
石槨と前室、羨道のある観音塚古墳(太子町)、石槨と羨道だけがあるオーコー8号墳(太子町)につながり、さらには石槨だけで羨道もない高松塚古墳(キトラやマルコ山)につながっていきます。
古墳(墓)の社会的な必要性、技術の継承と発展、こんな風に考えると古墳の歴史と姿はとてもおもしろい。
「古墳の知識1」、白石太一郎著(平成4年 東京美術)