昨日は藤原宮の現場見学会で、藤原京の時代の「幢幡」を勉強してきた。
ついつい、「其の六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜ひ、郡に付して仮授せしむ」(魏志倭人伝)を思い出してしまった。
今日は黄幢と黒塚古墳のことである。
黒塚古墳・後円部をみる
天理の柳本である。古墳は整備されており、展示館もきわめて充実している。
僕の邪馬台国ツアーは黒塚古墳も必ず行きたい。
黒塚古墳、纏向遺跡から北に2キロほどの天理市だ。
盗掘や開発によって古墳の原型を留めていない古墳も多いなかで、この黒塚古墳はまるでタイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。
1998年の現地見学会のものすごかったと、今でも古い考古学ファンは語るのである。
ちなみに、その頃の僕は名古屋で暮らしていた。正倉院展に来たり、長谷寺や談山神社を訪れても、古墳は・・関心がなかった。
黒塚古墳、33面の三角縁神獣鏡、頭の上に置かれた画文帯神獣鏡で有名である。丹塗りの竪穴古墳。
しかし、今日は黄幢(こうどう)をお話ししたい。
黒塚古墳は、崇神天皇陵(行燈山古墳)や景行天皇陵(渋谷向山古墳)を盟主とする柳本古墳群に含まれる、全長約130mの前方後円墳で、築造された時代は、3世紀後半~4世紀の前半とされている。
石室が展示館に復元されている
棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡があり、頭の前には一つだけ、小ぶりな画文帯神獣鏡が置かれている。北枕のご遺体の頭の上に置かれているのだ。
その横に、不思議な「Ù字形鉄製品」という、用途不明なものが納められている。
北枕の、その先の墳墓の中の一番北側に大事に収められているのだ。
これは「黄幢」ではないか、それを主張する研究者(東潮氏など)がいる。
黄幢とは、黄色い吹き流しのような軍旗。これによって、卑弥呼には魏の後ろ盾があることを敵国である狗奴国に示したといわれる。
「其の六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜ひ、郡に付して仮授せしむ」である。
このU字形鉄製品は黄幢ではないか、東潮氏は次のようの論証する。
① 鉄パイプは鍛造の鉄だが、きわめて正確な造作で弥生時代、古墳時代の始まりには倭の技術ではむつしい細工がある。
② パイプには布の破片が付いていた。U字形鉄製品のパイプには布片が付着していた
③ 同時期の遼陽壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられるものが書かれている。
④ 極めて重要な空間・・画文帯神獣鏡とU字形鉄製品が同じ場所に置かれた。
このU字形鉄製品こそが、魏書に書かれた黄幢だとすれば、黒塚古墳は卑弥呼の大夫、難升米のお墓、古墳と言う説も、まんざらではないと思えるだろう。
こんな話は「邪馬台国の考古学」(東潮著)角川選書 に詳しい