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奈良・桜井の歴史と社会

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森浩一著作集 ① 古墳時代を考える

森浩一著作集が刊行されている。5巻までで、内容はどちらかといえば初期著作集だった。
僕ごときでは歯が立たないが、少しつづ、面白そうなところを。

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これは新沢線冢古墳、群衆墳。このご本とはあまり関係ないけど。

第一巻は「古墳時代を考える」である。「古墳時代の展開と終末」のうち、「古墳と古墳群」。1952年に古代学研究6に掲載されたものとのことである。
これがおもしろかった。古墳の在り方、とくに群集墳の検討から古代を探ろうという狙い。65年も前の論文で森先生も若かったと思う。

美濃波多古墳群が紹介されていた。三重県の名張にある。美濃波多古墳群は現在は美旗古墳群のことである。

ウィキペディアによれば
古墳時代の前期から後期にかけて、地域を支配した有力者によって築造され、伊賀地方で最大規模の古墳群が営まれている。現存しているのは、5基の前方後円墳と横穴式石室を持つ円墳1基、方墳1基で、カブト塚・矢羽塚・玉塚などの方墳と円墳の多くは消滅している。

森先生の古墳と古墳群では、こんな図面が用意されていた。
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古墳時代の史料化にあたっては古墳群の研究が必要とされて、初めに取り上げられたのが、美濃波多(美旗)古墳群だった。

前方後円墳の馬塚(うまづか) は盆地のどこからも見える。
問題は図面にある8基の古墳が「各期の代表的な形態を示していると言いえるほど、その相互間に顕著な相異をもっている」とし、地図の番号順に①殿塚、②女郎塚、③毘沙門塚、④馬冢、⑤玉塚、⑥王冢、⑦横穴石室の順で構築されたと論じられている。

古墳群を形成する8基の古墳は、築造時期が均等な時間で前後を持っている。
一時期に固まって築造されたのではなく、順次作られて古墳群になった。
40年ごとの築造・・という間の時間も明確にされて、一世代一墳、一氏族によって構築されたとするのである。

美濃波多(美旗)盆地は300町歩(300ha)で、これがこの氏族の経済力である。
なるほど。古墳時代・・300年くらい、大和と伊勢・東国との交通路の要地で40年ごとに古墳を造っていた氏族の暮らしぶり・・・

森先生は群集墳問題でさらに三島野古墳群を取り上げる。
同じように10基ほどの古墳で古墳群が形成されている。

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三島古墳群も古墳の形態から一世代一墳とみられるが、⑨茶臼山、⑩今城冢と巨大前方後円墳が築かれる。
 もともと大きな富裕の地を支配した氏族が考えられるが、全長223メートルの茶臼山古墳、312メートルの今城冢古墳は大飛躍である。「氏族団体の占有地域は急速に拡大した」とみるべきとされる。氏族から地方レベルということだろうか。
この地方レベルに拡大されていく過程と合わせて、継体天皇が位置づけられるとしている。

森浩一の結論・・「継体天皇は三島野古墳群によって表される氏族団体から抜擢されたことが考えられるのであり、中期の茶臼山古墳の規模からみて、すでにそれにふさわしい実力を備えた強力な氏族団体となっているのである。


奈良盆地内にも巨大古墳と群集墳の存在している。行燈山古墳、渋谷向山古墳と竜王山古墳群、鳥屋ミサンザイ古墳と新沢千塚、室宮山古墳と巨勢山古墳群などであるが、これらは巨大古墳が先行するのであるから、三島野とは条件が全く異なっている。

大和の場合は、巨大古墳に葬られている盟主をしたって、付近の山・谷に大量の群集墳が設けられたとみるべきだろうか。

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新沢千塚古墳群と桝山(現 倭彦墓)・鳥屋ミサンザイ(現宣化天皇)古墳
『巨勢山古墳群と室宮山古墳』(歴史に憩う橿原博物館講演・・白石太一郎)より


森浩一 著作集第一巻。古墳時代を考える
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by koza5555 | 2016-11-29 21:27 | 健康
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