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奈良・桜井の歴史と社会

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大伴一族(とくに吹負)と中ツ道

5月5日(金)の午後7時から、桜井駅前エルトで、「中ツ道」をお話しする。
壬申の乱の頃の中ツ道。
南北朝のころ、戒重西阿の中ツ道。
近代、近世の中ツ道をお話ししたい。

始めに道の起源、そして壬申の乱の頃の中ツ道である。
『道が語る日本の古代史』。近江俊英さん。これがむちゃくちゃに面白い。
まずは大伴氏族を考えねばならない。中ツ道はそうなのである。

大伴氏というと、大伴旅人や家持といった歌人が著名である。しかし、本来、大伴一族は軍事を司り、武烈天皇の時代には、大伴金村といった著名な将軍も輩出している。
それにしても大伴氏ほど、浮き沈みの激しい一族も珍しい。
欽明天皇の時代、大伴氏は天皇家の家臣の中では筆頭の位である大連を出す家柄であったのに、大伴金村が朝鮮半島政策で失敗したことにより失脚。蘇我、物部の争乱のさいには、蘇我方につき再び力を得るが、天智天皇の時代にはさほど用いられた形跡はない。天智天皇の近江遷都にも、大伴一族の代表者であった大伴馬来田、吹負兄弟は、大和に残留したいたようである。
そこで乱が勃発した。兄弟は一族の浮沈を賭けて、大海人皇子側に味方する。
『道が語る日本古代史』(近江俊英)

「神武東征」での大伴の活躍を引くまでもなく、近江さんは有史の範囲で、とても上手くまとめられている。
かくして壬申の乱、大和での戦いは幕を切って落とされたが・・・・大伴吹負は負ける。

戦った道は、稗田 →乃楽山 →墨坂 →金綱井 →当麻衢(ちまた)
金綱井で神託が届けられるのが契機となる。
実質は大和から宇陀の墨坂まで逃げ出すが、そこで東国からの援軍、兎(おきそみめのむらじ うさぎ)軍と出会うことが勝利の土台、勝利の出発ではあるが。

大伴吹負は3人の神の予言を受ける。
神は許梅(しこめ)に憑依する。
高市社(橿原市雲梯 うなて の河俣神社)と
牟佐坐神社(橿原市見瀬)の神からの神託である。 
許梅には、神武天皇陵に馬と兵器を奉納するように命じた。

もう一人の神は村屋神(田原本町蔵堂)に、こちらは神官に憑依した。

それぞれ西から来襲する、あるいは中ツ道を攻めてくるという託宣である。


こんな図である。すべてが一目瞭然である(『道が語る日本古代史』p80)。
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すごい地図である。全部入っている。赤丸と赤字は僕が記入した


神社とか、碑を見てきた。

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金綱井は横大路沿いと考えて、小網町の入鹿神社付近と考えた。こちらは境内の大日堂だ


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高市神社は雲梯の川俣神社


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牟佐坐神社

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牟佐坐神社境内は孝元天皇の軽境原宮址とされ、碑が建てられていた

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神武天皇陵・・天武天皇の時代は、「神武天皇陵はここ」と決まっていたんだな。託宣があれば、大伴吹負はすぐ祀に出かけられたのだ。その場所はこちらだったんだろうか・・・

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大伴の竹田庄は、中ツ道沿い。これなら、大伴の村屋のたたかいはホントの地元の戦いだったんだ・・・こちらは村屋坐弥富都比売神社

中ツ道、これは大伴の決断を考え、大伴の飛躍を考える道なんだな…面白そうである。
中ツ道、こんなテーマでも面白くなりそうである。
5月5日、桜井駅前、エルト・・第4研修室、期待してください。
by koza5555 | 2017-04-14 23:01 | 盆地中央
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