桜井市の環濠集落を考えた。
桜井市の西部、北部には環濠集落が点在する。初瀬川、粟殿川、寺川に沿ってである。海抜でいえば80mくらいまでである。
奈良盆地の土地利用と河川の歴史を見てみると。
●奈良盆地は古代から肥沃な水田地帯と思われているが実態は違っていた。水田は3割、残りは荒れ地であり、畑として、あるいは沼地であった。川が管理できない、水が確保できないということだろうか。
●伏流水化を防ぐ河川の付け替え、水漬の農村の排水をすすめ(池の掘削、環濠の建築)、集村化(村への移住)がすすんだ。この営みにより、奈良盆地の水田の利用率は3割から9割まで上昇することとなった。
「壬申の乱」(672年)では、近江方の廬井鯨(いおい の くじら)が中ツ道を攻め下るという戦いが日本書記に記されている。大友皇子(弘文天皇)側の別将であるが、中ツ道で戦って 敗れた。
このクジラが敗走するとき、馬が深田に落ち進退が窮まったとあり、中ツ道周辺は低湿地状態であることもわかる。
ここで環濠集落である。作られた時代の背景や、土地制度の変遷と農耕の発達、集落の発生と発達、集落を取り巻く自然環境と深い関係を持っている。
始めに紹介したように、奈良盆地の集落は河川の流域に沿って作られた低湿地の集落が多く、環濠集落の起源の一つして、排水や導水など水利の面にその起源があるという論がある。
環濠は何となく、戦に向いていそうだが、まずは低湿地状態への対応が一番との見方である。
桜井市東新堂の環濠集落の名残が鮮明である
その上に、それぞれの時代によって境界や水の争いがあったり、士豪の抗争などで、集落を自衛するために、村を掘りや竹藪、・堤防で囲むようになった。このような防御的な環濠集落は戦国の動乱の時期に発達した。
南北朝の戒重西阿の戦い、依拠した戒重や川井は環濠集落ではなく、とりでという見方である。
こんなことだから、桜井の環濠集落を無理無理分ければ、
防御的なもの 戒重、河合
これが戒重陣屋(江戸時代だよ)と現在の戒重
防御と自然環境の両面 大福、上之庄、東新堂、大西、江包、太田、大豆越などがあげられる。
東新堂
上之庄
大西桜井の環濠集落の形態をまとめてみると
東西南北の方向を示している(条里制に規制されている)
道路割は袋小路とかT字形の交差点、
東西南北の出入り口は一カ所、木戸口という。
藪や樹木で覆われて見通しが効かない。
周囲は堀、濠で取り囲み、内側は土塁、竹やぶなどで囲われていた。
氏神は村の要の場所にある(砦的な役割を果たす場合も多い)
『桜井の古文化財 その3環濠集落』(桜井市教育委員会)から環濠の地図を借用した