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奈良・桜井の歴史と社会

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多武峰の参詣道と町石の道

談山神社の社報、第89号が発行された。本日、2月15日、桜井市の全紙の折り込みに入っている。
「談」の会の会員には、順次発送される。
僕は二面、一ページをいただいている。今回は「多武峰の参詣道と町石の道」をまとめてみた。
ずっと書きたいなと考えていたテーマで、それなりに納得のいくものが書けた。
紹介してみよう。

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一の鳥居から談山神社に至るまで一町ごとに、およそ100メートルを区切りにして町石が置かれている。呼び方は「ちょうせき」とも「ちょういし」とも言われている。

今回は、この町石に迫ってみた。

浅古の一の鳥居の脇には初町と刻まれた石塔があり、談山神社の入り口の摩尼輪塔(まにりんとう)の脇には第52町と刻まれた同型の石が立てられている。52基は順番に配置されていたことは明らかである。仏教では悟りに達するのには52の段階、修業が必要とされているが、それに対応して52基の町石が配置されているのである。修行は信心から始まり、念心、精進心というように進み、52番目の妙覚位は悟りを開いた境地とされている。

町石もこれにならい、一基ごとに「信心位 初町」、「念心位 二町」、と刻まれ、最後の52町石は「第五十二 妙覚位」とされている。町石を辿りながら参詣すれば、おのずから仏の境地に到達できるという道しるべとなっている。

桜井市史(昭和47年)に、この町石が紹介されている。また、12年ほど前に奈良国立博物館の研究紀要で『多武峰の町石』が取り上げられ、元興寺文化財研究所が県道拡幅工事に伴う調査を実施、『多武峰町石調査報告書』を、昨年に発表している。

町石には、40年前(桜井市史)、12年前(奈良国立博物館)、現在(元興寺文化財研究所)の資料があるわけで、これを比べてみると変遷は手に取るようにわかる。今日はそこらあたりを考えてみることにした。

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52基の町石は32本が現存している。町石には「承応3年(1654年)」の年号が刻まれていて、360年前のものであることは明確であるまた町石と対となっている摩尼輪塔はさらに古いもので、乾元二年(一三〇三年)、鎌倉時代の製作であることも判明している。
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摩尼輪塔は鎌倉時代、町石は江戸時代に作られた。作られた時期は大きく違うが、もともとは石製の摩尼輪塔と木製の卒塔婆という組み合わせとの論もあり、この卒塔婆を石製で修理したのが江戸時代だとのことである。
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屋形橋と東門の短い距離のところに第46町、第19町、それから第47町とあわせて3基おかれている。第19町は持ち込まれたものであるが、桜井市史によれば40年前は北音羽にあるとされている。12年前にはすでにこの位置に移動されたとされている。「どんな経過で移設したのか」と尋ねて回った。すると、「ここにあった。トラックに当てられ折れていた。道路拡張の時に置くところが無くなり神社が引き取っていった」とのお話を聞くことができた。「移設してから20年は経つよ」とのことである。

下区の大字内に置かれている第6町石に特別に注目したい。現在は完形ですくっと立っている。ところが12年前の調査では横倒しとなっていて、ワイヤーが掛けられ、いかにもどこからか引き上げてきた様子である。40年前の桜井市史によると、これは「亡失」となっている。江戸時代に立てられたものが40年前には無くて、12年前は横倒し、現在は立っているということである。この経過を下(しも)の前の区長さんにお聞きした。「昭和25年のジェーン台風で流されたと聞いている。川底から拾い上げた。それを平成22年に立て直した。再建の式典もおこなった」と言われるのである。

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江戸時代の初めから村人、旅人を見守ってきた町石、これはすごいが、同時にこれを守ってきた、そして今も大事にしている地域の人もすごいなということである。


一基、一基、よく見ていただきたい。文字が判読できるものもあちこちに残されている。
多武峰の町石は奈良県の指定文化財に、町石と対とみられる摩尼輪塔(まにりんとう)は、国の重要文化財に指定されている。

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ありがとうございました。

by koza5555 | 2018-02-14 23:17 | 桜井・多武峰 | Comments(0)
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