履中天皇と言えば、僕の住む「桜井の成り立ち」に欠かせない大先輩・・じゃないだろうか。
磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)で即位、磐余池を作った。磐余市磯池で舟遊びをしているとき桜の花びらが飛んできたなどという話が記紀に記されている。
この履中天皇、即位前にイザホワケ(仁徳天皇皇子)と名乗っていたころ、弟の住吉仲皇子の反逆に合って大変な苦労をするのである。
難波を逃げ出し、石上神宮に向かう。河内飛鳥の山の入り口で、少女に「敵がいない当麻道を行きなさい」と助言され、竜田山方面に向かう。
山間を出たところ、「数里のところ」に「仲皇子に通じた直吾子籠(やまとあたいあごこ)が兵を備えていた」。その場所は「攪食の栗林(かきはみのくるす)」という。
この「攪食の栗林とはどこ」、「それは大坂の辺りなんだ」との論を最近、読んだ(『悲劇の皇子たち』青垣出版社)。
大坂と言えば、大坂山口神社、崇神天王の時代(崇神9年春3月)に、「天皇の夢の中に、神人があらわれて教えた。赤の盾を8枚、赤の矛を8本で墨坂の神を祀れ、また黒の盾を8本、黒の矛を8本で、大坂の神を祀れ」で、疾病は平いだという大坂である。
さらに、箸墓古墳の築造にあたっては、「昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んだ」とされ「おほさかにつぎのぼれる いしむらを たごしにこせば こしがてんかも」という歌まで乗せられている、その大坂である。
それで、念願の大坂山口神社、拝観してきた。
大坂山口神社(穴虫)祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと)である。
式内社(しきだいしゃ)大坂山口神社は、古代大坂越えの大和から河内に至る入口に位置し、近世では長尾街道に面する交通の要衝に鎮座(ちんざ)されます。
本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の銅板葺(ぶ)きで、文化十三年(一八一六)の再建とされますが、寛永ニ年(一六二五)以来の棟札(むねふだ)が残されています。それには、背後の山の石巌(せきがん)を掘削して神域を広げたことを記すもの、祇園宮寺(ぎおんぐうじ)とみえ、神宮寺の存在が確認できるものがあります。拝殿は間口五間、奥行ニ間の割拝殿で、棟札によると延享元年(一七四四)の再建になります。また、平成元年三月に秋の大祭には宮相撲が行われ、「馬場のお宮さんの相撲」といい、相当な賑わいであったといわれています。境内には石垣を組んだ桟敷席があり、近年まで土俵も残されていた。
とあり、さかんに境内で相撲が行われていたことがわかる。
また、近世以降、当麻・勝根・鎌田・五位堂・良福寺など、村名を冠した相撲組があり、二上山麓の村々では相撲が大変盛んであったことがわかります。
式内社大坂山口神社は、実はもう一カ所残されている。
逢坂の集落におかれ、近鉄大阪線を挟んだ北側にあたる。こちらは伊勢街道に面しているという。
本殿が奈良県の指定文化財である。三間社流造、檜皮葺で江戸時代のものであるが、細部には室町時代の建築様式があるとのことである。
御神像が十一体、平安時代から江戸時代にかけての8体の狛犬(木造含む)が残されているとのことである。
うーん、魅力的、ツアーで行きたいけど。
例えば、崇神天皇陵、大神神社、墨坂神社、大坂山口神社なんかを回ればおもしろそうである。