當麻寺から二上山に登ろうとすると、當麻山口神社の鳥居に差し掛かるあたり、右側を見ると番傘を立てたような不思議なお堂を見ることができる。傘堂と言われる。
「この堂は本多侯の菩提の為に恩顧の臣が立てたものである。軒の瓦の面に本と書かれれているのはその証拠。柱の上の方に扉があり開けると位牌があり、また北には添え柱、間に横木が渡されて鐘をかけ、朝晩はこれをつき、旧恩を忘れない(西国三十三カ所名所図会)
この傘堂の法要は9月の第1日曜日であるが、それとは別に5月14日にも法要が行われるとのこと、出かけてみた。
傘堂に置かれていた案内文。とても明快である
二上山の東麓、當麻山口神社の鳥居の北側に、真柱一本のみで宝形造りの瓦屋根を支える総ケヤキ作りの風変りな建物があります。小振りながら、重厚な風格を備え、他に類例のほとんどない珍しい建築遺構です。
その形容から、一般に『傘堂』と呼ばれていますが、江戸時代前期にこの地の郡奉行を務めていた吉弘統家(よしひろのりいえ)が、主君である郡山藩主の本多政勝の没後、その菩提を弔うために延宝2(1674)年に建立した「影堂」(えいどう)「位牌堂」であることが、棟札やその他の資料から判ります。もとここに吊り下げられていた梵鐘には、「恋王の私情に勝(た)えず」「一恩永伝」等の言葉が刻み込まれ、独特の君臣関係にあったことが推測されます。
『傘堂』は、統家らが開いた大池(傘堂すぐ西側の溜池)により、益を被った付近の新在家、今在家、染野の三地区の人々によって、その後も守り続けられています。特異な建立の経緯にも関わこらず、毀誉褒貶されることもなく、300年以上もひっそりと歴史の流れの中に佇んできました。
また、いつの頃からか、真柱の周囲を身体を接しながら巡り、安楽往生を願う風習が生まれ、5月14日の當麻連座(れんぞ)には大勢の人々が『傘堂』を訪れます。民俗、建築双方から注目されるとともに、柳沢家に至るまでの初期郡山藩にかかわる数少ない遺構としても貴重な存在です。 傘堂に置かれる説明書の本文
五色幕が張られた傘堂に参詣される女性
真柱の上部の扉の中には阿弥陀如来が祀られている。5月14日と9月の法要の時だけお戻りになるようだった。
お参りにおいでになられた方、真柱を背にして手を合わせられた。真柱の周囲を体を接しながら回る・・・背中をつけて回るんだね。
これが大池。この池の恩を忘れず、三か村(新在家、今在家、染野)で、この位牌堂を祀ってきた。
さらにその上には、真の大津皇子墓とされる鳥谷口古墳が