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奈良・桜井の歴史と社会

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鏡女王忍阪墓前祭

69日、忍阪区(桜井市)生根会(忍阪区老人会 会長 東井さん)は、鏡女王墓前祭を斎行した。

談山神社の長岡宮司以下神社関係者が祭祀を執り行った。

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鏡女王忍阪墓は、談山神社が管理しており、日常的には忍坂の生根会が樹木の管理、草刈などの墓域の清掃を奉仕されている。墓前祭を実施するのも生根会である。

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こうした行事、管理とは別に忍阪の陵墓に対する区民の思い入れはすごい。

外鎌山の南麓には、西から東へ舒明天皇陵、鏡女王墓、大伴皇女墓が鎮まる。

忍阪のみなさんは、これを総称して、「三陵墓」と呼び、敬愛しながらも親し気な付き合いである。

宮内庁が管理しない鏡女王墓は、とくに「中の御陵さん」と呼び、大切にしているのである。


舒明天皇陵、大伴皇女墓は宮内庁の書陵部が管理する。畝傍監区、忍阪部といい、周辺の陵墓と合わせて、日常的に補修とか草刈が行われる。


しかし、鏡女王墓は別である。陵墓を繋ぐ野の道もだれも草刈はしないのである。


万葉の旅で、犬養孝が鏡女王墓を語っている。こんなくだりがあるのである。

戦後ま近のこと、お隣の舒明天皇陵はきれいに掃き清められているのに、このお墓は草ぼうぼうに荒れていた。見れば、談山神社保存会の所有になっている。私はしばらくお待ちください。草を抜いてみたが、とうていおいつくことではない。
(『万葉の旅上』犬養孝)

こんなことから始まったわけでないだろうが、この管理を現在は忍阪生根会が行っているのである。


最後に鏡女王のことである。
まずは興福寺。鏡女王の藤原鎌足への思いが凝縮して興福寺は始まった。

天智天皇8年(669年)、鎌足が重病の時、婦人の鏡大王は夫の病平癒を祈って仏殿建立を発願した。当初は鎌足の許しを得られなかったが、ついには婦人の願いが叶えられたという。仏殿には、鎌足が蘇我氏打倒に際して発願し、その後に造立した釈迦三尊像と四天王像が安置されたと伝えられる。これが「山階寺」と称されて、興福寺の起源 と興福寺はHPに記している。

鏡大王(鏡王女―萬葉集、鏡姫王―日本書紀)の願いが凝縮して興福寺が創設された。

鎌足、鏡の夫婦愛が興福寺の出発ということで、僕もちょっと、びっくりである。

忍阪と言えば舒明天皇陵。いわゆる段ノ塚古墳である。


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日本初の八角形墳といわれ、被葬者は舒明天皇(第34代天皇、天智・天武天皇の父)。

「鏡女王、在 大和国城上郡押坂陵(舒明天皇陵)域内東南 無 守戸」(『延喜式諸陵』)と記され、
以上から・・・

鏡王女の墓は忍阪に存在すること。

それから、舒明天皇の陵域で祀られた鏡王女は王族と見て間違いないだろう。陵墓の姿からは、鏡女王は舒明天皇の皇女か皇妹とみる説が有力と思われる。(『日本書紀』小学館)という論説も見られる。

鏡女王は天武天皇12年(683年)75日に亡くなった。
7
4日、天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊いたまう。

75日、鏡姫王薨りぬ。


この日に準じて、談山神社は6月第二日曜日に鏡女王祭、その前日に忍阪生根会は墓前祭を行うのである。


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忍阪、鏡嬢王墓前の谷川〜〜



by koza5555 | 2018-06-09 21:46 | 桜井・多武峰 | Comments(0)
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